主日礼拝

主の祈りを祈りつつ

11月5日(日)主日礼拝

説教「主の祈りを祈りつつ」
牧師 藤掛順一

旧 約 詩編第34編1-23節
新 約 マタイによる福音書第6章5-15節

主の祈りは山上の説教の中心
 主イエスが教えて下さった「主の祈り」の六つの祈り願いを、礼拝において一つずつ取り上げて来まして、先週、最後の第六の祈りを読みました。本日は、もう一度主の祈りの全体を見つめつつ、主イエスがこの祈りを与えて下さったことの意味、恵みを味わいたいと思います。今私たちが読んでいるのはマタイによる福音書の第6章です。この福音書の5〜7章は、主イエスが山の上で語られたいわゆる「山上の説教」です。その中で「主の祈り」が教えられたのです。しかも主の祈りは山上の説教のちょうど真ん中あたりにあります。位置的に真ん中にある、というだけでなく、内容においても、山上の説教の中心は主の祈りなのです。主の祈りは、それだけ独立させて読まれることもあるし、独立して祈られているわけですが、それを山上の説教全体の中に位置づけて読むことも大事です。それによって、山上の説教の様々な教えと、主の祈りとの繋がりが見えてくるのです。

心の貧しい人たちの幸いに生きるために
 そこで本日は先ず、5章からの山上の説教を振り返りたいと思います。先ず見つめたいのは、山上の説教の冒頭、5章3〜12節に、「幸いの教え」が語られていたことです。主イエスが「このような人は幸いだ」と告げて下さった「幸いの宣言」から山上の説教は始まったのです。このことは山上の説教を読む時にいつも覚えておきたいことです。主イエスはこの説教で「幸い」を告げて下さり、私たちに幸いを与えようとしておられるのです。その幸いは、私たちが普通に考える「幸福」とは違うものです。幸いの教えの最初に語られていたのは「心の貧しい人々は幸いである」ということです。「心が貧しい」とは、自分の心に、より頼むことができる、誇ることができるものを何も持っていない、ということです。私たちは、自分の中にいろいろな意味での力や豊かさがあり、それを用いてよい成果をあげることができ、それに満足し、喜び、自信を持つことができることを幸福だと考えており、そのように生きている人が「幸いな人」だと思っています。しかし主イエスがここで「幸いである」と宣言なさったのは、自分の中に誇ることができる豊かさは何一つない人たちなのです。何故その人たちが幸いなのか。それは「天の国はその人たちのものである」からです。天の国とは神のご支配です。神が全能の力によって支配し、養い、守って下さる、そういう神のご支配の下に置かれていることが、「天の国はその人たちのものである」の意味です。自分の中に力や豊かさがある人は、神ではなくて自分の豊かさを頼みとしています。でもそういう豊かさが全くない人は、神の恵みのご支配により頼むしかないのです。そういう人たちこそ、神のご支配の下で生きることができる。だから本当に幸いな人たちだ、と主イエスは宣言なさったのです。主の祈りは、私たちがその本当の幸いに生きるために与えられているのです。主の祈りにおいて私たちは、神の御名こそがあがめられ、御国、つまり神のご支配こそが実現し、神の御心こそが行われることを祈り求めます。そして神が私たちの日ごとの糧、本当に必要な糧を与えて下さり、罪を赦して下さり、誘惑から、悪い者の力から守って下さることを祈り求めます。それはつまり、神の全能の力によって養われ、守られ、神のご支配の下で生きていくことを祈り求めているということです。主の祈りを祈りつつ生きることこそが、「心の貧しい人」として生きることなのです。私たちがその幸いに生きるために、主イエスはこの祈りを教えて下さったのです。

律法学者やファリサイ派の人たちに優る義
 幸いの教えに続く5章13節以下には「あなたがたは地の塩、世の光である」と語られていました。それはあなたがたに与えられている幸い、神のご支配の下で生きる恵みを、世の人々に示し、伝えていきなさい、ということです。それに続く5章17節以下には、「わたしは律法や預言者を廃止するために来たのではなく、それを完成するために来たのだ」と語られていました。神のご支配の下で生きる幸いな者であるあなたがたは、だからこそ神の律法や預言者の教えを守り、地の塩、世の光としての働きをしていくのだ、と主イエスは言っておられるのです。そして20節には「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われています。律法学者やファリサイ派の人々は、律法の掟を厳格に守ることによって義なる者、正しい者になろうとしていました。彼らは自分の中に正しさという富を蓄え、その豊かさにより頼んで生きていたのです。あなたがたはそれとは違う生き方をしなさい、と主イエスは言っておられます。よい行いをして正しさという富を心の中に蓄えていくのではなくて、そういう豊かさを全く持っていない心の貧しい者が、ただ神の恵みによって養われている、それが「心の貧しい人たち」の幸いです。その本当の幸いに生きているあなたがたは、実は律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義を行うことができる、と主イエスは言っておられるのです。

敵を愛せよ
 そのことが5章21節以下において、「律法にはこう教えられている、しかしわたしは言っておく」という形で具体的に語られていきました。その最後の5章43節以下には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」とあります。そこで見つめられているのは、「隣人を愛しなさい」という掟です。それは誰もが認める普遍的な義、良い行いです。しかし私たちには、その隣人の範囲を限定することによって、その外にいる人を敵として憎んでしまう傾向があります。隣人つまり仲間や同胞を愛することが、それ以外の人を敵として憎むことに繋がっているのです。つまり「隣人を愛せよ」という律法の教えに「敵を憎め」をつけ加えてしまうのが私たち人間なのです。主イエスはその私たちに、「敵を愛せよ」とおっしゃいました。それは、私たちが狭めている隣人の範囲を敵にまで広げさせようという教えです。隣人を愛することは、敵をも愛することによって初めて本物になるのです。敵を愛するとは、自分に対して罪を犯した人を赦す、ということです。そんなことはとてもできない、と私たちは思います。「隣人を愛せよ」という律法を一生懸命守ることはできても、敵を愛し、自分に罪を犯す者を赦すことは、私たちの努力の及ぶところではありません。しかし神は、独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。神に従わず、自分が主人となって生きようとしている私たちは、神の敵だったのです。敵である私たちを、神は独り子主イエスの十字架の死によって赦して下さいました。つまり敵である私たちを愛して下さったのです。私たちは、自分が立派な正しい人になることによってではなくて、罪人であり敵である私たちを赦して下さった神の愛によって救われたのです。この神の愛の中で、それに少しでも応えていこうとする時に、自分の努力によっては到底できない、敵を愛し、自分に罪を犯す人を赦すことが、ほんの少しだけれども出来るようになっていくのです。そのために与えられているのが、主の祈りの第五の祈り「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」です。この祈りを祈りつつ生きていくところにこそ、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るという、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義に生きる道が開かれていくのです。

偽善からの解放
 6章に入ると、偽善への警告が語られていきます。信仰によってなす善い行いが偽善に陥ることがあるのです。それは、「見てもらおうとして、人の前で」することによってです。つまり、自分の善い行いを人に見てもらおうとする、人から誉められ、評価されることを求めるのです。そのように人の目を気にすることを主イエスは偽善と言っておられるのです。人の目を気にするというのは、人と自分とを見比べることによって自分の正しさを確認しようとしているということです。しかし主イエスは、自分の善い行いを人目につかせるなとおっしゃいます。それは、「隠れたことを見ておられる父」の前でそれをするためです。つまり人の目ではなく父なる神の目をこそ意識しなさい、ということです。その教えの中で、本日の箇所である5節以下の祈りについての教えが語られているのです。祈ることは本来、天の父なる神の前に立ち、神に目を向けることです。ところがその祈りも、人に見せようとして会堂や大通りの角に立ってする者たちがいる。人々から、あの人は信仰の深い立派な人だ、と思われたいからです。そういう偽善者の心は、神ではなく人を見つめているのです。あなたがたはそうであってはならない、祈る時には、奥まった自分の部屋に入って戸を閉じて、隠れたところにおられる父に祈れ、と主イエスは言っておられます。それは、天の父なる神にこそ心を向けて祈りなさい、ということです。神のまなざしではなく人の目を意識することによって、祈りすらも偽善に陥るのです。ですから、私たちの善い行いが偽善から解放されて、本当に地の塩、世の光となるためには、天の父なる神に心を向けて祈ることが必要です。主の祈りはそのために与えられているのです。「天にまします我らの父よ」と呼びかけて、天の父なる神のまなざしの中で、神と共に生きることによってこそ私たちは、誰も見ていなくても、人からの評価が得られなくても、天の父である神の愛に応えて、神に従って生きることができるのです。

天の父に祈る
 もう一つ、祈りについて教えられていることがあります。それは7節以下の、異邦人のようにくどくどと祈るな、ということです。それは祈りの長さの問題ではありません。異邦人は、くどくどと言葉数多く祈らなければ聞いてくれない神しか知らないのです。しかしあなたがたは、あなたがたの父である神に祈るのだと主イエスはおっしゃいました。父である神は、あなたがたを子として愛して下さっており、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じであり、それを必要な時に与えて下さるのです。その神に祈る言葉として、主の祈りが与えられているのです。つまり主の祈りは、天の父なる神の子として生きるための祈りです。「天にまします我らの父よ」と呼びかけて祈ることによって私たちは、神が主イエスによって私たちの父となって下さり、私たちを子として愛して下さっている恵みを確認するのです。そこにこそ、私たちに与えられているまことの幸いがあるのです。

主の祈りと山上の説教
 このように主の祈りは、山上の説教においてこれまで語られてきた一つ一つの教えと密接に結び合っているし、主イエスがこの説教で示して下さったまことの幸いに生きるために主の祈りがあるのです。つまり、主の祈りを祈ることこそが、私たちの信仰生活の中心なのです。それでは家で主の祈りを祈ってさえいれば、教会の礼拝に出席する必要はないのか、などという屁理屈は成り立ちません。主の祈りを祈るとは、その言葉をただ唱えることではありません。主の祈りを本当に祈るところには、主イエスによって私たちの父となって下さった神を礼拝し、み言葉を聞き、み心に従っていく信仰の生活が具体的に与えられていくのです。その信仰の生活を具体的に語っているのが、山上の説教です。山上の説教は、主イエス・キリストを信じて従って生きる信仰者の生き方を具体的に教えています。先程の「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」もそうです。「右の頬を打たれたら、左の頬をも向けなさい」という教えもそうです。私たちは日々、敵、自分を迫害する者と関わりつつ生きています。右の頬を打たれることを体験しています。私たちは日々、山上の説教に語られている事態に直面しながら生きているのです。そこでどうするべきかを山上の説教は具体的に教えています。しかしそれを、自分の努力によって守り行うべき掟、道徳の教えとして受け止めるなら、私たちは挫折するしかないでしょう。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る、右の頬を撃たれたら左の頬をも向ける、そんなことができたら確かに素晴らしいとは思うけれども、でもこの世の現実においてはそんなことは無理だ、と思うのです。つまり山上の説教における主イエスの教えは、理想かもしれないが現実的ではない、ということになるのです。しかし山上の説教の中心には主の祈りがあります。これらの教えは、「こうしなければならない」という掟や、道徳律として語られているのではありません。山上の説教に語られているのは、主の祈りを祈りつつ、天の父なる神の下で生きる者に与えられる生き方なのです。言い換えれば、自分の中により頼むべき正しさも豊かさも全くない心の貧しい者が、ただ神の恵みのご支配によって生かされている、その幸いを与えられているところに実現していく生き方がここに示されているのです。私たちが努力してこのように生きることができる立派な人になったらそれによって救われる、という話ではないのです。主イエスが私たちに求めておられるのは、これらの教えを掟や戒めとして守ることではなくて、主の祈りを祈りつつ生きることです。山上の説教の中心は主の祈りだ、というのはそういうことです。この祈りを真剣に祈ることによってこそ私たちは、山上の説教に語られているまことの幸いに生きる者とされていくのです。

信仰と生活を結びつける主の祈り
 つまり主の祈りを祈ることによって、信仰と生活とが結びついていくのです。私たちは、礼拝を守り、聖書のみ言葉を聞き、神を賛美し祈っているその信仰と、この世の具体的な現実の中でどう生きるかという生活とのギャップに悩むことがあります。そこにおいて私たちが先ずなすべきことは、主の祈りを真剣に祈ることなのです。「願わくは御名を崇めさせたまえ」と祈るところに、自分の生活において、またこの社会において、神の御名が本当に崇められるようになるためにどうすればよいのか、という課題が見えてきます。「御国を来らせたまえ」と祈るところに、神のご支配ではなく他のいろいろな力に支配されている私たちとこの社会の問題が見えてきます。そしてその中で、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ることによって、神のみ心がこの地上に成り、神のご支配が確立するために仕えていくことへと押し出されていくのです。また、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る時、日用の糧を得ることがでずに飢えている人々に思いを致し、また私たちにとって本当に必要な糧である神の恵みのみ言葉を日々求めていくことへと促されるのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すことく、我らの罪をも赦したまえ」という祈りは、私たちに自分の罪を自覚させ、主イエスの十字架の死によって神が与えて下さった罪の赦しを求め、その罪の赦しを与えられた者として、あなたがたも人の罪を赦す者であれと求めておられる神のみ心を覚えさせてくれます。主の祈りによってこれらの信仰の課題を示されて、私たちはこの世の生活へと送り出されていきます。その歩みを守り支えて下さるように祈り求めているのが、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りです。そしてこの主の祈りの冒頭には、「天にますます我らの父よ」という呼びかけがあります。このように呼びかけて神に祈ることによって私たちは、神の敵であった私たちを、独り子の十字架の死によって赦して、神の子として下さり、私たちの天の父となって下さった神の大いなる愛の中に既に置かれていることを確認することができるのです。私たちはこの神の愛の中で、具体的な信仰の生活を築いていくのです。

証しの生活を導く主の祈り
 このように主の祈りは、私たちの信仰と生活との橋渡しをします。信仰が生活となり、生活が信仰に基づくものとなるために、主の祈りは大切な働きをするのです。そこからさらに進んで、私たちがこの社会において信仰の証しをしていくためにもこの祈りは大切な働きをします。主の祈りを祈りつつ生きることは、この社会においては独特なことです。このような祈りを、多くの人々は知りません。祈ることはあっても、そのほとんどは、自分の願いがかなうことを願う祈りです。多くの人はそのような祈りしか知らないのです。その中で、私たちが、天の父として私たちを愛しておられ、願う前から私たちに必要なものをご存じであり、それを与えて下さる神に「天の父よ」と呼びかけ、御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますようにと祈り願いつつ生きているということは、それ自体が世の人々にとっては驚くべきことなのです。また自分のことについては、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈っていることも、大きな証しとなります。私たちは、信仰の証しをするのに、何か特別なことをする必要はありません。主の祈りを心から祈り、その祈りに導かれて生活していけばよいのです。そこに自ずと、この社会の普通のあり方とは違う、独特の、キリストの香りが表れていくのです。信仰とは、主の祈りを祈りつつ生きることです。そこにこそ、主イエスを信じる信仰者としての生活が生まれ、信仰の証しがなされていくのです。

罪を赦し、赦されて生きる
 14,15節には、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」とあります。これは言うまでもなく「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」の言い換えです。この祈りだけがこうして語り直されている。それは、主の祈りを祈りつつ生きる私たちの生活において、このことが大きな課題だからです。私たちは神に敵対している罪人です。神はその私たちの罪を赦して下さいました。その救いの恵みを受けて生きることは、自分も人の罪を赦すことと切り離すことはできないのです。このことを受け止めていくことによってこそ、主の祈りは私たちの生活に根付いていくのです。そしてそこに、主イエスの十字架の死によって罪を赦され、神の子とされて生きる新しい、幸いな生き方が生まれていくのです。

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