夕礼拝

生きている者の神

「生きている者の神」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 出エジプト記 第3章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第12章18-27節
・ 讃美歌 ; 467、356

 
はじめに
 主イエスはエルサレムにお入りになってから、様々な人々と議論を交えました。11章27節以下には、祭司長、律法学者、長老たちと「権威」を巡って議論をしたことが記されています。又、直前の12章18節以下には、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々との間で、「皇帝への税金」を巡って行われた議論が記されています。それに続けて、サドカイ派と言われる人々との議論が記されているのです。ここで、問題となっているのは、復活についての議論です。この議論の末に、主イエスは、サドカイ派の人々の思い違いを指摘しておられます。本日お読みした最後の部分に、「あなたたちは大変な思い違いをしている」とあります。彼らが、聖書、神の御言葉を聞くことにおいて、根本的に過ちを犯していたのです。

サドカイ派
 ここに登場するサドカイ派と言うのがどのようなグループなのでしょうか。このグループの名前である、サドカイというのは、一説によると、列王記上2章35節に登場する祭司ツァドクから来ていると言われます。そこには、イスラエルの王ソロモンが、「アビアタルの変わりに祭司ツァドクを立てた」とあるのですが、この祭司ツァドクの子孫というような意味であるというのです。このグループからは、祭司が多く出ていたようです。祭司の家計を中心とした上流階級にあった人々です。当時の体制の中で特権階級にあった人々で、生活に不満を持つことも少なく、教養も高かったと言って良いでしょう。当然、政治的には保守的になります。改革を主張するよりは、むしろ体制を維持することに努めていたのです。主イエスの時代、ユダヤはローマ帝国の支配の下にありましたが、ローマの支配にも妥協し、それ程抵抗なく受け入れていました。この人々は、成分化された聖書の御言葉のみを受け入れ、旧約聖書の最初の創世記から申命記まで、いわゆるモーセ五書だけを重んじていました。更に、それらを解釈する際も文字通りに受け取っていました。
 このサドカイ派の人々は、先週登場したファリサイ派とは対立していました。ファリサイ派は、律法を研究し厳格に守り、宗教的な純粋さを追求した人々です。当然ローマの支配も積極的には受け入れていませんでした。当時の社会においては中産階級にあった人々で、民衆の教師として振る舞っていました。ファリサイ派は、サドカイ派と同じくモーセ五書を重んじていましたが、それだけでなく、後に加えられていった文書や、口伝律法等も重視していました。この人々は、律法を厳格に生きることを追求していましたから、モーセ五書に記された律法の精神を自分たちが生きる時代において実践しようと様々な掟を加えていったのです。だからこそ様々な言伝えや教えを重んじたのです。宗教的に純粋さを保ち、厳格に律法を守り、生活の中で実践することによって救いを求めるファリサイ派と、この世での地位を重んじ、それを守るために、政治的支配とも妥協するサドカイ派の人々は、当然反目し合うことになるのです。

復活を巡る対立
 特に、サドカイ派とファリサイ派の人々の対立が鮮明になるのは、復活を巡ってでした。本日の個所の冒頭で、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」とあるように、サドカイ派は、復活を否定していました。その理由は、彼らがモーセ五書のみを重んじていたことと関係があります。モーセ五書には、復活を記す記述はありません。ですから、この人々は死者の復活、更には天使や霊と言ったものを否定していたのです。しかし、サドカイ派の人々が、復活はないと言うのは、ただモーセ五書のみを受け入れていたということだけにあるのではありません。むしろ、彼らがこの世の生活において不満をもつことがなく、満ち足りた生活を営んでおり、現実社会での満足のみを求める現世主義に生きていることによると言って良いでしょう。彼らはこの世の生活において満ち足りることのみに関心を寄せ、死後のことには関心がなかったのです。しかし、彼らは、真の死の力を意識していた訳ではありません。真の命を与える神から離れ、神の愛から切り離されて生きるという人間の罪と、その罪の裁きとしての死の力を恐れることもなかったのです。死を越えた力を認めず、死をも深く見つめることがないから、現実の豊かさのみを求めるのです。サドカイ派の人々は、現実に満足していましたから、復活を信じるなんてことは、まことに愚かなことのように思えたのでしょう。彼らは、祭司でしたから、祭儀を司っていたのですが、彼らの根本的な姿勢は、この世のみを重んじるということです。
 一方、ファリサイ派の人々はモーセ五書以外の文書や言い伝え等も重んじていたために、復活を信じていました。又、彼らは、決して、現実に満足してはいませんでした。ローマ帝国による支配は、選ばれた民としての誇りを傷つけるものでした。彼らは、神に救いを求め、復活を信じていました。ダニエル書12章1-4節には、死は眠りにしか過ぎず、大いなる苦難の後その眠りから必ずいつか目を覚ますときがくる、そして、永遠の命に与る人々が、大空の光、とこしえの星として輝くという希望が語られています。彼らにとって、この死後の希望と慰めが、どんなに重要なものに感じられたでしょうか。そのために、ファリサイ派の人々とサドカイ派は、しばしば議論を交わしていたのです。

サドカイ派の質問
サドカイ派の人々が主イエスの所にやって来ます。ファリサイ派の人々は、この福音書の中で、これまで度々登場しました。しかし、サドカイ派の人々が登場するのは、この個所が初めてです。そもそもガリラヤの片田舎で民衆の中で注目され、復活の命という愚かしいことを信じているファリサイ派と議論をしている主イエスのこと等には、気をとめることすらなかったのでしょう。しかし、その主イエスが、エルサレムまで来て、騒ぎを起こしているのです。どのような人物か見てやろうという思いになって主イエスの下にやってきたのかもしれません。彼らは、ファリサイ派と議論をする要領で、主イエスに一つの問いを投げかけるのです。最初に、申命記の第25章5節に記されている規定を取り上げ、「ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」と記されていると指摘します。当時、跡取りが与えられないままに夫を亡くした場合、妻は、家名が絶やされないように夫の兄弟と結婚し、跡継ぎとなる男の子を得なければならなりませんでした。このような規定自体、私たちの感覚からすると、奇異に思えます。しかし、当時の人々にとっては、家計を絶やさないということが何よりも大切なことでした。家計を絶やすことによって神の祝福も断ち切られると考えられていたのです。サドカイ派の人々は、この律法の規定を持ち出した上で、死人が復活することを信じることのばかばかしさを主イエスに問いかけるのです。彼らは、一つのケースを想定します。七人の兄弟がいて長男が妻を迎え、跡取りを残さずに死に、次男がその女を妻にし、跡継ぎを残さずに死に、三男も同様に死んでしまう、そして七人とも跡継ぎを残さずに死んでしまったというのです。その上で、「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか」と問いかけます。地上において、七人の兄弟が一人の女性の夫となった。地上を歩んでいる時は、自分の兄が死んでしまったことによって結婚したのだけれども、復活した後には、すべての兄弟が一緒にいるのだから、一体誰の妻になるのかと問うたのです。

神の言葉を侮る
 この質問は、仮想の世界で寝られた屁理屈のようにも思える問いかけです。直前の個所では、ファリサイ派とヘロデ派が主イエスと議論していましたが、そこでは、当時のユダヤ人であれば、誰しも疑問に思っているローマに納めていた人頭税を納めることが律法に適っているかどうかが問われました。それによって主イエス逮捕に結びつく質問を引き出して主イエスを陥れようとしていたのです。その問いに比べると、「復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか」というサドカイ派の人々の問いかけには緊張感が感じられません。主イエスを陥れようという思いはあったかもしれませんが、むしろ、相手を最初から見下し、馬鹿にする姿勢があるように思います。もちろん、この人々は、事実このような境遇の女性がいて、死後の命の問題について深く悩んでいる姿に同情しているというのではないのです。彼らは、全く仮想の世界で造り上げた状況を話して、御言葉が示す復活を馬鹿にしているにすぎません。
 サドカイ派の人々の多くは祭司でしたが、いま自分が受けている恵まれた地位や立場を維持し、自分の思い通りになる限りでの信仰に生きようとしていたました。そのため、祭司でありながら、神の約束の言葉について謙遜に耳を傾けなくなっていたのです。神の御言葉を語る主イエスに対して議論のための議論にすぎない質問を投げかけるのです。自己保身と相手を見下す思いに支配されていた彼らは、存在がかけられていない空虚な問いを発しているのです。自分達が日常に経験できる範囲のことをもって、神の支配を推し量り、判断し、こんなものだろうと決めつけてしまっていると言っても良いでしょう。そこには、彼らの傲慢さがあるのです。
 サドカイ派の人々のように明確にでは無いかもしれませんが、このような態度は、私たちにもあると言って良いでしょう。自分の捉えられる範囲で復活について捉えようとする。聖書には復活ということが記されているが、それならば、死後、家族はどうなるのかとの思いや、果たして、自分が復活した時、どのような体で復活するのかと考える。死んだ時の衰えた体、病の苦しみの中にある体で復活するのだろうかそれとも、若い時の体なのかとあれこれ思いめぐらす。そのような思いの背後には、結局、自分の捉えられる仕方で、御言葉を捉えようとする態度があるのです。そして、そのような態度は、あれこれと思いめぐらす内に、御言葉が語る救いの出来事が愚かしいと感じる思いすら生むこともあるのです。

聖書も神の力も知らない
 主イエスは、サドカイ派の問いに対して次のように答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」。サドカイ派の人々は、祭司であり、聖書を読んでいた人々です。しかし、主イエスは、この人々に聖書も神の力も知らないとおっしゃいます。自分たちこそ、聖書を良く知っていると思っていた彼らは、この主イエスの言葉には腹を立てたに違い在りません。彼らは、確かに聖書に接していたかもしれませんが、本当に聖書の力を知っていたのではありません。聖書を字面だけで読み、自分が解釈する範囲で理解して受けとめたつもりになっていたのです。それは、本当の意味で聖書を知っているということにはなりません。聖書を知るというのは、私たちの力を越えた神の力を知らされることに他なりません。神は人間が、自分の都合の良いように利用することが出来ない方です。そのことを受け入れる時に神の力の偉大さを讃える者とされるのです。しかし、彼らは、自分たちの理解出来る範囲で聖書を捉えていました。そこでは、神の言葉に対する恐れや、神の力を讃える思いは生まれません。せいぜい、自分がこの世を満足に生きていくための知恵を聖書から読み取ろうとしているに過ぎません。聖書を読む時に大切なことは、私たちを生かしている神の力を知らされることなのです。私たちの命を根本的に支えている力があることを示されないのであれば、聖書をどれだけたくさん読んでいても、聖書を知っているということにはならないのです。

天にいる御使い
 主イエスは「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とおっしゃいます。「めとる」とか「嫁ぐ」というのはこの世における事柄であって、復活の命においては、そういうことは無いと言われています。サドカイ派の人々の、この世の生活の延長として復活の命を思い描こうとする態度を否定しておられるのです。復活と聞いて、復活後にどのように家族を与えられるのか等ということは考える必要はありません。むしろ、復活において大切なことは、その時、「天使のようになる」と言われていることです。「天使」という言葉も、復活と同じように人間が自分たちの考えに従って思い描くことの多いものです。たいていは羽がついていて、白い衣をまとっていたりするのです。しかし、そのような人間の思い描くような天使が、ここで言われているのではありません。この個所は直訳すると、「天にいる御使いのように」となります。「天にいる」ということが大切なのです。復活の命を生きるとは、今私たちが生きている地上とは異なる天にいる者となるというのです。それは、神さまの御下にある者となるということです。復活の命を生きるとは、神さまの御下で、神様に結ばれて歩むということなのです。その姿は、今地上にいる私たちが想像出来ることではないのです。

生きている者の神
 主イエスは続けて、サドカイ派の人々が重んじているモーセ五書を引用しつつ復活についてお語りになります。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」。主イエスは本日お読みした旧約聖書、出エジプト記第3章に記された、所謂「『柴』の箇所」を引用します。モーセがイスラエルの民をエジプトから導き出すために神から召される個所です。ここは、直接、復活ということは語られていません。しかし、ここには、はっきりと、聖書が語る「復活」ということが示されているというのです。ここに出てくる、アブラハムもイサクもヤコブもこの時、地上では生きていません。しかし、ここで、大切なのは、神が、アブラハム、イサク、ヤコブと言った、イスラエルの父祖たちの名前を呼ぶことによってご自身を示されたということです。神に名を呼ばれている者は、神との交わりの中に入れられていることを意味しています。もし、彼らが死によって完全に滅んでしまっていたならば、神は、このように自らを呼ぶことはないはずです。ここには、神の民として歩んだ者の、地上の生を越えた神との結びつきが見つめられているのです。彼らは、神に名を呼ばれ、神との交わりに入れられていることにおいて、確かに生きているのです。神が私はアブラハムの神であると呼んでいる時、アブラハムは、神との関係においては生きる者とされているのです。それが、主イエスが最後にお語りになった「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という意味です。「死んでいる者」というのは、単純に地上の歩みを既に終えてしまったということではありません。命の源である神と結ばれていない者、神の力を知らない者のことです。又、「生きてる者」とは、この世を歩んでいようが、既に召されていようが、本当に神の力を知り、神と結ばれることによって、死を越えた命に生かされている者のことです。そのような者は、神に名を呼ばれ、真の命に生きているのです。そして、そのように神に結ばれている者は、それがどのようにして起こるのかは分からなくても、復活ということに希望を持って歩むのです。

神の力を知らされて
 主イエスは、この後、十字架につけられ、復活されます。それは、神が、確かに主イエスを復活させることによって、人々に復活の命を示してくださった出来事です。私たちは、主イエス・キリストによって、神が私たちの罪を贖い、死の力を滅ぼしてくださっていることを示されます。それ故、私たちも神との交わりが回復されて、その交わりに生きる者とされているのです。主イエスに結ばれて歩む者を、神は、アブラハム、イサク、ヤコブと同じように、一人一人の名を呼んで、わたしはあなたの神であると宣言して下さっていると言っても良いでしょう。主イエスの父である神が、私たちの神にもなって下さっている。それは、主なる神の、あらゆる人間の想定を越えた神の力によって可能となった出来事です。このことを受け入れる時、復活がどのようにして起こるのか等を論じる必要はなくなります。この世で生きている時も死んでいる時も、名を呼び、命を約束してくださる真の神の力に依り頼み、希望を持って歩む者とされるのです。
 コリントの信徒への手紙一第1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」とあります。この後、サドカイ派紀元70年のユダヤ戦争でローマによってエルサレムが陥落によって、姿を消します。この世の生活で満ち足りることのみを求め、真の命を与えてくださる神から離れ、その言葉を愚かなものとして片づけてしまう者の歩みは続くことがなかったのです。しかし、神の力に依り頼み、復活の命に希望を持って生きる民は、今も歴史の中で生き続けています。そして、主イエス・キリストの教会は、キリストの復活の故に、より一層強く、神が与える復活の命に希望を置いて歩んでいるのです。名を呼んでくださる神に応答しつつ歩む信仰こそ受け継がれて行くのです。御言葉が示す救いの出来事に聞き、そこに示される神の力を知らされながら歩む者でありたいと思います。

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