「山上の説教」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章1-2節
・ 讃美歌:3、57
山上の説教
マタイによる福音書の第5章から第7章には、主イエスのお語りになった教えがまとめられています。そこには、よく知られているいろいろな教えが出て来ます。5章3節以下には「心の貧しい人々は幸いである」から始まる「幸いの教え」があります。13、14節の「あなたがたは地の塩、世の光である」もよく知られています。そして21節以下には、律法にはこう命じられているが、しかし私は言っておく、という形で、旧約聖書の律法を越える主イエスの教えが語られています。その中に「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」などの教えがあるのです。また第6章には祈りについて語られており、その中で「主の祈り」が教えられています。6章25節以下は、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」という教えです。第7章に入ると、「人を裁くな」「求めなさい、そうすれば与えられる」「狭い門から入りなさい」などの教えがあります。そして7章の最後には、岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人のたとえが語られており、主イエスのこれらの教えを土台として生きることが勧められています。この5?7章のひと続きの教えは、「山上の説教」と呼ばれています。先ほど朗読された5章の冒頭に、主イエスが山に登り、そこでこれらの教えをお語りになったと語られているのでそう呼ばれているのです。本日は、この山上の説教とは何なのか、マタイ福音書においてそれはどのような意味を持っているのかを考えたいと思います。そのことによって、この後この説教を読んでいくための確かな土台となる岩を見出したいのです。
「山上の」の意味
この山上の説教と同じような内容の教えが、ルカによる福音書の第6章にあります。しかしルカにおいてはそれは「山上の説教」ではありません。6章17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあって、その後のところに、山上の説教と似た教えが語られているのです。山から下りた平らな所で語られているので、その説教は「平地の説教」と言われます。マタイでは「山上の説教」、ルカでは「平地の説教」なのです。大事なのは内容であって、山の上で語られようと平地で語られようとどっちでもいい、と思うかもしれません。しかしマタイが、主イエスが山の上でこれらの教えをお語りになったとしていることには大事な意味があるのです。
山の上で神の教えが語られた、ということから思い起されるのは、旧約聖書に記されている、モーセが、シナイ山の上で、主なる神から十戒を与えられた出来事です。十戒を中心とする律法は、山の上で与えられたのです。出エジプト記の20章1節には「神はこれらすべての言葉を告げられた」とあって、それに続いて十戒が語られています。主なる神がシナイ山で、モーセを通してイスラエルの民に十の言葉をお語りになった、それが十戒です。マタイは、主イエスが山の上でみ言葉を語られたことを、このことと重ね合わせているのです。このことは、山上の説教を理解するための大事な手掛かりとなります。山上の説教は、主なる神がシナイ山でイスラエルの民に、十戒を中心とする律法をお語りになったことを意識しつつ語られているのです。山上の説教において主イエスが律法を意識しておられることは、例えば5章17節に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とあることから分かります。そしてその後の21節以下には、先ほど申しましたように、「律法にはこう命じられているが、しかし私は言っておく」という教えが語られているのです。つまり主イエスは山上の説教において、シナイ山で主なる神によって与えられた律法を大切なものとして受け継ぎつつ、それを乗り越え、完成させるご自身の新しい教えを語っておられるのです。シナイ山の上で主なる神がイスラエルの民に、十戒を中心とする律法をお与えになった。同じように、主イエスはこの山の上で、律法を乗り越え完成させる新しい教えをお語りになったのです。
契約の恵みに基づく言葉
シナイ山で十戒を中心とする律法が与えられた出来事は、主なる神がイスラエルの民と契約を結んで下さったことを土台としています。主なる神は、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を顧み、モーセを遣わして彼らをエジプトから解放して下さいました。この救いのみ業の中で主はシナイ山において、イスラエルの民と契約を結んで下さったのです。その契約によって、主なる神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となりました。そういう特別な関係を主がイスラエルの民との間に結んで下さったのです。そこに与えられたのが、十戒を中心とする律法でした。つまり十戒、律法は、主なる神が結んで下さった契約によって神の民とされたイスラエルの人々が守り行うべきことを語っているみ言葉なのです。もっとわかりやすく言えば、奴隷の苦しみから救って下さった主なる神の恵みに感謝して、神と共に生きるために語られたみ言葉が十戒であり、律法なのです。ですから十戒や律法は、これを守れば救われる、という救いを得るための条件ではありません。エジプトの奴隷状態からの解放という救いは既に与えられているのです。救われて神の民とされた者たちが、神に感謝して、神との誠実な交わりに生きていくために語られた、神の恵みのみ言葉が十戒であり律法なのです。
神の民を結集する言葉
このみ言葉を与えられたことによってイスラエルの民は、神の民として歩むべき方向を示されました。エジプトの奴隷状態から解放されただけだったら、自由ではあるけれども、目的のないただの烏合の衆です。自由は、それを何のために用いていくかが問題です。目的なしの自由は重荷でしかありません。現にイスラエルの民は、エジプトを出て荒れ野を旅していく中で、いろいろと苦しいことが起ってくると、「こんなことならエジプトにいた方がよかった」などと言い出したのです。自由は、目的に向かって忍耐しつつ努力することなしには維持できないのです。つまり自由と勝手気ままとは違うということです。勝手気ままに生きようとすると、せっかくの自由を失い、奴隷状態に戻ってしまうのです。十戒を中心とする律法は、イスラエルの民に、神によって与えられた自由を何のために用いればいいのかを教えています。この神のみ言葉によってイスラエルは、烏合の衆となることなく、約束の地に向かって共に歩む神の民として結集されていったのです。つまり、シナイ山で十戒を中心とする律法が与えられたことによって、イスラエルの民は、神の民として結集され、歩むべき方向を示されたのです。
マタイは、主イエスの山上の説教が、シナイ山で主がイスラエルの民にお与えになった律法と同じ役割を果たしていることを見つめています。このことを意識することによって、山上の説教を理解するための土台を得ることができます。そこでまず第一に示されるのは、山上の説教も、神の契約の恵み、救いの恵みに基づいて語られている、ということです。十戒を中心とする律法が、単なる戒律や掟ではなくて、神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から救って下さり、彼らとの間に結んで下さった契約に基づく教えだったように、山上の説教も、単なる倫理道徳の教えではありません。この教えの背後には、神が主イエス・キリストによって実現して下さった救いがあり、主イエスを通して神が私たちと結んで下さった契約があるのです。
シナイ山においてモーセを通して与えられた契約が「旧い契約」であるのに対して、主イエス・キリストによって実現したのは「新しい契約」です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所はエレミヤ書31章31節以下ですが、そこには、神がご自分の民と新しい契約を結んで下さるという預言が語られています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」。エジプトの奴隷状態からの救いにおいて、シナイ山で結ばれた旧い契約とは違う新しい契約を神が結んで下さるのです。その新しい契約が、主イエス・キリストによって実現したことを語っているのが新約聖書、つまり新しい契約の書です。主イエスによって神が結んで下さった新しい契約は、神が私たちを罪と死の奴隷状態から解放して下さったという救いに基づいています。生まれつきの私たちは皆、罪と死に支配されていて、その奴隷とされているのです。その私たちのために、神は独り子主イエスをこの世に遣わして下さいました。私たちと同じ人間となって下さった主イエスは、私たちの罪を全てご自分の身に負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さいました。この主イエスの身代わりの死によって私たちは、罪の支配から解放されたのです。また父なる神は主イエスを死人の中から復活させて下さいました。罪と共に私たちを支配している死の力を神が打ち破って下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神が私たちを罪と死の支配から解放して、ご自分の民として下さったのです。これが、主イエス・キリストによる新しい契約です。山上の説教は、主イエス・キリストによる救いにあずかり、新しい契約によって新しい神の民とされた者たちが、神と共に生きていくために語られたみ言葉です。エレミヤ書31章33節にはこうありました。「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。シナイ山における旧い契約においては、十戒が石の板に刻まれて与えられました。しかし新しい契約においては、私たちの胸の中に、心に、律法が記されるのです。その私たちの心に記される律法として、山上の説教が語られているのです。従って山上の説教も、これを守り行えば救われる、という救いを得るための条件ではありません。主イエス・キリストの十字架の死と復活による救いは既に実現しているのです。主イエスによって神は私たちと新しい契約を既に結んで、私たちをご自分の民として下さっているのです。その救いにあずかり、新しい神の民とされた私たちが、主なる神に感謝して、神との誠実な交わりに生きていくために語られた恵みのみ言葉が山上の説教なのです。
新しい神の民の結集
そこにさらに示されるのは、十戒を中心とする律法が、イスラエルの民を神の民として結集し、約束の地を目指して歩む群れとして整えたように、この山上の説教が、主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちを、新しい神の民として結集し、どこに向かって歩んでいったらよいのかを示してくれる、ということです。主イエス・キリストの十字架と復活によって私たちは、罪と死の支配から解放されました。しかしそれだけでは、その自由に留まり続けることはできません。その自由をどう用いるかが大事です。罪を赦されたというのは、だからもう勝手気ままに生きればいい、ということではありません。罪の赦しによる自由、解放を、勝手気ままに生きることに用いてしまったら、私たちは再び罪の奴隷に逆戻りしてしまうのです。死の支配からの解放も同じです。死からの解放は、復活と永遠の命の約束として与えられています。つまりそれは将来実現することなのであって、この世における私たちの歩みはなお死の支配の下にあるのです。その現実の中で、主イエスの復活によって死に勝利して下さった神との交わりに生きることによってこそ、私たちは死から自由になって生きることができるのです。山上の説教は、私たちが、主イエス・キリストによって与えられた罪と死の支配からの解放、自由にしっかり留まって、神の民として生きていくために、主イエスが語って下さったみ言葉です。このみ言葉によって私たちは、主イエスによる新しい契約にあずかる新しい神の民、新しいイスラエル、即ち教会として結集され、どのように生きていけばよいのかを示されるのです。
山上の説教は誰に対して語られているのか
このことは、山上の説教が誰に対して語られたか、ということと関係しています。5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とあります。これは単なる情景の描写ではありません。マタイはここに、山上の説教が誰に対して語られたのかを、さりげなく、巧みに描き出しているのです。腰を下ろされた主イエスの周りに、弟子たちが集まって来ました。つまり主イエスのすぐそばで山上の説教を聞いているのは弟子たちなのです。先週読んだ4章18節以下には、主イエスが二組の兄弟に「わたしについて来なさい」と声をかけ、彼らが弟子になったことが語られていました。そこには、主イエスの弟子になるとはどういうことかが示されています。主イエスの弟子とは、主イエスに呼ばれ、主イエスに従った人です。その弟子たちこそが、山上の説教の中心的な聞き手なのです。しかしマタイはそこに「群衆」をも登場させています。「イエスはこの群衆を見て山に登られた」のです。そして、山上の説教の終わりのところ、7章の終りには、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」とあります。つまりマタイは、群衆をも、山上の説教の聞き手としているのです。主イエスのすぐ周りには弟子たちがおり、その外側には群衆がいる、そういう設定の中で山上の説教は語られているのです。そしてさらに注目すべきなのは1節の「イエスはこの群衆を見て」という言葉です。「この群衆」とは、その前の4章25節に語られている人々です。彼らは「ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」のです。この「イエスに従った」という言葉が、四人の漁師たちが「従った」のと同じ言葉であると先週申しました。つまりこの群衆も、弟子たちと同じように主イエスに従った人々だ、とマタイは語っているのです。勿論群衆と弟子たちとでは違いがあります。弟子たちは、主イエスに直接声をかけられ、網や舟や父親を捨てて従ったのです。それに対して群衆は、弟子となってはいません。弟子たちが主イエスの近くにおり、群衆はその外側にいる、ということに示されている違いはあります。しかし根本的には弟子たちも群衆も共に、主イエスに従った者たちであって、山上の説教は、その人々に対して語られているのです。つまりこの説教は、キリスト教的な生き方とはどのようなものかを世間一般の人々に語り伝えているのではありません。山上の説教は、主イエスによる救いにあずかり、新しい神の民として主イエスに従って生きている者たちに主イエスが語りかけ、与えて下さったみ言葉なのです。ですから、主イエス・キリストによる救いにあずかり、主イエスに従うことなしに、この説教に語られているいろいろなことを単なる教訓として読んで、それによって人生を豊かにしようとしても、それではこの説教の本当の意味はわからないし、このみ言葉によって生かされる喜びを味わうこともできないのです。
山の上とは
主イエスは弟子たちと共に山に登られました。マタイ福音書には、それと同じことが語られているところが他にもあります。一つは17章1節以下です。そこには、主イエスがペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登り、その上で、主イエスのお姿が光輝く栄光のお姿に変わったことが語られています。主イエスが神の独り子であり、神から遣わされた救い主であることが、この山の上ではっきりと示されたのです。つまり山の上は、主イエスの神としてのまことのお姿、その栄光が現わされる場です。そしてそのことはこの福音書の最後のところ、28章16節以下においても起っています。そこには、復活された主イエスが、山の上で弟子たちに出会われたことが語られています。そこで主イエスはこう言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。このお言葉をもって、マタイ福音書は閉じられています。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活された主イエスは、今や天と地の一切の権能を授かっており、罪と死の力に勝利した方として、この世界と私たちを支配して下さっている、そのことが、この山の上で示されたのです。山の上で、主イエス・キリストは、私たちを神の民として結集するみ言葉を語って下さり、ご自身の栄光を示して下さり、復活して生きておられる主イエスこそがこの世を支配しておられることを示して下さるのです。その山の上とは、今私たちが守ってるこの礼拝のことだと言えるのではないでしょうか。礼拝において私たちは、主イエスのみ言葉によって神の民として結集され、歩むべき方向を示され、主イエスの神としての栄光をかいま見、そして今は隠されている主イエスのご支配を示されるのです。そして主は私たちをこの山の上から、この世へとお遣わしになるのです。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。これが、私たちに、教会に、主が与えておられる使命です。「あなたがたに命じておいたこと」、それを語っているのが、これから読んでいく山上の説教です。私たちは、主イエスの救いにあずかり、新しい神の民として呼び集められ、主イエスの後に従って、律法を完成させる教えである山上の説教を真剣に聞きつつ、主イエスと共に歩んで行くのです。その私たちに主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束して下さっているのです。