2025年8月3日
説教題「主イエスの憐れみ」 牧師 藤掛順一
イザヤ書 第35章1~10節
マタイによる福音書 第15章29~39節
これまでにも語られてきたこと
礼拝において、マタイによる福音書を読み進めておりますが、本日の箇所である第15章の終わりのところには、主イエスが多くの病人や体の不自由な人を癒されたことと、男だけで四千人もいた群衆を、七つのパンと少しばかりの魚で満腹にしたことが語られています。これらのことはどちらも、これまでに読んできたところにも語られていました。主イエスが病気の人や体の不自由な人を癒したことは、一対一の個人的な癒しの業としても、本日のところのように多くの人々を癒された話としても、繰り返し語られてきました。少しめんどうかもしれませんが、それを振り返って見たいと思います。まず8章16節に、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とあります。次に9章35節、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあります。12章15節には、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、…」とあります。14章14節にも、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」とあります。そして14章35節以下には、「土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」とあります。このようにマタイは、主イエスがご自分のもとに集まって来た、病気や障がいを負って苦しんでいる人々を深く憐れみ、癒して下さったことを繰り返し語ってきたのです。本日のところにも、これらの箇所と同じことが語られていると言うことができます。
多くの人の癒しの業のしめくくり
ところで、マタイ福音書はマルコ福音書を下敷きにして書かれたと考えられていますが、マタイとマルコのこの部分を比べてみると興味深いことがわかります。この部分の話の流れは基本的にマルコ福音書の7章から8章にかけてと同じです。つまり、主イエスがティルスとシドンの地方に行かれ、そこで一人の異邦人の女と出会い、最初は拒絶しておられたけれども、最終的には彼女の娘の病気を癒されたという話、前回読んだ28節までにそれが語られていました。それに続いて、本日のところの、ガリラヤ湖のほとりに戻った主イエスによる癒しのみ業と、四千人の人々を満腹にした奇跡が語られる。そういう話の流れはマルコと同じです。しかしマルコ福音書では、ガリラヤ湖のほとりで癒されたのは、ある「耳が聞こえず舌の回らない人」でした。マルコ福音書7章31節以下に、この癒しの話が具体的に、詳細に語られています。それはかなりインパクトのある話なのですが、マタイは、この個人への癒しの話を、本日の29節以下の、大勢の人々への癒しの記事に変えているのです。そこに、マタイの意図が現れています。つまりマタイは、主イエスが多くの人々を癒された、ということをここでも語りたかったのです。マタイ福音書において、このような、大勢の人の癒しのみ業が語られるのは、ここが最後です。そして、ここに語られている多くの人の癒しの記事は、先ほど読んだいくつかの箇所のどこよりも長く、詳しいものとなっています。つまりマタイはここで、多くの人々を癒された主イエスのみ業の総まとめ、しめくくりをしている、と考えることができるのです。
イザヤの預言の成就
さらにここには、主イエスの癒しのみ業を見た群衆の反応も記されています。31節「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した」。このような群衆の驚きと賛美は、先ほど読んだいくつかの箇所には語られていませんでした。そして、今読んだ31節は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第35章と関係があります。イザヤ書35章は、荒れ野や砂漠が一面の花畑になり、嘆きと悲しみは取り去られ、喜びと楽しみに満ちた世界となる、という神による救いの完成への希望を語っています。その救いが実現する時、5、6節にあるように、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うようになるのです。31節に語られているのはまさにそういう出来事です。イザヤ書に預言されていた救いが、主イエスのみ業によって実現したのです。群衆が「イスラエルの神を賛美した」のは、この救いを目の当たりにしたからです。主イエスこそ、イザヤが預言していた救い主であられる、そのことを人々は見て、救い主を遣わして下さった神を賛美したのです。マタイはこのように、イザヤの預言が主イエスにおいて成就したことを語ることによって、主イエスの癒しのみ業の総まとめ、しめくくりをしているのです。
山の上での癒し
このように、本日の29節以下の、大勢の病人の癒しの話は、一見すると前に語られたことの繰り返しのように見えますが、実はマタイ福音書において、とても大事な意味を持っています。そしてここにはもう一つ大事なことが語られています。29節後半の、「山に登って座っておられた」ということです。ここでの癒しのみ業がガリラヤ湖のほとりでなされたことはマルコ福音書も語っていましたが、マタイはそこに「山に登って座った」という言葉をつけ加えたのです。山の上におられる主イエスのもとに、多くの病人たち、足の不自由な人や目の見えない人が連れて来られ、そこで癒しが行われたのです。この人たちが山に登るのは大変なことだったでしょう。どうせなら、山の麓で、あるいは町の中で癒しの業をしてあげたらよかったのに、と思います。しかしこのことにはやはり意味があるのです。主イエスが、ガリラヤ湖にほど近い山に登って座った、そのことは私たちに、この福音書の第5章1節を思い起こさせます。5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とありました。この後主イエスによって語られたのが、5~7章のいわゆる「山上の説教」でした。主イエスの教えをまとめたこの説教は、山の上で語られたのです。本日のところでは、今度は山に登った主イエスによって多くの人々への癒しの業がなされたのです。マタイは明らかに、5章1節を意識しながら、15章29節を書いています。そのような書き方によって、山上の説教と、多くの人々への癒しのみ業を結びつけ、両者が一つであることを示しているのです。つまり、主イエスの教えと癒しのみ業とは一体であり、両者は切り離すことができないものだということです。主イエスの教えは、癒しのみ業において現実となっています。主イエスはただ教えを説かれたのではなくて、それをみ業によって具体的に実現して下さったのです。そのことは同時に、主イエスの癒しのみ業の意味は、主イエスの教えにおいて語られている、ということでもあります。主イエスの癒しのみ業を、単なる奇跡として、超能力による不思議な業のように捉えていたのでは、その本当の意味は分かりません。主イエスの癒しのみ業は、山上の説教の教えと合わせて理解されなければならないのです。「山に登って座っておられた」という言葉は、このように、山上の説教とこの箇所とを結びつけ、それによって主イエスの教えと癒しのみ業とが切り離すことができない関係にあることを示しているのです。
前半が終わり、後半が始まる
また次のようにも言えます。主イエスのガリラヤにおける伝道の活動は、山上の説教において始まり、本日の箇所の山上の癒しにおいて終わるのです。つまり、5章から15章までが、ガリラヤにおける主イエスの伝道の活動を語っており、本日の山上の癒しにおいて、そのしめくくりがなされているのです。そういう意味では、先ほどの31節の群衆の賛美は、主イエスのガリラヤにおける伝道をしめくくるものとして語られていると言えます。では、この後には何が語られていくのか。それを少し先取りして見てみますと、16章に入ると主イエスとファリサイ派との対立が深まり、その中で、弟子のペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰の告白を語ります。その直後に、主イエスはご自分がエルサレムで苦しみを受け、殺されることを予告し始められます。そのように16章からは、受難、十字架の死への歩みが始まるのです。その受難への歩みの中では、先ほど申しましたように、群衆への癒しのみ業はもうなされません。そこで主イエスが心を砕いていかれるのはむしろ、弟子たちの群れを育てていくことです。その最初のところに語られているあのペトロの信仰告白は、弟子たちの群れつまり教会が築かれていくための土台を示しています。つまりマタイ福音書は、15章から16章に移るあたりで、言ってみれば峠を越えているのです。前半が終わり、後半が始まっているのです。前半のしめくくりとして、山上の癒しの記事が置かれているのです。
群衆がかわいそうだ
さてその山上の癒しの後に、四千人の人々を満腹にした奇跡が語られています。それはマルコ福音書に語られていた話をそのまま受け継いだのだ、と言ってしまえばそれまでですが、しかし同じマルコを下敷きにしているルカ福音書では、この記事は省略されています。それはおそらく、既に同じような話が語られたからでしょう。マタイで言えば14章の13節以下に、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を満腹にした話が語られていました。この話はルカも語っています。おそらくルカは、同じような話を二度語る必要はないと考えたのでしょう。しかしマタイは敢えて、この話をもう一度語っています。それは何のためなのでしょうか。
14章の、五千人の話と比較することによって、そのヒントが見えてきます。14章では、人里離れた所におられた主イエスのもとに多くの群衆が集まっており、夕暮れになってきたのを弟子たちが心配して、「そろそろ解散させてそれぞれ自分で食事の算段をさせなければ」と言うと、主イエスが「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われたのです。弟子たちが、「ここにはパンが五つと魚が二匹しかありません」と言うと、主イエスはそれを持って来させて、賛美の祈りをささげてそれを配るとみんなが満腹になって余りまで出たのです。この14章と本日の15章の話の違いは、14章の五千人の話では、群衆の食事の心配をしたのは弟子たちでしたが、15章の四千人の話ではそれは主イエスだ、ということです。32節に、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」という主イエスのお言葉があります。主イエスご自身が、群衆のことを心配しておられるのです。その思いを代表しているのが、「群衆がかわいそうだ」という言葉です。この言葉は、マルコにおいても、五千人の話にはなくて、四千人の話にのみ出てきます。マタイは、この言葉のゆえに四千人の話を残したのではないでしょうか。
主イエスの深い憐れみ
「群衆がかわいそうだ」は文字通りに訳せば、「私は群衆を憐れむ」という言葉です。主イエスはご自分の周りに集まって来た人々を、深い憐れみのみ心をもって見つめておられるのです。その「憐れむ」という言葉は、ただ気の毒に思う、かわいそうに思う、というよりもずっと強い意味の言葉です。既に何回か出てきましたが、これは「内臓」という言葉から来ており、「内臓が揺り動かされるような憐れみ、同情」を意味しています。「はらわたがよじれるような憐れみ」と訳されたりします。つまり、自分自身が痛み苦みを覚えるような憐れみ、同情です。同情という言葉は、同じ心になる、という意味ですが、私たちの同情は、なかなか本当に相手の苦しみと同じ心になることはできないものです。しかし主イエスがここで覚えておられる同情、憐れみは、相手の苦しみが自分自身の苦しみとなり、自分が揺り動かされ、痛みを覚える、そこまで相手と本当に一体となる同情なのです。主イエスはそのような思いで、群衆の空腹を感じ取っておられる、それが「群衆がかわいそうだ」という言葉の意味なのです。七つのパンで四千人を満腹にされた奇跡は、主イエスのそのような憐れみ、同情のみ心によってなされたのです。そして主イエスが憐れみを覚えておられるのは、人々の空腹だけではありません。先ほど見た、あの山上の癒しのみ業、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を癒された、そこに働いているのも、主イエスのこの憐れみのみ心、本当の同情です。つまりあの山上の癒しの記事と、この四千人の話とはつながっています。主イエスが、苦しんでいる者、いろいろな意味での空腹を覚えている者、弱っている者たちを深く憐れみ、本当の同情をもって関わって下さり、彼らの苦しみを癒し、飢えを満たして養い、慰め、力づけて下さる、そういう恵みが、これらの話によって語られ、それによってガリラヤにおける伝道活動のしめくくりがなされているのです。
天の父の愛
そしてこのことは、先ほど申しました、癒しのみ業と山上の説教の教えとの結びつき、ということに関わってきます。主イエスの癒しのみ業は、単なる奇跡や超能力ではなく、山上の説教と切り離すことのできないものだと申しました。その山上の説教において語られていたことは何だったのでしょうか。それは一言で言えば、あなたがたには天の父なる神がおられる、ということです。神は、あなたがたの天の父として、あなたがたを子として愛しておられ、あなたがたの苦しみをご自分の苦しみとして下さるほどに深く憐れんで下さっている。そしてあなたがたが願うより先に、あなたがたに本当に必要なものをご存じであり、それを与えてあなたがたを養い、守り、導いて下さっている。あなたがたは、何度も何度もしつこく願わなければ、多額の捧げ物をしなければ、努力してよい人間にならなければ、祈りを聞いてくれないようなよそよそしい、疎遠な神の下にいるのではない、あなたがたを本当に愛して下さっている天の父である神の下にいるのだ。だから、天の父の憐れみによる養いと守りと導きを信じて、安心して、神に委ねて生きることができる。またこの神に向って、「天にまします我らの父よ」と呼びかけて祈ることができる。神は父としての愛と恵みをもって子であるあなたがたを守り導いておられる。それが、主イエスが山上の説教においてお語りになった天の国の福音でした。天の父なる神の恵みのご支配こそが天の国です。主イエスはそれをこの世に、私たちにもたらすために来て下さったのです。主イエスの様々な癒しのみ業も、また僅かな食物で五千人、四千人の人々を満腹にして下さった奇跡も、全てはこの天の父なる神の恵みのご支配を表し、示しています。主イエスの教えとみ業によって、父なる神の恵みと憐れみが、人々に注がれ、苦しんでいる者を癒し、飢えの中にある者を満腹にしたのです。イザヤの預言はこのようにして成就し、人々はそれを見てイスラエルの神を賛美したのです。
十字架の死への歩みにおいて
そのようにして主イエスにおける父なる神の恵みと憐れみがある意味で頂点に達したことが本日の箇所に語られています。この後は、先ほど申しましたように、主イエスの受難、十字架の死への歩みが始まるのです。それは峠を越えた道が今度は下り坂になり、次第に急勾配になって谷底へと向かっていくことに似ています。しかしそれは、ここで頂点に達した父なる神の恵みと憐れみが次第に失われていった、ということではありません。主イエスの受難と十字架の死は、ここで示された神の父としての恵みが、私たちの罪とそれによる苦しみのどん底にまで、あるいは私たちの死の苦しみのただ中にまで及ぶことを示しているのです。言い換えれば、主イエスの私たちへの憐れみ、同情が、私たちの罪を背負って身代わりになって死んで下さるほどに、つまり私たちの苦しみを代って引き受けて下さるほどに大きな、真実な憐れみ、同情であったということが、この福音書の後半の、受難への歩みにおいて示されていくのです。私たちは、主イエスの憐れみ、同情が、十字架の苦しみと死にまで至る真実の憐れみ、同情であったことを既に知らされています。そこから振り返って、本日の箇所に語られている主イエスの癒しのみ業を見つめ直す時に、それが単なる奇跡的癒しなのではなくて、多くの人々の苦しみ、悩み、悲しみを、主イエスがご自分の身に引き受け、背負って下さったのだ、ということが分かるのです。また同様に主イエスが四千人の人々を満腹になさった奇跡も、主イエスが空腹の中で弱っている人々を深く憐れみ、恵みによって養い、力づけて下さったのだということが分かるのです。
聖餐にあずかりつつ
十字架の死に至るまで私たちへの憐れみに生きて下さった主イエスを、父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスにおいて、神の憐れみが私たちの罪と死とに勝利したのです。その主イエスが今、私たち一人ひとりに、同じ憐れみと恵みを注ぎ、養い、力づけて下さっています。そのことを表しているのが、本日共にあずかる聖餐です。聖餐において私たちは、主イエスが私たちのために十字架にかかって下さったその肉と、そこで流された血とにあずかります。主イエスがご自身の命を与えて下さるほどの深い憐れみと同情とをもって私たちを愛して下さったことを、体をもって味わうのです。そして、復活して今も生きておられる主イエスと一つにされて、私たちの天の父となって下さった神の愛を心から賛美するのです。
