夕礼拝

まだ悟らないのか

「まだ悟らないのか」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エレミヤ書 第5章20-25節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第8章1-21節
・ 讃美歌 ; 298、505

四千人の給食
 本日の箇所には主イエスが四千人の人々を七つのパンと少しの魚で満腹にされたという出来事が記されています。ご自身の周りに集まってくる人々を座らせ、感謝の祈りを捧げて、パンを裂き、弟子達に配らせる、讃美の祈りを捧げて、小さい魚をわけて配らせたのです。そのことによって人々は満腹し、残ったパン屑を集めると七籠になったというのです。主イエスがこのような業をされたのは二度目です。6章の30節には五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたことが記されています。主イエスは繰り返し、食べ物を分け与えて群衆を養われる奇跡をなさったのです。この出来事の直前には主イエスがデカポリス地方で耳が聞こえず舌の回らない人を癒されたという出来事が記されています。それに続いて「そのころ」と記されていますから、この出来事は、デカポリス地方でなされたことであると想像出来ます。この地方はユダヤ人ではなく異邦人の住む地域です。主イエスは異邦人の間でも、パンの奇跡を行われたのです。以前、五千人に食べ物を与えたのは、ユダヤ人の住む地方においてでした。その時と全く同じように、人々を満たして下さったのです。二つの記事の間、7章24節以下には、異邦人であるシリア・フェニキアの女の願いを聞き入れて、悪霊に取りつかれた娘を癒されたことが記されていました。この女は、主イエスに願い出たとき、「子供のパンを小犬にやってはいけない」と断られます。しかし、引き下がらずに、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と主イエスに頼むのです。主イエスはそれに対して、「それほど言うならよろしい」と語り、娘を癒されたのでした。本日の箇所は、こぼれ落ちるパン屑どころではなくユダヤ人の間で行われたパンの奇跡が、異邦人の間でもなされるのです。主イエスによっての神様の恵が徐々に溢れ出し、広がっていくのです。しかも、今回の出来事が前回とは異なる点は、主イエス自ら、人々の空腹に思いを向けられたということです。ユダヤ人たちの中で食べ物を分けられた時は、弟子たちが、群衆のことを気遣い、「人々を解散させて下さい」と主イエスに進言したのです。しかし、この時は、主イエスの方が弟子たちを呼び寄せます。そして、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と言われているのです。主イエスご自身が、異邦人の間で食事を整えることを望んでおられたのです。残ったパン屑を集めると七籠になったことが記されています。七というのは完全数を表しています。これは、世界の至る所に主イエスの恵が満ちあふれることを記していると言っても良いでしょう。主イエスは繰り返し、御業を行われることによって、主がこの世で恵を満たしておられること、しかも、その御業が豊かにされて世界全体に広がっていくことを示されるのです。

パンを忘れた弟子たち
 このような恵の御業をなされる一方で、本日の箇所の最後19節以下には、弟子たちに対して、呆れ果てている主イエスのお姿があります。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子達は『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』『七つです』と言うと、イエスは『まだ悟らないのか』と言われた」。主イエスの溢れ出る恵が示されている二つのパンの出来事に触れた弟子たち、しかも、配るという仕方で、その恵に携わっている弟子たちが、そこに示されている主イエスの恵を理解していなかったのです。弟子たちは、集まったパン屑が何籠になったかを正確に覚えています。そこで起こっている出来事は認識しているのです。しかし、その驚くべき事実を前にしても、その主イエスの御業によって示されている恵が分からなかったのです。主イエスの恵に対して無理解のままなのです。 この主イエスの御業を理解しない弟子たちの具体的な姿が、14節以下に記されています。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」とあります。主イエスが四千人の人々に食べ物を与えられた記事の後、11節以下には主イエスとファリサイ派の人々とのやり取りが記されています。主イエスを試そうとして天からのしるしを求めたファリサイ派の人々に対して、主イエスは、嘆きつつ、「今の時代の人々にはしるしは決して与えられない」と言われたのです。この議論の後に、湖を渡る主イエスと弟子たちの間でなされたやり取りが記されるのです。この時、弟子たちは、湖を渡るのに、食料を忘れてしまったのです。舟に何人の人が乗っていたのか定かではありません。しかし、少なくとも主イエスと12人の弟子の13人は乗っていたことでしょう。もし、嵐に遭って漕ぎ悩んだとしたら、空腹のまま嵐と格闘しなくてはなりません。これは人間的に見れば、致命的なミスです。一番忘れてはいけないものを忘れてしまったと言っても良いでしょう。おそらく、舟が沖に漕ぎ出した時に気づいたのでしょう。もう引き返すことも出来ません。弟子たちの心の中は「なんということをしてしまったのか」との反省と後悔の思いで満たされていたことでしょう。失敗をした時というのは、「そこからどうするか」と先のことを考えるよりも、「どうしてこんなことになってしまったのか」と後悔することの方が多いものです。はっと気がついて、自責の念に駆られたかもしれません。又、どうしてこのようなことになったのかを論じ合い、責任を押しつけ合ったりもしたかもしれません。

悟らない弟子たち
 しかし、この時、主イエスが語られたことは、パンを忘れたということとは全く異なることです。15節には、「そのとき、イエスは『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」とあります。主イエスは、パンを忘れて、食べる物がないという事態を前にして、弟子たちの不注意を責めているのではないのです。むしろ、パンを忘れたことについての弟子たちの反応を見て、ファリサイ派とヘロデのパン種に注意をするようにと言われたのです。 この主イエスの御言葉を聞いて弟子たちは、「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」と論じ合います。これは甚だしい勘違いです。主イエスが語られたことを、全く異なった意味に聞いてしまったのです。聞き違いという程度のことではありません。主イエスが語られたことと弟子たちが聞いたこととの間には、ただ「パン」ということだけしか共通することはありません。ほとんど主イエスの語られたことが聞かれていないと言ってもいいのです。ここを読みますと、どうして、このような勘違いをするのかとの思いがします。しかし、実際、私たちは、このような勘違いをしていることが多いように思います。自分自身の欠けや欠点にのみ目が行き、誰もそれを咎めていないのにもかかわらず、自分勝手に、そのことが責められていると思ってしまうということがあります。自らの中にある裁く思いが、語られる言葉を全く違った意味に聞いてしまい、裁かれていると感じてしまうのです。主イエスが語られる御言葉すらも、自身を裁くものにしか聞こえてこないのです。弟子たちは、自分たちのした失敗にだけとらわれ、そのことで一杯になっていました。そのため、主イエスが語られたことを聞くどころか、主イエスは、自分たちがパンを忘れて、パンが一つしかないということを問題にし、責めていると勝手に思いこんでいるのです。 そもそも、ここで、主イエスにとって、パンが一つしかないということは重要なことではありません。五つのパンで五千人を、七つのパンで四千人を養われる方なのです。そして、その恵の御業を弟子たちも体験しているのです。ですから、このことを考えれば、主イエスが共におられるということの前で、一つのパンしか持ち合わせていないということは大きな問題ではないことは、弟子たちにも分かっても良いのです。しかし、弟子たちは、このことを大きな問題として捉え、主イエスが共にいるにも関わらず、パンが一つしかないという事態に心を煩わせているのです。又、そのような事態に直面して、主イエスの語られることを聞くことが出来ずに、自分たちを裁いているのです。

ファリサイ派とヘロデのパン種
 ここで、主イエスが注意するようにと言われたのは、ファリサイ派とヘロデのパン種です。ファリサイ派というのは、信仰熱心な人々です。律法を厳格に守る生活をし、そのことによって自分たちは救われるのだと思っていました。自分たちこそ、神様の救いのことが分かっていると思っていたのです。11節には、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。自分たちの目は見えているし、耳は聞こえていると思っているからこそ、主イエスをためすのです。「天からの御業」と言われていますが、主イエスに向かって、何か人間離れした業を見せてみろと言うのです。その業を自分たちが判断して、信じるに値するものであれば信じてやろうと言うのです。この人々は、律法を守ることに必死になり、律法に対する違反を厳しく裁いていました。自ら罪を裁く裁き主として振る舞っていたのです。 一方、ヘロデというのは時の領主です。第6章には、このヘロデが、兄弟の妻ヘロディアとの結婚を非難していた洗礼者ヨハネの首をはねさせたことが記されていました。彼は当時ユダヤを支配していたローマ帝国と妥協し、その権威にすがることによって権力をほしいままにしていたのです。自分の力を誇示し、思いを成し遂げるためには手段を選ばない、現実主義者の代表と言っても良いでしょう。主イエスは信仰者の生活において、ファリサイ派の信仰の熱心さから生まれる律法主義と、ヘロデの世に迎合して世俗的なことにのみ関心を払って生きる現実主義に気をつけるようにと言われているのです。「パン種」というのはごく少量であっても、パン生地に混ざると、パン全体を大きく膨らませます。この律法主義と現実主義は、信仰者の歩みの中に入ってくると少量であっても全体に影響を及ぼすのです。その勢いは、私たちにとって、主イエスがパンの奇跡で示されているような恵の広がりにも勝るとも劣らないものなのです。 そして、これらのパン種による影響は、主イエスの恵が分からないということと密接に関連しています。パンの出来事に示された、主イエスの恵が分からない時、神様によって生かされていることを感じることが出来ずに、人間の知恵に頼み、狡猾にこの世を歩もうとするようになるのです。そこでは、本当に命を与え生かして下さる神様に頼ることをせずに、神様以外の様々な物のみに頼って歩むようになります。又、自分の思いをなすためには手段を選ばないということも起こって来るのです。更に、主イエスの恵が分からない時、自分が赦されていることがわからないために、自らの業によって救いを得ようとし始めるのです。そのような中で、自分の過ちを裁いたり、隣人を裁く思いに捕らわれるようになるのです。

恵が分からない中での弟子達の姿
 主イエスがこのような忠告をなさったのは、この時のパンを忘れた弟子たちの中に、まさに、このファリサイ派とヘロデのパン種が入って来ようとしていたからに他なりません。弟子たちは、主イエスが五千人、四千人の人々を満腹させるという恵の御業を示されたにも関わらず、そのことを理解できませんでした。そのような中で、自分たちが一つのパンしかもっていないという現実に思い煩わされています。主イエスが共におられるにも関わらずパンが一つしかないことを心配し、心煩わせています。このことの背後には、本当に生かし、導いて下さる主イエスの養いを忘れ、ただ自分たちが所持しているパンの量だけでしか事態を判断しない、弟子たちの現実主義的な生き方が現れています。又、弟子たちは、パンを忘れたことで心が一杯に成ってしまう中で、勝手に、主イエスは自分たちがパンを持っていないことを戒めていると勘違いしています。心の中で、自分自身の過ちを先走って裁いているのです。自ら善悪を判断し、裁き主になって裁いているのです。ここには、弟子たちの律法主義的な姿勢が現れています。 主イエスは、弟子たちが問題にしていた「パンが一つしかない」ということと、自分で自分裁いていていた「パンを忘れた」ということを全く問題にしていません。むしろ、そのような事態に対する弟子たちの振る舞いを問題にされているのです。人間的に困難な状況、又、自身の欠点や失敗に直面した時ほど、私たちが何によって生きているのかということが明らかになることが多いものです。そのような中で、主イエスが示されている恵によって生かされているよりも、ファリサイ派やヘロデの思いに縛られている姿が明らかになるのです。

私たちに示されるしるし
 主イエスは、12節で、自らを試すファリサイ派の人々に、「どうして今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と語られます。ここで、「今の時代の者たち」というのは、特定の時代を生きている人々を指しているのではありません。神の恵を知ることが出来ず、神を試している人々のことが見つめられているのです。そのような人々は、主イエスが世に来られる以前もいました。又、主イエスが天に昇られ、地上を歩まれていない現在を生きる私たちの現実でもあるのです。主イエスは、ここで「しるしは与えられない」と語っています。しかし、主イエスは何もなさらなかったのではありません。パンの出来事に示されているように、ご自身の恵を示す御業を繰り返し示しておられるのです。ファリサイ派の人々がそのことを理解していないだけなのです。ここで、しるしが与えられないというのは、神をためそうとしても、それに応じるような形でしるしが示されることがないということなのです。主イエスは、すでに御業によって恵を示して下さっているのです。 主イエスはファリサイ派の人々が、議論をしかけた時、心の中で深く嘆かれたことが記されています。主イエスの恵が分からずに、ご自身をためそうとする人々の現実を嘆いておられるのです。直前の箇所で、耳が聞こえず舌が回らない人を癒された時に、主イエスが深く息をつかれたことが示されていますが、その時のため息と同じ息をここでもつかれたのです。「呻く」というニュアンスもある言葉です。主イエスは、目があっても、主イエスの御業を見ることをせず、耳があっても、主イエスの御言葉を聞かない人間の罪を前に、呻くようにして苦しまれているのです。主イエスの恵による救いの御業が進められている。しかし、人々はそれを悟らない。そこに苦しみがあるのです。主イエスの十字架は、このような苦しみそのものであると言うことが出来ます。主イエスのことを理解しない人々は、その無理解の中で、最終的に主イエスを十字架につけます。そこでも、人々は主イエスを試します。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう」とののしったのです。 しかし、この主イエスの苦しみこそ、私たちに示されるしるしなのです。なぜなら、十字架で、苦しまれ身を裂かれた主イエスが罪に支配された者の身代わりとなって下さっているからです。主イエスの苦しみによって、私たちは、私たちを縛る罪から贖われ、主が与えて下さる命に生かされるものとなるからです。この十字架を思い起こすたびに、ご自身の御体を裂いてまで、私たちを生かそうとして下さる主イエスの恵を知らされるのです。

おわりに
 私たちは、主イエスに従いつつ歩む中でも、ファリサイ派とヘロデの思いに縛られていることが多い者です。 主イエスによって示される恵に目を向け、その恵によって生かされていることに思いを向けるよりも、自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。本当に信頼すべきものに頼ることが出来ないのです。又、恵による罪の赦しを悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうことがあります。 そのような恵を理解せず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者に、主イエスが十字架で苦しまれているのです。その御苦しみに示されている、主イエスの恵を受け止める中で、真に赦された者として歩むようになるのです。主イエスが苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵に感謝しつつ、その恵に生かされる者となるのです。そして、そのことに満ち足りる時に、私たちは、信仰生活の中での現実主義からも律法主義からも解放されて、主によって生かされる喜びに満たされて歩む者とされるのです。

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