主日礼拝

家族を救えるか

「家族を救えるか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第17章1―8節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第7章8-16節
・ 讃美歌 ; 296、152、392

結婚についての教え
 コリントの信徒への手紙一の第七章の中心テーマは、結婚についてです。コリント教会からパウロのところに、結婚を信仰においてどのように受けとめ、考えたらよいか、という問い合わせがあり、それに答えているのです。教会にはよく、結婚式をしてくれないか、という問い合わせが来ます。世間の人々の間には、結婚式は教会でしたい、という思いがあるようです。その教会の信仰において、結婚はどのような意味を持っているのでしょうか。そのことが、この第7章に語られているのです。
 前回読んだ7章1~7節に、結婚についての基本的な考え方が示されていました。本日の8節からのところには、今度はいろいろな具体的ケースにおける教えが、つまり未婚者とやもめの場合、既に結婚している人の場合、またその結婚において、片方だけが信者である場合というふうに分けて語られています。まず未婚者とやもめ、つまり今独身である人々の場合ですが、この人々に対しては、8節に「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」と言われています。この手紙を書いているパウロは独身でした。ただし、もともとそうだったのかについては、疑問もあります。パウロは以前は、ラビと呼ばれるユダヤ教の教師でした。ラビは結婚しているのが当たり前です。ですから彼はもともとは結婚していたのではないか、しかし妻が早くに死んで男やもめになっていたのではないか、あるいは、本日のところに書かれているケースのように、彼がキリストを信じる信仰者になったことによって、妻はもはや彼と共に生きることを望まず、去っていったのかもしれない、と想像することもできるのです。しかしいずれにしても、今彼は独身です。その自分と同じように、今独身である人は独りでいるのがよい、と教えているのです。けれども9節には、「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」とあります。独身でいる方がよいが、しかしどうしても自分を抑制することができず、性的欲望が内に燃え上がって、みだらな行いに陥りそうになるならば、むしろ結婚した方がよい、と言うのです。ここを読むと、パウロにとって、結婚は、なるべくしない方がよいが、やむを得なければ仕方がないから認める、というものであるように思えます。しかしこのことについては、1~7節についての説教において、それはパウロの本当に言おうとしていることとは違う、と申しました。1~7節は先程申しましたように、結婚についての基本的な考え方を語っているところですが、その1節にも「男は女に触れない方がよい」とあり、結婚は基本的にしない方がよいと語られているように思えます。そして2節には「しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」と言われているので、結婚はやはり「みだらな行いを避ける」ための必要悪のようなものだと考えられているようにも思えます。しかし、そのような結婚理解は、旧約聖書創世記第2章にある、神様が人間を男と女とにお造りになり、男女の結婚を祝福して下さっているという聖書の根本的な結婚理解と矛盾します。そしてパウロが2節以下で教えていることも、むしろ結婚を積極的に勧め、そこにおける夫婦の肉体的な交わりを大切にしなさい、ということなのです。ですからパウロはここで決して、結婚や肉体的な関係を悪とみなし、しない方がよいと言っているわけではありません。それでは1節の「男は女に触れない方がよい」という言葉はどうなるのか、ということになりますが、これは、先々週申しましたように、パウロの言葉ではなくて、コリント教会において言われていたことだと考えることができます。つまり1節は、「そちらから書いてよこした、男は女に触れない方がよい、ということについて言えば」と読んだ方がよいだろう、と思われるのです。

神が結び合わせてくださった
 このようにパウロは、基本的に結婚を重んじ、夫婦の関係において、お互いが、肉体的な交わりをも含めて、務めを果たすようにと教えています。本日のところにおいてもそれが言えます。10節以下は、既婚者、結婚している人に対する勧めですが、そこには、妻は夫と別れてはいけない、夫は妻を離縁してはいけない、と教えられています。結婚している人は、独身に戻ろうとするな、というのです。結婚が悪であって、独身であることの方が信仰的によいならば、むしろ離婚を勧めたらよいわけですが、そうは言っていないのです。むしろ、10節に「こう命じるのは、わたしではなく、主です」とあるように、離婚の禁止は主イエス・キリストご自身の命令なのだ、と言われています。そこで意識されているのは、マルコによる福音書10章2節以下の主イエスの教えでしょう。そこにおいて主イエスは、旧約聖書の律法には、夫は離縁状を書いて渡せば妻を離縁できると書かれているが、そのように離婚を認めた掟こそ、人間の罪に対するやむを得ない妥協だったのであって、本来の神様のみ心はそうではない、と語られたのです。そしてそこに、結婚式の宣言において語られる「神が結び合わせてくださったものを、人が離してはならない」という言葉があるのです。この主イエスの教えからは、結婚がやむを得ない必要悪である、というような考え方は決して出てきません。結婚は、むしろ神様が二人を結び合わせ、一体として下さることであり、そこには神様の祝福があるのであって、人間はその神様のみ心を大切にすべきであって、万やむを得ない場合以外には結婚を解消してはならないのです。パウロはこの主イエスの教えに基づいて語っているのです。

信仰のゆえに離婚するな
 12節以下には、夫婦の片方だけが信者である場合のことが教えられています。そこでも、信者である夫あるいは妻が、信者でない妻あるは夫と、信仰のゆえに離婚してはならない、と教えられています。信仰を共にすることができなくても、相手が共に生きることを望んでいるならば、別れてはならない、しかし自分の信仰のゆえに相手が去っていくならば、その場合には離婚することも仕方がない、と言われているのです。そこに示されている基本的な姿勢は、信仰者が、信仰のゆえに結婚を軽んじたり、それを解消しようとすることがあってはならない、ということです。当時実際にそういうことがあったのです。魂のみを価値あるものとし、肉体における事柄を軽んじるグノーシス主義という思想の影響によって、結婚や、そこにおける肉体的関係を無価値なことと考え、それを避けて、できれば結婚を解消することこそが信仰に生きる道だと考えるような人々、つまり「男は女に触れない方がよい」と言う人々がコリント教会の中にいたのです。そのような風潮に対してパウロは、それは正しい信仰のあり方ではない、と言っているのです。キリストを信じる信仰者は、結婚を、たとえそれが信者でない人との結婚であっても、決して軽んじたり、解消しようとしたりするべきではない、というのがパウロの教えです。ついでに言えば、この12節以下の教えについては、先程の10節とは違って、これは「主ではなくわたしが言うのですが」という但し書きがつけられています。この教えに関しては、主イエスのお言葉にそのようなことが語られていたわけではない、そういう意味ではこれは、パウロの考えだ、ということを認めているのです。パウロはこのように、主イエスご自身が語られたことと、自分の考えとをはっきりと区別しています。自分の考えをキリストの権威を借りて語ろうとはしていないのです。しかしそれは、だからと言ってパウロの教えはどうでもよい、軽いものだ、ということではありません。パウロは主イエス・キリストとの出会いによって使徒として立てられ、福音を宣べ伝えるために遣わされています。その使徒として、主イエスのお言葉に直接はなかったことを判断して教えているのです。パウロが今見たように主イエスご自身の言葉と自分の言葉をはっきり区別しているがゆえにこそ、彼が使徒として判断して語っていることを、私たちはしっかりと受けとめ、尊重するべきなのです。

今の状態にとどまる
 このように、本日の箇所においても、パウロが教え、勧めていることの中心は、結婚を重んじるべきことです。結婚は決して、やむを得ない必要悪などではなく、神様の祝福を受ける歩みなのです。そうであるならば、先ほどの8節の、未婚者とやもめに対する「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」という教えはどのように受けとめたらよいのでしょうか。実はこの文章は、直接的には「独りでいる」ことを勧めているものではないのです。ここを直訳するとこうなります。「彼らはそのままに留まるのがよい、私のように」。つまり勧められているのは、「私のようにそのままに留まる」ことです。パウロは独身であり、独身に留まっているわけですから、内容的には独身のままでいることが勧められています。しかしそれは独身の勧めというよりも、「今あるがままに留まる」ことの勧めなのです。そのことを意識して本日のところを読み返してみると、パウロの教えは一貫していることがわかります。独身の者には、独身のままで留まれと言われており、結婚している者には結婚している状態に留まれと言われているのです。この「今あるままに留まれ」ということが、この第7章を貫いているパウロの教えです。そのことについては、17節以下についての説教において触れることになりますので、本日はそのことを指摘するだけに留めておきたいと思います。本日のところで確認しておくべきことは、パウロは、独身の者には独身でいることを勧めているけれども、それは、独身の方が信仰的により優れたことだからではないということです。どちらがより優れているということを言っているのではなくて、独身の者にも結婚している者にも、今の状態に留まっているのがよい、と勧めているのです。

未信者の妻や夫
 未婚の人が、未婚の状態に留まっているのと、結婚するのとではどちらがよいか、という問題については、25節以下に改めて詳しく語られていきます。ですからそのことはそちらに譲るとして、ここでは、既婚の人、特に、信者でない妻を持つ夫、信者でない夫を持つ妻についての勧めをさらに見つめていきたいと思います。初代の教会の時代には、そのようなケースが沢山あったのです。そしてそれは、今日の日本の教会における私たちの状況でもあります。夫婦の片方だけが信者である、というケースが、私たちにおいても非常に多いわけです。それゆえにここに語られていることは、私たちにとって非常に身近な、切実な問題であると言えるでしょう。

信仰こそ土台
 ここにおいて見つめられている第一のケースは、信者でない相手が、そんな信仰を持っている人とはとても共に生きられないと言って去っていく、という場合です。それが15節の「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません」ということです。信者でない相手が、キリストを信じている者などとは共に生活できない、と言って去っていくなら、それは去るに任せよ、つまり別れなさい、ということです。信仰者が信仰のために自分から結婚を解消してはならない、とパウロは教えていますが、信仰と結婚生活とのどちらを取るか、という二者択一の状況に置かれたならば、信仰をこそ取るべきだ、と言っているのです。相手が、信仰者とは共に生きられないと言って去っていくなら、その結婚を維持するために自分が信仰を捨てるということがあってはならないし、そもそもそんなことは不可能なのです。信仰は、神様が自分を選び、救いを与えて下さったということですから、自分の都合で持ったりやめたりできるものではありません。「信仰を捨てる」という言い方がありますが、信仰は、捨てたり拾ったりできるものではないのです。私たちは、信仰と結婚とのこの基本的な関係をしっかりとわきまえておかなければなりません。信仰という土台の上に結婚が位置づけられるのであって、その逆ではないのです。信仰という土台があってこそ、結婚は、信者でない人との結婚であっても、しっかりと位置を持ち、支えられるのです。しかしもしも結婚を土台にしてその上に信仰の居場所を確保しようとするならば、それは本末転倒です。それは小さいものの上に大きいものを乗せようとするようなもので、上に乗せたものはころげ落ちてしまうのです。

聖なる者とされている
 信者でない夫や妻が、離れていくのではなく、一緒に生活を続けたいと思っている場合、それがもう一つのケースです。そしてこちらの方が私たちにとって身近なことでしょう。その場合には、勿論離婚してはならない、と教えられているわけですが、それは、信者でない相手との生活をただ忍耐しなさいということではありません。14節に語られていることが大事です。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」。信者でない夫や妻は、信者である妻や夫のゆえに聖なる者とされている。ここで注意しなければならないのは、「聖なる者」という言葉の意味です。それを、「清く正しい」というふうにとってしまうと、信仰者は清く正しい者だが信仰を持っていない人は清くない、正しくない、ということになります。それは信仰者の傲慢というものです。信仰者が、そうでない人と比べてより清く正しいなんていうことはありません。信仰者でない世間の人々の中に、私たちよりよほど立派で清く正しい人はたくさんいるのです。「聖なる者」という言葉の聖書における意味は、清く正しいということではなくて、神様のものとされている、ということです。神様のみ手の内にある、と言ってもよいでしょう。信仰者は、自らの清さによってではなく、神様のものとされたことによって「聖なる者」なのです。信者でない夫や妻が、信者である妻や夫のゆえに聖なる者とされている、というのも、そういう意味で理解しなければなりません。つまりこれは、信仰者の清さが結婚相手にも伝わっていくというようなことではなくて、私たちをご自分のものとし、み手の内に置いて下さり、聖なる者として下さった神様の力、働きが、私たちを通して、まだ信者でない妻や夫にも及んでいる、神様がその人々をもみ手の内に置いて下さっている、ということです。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」というのはそういうことなのです。そのような神様のお働きがあるのだから、与えられている結婚生活を大事にして、信者でない夫や妻と共に生きる歩みを大切にしなさい、と教えられているのです。その神様のお働きを強調するために、パウロは14節後半でさらに、子どもたちのことを語っています。「そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です」。この「汚れている」も、何か特別に汚れた罪深い子供たちがいるという話ではなくて、「聖なる者」でない、つまり神様のものとされていないことがこのように言い表されているのです。片親のみが信者である両親の子供は聖なる者でないのか、いや彼らも聖なる者とされているのだ、それは、信者でないあなたの夫や妻が聖なる者とされていることの証拠だ、とパウロは語っています。ここには、ユダヤ教におけるものの考え方が背景にあると思われます。ユダヤ教においては、片親だけがユダヤ教徒、つまりユダヤ人である子供はユダヤ人とみなされるのです。ユダヤ人であるということは、神様の民、神様のものとされた、聖なる者であるということです。片親が聖なる者であればその子供は聖なる者であるという実例がここにある、それと同じように、片親だけがキリスト信者であっても、その子供は神様のみ手の内に置かれているのだ、ということです。これらのことによってパウロが語っているのは、家族の中に一人の信仰者が存在するということの意味はとても大きいのだ、ということです。神様は、その信仰者本人を捉えてご自分のもの、聖なる者として下さっているだけではない、その人を通して、家族の者たちにも働きかけていて下さる、その家庭全体を、み手の内に置いて下さっている、その神様のお働きを信じて、与えられている家族を大事にしなさい、と教えられているのです。

発想の転換を
 この教えは私たちに、発想の転換を促しています。夫婦の間で、あるいは家族の中で、自分だけが信仰を与えられており、夫は、妻は、子供たちは、自分の信仰を理解してくれない、教会に誘っても来てくれない、来てくれてもなかなか信仰を得るまでには至らない、そういうことを、マイナスの事柄として、あれがない、これがない、と嘆くのではなくて、この家族の中で、自分に信仰が与えられている、それは、この家族に、神様のお働きが及んでいる、神様がこの家族を、恵みのみ手の内に置いて下さっている、そういう積極的な事柄として喜びをもって受けとめていくという発想の転換です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第17章には、信仰の父アブラハムに与えられた神様の契約のことが語られています。その契約は、アブラハムに与えられただけでなく、彼の子孫に対しても与えられているのです。神様の救いの働きは、そのように、一個人を越えて、その家族、子孫たちへと及んでいくものなのです。私たちを導き、主イエス・キリストによる新しい契約にあずからせて下さった神様のお働きは、私たち個人を越えて、必ず、豊かな実りを生むのです。今この目でその実りを見ることができなくても、私たちはそういう希望を与えられているのです。
 パウロは最後の16節でこう言っています。「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」。私たちはこの言葉を、「信者でない相手を救う、つまり信仰に導くことができるかどうか、どうしてわかるのか、そんな望みはあまり持たない方がよい」という悲観的な意味に読んでしまいがちです。しかし今14節において読んだように、パウロの思いは決して悲観的なものではないのです。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされている」と言っているパウロは、今信者でない夫や妻も、これから主イエスの救いにあずかっていくという希望を見つめているのです。したがってこの16節も、このように理解することができるのです。「妻よ、あなたは夫を救えないとどうしてわかるのか。夫よ、あなたは妻を救えないとどうして分かるのか」。最近の英語訳聖書を見ると、そのような積極的な訳になっているものがいくつかあります。例えばある訳ではこうなっています。「しかし、覚えておきなさい。妻は夫を救えるかもしれないし、夫は妻を救えるかもしれないということを」。しかしいずれにしても、私たちが、自分の力で自分の夫や妻や子供たちを救うことができるわけではありません。それをして下さるのは神様です。神様は、何のふさわしさもない私たちを恵みによって導いて下さり、独り子主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって私たちを救いにあずからせて下さいました。私たちがこの信仰を与えられたことによって、私たちの家族にも、神様の恵みのみ手が差し伸べられているのです。私たちはその神様の恵みを信じて、希望をもって、家族のために祈り続けるのです。

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