「新しい言葉」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章8-13節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第16章9-18節
・ 讃美歌 : 7、402
福音書の結び
マルコによる福音書を読み進めて来まして、本日はいよいよ「結び」に入ります。結びと言いましても、9節以下が、括弧でくくられているように、この箇所は本来の福音書にあったのではありません。元々あった福音書に付け加えられたのです。実は、本来のマルコによる福音書が先週お読みした16章の8節で終わっていたのか、否か、ということは聖書学者の間でも議論があるところなのです。実際、ギリシア語の聖書で確認すると、16章8節の最後の言葉は、「なぜならば」という意味の接続詞なのです。文末が接続詞で終わる文章というのは、普通では考えられません。そのため、マルコ福音書は、8節で終わっていたのではなく、もっと先まで続いていたのだけれど、何かの拍子でその部分が失われてしまったのだと考える人もいるのです。1-8節には、婦人たちが、主イエスの納められた墓に行くと、そこが空になっていて、天使たちに主イエスの復活が告げられたことが記されていました。最後の8節は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とあります。主イエスの復活を示された人々は恐れに捉えられたのです。しかし、マルコ福音書の写本を作っていた人々は、婦人たちが、恐れに捉えられ墓から逃げ出したということで福音書が終わってしまっては、どうも良くないと考えたらしいのです。そこで、結びが付け加えられて読まれるようになったのです。もちろん、勝手なストーリーを加えたのではありません。様々な証言を基にしたでしょうし、他の福音書を参考にしたかもしれません。様々な結びが付け加えられたようです。9-20節の後に節のついていない段落があり、そこには表題として「結び二」と記されています。これは別の写本が記している結びです。新共同訳聖書は、様々ある写本の内、良く読まれている二つを記しているのです。これらの結びは、後とから付加された結びだから重要ではない、御言葉として劣るということではありません。後の教会が、大切に語り継ぎ、今日も聖典として聖書に収められていることが示すように、そこには、信仰にとって大切なメッセージが語られているのです。
復活の知らせを信じない人々
ここには、所謂、復活の主イエスの顕現の出来事が記されています。9-11節にはマグダラのマリアに、続く12節-13節には、二人の弟子たち、そして、14-18節には、十一人の弟子たちに主イエスがご自身を現して下さったことが記されているのです。このような記述の展開はルカによる福音書と似ています。ルカによる福音書も、マグダラのマリア、二人の弟子、他の弟子たちという順番で主イエスの復活が示されて行くのです。しかし、マルコとルカを比べると、マルコは非常に短く簡潔に記していることが解ります。伝えたいことが絞られ、単刀直入に示されていると言って良いでしょう。
ここで何より見つめられているのは、主イエスの復活の話しを聞かされた弟子たちが、それを信じなかったということです。復活の主に出会ったマグダラのマリアは、「イエスと一緒にいた人々」に知らせます。しかし、11節にあるように、「彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった」のです。その後、12節以下には、復活の主が二人の弟子に出会って下さったことが記され、この二人の弟子も残りの人たちに伝えます。しかし、13節にあるように、「彼らは二人の言うことも信じなかった」のです。
この人々は、既に、主イエスの十字架と復活を知らされていた人々でした。主イエスは十字架につけられる前、3度もご自身の十字架と復活を予告されていたのです。しかし、いざ、そのことが起こっても、それを信じることが出来なかったのです。ここから分かることは、主イエスの復活ということは、現代を生きる私たちだけではなく、主イエスの弟子たちにとっても、簡単に信じられることではなかったと言うことです。
悲しみに支配される弟子たち
弟子たちが信じなかった、一つの理由として挙げられるのは10節に記されている通り、彼らが「泣き悲しんで」いたということです。この時、弟子たちは、悲しみに暮れていたのです。今まで、自分のすべてを捨て、一筋に主イエスに従って来た弟子たちにとって、その愛する主イエスが死んでしまったことの悲しみはあまりに深く大きかったのでしょう。しかし、この時の弟子たちの悲しみは単純な別れの辛さではありません。主イエスが十字架につけられた時に、主イエスを裏切り逃げ去ってしまった自らのことを省みて、後悔に捉えられていたのです。主イエスに従い続けることが出来なかった自分自身を見つめ、信仰の挫折の中で絶望していたのです。そして、これから、自分たちがどうしたら良いのか分からないまま、生きる希望を失い途方に暮れ、ただただ悲しみの中にうずくまっていたのです。悲しみ涙する時というのは、人間がふさぎ込む時でもあると言えるでしょう。弟子たちは、冷静さを失って自暴自棄になって周りが見えなくなっていたかもしれません。
このように、挫折を経験してふさぎ込むようになっていたということは、それまでの弟子たちが、自分の力に頼って生きて来たことを示しています。主イエスに従う信仰の歩みも、自分の力に頼って、自分の業として信仰生活を送っていたのです。そのため、そのような歩みが挫折し、自らの信仰の弱さを痛感し、それを嘆き、絶望に支配されていたのです。自分の力に依り頼む歩みというのは、その歩みが挫折した時に、結局、自分から神様に目を向けるのではなく、自分だけしか見つめられないために、絶望しか生まないのです。14節には「十一人が食事をしている時」とありますように、弟子たちは群れになっていたことが分かります。その時のことをヨハネによる福音書は、「自分たちの家の戸に鍵をかけていた」と記します。鍵をかけていたのは、扉だけではありません。弟子たちの心にも鍵がかかっていたのです。そんな弟子たちだからこそ、主イエス復活の知らせを信じることが出来なかったのです。
不信仰を咎める主イエス
14節には、そのような弟子たちに対して、主イエスご自身が現れて下さったことが記されています。「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。」ここで主イエスは、悲しみにふさぎ込み、自分のみを見つめている弟子たちのなかに、「不信仰とかたくなな心」を見いだしておられます。自らの内にふさぎ込み、自分だけを見つめている時、人間は「不信仰」になり、扉に鍵をかけた家のように、心が頑なになるのです。そして、主イエスがお咎めになるのも、そのことなのです。ここで、復活の主は、弟子たちのだらしなさ、ご自身にしっかりついて来ることが出来ずに裏切ってしまったことを咎めたというのではありません。主イエスは、弟子たちの弱さを十分知っていて下さるのです。そして、ご自身を見捨ててしまうような弱さの中にある弟子たちの救いのためにも十字架におつきになったのです。主イエスは、ここで、まさに、復活を見た人々の言うことを信じない、つまり、自分自身の弱さが担われ、救われているという恵みを示されてなお、そのことを受け入れず、それに依り頼もうとしないで、「不信仰とかたくなな心」のなかにとぐろをまいて座り込んでいる弟子たちのあり方をお咎めになったのです。信仰も自分の業として捉え、そこで挫折を経験する中で、ふさぎ込み、自分を見つめ、頑なな心になってしまうことを主イエスは不信仰とおっしゃるのです。
信仰と言うのは、何か、私たち自身の業や立派さにおいて示されるのではありません。又、不信仰というのは、主イエスに従いきれない弱さや、信仰の挫折を言うのではありません。信仰と言うのは、自分自身の弱さ、挫折を経験する時に、神を見つめつつ、示されている救いの恵みを受け入れることであり、不信仰と言うのは、そのような挫折の中で、尚、自分自身を見つめつつ絶望することなのです。信仰とは、救いが自分自身の業ではないということを決定的に知らされて、そこにこそ望みを置くことなのです。
全世界に行って福音を伝える
復活の主は、弟子たちにご自身を現された後、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とおっしゃいました。復活の主との出会いと、宣教への派遣は一つのことです。私たちは救いに与る時、その救いの出来事を世に示すものとされて行くのです。そこで派遣される人々が、立派だったからとか、主イエスの復活を他の人よりも良く理解したからと言うのではありません。彼らが、復活について信じることが出来ないような、自分だけを見つめ続ける「かたくなさ」が主イエスによって破られたからこそ、そこから福音を語るという務めに遣わされて行ったのです。復活の主との出会い、心のかたくなさが破られ、鍵のかかった扉が開かれて行く時に、自然と伝道が生まれてくるのです。つまり、かたくなで不信仰な者が復活の主によって目を開かれる時に伝道が生まれるということに、不信仰なものが伝道に召されるということの意味があると言って良いでしょう。もし、私たちが、自分にはしっかりとした信仰があると思っている所でなにか伝道のようなことが行われるとするのであれば、それは、復活の主と出会う前の弟子たちがそうであったように、結局、自分の業としての信仰に生きる歩みが生まれるだけなのです。
伝道と言うことに関して、注意をしなくてはいけないことは、続いて語られている御言葉を誤解してはならないと言うことです。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とあります。この言葉を聞くと、信じることが出来、洗礼を受けた人は天国に行けるけれども、信じることが出来ない人は裁かれて地獄行きだというようなことが語られているという印象を受けます。確かに、私たちは信仰によって救いを与えられます。洗礼は信仰のしるしであり救いに与っていることのしるしです。しかし、大切なことは、私たちが、自分は信仰を持っているから安心だけれども、信仰を持っていない「あの人、この人」は、救われないのだと私たちが決めつけて、周囲の人を裁くことは出来ないと言うことです。更にこの御言葉を根拠にして、信じないと滅びると脅迫じみたことを語って伝道することも出来ません。洗礼を受けた者が、そこに留まり、自分を誇り、他人を裁くようなものとしてこの御言葉を聞いてはならないのです。私たちは誰しも不信仰な者なのです。復活の話しなど聞いても信じられないことがあるのです。そのような者に主イエスが現れて繰り返し救いを告げて下さっている。そのような中で伝道が進められていくのです。
信仰のしるし
ここで、信仰のしるしとは何なのかということを考えたいと思います。信仰とは何なのかと言う疑問を時々聞きます。洗礼を受けている方にとっては、そのことが一つの信仰のしるしとなるでしょう。けれども洗礼を受けていない方であれば、何をもって自分は信じていると言えるのだろうかという思いに捉えられることもあるかと思います。復活という非科学的な出来事があったのだということを単純に信じれば、それが信仰なのだろうかとか、イエス様は私の救い主と心に直感的に思い浮かべることができれば、それが信仰なのだろうかと考えるかもしれません。もちろん、学問を修めるように、聖書についての理解がある一定の所まで進むと「信じる」という段階に来ると言うのではありません。又、感情を高揚させて異言を語ることが出来るかどうかが信仰を持っていることのしるしとなるのでもありません。聖書は信じる者に伴うしるしを17節で、次のように語っています。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」。ここには、十字架につけられる前に、主イエスが行われた御業や、主イエスによって遣わされた弟子たちが、主イエスの権威の下に行った業が見つめられています。つまり、信仰によって神様の御業を行う者とされると言うのです。しかし、これらの言葉を文字通り受け取って、奇跡じみたことが出来るか出来ないかが、信仰があるかないかだと考える必要はありません。ここに列挙された中で、最初に語られたことに注目したいと思います。「わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」とあります。悪霊とは、聖書において、私たちを神様から引き離し、不信仰に陥れようとする力です。つまり、ここでは、主イエスの名によって、不信仰から解き放たれて、そのことによって、新しい言葉を語るようになると言うのです。「新しい言葉」というのは、信仰の言葉です。それは、私たちが自分を見つめている時に呟く、嘆きの言葉ではありません。挫折感から来る、自己否定や隣人に対するねたみの言葉でもありません。絶望を生み出す言葉ではなく、キリストの復活を証しする言葉です。私たちの死を越えた命があることを伝える信仰の言葉です。そして、キリストに目を向け主なる神に祈る祈りの言葉です。不信仰の中にある者が、そのような信仰の言葉を語る者へと変えられると言うことこそ、真に奇跡と言うべき御業なのです。
福音の結びを語る
マルコによる福音書は、本来の形に従うのであれば、空の墓を目撃し、天使から復活を告げられたマリアの姿を持って閉じられています。復活は驚くべき出来事です。しかし、復活を信じると言うのは、肉体の蘇生ということが2000年前に起こったということを信じるということではありません。復活して下さった主イエスが甦って下さっている。今も、私たちの間で働いておられるということ、そして、私たちを支配する死の力を打ち破って下さっているということを信じることです。私たちは、この出来事に驚き、そんなことを信じられるかと思うかもしれません。弟子たちがそうであったように、それは当然の反応なのかもしれません。復活は、人の説明を聞いて納得して信じると言うような性格のものではありません。しかし、そのような者にご主イエスは御言葉を通してご自身を示して下さっているのです。その主イエスの姿を見つめつつ、自分自身を見つめることによる絶望から、神様を見つめることによる希望に生き始める時、私たちは新しい言葉を語り出すのです。
マルコによる福音書を読み始めた時に、その1章1節が「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉を記していることに注目し、この言葉を、福音書の題として読むことが出来ると申し上げました。つまり、1章1節は、単純に、その後に記されていく洗礼者ヨハネの記述が福音の始まりなのだということを示しているのではないのです。マルコによる福音書全体が、今もこの世で語られ続けている福音の初めを記していると言うのです。そのように読むとするならば、この福音書の終わりが完結した形では終わっていないことも納得出来るのではないでしょうか。マルコによる福音書がなそうとしたことは初めを語ることなのです。マルコの記述の後にも広い意味での、主イエス・キリストの福音、神様の御業は続いているのです。私たちは、復活の主と出会い、新しい言葉を語っていく時に、信仰によって、それぞれが、この福音書の結びを生きているのです。そのような歩みをすることによって、私たちは、本当に復活の命に通ずる主イエスの道を歩き続けるのです。