説教題「人生の土台」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第62編1-13節
新約聖書 マタイによる福音書第7章24-29節
家と土台の譬え
マタイによる福音書5章から7章にかけての「山上の説教」を礼拝において読み進めて来まして、本日がいよいよその最後となりました。「山上の説教」に入ったのは昨年の1月ですから、一年以上にわたって、山上の説教からみ言葉に聞いてきたわけです。山上の説教はどのようにしめくくられているのでしょうか。主イエスはここで、一つの譬えを語っておられます。家とその土台という譬えです。この譬えは私たちにも分かりやすいものです。家を建てる時には、その土台をしっかり据えることが大事です。外に現れている部分がどんなに立派でも、土台がしっかりしていなければ、その家は地震などの災害にあった時にひとたまりもなく壊れてしまいます。目に見えない、土台の部分をどれだけしっかりとしたものとすることができるかが、その家の本当の価値を決めるのです。ここでは、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人とが対比されています。岩と砂は、しっかりとした土台ともろい土台ということを表わしているわけですが、そこから読み取れるもう一つのことは、岩の上に家を建てるのは、砂の上に立てるよりもずっと大変だろうということです。岩は、平らにするのも、穴を開けるのも大変です。砂ならばそれは簡単です。ですからこれは、どういう土台の上に建てるかというだけではなくて、家を建てるのに、苦労して、時間をかけてするか、それとも安易な、楽な道を選ぶか、ということでもあると言えるでしょう。しっかりとした土台の上に家を建てるには、苦労と時間がかかるのです。簡単に、安易に建てようとすると、脆い土台の上に建てることになるのです。そのようにして建てられた家は、見かけがどんなに立派でも、いわゆる砂上の楼閣なのです。
人生の土台をどう据えるか
家を建てるという譬えによって見つめられているのは、私たちの人生、生き方です。自分の人生をどのように築いていくか、その土台をどこに置くか、が問われているのです。人生を、しっかりとした岩の上に築く者は賢い者です。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった」。人生の雨風、様々な苦しみが襲ってきても、土台がしっかりしていれば倒れてしまうことはないのです。しかし砂の上に、脆い土台の上に人生を築いていると、何もない時はよくても、一旦雨風が、あるいは地震が起るとそれに耐えることができずに倒れてしまうのです。そうならないためには、自分の人生を、しっかりとした岩の上に築かなければなりません。それは楽なことではありません。苦労があるし、時間もかかる、根気がいるのです。しかしそれを避けていたら、よい人生を築くことはできないのです。
このことは、この譬えから誰でもが理解できることです。しかし問題は、その人生の土台となるべき岩とは何か、そして岩の上に人生を築くとはどういうことか、です。私たちは、これこそが人生を支える確かな土台、岩だ、と思うものを探して、その上に人生を築こうとしています。以前は、一流大学を出て一流企業に勤めることが確かな土台だ、と思っている人が多くいました。今は多様性の時代で、そういうことよりも、自分の好きなこと、やりたいことをして生きるためのスキルを磨くことが良い人生のための土台だ、と考えることも多くなっています。いずれにしても私たちは、自分なりに様々なものを土台として歩もうとしているわけですが、主イエスがここで示しておられる岩、土台とは何なのでしょうか。
正しいけれどもつまらない生き方?
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と主イエスは言われました。その逆に「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」と言われました。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそ、あなたがたが土台とするべき岩なのだというのです。それは先週読んだ21節の「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」という教えとも繋がります。主イエスの言葉を聞いて、そこに示されている天の父の御心を行うことをこそ、あなたがたの人生の土台としなさい、と主イエスは教えておられるのです。それを聞いて、「よし、主イエスの教えを聞いて、それを実行することを人生の土台として生きて行こう」と思うのは、とても素直な人です。しかし私たちはしばしばこう思うのではないでしょうか。「確かに、主イエスの教えを聞いてそれを実行することを土台として生きていけば、正しくて立派な人生を送れるだろう。でもそれってあんまり魅力的な生き方ではないな。本当に自分らしく、生き生きと、充実した人生を送ることができるとは思えない。むしろ自分の個性、自分らしさが殺されてしまって、正しいけれどもつまらない人間になってしまうのではないだろうか」。つまり私たちは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことにあまり魅力を感じない、それを土台とすることにあまり積極的になれないのではないでしょうか。
主イエスの教えを道徳の教えとして読むのは間違い
私たちがそのように感じるのは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのを、主イエスが教えた道徳の教えを守り行うことだと捉えているからだと思います。宗教というのは、たとえば「人に親切にしなさい」というような道徳の教えを語っているものだ、というイメージが私たちの中には根強くあります。だから主イエスの教えもそういうものとして読んでしまうのです。「わたしのこれらの言葉」というのは、これまで読んできた山上の説教の全体を指すわけですが、そこに語られていたことを、主イエスによる道徳の教えとして読んでしまう。確かに主イエスの教えの中には、道徳の教えのように見えるものがあります。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という7章12節などは「黄金律」と呼ばれていて、道徳の教えの代表のように受け取られてきました。7章1節の「人を裁くな」も、5章39節の「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」も、44節の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」も、愛に満ちた立派な人になるための道徳の教えとして読まれやすいのです。5章22節の「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」とか、28節の「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」などは、とても厳しい道徳の教えだと感じられます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのが、これらの教えを全て守り行うことであるなら、そんなこと自分にはとてもできない、と思うし、そもそもそれは、厳格な掟に縛られた、自由のない、品行方正だがつまらない、魅力のない生き方だと感じられるのです。
けれどもこれは、山上の説教の間違った読み方です。山上の説教は、「こういう教えを守り行うことによって正しく立派な者になりなさい」という道徳の教えを語っているのではありません。むしろそれとは正反対です。そのことを私たちはこの一年かけて繰り返し聞いてきたのではなかったでしょうか。
あなたがたの天の父
山上の説教を正しく捉えるための一番大事な鍵となっているのは、「あなたがたの天の父」という言葉です。この言葉が繰り返し繰り返し語られてきたのです。神の独り子である主イエスが、つまり神を父と呼ぶことができるただ一人の方である主イエスが、ご自分の父である神を、「あなたがたの天の父」と呼んで下さったのです。「わたしの父はあなたがたの父でもある、神はあなたがたの父となり、あなたがたを子として愛して下さっているのだ」と宣言して下さったのです。それが山上の説教の中心的なメッセージです。山上の説教が教えているのは、天の父となって下さった神の下で、その子として、神の愛を受けて生きることなのです。父である神は、子である私たちに必要なものを与えて養い、守り、導いて下さいます。私たちが立派な人間になって、神に愛されるに相応しい者になれば、ではありません。あるいは私たちが熱心に求めるならばそれに応えて恵みを与えて下さる、というのでもありません。神は、その独り子をこの世に遣わして下さったことによって、神に背き逆らってばかりいる罪人である私たちをご自分の子として下さったのです。父である神は、子である私たちが求めるより先に、私たちに必要なものをご存じであり、与えて下さるのです。この神の父としての愛に信頼して歩みなさい、と主イエスは山上の説教で教えておられるのです。それが6章25節以下の「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩むな」という教えでした。「何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩む」のは、自分の持っているものを土台として、それによって人生を充実させようとしているからです。自分が何を持っているか、何をすることができるか、という自分の豊かさを拠り所、土台にして生きようとしている私たちに主イエスは、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とおっしゃったのです。天の父である神の愛が既にあなたを支えている、あなたの人生の本当の拠り所はそこにあるのだと教えて下さったのです。
天に富を積む
6章19節以下の「地上に富を積むのではなくて、富は天に積め」という教えもそのことを語っていました。地上の富というのは、私たちが自分のもの、自分の力、自分の正しさとして持っているものです。そこに拠り所を置き、それを土台にしようとするのが、地上に富を積むことです。それに対して天の富というのは、天の父である神の愛であり、神が養い、導いて下さるという恵みです。その天の富、つまり神の恵みにこそ拠り頼むことが、天に富を積むことなのです。先ほど、山上の説教は道徳の教えとは正反対だと言ったのはこのことです。道徳の教えは、それを行うことによって正しい者、立派な者になり、それによって自分の正しさという富を自分の中に積んで、それを人生の土台にするための教えです。しかし山上の説教は、自分の中に富を積むのではなくて、天の父なる神の愛に信頼して生きることを教えているのです。つまり道徳の教えは地上に富を積むための教えであるのに対して、山上の説教は天に富を積むための教えなのです。それもまた誤解を受けないように言い直しておかなければなりません。天の富というのは、私たちが良い行いをして積むものではなくて、神の天の父としての恵みのことです。そこにこそ富があり、自分を支える土台があると信じて、その富に拠り頼んで生きることが、天に富を積むことです。それを別の言葉で言っているのが、山上の説教の冒頭の5章3節の教え「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」です。「心の貧しい人」とは、これまでに何度も申してきましたが、自分の中に何の豊かさも、富も、誇るべきものも持っていない、ただ神の憐れみにすがって生きるしかない者です。天の国、神の救いはそのような者にこそ与えられるのです。この冒頭の一言に、山上の説教全体の教えが要約されていると言うことができるのです。
人生の確かな土台
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」というのは、山上の説教が教えているこれらの言葉を聞いて、それを行うこと、つまり自分の持っているもの、自分の豊かさ、地上の富に拠り頼むのではなく、天の父となって下さった神の愛が自分を支えていることを信じて生きること、天の富にこそ拠り頼んで生きることです。それによってこそ、あなたがたの人生に本当に確かな土台が与えられるのだ、と主イエスは言っておられるのです。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない」というのは、その反対、つまり主イエスが示して下さった天の父なる神の愛、私たちを子として養い、導き、支えていて下さるその恵みに拠り頼んで生きるのではなくて、自分の持っている豊かさや正しさを拠り所として生きようとすることです。それは、砂の上に家を建てるようなものです。自分の豊かさや正しさを土台として、その上に人生を築いていくなら、その家は人生の荒波、風雨に耐え得ないのです。人生に時として襲ってくる苦しみは、私たちが拠り所としている自分の豊かさや正しさを、それこそ大津波のように根こそぎ押し流してしまうのです。
自分らしく生き生きと、自由に、希望のある人生を生きる
ですから、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ことこそが人生の土台とすべき岩だ、というみ言葉に対して私たちがともすれば、「それでは本当に自分らしく生き生きと、充実した人生を送ることはできないのではないか。自分らしさが殺されてしまって、正しいけれどもつまらない、自由のない人間になってしまうのではないか」と思うのは、全くの誤解です。山上の説教の言葉を聞いて行う時に、私たちは、画一化された、品行方正だが面白みのない、個性のない人間になるのではありません。むしろ私たちはそこで、自分を本当に愛して下さり、支えて下さっている父なる神と出会うのです。そして、もはや自分の中に人生の土台、拠り所を持たなくてもよくなるのです。そのことによって私たちは本当に自由になります。思い悩みから解放されます。人の目を気にして、人に自分をよく見せようとする偽善から解放されます。また、天の父なる神が、私たちに必要な良いものを必ず与えて下さるのだという希望を与えられます。この土台の上でこそ私たちは、本当に自分らしく生き生きと、自由に、希望のある人生を生きることができるのです。人生を切り開いていくためにいろいろなことにチャレンジしていくことができる、冒険をすることができるのです。信仰に生きるとはそういうことです。もしも私たちが、信仰に生きることによって個性を失い、自分らしく生き生きと生きることができなくなる、と感じているとしたら、それは私たちが、主イエスの教えを道徳の教えとしてしか受け止めていないからです。「あなたがたの天の父」である神が見えていないからです。天の父となって下さった神の愛を抜きにして、山上の説教に語られているいろいろな教えを実行しようと努力しても、それは結局自分の正しさという砂の上に家を建てることにしかならないのです。
死と最後の審判においても私たちを支える土台
ところで、ここには「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」と語られています。それは私たちの人生に襲ってくる苦しみのことです。そういう苦しみの中でも私たちを本当に支えてくれる土台は何か、が問われているのです。しかし人生の苦しみの最後最大のものは死です。そして死は、他の苦しみとは違って、私たちの人生を根底から全て押し流してしまいます。死に直面する時、自分の中にある土台、拠り所は全て虚しいことが明らかになります。その土台そのものを全て押し流してしまう大津波が死なのです。そういう意味で私たちの人生は、最後は死という大津波によって押し流され、消えうせてしまう、と言わなければなりません。だとすると、私たちが人生の土台としているものはどれも、結局は生きている間だけのもので、死の力の前では無力だ、ということかもしれません。しかし主イエスがここで示して下さっている岩、土台は、生きている間だけの土台ではありません。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってくる」ということで主イエスが見つめておられるのは、この世の人生において私たちが味わう苦しみのことだけではないのです。主イエスは山上の説教のしめくくりにおいて、この世の終わりの、最後の審判における神の裁きを見つめておられます。13節から、山上の説教の結びの部分に入っているわけですが、13、14節の「狭い門と広い門」の教えにおいては、「滅びに通じる門と命に通じる門」という言い方がなされていました。命と滅びは、世の終りの神による裁きにおいて確定するのです。だから「狭い門と広い門」の教えは、世の終わりの裁きを見つめているのです。15節以下の「偽預言者を警戒しなさい」という教えにおいても、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」とありました。この火は、最後の審判における神の裁きの火です。また21節以下にも、「わたしの天の父の御心を行わない者」は、「かの日」つまり最後の審判の日に、主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまうと語られていました。このように山上の説教はそのしめくくりにおいて、世の終りの神による裁きを見つめているのです。「雨が降り、川があふれ、風が吹いて襲ってきても倒れない」も、世の終りの裁きにも耐える、そこにおいても滅ぼされることなく、命に至ることができる、ということを語っているのです。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」は、そういう土台の上に人生を築くことができる。つまりこの岩、土台は、肉体の死においても押し流されずに私たちを支え、そして世の終りの神による裁きに至るまで支え続けてくれる岩であり土台なのです。天の父である神の愛こそがその土台です。神はこの愛によってその独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。このことによって、神は私たちの罪を赦し、主イエスと共に私たちをご自分の子として下さいました。そして神は死の力に勝利して主イエスを復活させて下さったことによって、いつか死に支配されていく私たちにも、主イエスと同じ復活と永遠の命を与えて下さると約束して下さったのです。主イエスの十字架と復活によって示された父なる神の愛は、私たちの地上の人生を支えるだけでなく、死においても私たちを支え、終りの日の裁きにおいても、私たちをしっかりと立たせ、永遠の命に至らせて下さるのです。この神の愛こそが、私たちの人生の本当の土台です。山上の説教によって主イエスは私たちに、人生のまことの土台を与えて下さっているのです。この土台の上で私たちは、自分らしく生き生きと、自由に、充実した人生を、希望をもって生きていくのです。