「罪人を招く主」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 ホセア書第6章1-26節
新約聖書 マタイによる福音書第9章9-13節
マタイによる福音書
新約聖書には4つの福音書があって、それぞれマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いたと言い伝えられてきました。私たちは今、礼拝において、マタイによる福音書を読み進めていますが、この福音書をマタイという人が書いた、という言い伝えの源となったのが、本日の9章9節以下です。ここには、マタイという人が主イエスの弟子になったことが語られています。この人の名がマタイと呼ばれているのはこの福音書だけです。マルコとルカではレビという名になっています。この福音書だけがマタイと言っていることから、この福音書を書いた人がここに自分の名前を入れたのではないか、と考えられてきたのです。今日の学問的な聖書研究においては、マタイがこの福音書を書いたとは考えられていませんが、この言い伝えには大事な意味があります。そのことには後で触れたいと思います。
徴税人マタイ
さて、このマタイは徴税人でした。彼が「収税所に座っていた」とあることからそれがわかります。10節に、主イエスがマタイの家で食事をしておられたところに、徴税人や罪人が大勢やって来て同席していたとあることからも、マタイが仲間の徴税人たちを招いたのだ考えられます。この10節に「徴税人と罪人」とあります。11節のファリサイ派の人々の言葉にも、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とあります。徴税人と罪人は常にセットとされています。徴税人とはそんなに悪い人たちだったのでしょうか。この徴税人を、私たちの国の税務署の職員と同じと考えてはなりません。主イエスの当時のこの地域はローマ帝国の支配下にありました。徴税人が集めている税金は、支配者であるローマへの税金です。つまりこの税金はユダヤ人たちにとっては、自分たちの国がローマに征服され、支配されていることを思い知らされるものだったのです。その税金を集めている徴税人はしかしユダヤ人です。そこが、「支配の天才」と呼ばれるローマの賢いやり方でした。ローマは、支配下に置いた各地で、現地の人々を徴税請負人としたのです。その人々は、ローマに納める額の税金をローマに納めることを条件に、その地域の徴税権を与えられます。それによって、ローマの権力を後ろ盾にして、決められた額以上のものを人々から取り立て、それを自分のものにすることができるのです。そういう役得があるから、徴税人になる人がいるのです。しかしそれはユダヤの人々からすれば赦せないことでした。自分たちを支配している敵であるローマの手先となり、その権威を借りて人々から税金を取り、それで私腹を肥やしている、それは裏切り行為です。自分たちは神の民だと信じているユダヤ人にとって、それは神への裏切りの罪でもあります。そういうわけで、徴税人は罪人の代表とみなされ、「徴税人と罪人」という言い方が生まれたのです。マタイはその徴税人の一人でした。彼だけは、他の徴税人と違って余分なものを取り立てて私腹を肥やすようなことはしていなかった、などということはありません。徴税人という制度そのものがそういう役得を前提としているのですから、「良心的な徴税人」などはあり得ないのです。つまりマタイはまさに罪人でした。そのマタイが、主イエスに招かれて弟子になったのです。
彼が主イエスに従って行った経緯はまことに簡単に記されています。主イエスが収税所に座っているマタイを見かけて、「わたしに従いなさい」と声をかけた。すると彼は立ち上がってイエスに従った。これだけです。主イエスに従う弟子になるとは、仕事も何もかも捨てて主イエスと行動を共にする者となるという人生の大転換です。そんな大きなことが、どうしてこんなに簡単にできるのか、私たちは不思議に思います。だからいろいろと納得できる理由を探そうとするのです。たとえば、マタイは徴税人でありながら、自分のしていることに罪の意識を持って悩んでいた、自分はこのままではいけない、と思っていたところに、主イエスからの招きがあったので、直ちに従って行ったのではないか、などということです。しかし聖書には、そのような私たちが納得できる理由は全く語られていません。この福音書の8、9章には、主イエスのなさった様々な奇跡がまとめられていますが、マタイが弟子になった話もその奇跡の一つです。いろいろな奇跡を語る時に、聖書はそれを合理的に、納得できるように説明してはいません。聖書は、読む者を納得させて、なるほどこういうこともあり得る、と思わせようとしているのではなくて、主イエス・キリストの大きな力、権威を描き出そうとしているのです。読者がその主イエスのみ業に驚いて、そこに示されている主イエスの恵みのみ心を悟るためです。徴税人マタイが弟子になった話も、そのために語られているのであって、マタイの決断の動機を説明しようとしているのではありません。ですから私たちも、聖書が語ろうとしていないことをあれこれ詮索することはやめて、聖書が語っていることをしっかりと聞き取っていかなければなりません。
そのように、マタイの気持ちではなくて主イエスのみ業に焦点を当ててこの話を読む時、この簡単な記述の中に様々なことが見えてきます。まず、「イエスはそこをたち」とあります。「そこ」とはどこでしょうか。それは8節までに語られていたみ業が行われた場所です。そこで主イエスは、中風で寝たきりだった人に「あなたの罪は赦される」とおっしゃり、その言葉が権威ある宣言であることを示すために、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」とおっしゃって彼を癒したのです。この癒しの業、正確に言えば罪の赦しの奇跡がなされた場所が「そこ」です。主イエスがそこから出発して進んで行く中で、本日の出来事は起ったのです。
また、「通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」とあります。「通りがかりに見かけて」というと、チラッと横目で見たような印象を持ちますが、ここに使われているのは、はっきりと「見た」という言葉です。「見かけた」のではなくて、しっかりと「見つめた」のです。主イエスがマタイを見つめたことからこの出来事は始まったのです。主イエスの目にマタイはどのような人として映ったのでしょうか。主イエスはマタイが「収税所に座っているのを」見たのです。つまり主イエスが見つめたのは、徴税人としての仕事の真っ最中であるマタイです。人々から税金を取り立てているところだったのかもしれません。出ししぶる相手を、「そんなに払うのがいやなら、ローマの兵隊さんにおまえさんのことを言いつけてやろうか」と脅していたところかもしれません。あるいは、その日に取り立てた税金の中から、ローマに納める分と自分のふところに入れる分とを取り分けて、今日はこれだけ実入りがあったわいとニヤニヤしていたのかもしれません。収税所に座っているのを見たというのは、まさに彼がそういう罪のまっただ中におり、その中にどっぷりと浸っていた、その姿を主イエスが見つめたということです。主イエスが目をとめたのは、罪の意識にさいなまれて、「自分はこれでよいのだろうか」と悩んでいるマタイではありません。あるいはルカ福音書18章に出て来る徴税人のように、神殿で遠くに立って、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈っているマタイでもありません。収税所に座っているマタイ、罪の中にどっぷりと浸り、罪の力にがんじがらめに縛られて、あの中風の人のように起き上がることができずにいる、そういうマタイを主イエスは見つめたのです。そして「わたしに従いなさい」と声をかけたのです。
主イエスに声をかけられたマタイは、「立ち上がってイエスに従った」。「立ち上がって」という言葉は、「座っていた」と対になっています。彼は、座っていたのを立ち上がった。罪の中に座り込んでいたところから立ち上がったのです。それはあの寝たきりだった中風の人が、起き上がって床を担ぎ、家に帰って行ったのと同じことです。そしてこの「立ち上がる」もあの「起き上がる」も、死者の復活を意味する言葉でもあります。あの中風の人も、このマタイも、罪の中に横たわり、座り込み、起き上がることができない、死んだような状態から復活したのです。新しい命を与えられたのです。マタイが弟子になったという出来事は、そのように、あの中風の人に起ったのと同じ、主イエスによる救いのみ業、奇跡なのです。
そしてもう一つ、翻訳では見落とされがちな大事なことがあります。「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて」というところですが、そこを直訳すると「収税所に座っている人間を見た。彼はマタイといった」となります。「マタイという人」という言葉が実は大事なのです。つまり主イエスは、一人の人間が収税所に座っているのを見たのです。その人の名はマタイだったのです。主イエスは、収税所に座っている人間を見つめられます。つまり、罪の中に座り込み、そこから立ち上がることができずにいる人間を見つめられるのです。それはマタイだけではありません。マタイは、主イエスが見つめておられる人間たちの中の一人です。その人間たちの中に、私たちもいます。私たちも、それぞれ、自分の収税所に座っているのです。自分の罪の中に座り込み、立ち上がることができずにいるのです。主イエスはそういう私たちのありのままの姿をじっと見つめ、その私たちに、「わたしに従いなさい」と声をかけ、私たちを立ち上がらせて下さるのです。あの中風の人が、寝たきりで起き上がることもできなかったのを、主イエスによって癒され、起きて歩くことができるようにしていただいた、あの奇跡と同じことが私たちにも起るのです。主イエスがその権威と力によって彼を起き上がらせて下さったように、私たちをも立ち上がらせて下さるのです。彼を起き上がらせたのは、「あなたの罪は赦される」と宣言して下さる主イエスの権威でした。マタイにも、そして私たちにも、主イエスはご自身の権威をもって、「わたしに従いなさい」と語りかけておられるのです。それは「あなたの罪は赦される」という宣言を内に含んだ、主イエスの招きの言葉なのです。
この招きを受けたのがマタイだけではなかったことが、10節以下に語られています。主イエスがマタイの家で食事の席に着かれると、大勢の、徴税人や罪人たちが来て、共に席についたのです。それは主イエスがその人たちをも招いて下さっているということです。それを見たファリサイ派の人々が、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。共に食事の席につくことは、自分はこの人たちと仲間である、ということを表明することでした。主イエスは、徴税人や罪人たちを、ご自分の仲間として、招き、受け入れられたのです。ファリサイ派の人々はそのことで主イエスを非難しました。非難したと言うより、そんなことをする主イエスが理解できなかったのです。ファリサイ派の人々というのは、決して悪い人たちではありません。むしろ、一生懸命努力して、良い人間になろうとしている人々です。彼らは、神の律法を人一倍熱心に守り、神に従って正しく生活しようと努力していたのです。今日の社会において、このファリサイ派の人々に最も似ているのは、熱心なクリスチャンたちではないでしょうか。神に従って正しく生きようと熱心に努めており、そのためには我慢することを我慢し、いっしょうけんめいに信仰と奉仕とに生きようとしている、そういうクリスチャンの姿こそ、ファリサイ派の人々の生き方に似ているのです。ファリサイ派とはそういうまじめな人たちなのです。しかしそのまじめに信仰に生きようとしている者たちが、主イエス・キリストのことを理解できなかったのです。主イエスが、収税所に座っている人を招き、その人に「あなたの罪は赦される」と宣言し、その人たちの仲間として生きている、そのことを納得できなかったのです。その主イエスによって彼らは、熱心に信仰に励んでいる自分たちの努力を否定されたように思ったのです。まじめに、熱心に信仰に生きようとしている人の中に、しばしばこのような思いが生じます。その人たちは、自分が人よりも熱心に信仰に励み、努力していることに喜びや拠り所を見出しているのです。それは結局、自分の熱心さ、努力、正しさに拠り頼んで生きているということです。そうなっていると、収税所に座っている連中、罪の中にどっぷり浸っている人々が主イエスに招かれ、その恵みにあずかることが理解できない。納得できないのです。それでは自分が一生懸命努力してきたことは何だったのか、と思ってしまうのです。まじめなクリスチャンほど、このファリサイ派の人々の気持ちがわかるのではないでしょうか。このように私たちは、一方では、主イエスに招かれた徴税人、罪人でありつつ、他方ではこのファリサイ派の人々でもあります。この話にはまさに私たちの姿が描き出されていると言うことができるのです。
このようなファリサイ派の人々の思いに対して、主イエスがお答えになったのが12節以下です。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。医者は病人のためにいる。私は病人のための医者としてこの世に来たのだ、と主イエスは言われるのです。その病人とは、マタイのことです。収税所に座っている人間のことです。罪の中に座り込んで立ち上がることができないでいる私たちのことです。そういう者たちのためにこそ、主イエスはこの世に来て下さったのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そこに、主イエスの、私たちに対する招きがあります。「わたしに従いなさい」という語りかけがあります。この招きによって私たちは、それぞれの座っている収税所から立ち上がり、主イエスの弟子となることができるのです。主イエスの弟子になるとは、立派な人間になることではありません。むしろ、収税所に座っていた罪人である自分を、主イエス・キリストが見つめて下さり、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さり、招いて下さった。その招きを受けて立ち上がることこそが、弟子となることです。マタイに起ったのはそういうことでした。このマタイがこの福音書を書いた、と言い伝えられてきたことの意味はまさにそこにあります。この言い伝えによって人々は、この福音書を、罪の中に座り込んでいたのを、主イエスによって招かれ、立ち上がることができた人の感謝の証言として受け止めたのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」というみ言葉が、この福音書の中心となるメッセージであることを聞き取り、この福音書を、罪を赦された徴税人マタイの証しとして読んだのです。そのように読む時に、この福音書はまさに私たちの物語となるのです。
しかし私たちが同時に見つめなければならないのは、ファリサイ派の人たちに対して語られた12節以下のみ言葉です。先ほど申しましたように、私たちはしばしばこのファリサイ派の人々と同じになってしまいます。自分が招かれている罪人であることを忘れて、罪人を招く主の恵みがわからなくなってしまうのです。それは私たちが、自分の熱心さや努力、それによって自分が獲得する正しさに拠り頼もうとするからです。しかし、自分の熱心さや努力によって獲得する正しさでやっていけるなら、主イエスはいらないのです。それは自分で病気をなおせるなら医者はいらないのと同じです。私たちは、自分で自分の病気をなおすことはできないように、自分の熱心さや努力によって救いを獲得して、信仰者として生きていくことはできないのです。私たちを癒し、罪の赦しを与え、信仰者として、救いにあずかる者として生かして下さるのは、神の憐れみ以外の何物でもありません。このみ言葉は、私たちに、自分の熱心さや努力ではなく、神の憐れみにこそ拠り頼み、すがるべきことを教えています。13節に、本日共に読まれたホセア書6章6節の言葉が引用されています。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。私たちがどんな立派な、正しいいけにえを捧げることができるかではなく、神の憐れみこそが私たちを救うのです。そのことを「行って、学べ」と主イエスはおっしゃいました。ファリサイ派の人々は、神の憐れみを学ぶために、出かけていかなければならないのです。自分は熱心に努力してこれだけ正しく生きている、という思いの収税所から立ち上がって、出かけていかなければならないのです。主イエスは彼らを、彼らの収税所から立ち上がらせようとしておられます。そして、神の憐れみをこそ見つめさせ、そこにこそ救いがあることを学ばせようとしておられるのです。徴税人であり、罪人であったマタイも、立ち上がって主イエスに従って行ったことによって、神の憐れみを学んでいったのです。主イエスと共に歩み、その教えを聞き、み業を見ることによって、彼は、主イエスにおける神の、罪人に対する深い憐れみを味わい知っていったのです。その頂点が、主イエスの十字架の死でした。主イエスはマタイの、そして私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。罪人を招いて下さる主は、罪人のために死んで下さる主でもあったのです。主イエスの弟子として生きるとは、この主イエスの恵み、罪人に対する憐れみのみ心を常に新しく学びつつ、味わいつつ生きることです。主イエスはマタイをも、ファリサイ派の人々をも、私たちをも、そのような弟子としての歩みへと招いておられるのです。この招きに答えて立ち上がり、主イエスによって示された神の憐れみを学ぶために出発すること、それが洗礼を受けてクリスチャンになることです。そして洗礼を受けた者があずかる聖餐の食卓は、主イエスが、徴税人や罪人を招いて同席させて下さったあの食卓です。主イエスは私たちがどんな罪人であっても、この食卓に招き、共に席につかせて下さるのです。ただ一つ求められているのは、罪人を招いて下さる主イエスの招きに応えて、自分の収税所から立ち上がって主イエスと共に歩み出すこと、つまり洗礼を受けることです。そのことによって私たちは、罪人を招くために来られた主イエスの恵みをみ言葉によって学びつつ、その恵みを聖餐において味わいつつ、主イエスの弟子として、信仰者として歩んでいくのです。マタイに起った奇跡が、そのようにして私たちにも起るのです。