夕礼拝

平和の王

「平和の王」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第118編1-29節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第11章1-11節
・ 讃美歌 ; 16、307

 
エルサレム入城
主イエスの一行はいよいよエルサレムに入ります。主イエスは、ガリラヤで、様々な御業を行いつつ、ご自身が十字架につけられるエルサレムを目指して歩んできたのです。既に10章の32節において、主イエスが先頭に立って、力強くエルサレムに向かって進んで行かれたことが記されていました。このエルサレム入城から、主イエスの御受難が本格的に始まって行くのです。主イエスは今まさに、ご自身が苦しみを受けるエルサレムに今までとは異なる力強さをもってお入りになろうとしているのです。主イエスは、ここで、二人の弟子を使いに出します。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい」とおっしゃったのです。今まで、主イエスの一行は様々な町を巡って来ました。しかし、明らかに、それらの時とは異なります。主イエスは、弟子たちに子ろばを連れてくるように言われたのです。ご自身が、その子ろばに乗ってエルサレムにお入りになるためです。今まで主イエスは、自らの足で歩いて旅をして来ました。しかし、エルサレムに入る時、主イエスは自らの足で歩くのではなく、子ろばに乗られたのです。ガリラヤから旅をする中で疲れていて、これ以上歩くのがしんどかったというのではありません。主イエスが、子ろばに乗ってエルサレムに入ることには特別な意味があったのです。

王としての主イエス
子ろばに乗るということにはどのような意味があるのでしょうか。それは主イエスが王としてエルサレムにお入りになったということを意味しています。王は凱旋する時、自らの足で歩くことはありません。馬に乗って凱旋します。主イエスはイスラエルの王として、エルサレムに入城されるためにろばを求められ、それにお乗りになったのです。又、この時、多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原からの葉の付いた枝を切って来て道に敷いたことが記されています。王の訪問を絨毯を引いて迎えるように、人々は、自分の上着を脱いで主イエスの行く道に敷いたのです。ここには、人々も又、主イエスを王として迎え入れたことが記されています。
更に人々は、叫びます。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」。ダビデとはかつて、エルサレムを築いたイスラエルの王です。そして、旧約聖書の預言者は、このダビデの子孫から、イスラエルの王が生まれ、民を救う救い主として来られることを告げていました。人々は、主イエスをダビデの子孫として生まれる救い主として受け入れたのです。「ホサナ」というのは、「お救い下さい」という意味の言葉です。本日お読みした旧約聖書、詩編118編に歌われている、「どうか主よ、わたしたに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを」という叫びです。人々は主イエスが自らを救って下さる方であると期待したのです。
このような形で、主イエスがエルサレムにお入りになったのは、主イエスご自身の意志です。エルサレム入城に際して、子ろばを連れてくるようにと申しつけた主イエスは、弟子たちから、誰かに何か言われたら何と言うべきかを問われて、「主がお入り用なのです」と言うようにとおっしゃいます。主イエスがご自身を「主」と呼ばれるのは、ここが初めてです。「主人のために馬を提供しろ」と言わんばかりの言葉です。しかも、ここでご自身が乗るろばが、「まだ誰も乗ったことのない子ろば」であることが記されています。このろばが、主イエスに対する捧げものであり、人の手によって汚されていないものであるということです。主イエスはエルサレム入城においてはっきりと、ご自身が主であり、王であることを示されたのです。

私たちの違和感
ここで私たちは、自分たちを顧みて考えてみたいと思います。私たちは果たして、どれだけ真剣に王としての主イエスを受け入れているでしょうか。私たちは、主イエスが王であると聞くと少なからず違和感を覚えるのではないかと思います。しばしば、キリストの三つの職能ということが言われます。キリストには、王、祭司、預言者という三つの職能があるというのです。祭司と言うのは、神との間に立って人々の罪をとりなす者のことです。私たちは、人々の罪を神にとりなし祈る主イエスを思い描くことが出来ます。又、預言者とは、神の言葉を民に語り伝える者のことです。私たちは、力強く御言葉を語る主イエスの姿を思えがくことも出来ます。しかし、一方で、王としての主イエスというのは、祭司や預言者としての主イエスほど、明瞭に思い描くことが出来ないのではないでしょうか。このことの背後には、私たちが王ということで抱くイメージが、主イエスに対して私たちが抱くイメージにそぐわないからではないかと思います。私たちは、確かに民を導き、平和のために統治する王の姿を思い浮かべることが出来ます。しかし、同時に、私たちが思い浮かべる王の姿の中には、民の上に君臨し、権力を振るって人々から搾取する姿や、武力によって戦争をして、自らの国の勢力の拡大を図る姿も含まれているように思います。そして、そのような王の姿と主イエスが結びつかないのです。
更に、私たちが、王としての主イエスを思い描きにくいことには、これと関連したもっと深い理由があると言えるでしょう。王が支配するということは、私たちが、王の支配に服することを意味します。王が支配するとは、自分自身の権利を放棄し、自ら支配を王の支配のために明け渡すことを意味しています。しかし、私たちは、心の中で、実は自らの支配を求めていて、誰かに支配されることを拒んでいるのではないかと思います。私たちは、絶対君主のような王が来て、自分たちを支配することを恐れ、そのような支配を拒もうとしているのです。そして、主イエスに対しても、その御支配が自らに及ぶことを、心の底では望んでいないのかもしれません。王として主イエスが来て下さることを無意識の内に拒もうとしているのではないでしょうか。 しかし、私たちは、常に、主イエスを王として迎え入れなくてはなりません。主イエスは私たちを治め、統治する王として世に来られたのです。

人の支配する場所エルサレム
ここで、主イエスが入城されたエルサレムというのは、神の民イスラエルの都であり、神様から遣わされた王が支配すべき場所です。しかし、当時、実際にエルサレムを支配していたのは、ローマの総督ポンテオ・ピラトです。このポンテオ・ピラトは人間の支配を代表するような人です。礼拝の中で共に告白している、使徒信条において、主イエスが、このポンテオ・ピラトの下に苦しみを受けられたことが告白されています。これは、ポンテオ・ピラトという総督の下で、主イエスが十字架刑に処せられたという歴史的事実を語ると共に、人間の支配によって苦しめられたことを語っているのです。
又、エルサレムには神殿があります。神殿とは、神を礼拝し、祈りを捧げる場です。しかし、この時、実際には神殿は荒らされていました。11節には、主イエスが「エルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った」ことが記されています。主イエスは、やっと上って来たエルサレムで、観光名所を訪れるようにして神殿を見て回ったのではありません。この後、15節以下には、主イエスが神殿から商人を追い出したことが記されています。主イエスは本来あるべき姿とは異なる神殿を見られたのです。本来祈りの家であり、神を礼拝する場所である神殿が、人間の思いによって強盗の巣とされてしまっていたのです。このことは、次週に触れたいと思います。ここで心に留めておきたいのは、本来、主なる神を礼拝する祈りの家であるはずの神殿が人間の思いによってあらされていたのです。神の都エルサレムは、人間が神様を退け、自らの支配を確立しようとする場所となっていたのです。そこには、人間の力による支配と、形骸化され、人間の思いによって荒らされる神殿があったのです。主イエスが王としてエルサレムに来られたのは、このような人間の支配の中に神の支配をもたらすためなのです。

謙った姿で
主イエスは、まさに、神の支配をもたらす王として、エルサレムに入城しました。しかし、王としての主イエスの御支配は、しばしば人間の支配者そうであるように、自らの思いに従って人々から搾取するために、人々の上に君臨するような支配とは全く異なります。それは、主イエスが弟子たちに示された答えにおいて「主がお入り用なのです」と言う言葉の後に、「すぐにここにお返しします」と言われていることからも分かります。これは、自分の力を誇示し、その力を拡大するために民から搾取するような王の姿とは全く異なります。
又、そのことが最もはっきりと示されるのは、この王が、馬ではなくろばにお乗りになったということに表されています。この世の王は、武器を使って自分の力を誇示し、力によって自分たちの支配を確立しようとします。人々を支配し、時には戦争をして、武力で他の国々と戦います。当時、馬は、大切な戦力でした。馬は力強さ、武力の象徴でもあるのです。しかし、主イエスはここで馬ではなくろばにお乗りになったのです。馬とろばでは全く異なります。馬が、体が立派で人を乗せて早く走ることが出来るのに対して、ろばは、馬ほど大きくなく、力もありません。戦争の時にろばにのって戦うということはありません。馬が力強さの象徴であるのに対し、ろばは無力さの象徴と言って良いでしょう。しかも、ここでは、ただのろばではなく、「子ろば」とあります。主イエスは、大人が一人乗ったら今にもくずおれてしまいそうなひ弱な子ろばに乗って、よたよたとエルサレムにお入りになったのです。ここには、主イエスが、自分の力を誇示し、民に権力を振るう世の王とは異なることが表されているのです。

神の御心
この主イエスのエルサレム入城において、私たちが驚かされるのは、この出来事があまりにもスムーズに進んでいくことです。先ず、主イエスが、不自然な程に、状況を良く知っておられます。主イエスは、この時、初めてエルサレムに来られたのです。しかし、地理的なことや、どこにろばがつないであるかを既にご存じなのです。更に、弟子たちは表通りにつないであったろばをほどこうとすると、居合わせた人々が「その子ろばをほどいてどうするのか」と言います。弟子たちが、主イエスの言われた通りに話すと、許してくれたというのです。ろばは、当時の人々にとっては大切な財産の一つです。見ず知らずの人に、主がお入り用なのですと言われて簡単に貸すということは普通では考えられません。しかし、まるで、荷物を運ぶために台車を借りるかの如くに、簡単に貸してもらえるのです。これは、この出来事が父なる神様の御心であり、神がそのように導かれているということです。子ろばに乗っての入城は主イエスの御意志でありました。しかし、それは主イエスの意志であると同時に、父なる神の御心でもあったのです。又、救い主が、子ろばに乗って来ることは、既に旧約聖書の預言書に預言されていたことでもありました。ゼカリヤ書の9章には以下のようにあります。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。」。高ぶらない柔和な王がろばに乗って来ると言われているのです。軍馬や戦車ではなくろばに乗るというのは、高ぶらない、柔和さを示すものなのです。高ぶらない姿勢でへりくだった王である主イエスが、真の平和を実現することが見つめられているのです。主イエスのエルサレム入城は、この預言の成就なのです。

救いの計画
子ろばに乗るという、王でありつつも尚、謙った姿で、主イエスがエルサレムにお入りになるのは、神様の御心でありました。私たちは、ここに、神様の大きな救いのご計画を見ることが出来ます。なぜなら、そうすることによってしか、主イエスは、エルサレムに入ることが出来なかったとも言っても良いからです。もし、主イエスが、力強い姿で、権力を誇示しつつエルサレムにお入りになったら、それこそ、この世の権力であるローマの兵隊によって止められてしまったことでしょう。誰が見ても弱々しい、権力とは無縁の姿で来られたからこそ、エルサレムに入ることが出来たのです。
主イエスは、人間の支配の中に神の御支配を及ぼすために、謙った姿を取られることによって、エルサレムの中にお入りになったのです。私たちは誰しも、自分自身の支配を望んでいるところがあります。そのような意味で、皆エルサレムに生きる者です。神様の救いを求めつつも、心のどこかで自分の支配を望んでいます。神を礼拝しつつも、そこで、自分の栄光を求め、自分の思いを偶像として拝んでいるということもあります。もし力強い支配者として救い主が来たなら、私たちはそれを受け入れることは出来ないでしょう。しかし、主イエスは、そのような人間の下に、謙った姿で来られることによって、神様の支配を打ち立てて下さるのです。主イエスの御支配は、強権的に力を誇示するような形で行われるのではありません。自らの支配を確立し、自分と敵対する人々と戦い、打ち負かすことによって、人々の上に君臨しようというのでもありません。主イエスが王としてこられたのは、人間の支配を望む人々を支配する罪と戦われ、その罪に勝利することによって神の支配をもたらすためなのです。

十字架における戦い
主イエスはどのようにして、人間の罪と戦ったのでしょうか。それは十字架という仕方においてです。主イエスが、王として、私たちの罪と戦った場所が、このエルサレムで主イエスが磔にされた十字架なのです。それは、王には全く似つかわしくない犯罪人の姿です。エルサレムの人々は、主イエスが来たことを喜び「ホサナ」との叫びを上げた、僅か七日の後に、今度は、一転して「十字架につけろ」との叫びを発するようになったのです。エルサレムの人々は、確かに救い主を求めていました、しかし、心から主イエスの御支配に自らを委ねようとしていたのではありません。むしろ、自分たちが願っていた、政治的解放を求め、それを実現してくれる王として主イエスを迎えたのです。ですから、主イエスが自分たちの意に反して、力強い王ではないことが分かると、簡単に主イエスを見捨て、殺してしまうようになったのです。
一方の主イエスは、そのような人々に対して、少しも抵抗することはありませんでした。人々は、主イエスを十字架に付けて、「他人は救ったのに自分は救えない。イスラエルの王。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」と言いました。力強い姿を見せれば信じてやろうと主張したのです。しかし、主イエスは、力強い姿を示して、十字架から降りて来ることはありませんでした。抵抗したり、自分を助けようとすることもありません。主イエスがエルサレムに来られたのは、ご自身の力強さを示すのではなく、ご自身を犠牲として捧げて下さるためだったからです。主イエスは、武力や力で人々の上に君臨するために戦うのではなく、私たちの本当の敵である罪を滅ぼすために戦われる王なのです。

主イエスを王として迎え入れる
私たちは、救い主を求めつつ、尚自分の支配を望んでいることがあります。自らの心の中に、真の神が来られることを拒んでいることがあります。しかし、主イエスは、そのような、私たちの下に来られました。人間が自分が王となって、自らの支配を実現させようとしているエルサレムに、来られたのです。この世の王のように力強い姿ではなく、謙った高ぶらない姿で、来られるのです。神の支配ではなく、自らの支配を望むことによって神に敵対している私たちに神との平和という真の平和を与えるためです。
主イエスが、謙った、柔和な王として来て下さった。そのことによって、私たちの救いが成し遂げられたことを知らされる時、私たちは、自らが王として振る舞い、真の神さまの支配を望まずに、神様を拒んでいる自らの罪を知らされます。しかし、そのような罪が完全に赦されているということの中で、自らを悔い改めつつ、主イエスを王として迎えることが出来るのです。主イエスによって、神の救いの御支配が実現されているという恵の中で、「ホサナ」と叫びつつ、主イエスを自らの王、救い主として迎え入れ、主イエスの歩みに連なる者とされるのです。

関連記事

TOP