「神が結びあわせたもの」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 創世記 第2章18-25節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章1-12節
・ 讃美歌 ; 50、503
十字架を目前にして
マルコによる福音書にそって、十字架に向かって歩む主イエスの苦難の道のりを辿っています。10章の1節には、「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こうに行かれた」とあります。ユダヤ地方というのは、主イエスが十字架につけられるエルサレムがある地域です。続く11章には、主イエスのエルサレム入城が記されています。主イエスは、それまで活動されていたガリラヤを離れて、エルサレムに向かわれたのです。主イエスはガリラヤでは様々な御業を行われました。しかし、十字架が近づくにつれて、御業を行うよりもむしろ様々な教えを語られるようになります。どれも、世を去る前に語られた大切な教えであると言うことが出来ます。この10章においては結婚と離婚について、子供について、財産についてという三つの教えが語られていきます。どれも、私たちの生活に密接にかかわることです。そのような身近なことについて語る中で、主イエスは、福音の中心ともなる重要な教えを語られているのです。 ここでは、最初に語られているのは、結婚と離婚についての主イエスの教えです。これは、ファリサイ派の人々の問いかけに答える形で語られます。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。ここで問題となっているのは、夫が妻と離縁するという状況です。当時の社会では、夫は妻に対して圧倒的に強い立場にありました。そのため、夫のみが離婚する権利を持っていたのです。律法というのは、イスラエルに与えられた神様の言葉です。ファリサイ派の人々は、神様の教えによるならば、離婚は許されるのかどうかという疑問を投げかけたのです。
モーセは何と命じたか
ファリサイ派の人々に対して、主イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と言われます。モーセの律法にはどのように書かれているのかということです。当時、聖書と言えばモーセの律法を含む旧約聖書のことですが、主イエスは、ここで、聖書はそのことについて何と言っているのかと問い返されたのです。ファリサイ派の人々というのは、当時の宗教的指導者で、聖書を良く読み律法に精通していた人々です。自分たちは神様の教えを良く理解していると思っていた人々です。
では何故、律法に精通していると自負していたファリサイ派の人々は、主イエスに質問したのでしょうか。2節には「イエスを試そうとしたのである」、とあります。ファリサイ派の人々はしばしば、主イエスをためそうとして、質問をしたのです。
時には、主イエスの返答を聞いて、主イエスが真に尊敬に値するような律法解釈をする人物なのかを判断しようとしました。自分たちは既に、自分たちなりの律法解釈を持っていると自負していましたから、主イエスが、どのような教えを説くのか見てやろうという思いで、主イエスに問いかけるのです。
又、時には、主イエスを陥れようとしました。この時、主イエスの一行がおられたヨルダン川の向こう側という地方というのは、ヘロデ・アンティパスが支配していました。このヘロデは、自分の兄弟フィリポを離婚させ、その妻と結婚していました、マルコによる福音書の6章には、洗礼者ヨハネが、そのことを咎めたことが原因で首をはねられたということが記されていました。しかも、ヘロデは主イエスを洗礼者ヨハネの生き返りだと考えていたのです。つまり、ヘロデの支配圏であるこの場所で、主イエスが離婚してはいけないということは、特別な意味を持っていたのです。もし離婚は許されていないと語れば、場合によってはヘロデに目を付けられかねません。
いずれにしても、試そうとして、主イエスに問いかける時、人々の中に、主イエスから御言葉を聞いて、それに従っていこうという思いはないのです。ここで問題になっている結婚や離婚についても、主イエスの言葉に聞き従おうという思いで問うたのではありません。
主イエスは、そのような人々の思いを知っていたのでしょう。主イエスは、あなたがたが日々読んでいる聖書は何と言っているのかと問い返されたのです。
律法に書いてあること
これに対して、ファリサイ派の人々は、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。彼らが、このように答えたのは、申命記の第24章1~4節に記されている教えに注目したからです。そこには再婚についての規定が示されていて、1節には次のようにあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し家を去らせる」。これは、妻に「恥ずべきこと」があった時の夫の離婚を認める規定です。ここで夫の離婚事由となる、「恥ずべきこと」については、様々なことが言われます。「不貞行為」を指すと言う人や、「夫が別の女性を好きになった場合」、「料理を焦げ付かせた場合」等を主張する人もいたようです。先ほども述べたように、当時離婚というのは、夫にのみ認められていたのです。ここで、「離縁状」を書くという条件が付けられているのは、離縁状があることによって、その女性は再婚することが出来たからです。律法の中に、このような離婚や再婚について定めた規定があることから、離婚することは律法に適っていると主張したのです。
ファリサイ派の人々は離婚の正当性を主張するためにでもなく、離婚について悩む人を慰めるためにでもなく、ただ主イエスを試すという理由で問うているのです。自分の主張に合う聖書の教えを取り出して、聖書は離婚を許しているのだという主張を主イエスに投げかけたのです。この時のファリサイ派の人々のようなことは、しばしば、起こることです。聖書の言葉を表面的に捕らえ、それを掲げて、自分の主張をするのです。ところが、主イエスは、この答えに対して「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言われます。この掟は、人々の頑固さの故に書かれたものであり、本質的なことを語っている掟ではないというのです。
天地創造の初めから
一方、主イエスは、6節~8節で次のように言われます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」。ここで、主イエスは、先ほどお読みした旧約聖書、創世記第2章24節に記された御言葉を取り上げます。この創世記の2章には、人間が男と女に創られたことの意義が記されています。最初の人アダムを創られた神は、18節にあるように、「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。ここで「彼に合う助ける者」というと、一方的に仕えるヘルパーのようなものを想像するかもしれません。しかし、ここで言われている、「彼に合う助ける者」とは、向かい合って、助け合いつつ共に生きていく者、パートナーを意味します。主なる神は、あらゆる動物を形づくり、人のところに持って来ます。しかし、彼は、その中に、「彼に会う助ける者」を見出すことは出来ないのです。そこで、主なる神は、人のあばら骨から女を造り上げられ、人のところに連れて来られるのです。そうすると、人は「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言うのです。これは、男女の間に上下関係があることを示すものではありません。男性にとって女性が、他の動物とは決定的に違って、自らと同じものであり、共に向かい合い助け合って行くものであることが語られているのです。そして、男性にとっての女性がそうであるのと同じように、女性にとって男性もそのようなものであるのです。天地創造の初めから、神は人を男と女に創造され、そこで、お互いに向かい合って生きる者として主が合わされたものであることを見つめているのです。同等の男と女が父母を離れて一つのものになっているのが結婚なのです。ここで一体となると言われているように、夫婦の全人格的な結びつきが見つめられているのです。一方が一方の家のものになるのではありません。自立した二人の男女が一つとされるのです。ファリサイ派の人々が、離婚と再婚について語る律法の教えに注目し、離婚は許されているという主張をしたのに対して、主イエスは、創造物語の記述から、結婚の本質とは何かを示しておられるのです。
教会との関係
エフェソの信徒への手紙第5章には結婚についての教えが記されています。そこでは、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言われ、夫婦の関係が、キリストと教会の関係になぞられて記されています。結婚というのは、夫と妻が、教会の人々がキリストに仕えるように仕え、又、キリストが教会のためにご自身を与えて教会を愛されたように愛するということなのです。その上で、31節以下には、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」と語られているのです。つまり、夫婦は、キリストと教会が愛によって一つとされているのと同じように、一つであるというのです。教会がキリストの体の部分として、キリストに仕えていくように、又、キリストが、十字架で命を捨ててまで人々を愛することによって、教会と一つとなって下さったように、夫と妻も一つとなるのだと言われているのです。そして、そのような関係は人間が自分の思いで造り出すものではありません。アダムの下に神が女を連れてきたように、神が結び合わせて下さったものなのです。それ故、その関係を人間の思いによって壊すことは許されないのです。そこでは、互いに忍耐して、すべてを捧げて仕え、又、相手のことを自分自身を与えて愛する関係が生まれるのです。夫婦の関係は、教会がキリストを頭として仕える時の奉仕とキリストが教会を愛し自らを与えた時の愛を示して行くものなのです。ですから、主イエスは11節以下で、弟子たちに対して、次のように言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も姦通の罪を犯すことになる」と語られるのです。夫であれ、妻であれ、離縁して、再婚する者は、姦通の罪を犯すのだというのです。
教えに対するとまどい
わたしたちは主イエスの教えを聞いて、少なからず戸惑いを感じるのではないでしょうか。主イエスのこのような教えを、素直に聞くことが出来ないでいるのではないでしょうか。離婚に関する教えだけではありません。主イエスが語られる教えは、時に、このような反応を生むのです。本日の箇所の直前には、「つまずき」に関しての主イエスの教えが語られていました。「小さな者の一人をつまずかせる」者は、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに良い」と語られ、又、自分の片方の手や足がつまずかせるならば、それを切り捨て、片目がつまずかせるならえぐり出しなさいと語られているのです。
わたしたちはこの世での生活の中で、離婚をせざるを得ないという状況になることはあります。このことは、キリスト者であっても、又、伝道者であっても例外ではありません。実際に離婚を経験し、再婚する人もいます。そして、そのような人間の愛の破れから主に対する深い信頼を与えられて信仰が深められる人がいることも事実です。又、たとえ、実際に離婚ということに至らなくても、自らの結婚生活が、キリストと教会の間を結んでいる愛によって結ばれていると言えるような人はいないのではないかと思います。結婚の関係に限られずとも、日々人間の愛の限界を実感するのではないでしょうか。又、わたしたちは、信仰を与えられて歩む中で、つまずきを与え、又、自らつまずくことから決して自由でありません。そのようなわたしたちの現実を顧みる時に、離婚して再婚することは、姦淫の罪であるとか、つまずかせるならば手や足を切り離せという厳しい御言葉は、わたし達にためらいを生むのです。悪くすると、主イエスの教えが、実生活と離れたお題目のようになってしまうことすらあるのです。
福音として聞く
大切なことは、この御言葉を律法として聞かないということです。わたしたちの内に起こる、主イエスの教えに対するとまどいは、主イエスの教えを律法として聞いてしまう時に起こります。それは、この時のファリサイ派の人々の聖書に対する姿勢に現れています。ここで、主イエスを試そうとして、聖書の文言を表面的に捕らえて、自らの主張をしたファリサイ派の人々の態度の中には、福音を律法として聞く時の態度が現れていると言っても良いと思います。人生においてぶつかる、様々な倫理的判断において、それに対して、聖書が許すことはどこまでのことかということを問うのです。そこで、聖書の言葉を自分なりに解釈して、それを守ることによって救われる律法にしてしまうのです。そして、そのような態度で聖書に接する時というのは、たいてい、自ら自分を裁く時であったり、自分の周りの隣人の罪を神に変わって裁こうとする時あったりするのです。そのように聖書を読む時に、表面的には、聖書に立脚しているように見えていても、福音の本質とは全く異なる結果を生んでしまうのです。
心の頑なさ
主イエスは、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言われます。ここで、言われている心の頑なさとはどのようなものなのでしょうか。結婚ということにおいて、そこにある、神様の御心を見出すことが出来ずに、御心に適うような男女の結婚関係を維持していくことが出来ないということが見つめられていると言うことが出来ます。しかし、それを更に勧めて、この頑なさとは、根本的には、神の言葉を素直に受け入れることが出来ないということです。この後、子供に関する教えが続いていきますが、そこで、主イエスは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と教えられています。わたし達は、神様の御支配を語る御言葉を受け入れることができない者です。時に、裁くための律法として御言葉に接し、又時に、御言葉に聞こうとの思いではなく、主イエスの語られることを試しに聞いてやろうという思いで御言葉に接する。そのような姿勢にも、主イエスが語る、頑なさがあるように思います。そのような頑なさの中で、自分の主張に合う聖書の箇所を引いてきて、自分勝手に御言葉を利用してしまう。自分の主張をもって、自分の思いを擁護し、自らの思いを成し遂げるために聖書の言葉を解釈するのです。その結果、御言葉が語る福音の本質を受け入れて、そのことに生きることから離れてしまうのです。
主イエスの赦しから
この頑なさから自由ではないわたし達が常に立ち返るべきことは、そのような私たちの頑なさのために主が十字架に架かられたということです。このように、様々な教えを語られた主イエスご自身が、自ら、頑なさの中にある、人々の罪を担うために、十字架に向かって歩まれているということです。主イエスの語られる教えは、十字架の主イエスのお姿と切り離して聞くことは出来ません。主イエスの十字架の赦しを受け入れることなく、御言葉に接するのであれば、たちまち、聖書の御言葉を自分や隣人を裁くためのものとしてしまうでしょう。もしくは、高尚な倫理を語った実生活とは無縁なお題目にしてしまうことでしょう。主イエスによってのみ与えられる赦しを受け入れつつ、語られる教えを聞くときに、自らの罪深さを知らされて、主イエスがこの頑なな自分のために、いかに大きな犠牲を払って下さったかを知らされるのです。そこで真の悔い改めを持って、新たに主イエスの教えに聞いていく者とされるのです。そのような時、主イエスの教えは、私たちが、自らの正しさを主張するために用いられるものでも、他者を裁くために用いられるものでもなく、私たちを、神様の愛を示す歩みへと導くものとなるのです。そして、主イエスの、自分を与えることによって示された十字架の愛を受け入れるところから歩み出す時に、結婚という関係においても、お互いに、この愛に生きつつ、一つのものとされていくのです。そのようにして、キリストと教会が一つであるように、愛によって結ばれて行くのです。