「逆風の中での主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第107編23-32節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第6章45-56節
・ 讃美歌 ; 57、462
弟子たちを舟に乗せる
本日お読みした箇所の直前には、主イエスが五千人の人々を二匹の魚と五つのパンで満腹にされたという奇跡物語が記されていました。主イエスはその場にあったパンと魚を分け、弟子たちに配らせたのです。人々が満腹した後に、パンの屑と残った魚を集めると、十二の籠が一杯になったのです。このパンの出来事によって、神様の恵が溢れ、人々を満たしているということが示されたのです。そのすぐ後に続くのが本日の箇所に記された出来事です。45節には、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた」とあります。パンの出来事のすぐ後に、主イエスは弟子たちを舟に乗せて向こう岸に行かせたのです。この時、主イエスご自身は舟に乗られませんでした。弟子たちを舟に乗せた後、「群衆を解散させられた」のです。普通に考えれば、群衆を解散させるというような事は弟子たちに任せればよいように思います。もしくは、手伝わせて早く終わらせ、一緒に舟に乗っても良いのではないでしょうか。しかし、この時、主イエスはそうなさらなかったのです。「強いて」舟に乗せたと言われています。おそらく戸惑う弟子たちに理由も話すことなく、舟に乗せたのでしょう。主イエスは、あえて弟子たちと離れられたのです。「群衆と別れてから祈るために山に行かれた」とあります。主イエスは、一人祈るために弟子たちと離れられたのです。この時の主イエスは、一方で、救いを求めて自分に周りに集まって来る群衆に追われており、もう一方で共に歩む弟子たちからは理解されないという状況にありました。そのような中で、お一人になって父なる神様に祈る時を確保されたのです。
逆風に遭う
山で祈られていた主イエスは、夕方頃、弟子たちの舟が湖の真ん中にいるのを目にします。そこで弟子たちは、逆風のために漕ぎ悩んでいたのです。マルコによる福音書が、湖を舟にのって漕ぎ進む弟子たちの姿を記すのは、これが初めてではありません。4章35節以下に、主イエスと弟子たちが舟に乗り、嵐に合った時のことが記されていました。主イエスの言葉に従って湖に漕ぎ出すと弟子たちの漕ぐ舟が嵐に遭います。その時、弟子たちは、舟の中で眠っていた主イエスを起こすと、主イエスは、「黙れ、静まれ」と風を叱って、嵐をおさめられたのです。しかし、前回と今回の航海は決定的に異なっています。今回は舟に、主イエスが乗っておられないのです。前回の嵐の時、主イエスは艫の方で眠っておられました。しかし、たとえ眠っておられたとしても、舟に乗ってさえいれば、いつでも起こして、主イエスに頼ることが出来ます。しかし、舟に乗っていなければ、主イエスに頼ることができません。主イエスがおられる陸地と弟子たちの乗る舟の間は、湖によって隔てられているのです。
この時、弟子たちが舟を漕いでいたガリラヤ湖は南北二〇キロ、東西一二キロほどの湖でした。風が吹かず、湖が穏やかな時であれば、それ程時間をかけずに対岸に渡ることが出来たでしょう。しかし、この時は、逆風の中で、夕方から夜明けまで、風や波と格闘しなくてはなりませんでした。弟子たちは一睡もせずに格闘したことでしょう。一晩中、溺れるかもしれないという死の恐怖と向かい合わなければなかったのではないでしょうか。そのような逆風の中で、弟子たちは何を思っていたのでしょうか。想像にすぎませんが、この時、弟子たちは、主イエスを非難する思いを抱いていたのではないでしょうか。前回の航海の時も弟子たちは、眠っている主イエスに向かって「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と不満をもらしています。「あなたに言われて湖に漕ぎ出したのに、嵐の中で暢気に寝ているというのはどういうことですか。少しは手伝って下さい」と心の中で非難する思いが聞こえてきそうな言葉です。困難に遭遇して私たちがしばしばなすことは、その原因を捜すことです。時に、自分を責めて後悔し、反省することもあります。しかし、多くの場合、誰かのせいにして、その人を非難しようとするのです。この時の弟子たちも同じであったのではないでしょうか。「主イエスが、強いて舟に乗せなければ、このような風にあって漕ぎ悩むことがなかったのに」、「この逆風の中で、何故主イエスは、私たちと共にいて下さらないのか」「主イエスは、私たちを見捨てられたのであろうか」等の思いに縛られていたのではないでしょうか。このような、主イエスを非難する思いというのは、主イエスの弟子として歩むが故の苦しみです。信仰を持っている故に、神から見捨てられたとの思いを抱くことになるのです。私たちも、信仰生活の中で逆風の中にいるとしか思えないような、試練に遭遇する時にしばしばこのような思いを抱くのではないでしょうか。
主イエスの祈り
主イエスはこの時、弟子たちを見捨てられたのではありません。陸地にいて祈りながら、逆風の中で漕ぎ悩んでいる弟子たちを見ておられたのです。主イエスと弟子たちの間は湖によって隔てられていて、弟子たちは主イエスのことを見てはいませんでした。しかし、主イエスは漕ぎ悩む弟子たちを見ていたのです。夕方を過ぎて暗くなった中、陸地から大分離れた所にある舟を果たして肉眼で見ることが出来るのか等と考える必要はありません。ここで語られていることは、主イエスは試練の中にある弟子たちを見放される方ではないということです。主イエスは、一人になられて、父なる神に祈っていました。しかし、一人になって自分の思いや願いを祈り求めていたのではありません。まさに漕ぎ悩む弟子たちのために祈られていたのです。
マルコによる福音書が強調して描いているのは、弟子たちをはじめ、主イエスの周りに集まる人々の無理解です。神様の御心に従って歩もうとする主イエスを人々は理解しないのです。主イエスが働かれれば働かれる程、人々の無理解が露呈していくのです。本日の箇所にも、最後の所に「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と記されています。主イエスが神の一人子として働いて下さり、御心に従って、私たちを恵で満たして下さっていることが示されたにも関わらず、それを理解しなかったのです。普段の生活において、主の恵で満たされていることを理解しない者は、試練に襲われる時に、主に見放されたと嘆くようになるのです。主イエスが父なる神に祈ることの背後には、いつも、この人々の無理解があります。主イエスは、父なる神の御心を理解しない、理解することが出来ない弟子たちの姿に直面し、その弟子たちのために祈られるのです。
主イエス御自身、この時、逆風の中におられたのです。この時、すでに主イエスを殺そうとたくらむ人々がいました。父なる神の御心に従いつつ歩む中で、一方に、御自分の命をつけねらう人々がおり、もう一方には、御自分を理解しない弟子たちがいました。弟子たち以上に逆風を経験されていたのです。逆風の中で、弟子たちは主イエスの状況に思いを向けることなどありませんでした。むしろ、主を見失い、自分のことしか考えていなかったのです。しかし、主イエスは、弟子たちのことを見つめつつ、神の御心を問いながら祈り続けておられたのです。
弟子たちのもとを通り過ぎる
弟子たちを見ていた主イエスは、明け方頃になって、湖を歩いて弟子たちの側までやって来られます。弟子たちにとって、主イエスと自分たちを隔てるものであった湖も、主イエスにとっては、隔てるものではないのです。弟子たちは勝手に主イエスとの間の湖を大きな隔たりにしてしまっているのです。ここで、主イエスと弟子たちの間にある隔たりは、主が、弟子たちを強いて舟に乗せたことによって出来たものではなく、むしろ、弟子たちの罪が、主イエスとの間に作ってしまったものなのです。これは試練の中にある私たちの姿でもあります。試練の中で、「主は私を見捨てられた」と思う時、私たちは、自分の思いによって、主なる神との間に隔たりを作ってしまっているのです。この箇所を読んで、湖の上を歩いたということに注目して、主イエスは、一体どのようにして水の上を歩くことが出来たのかということを説明しようとすることは無意味なことです。ここでは、弟子たちが罪によって作り出す隔たりを、主イエスは乗り越えられるということ、湖は主イエスにとって隔たりではないということが見つめられているのです。山の上で祈られる主イエスは、いとも簡単に弟子たちの側に来られる方なのです。
湖の上を歩かれて、弟子たちのところまで来られた主イエスは、弟子たちのそばを通り過ぎようとされます。この箇所は、私たちに疑問を抱かせます。様々な解釈がなされています。なぜ、ここで主イエスはすぐに弟子たちのもとに来られるのではなく、弟子たちの側を通り過ぎようとされたのでしょうか。通り過ぎるというのは、旧約聖書において主なる神が人々にご自身を示される時の方法です。旧約聖書において、人間は神を面と向かって見ることは死を意味していました。主なる神は、通り過ぎることを持って、ご自身が共にいることを示されたのです。ここで主イエスは通り過ぎるということによって神が共におられるのだということを弟子たちに示そうとされたのです。そして、神が共におられることを示すと共に、逆風に向かって進まれることで、弟子たちが漕ぎ悩んでいる逆風が大きなものではないことを示されたのではないでしょうか。漕ぎ悩む弟子たちを通りすぎ、逆風をものともせずに、その中に進み行かれることで、その逆風が思い悩むほどのものではないことを示されたのです。
幽霊だと思う
しかし、主イエスが弟子たちのそばを通りすぎ、ご自身が共におられることを示された時、弟子たちは、主イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だと思い、大声で叫んだ」のです。弟子たちはよりによって、自分が最も信頼し、仕えてきた主イエスのことがわからなかったのです。「皆はイエスを見ておびえたのである」とあります。ここで「おびえ」というのは、神と直面して人間が抱く畏敬の念とは異なります。幽霊という、本来あるはずもない、得体の知れないものを見た時の恐怖に捉えられたのです。何故、主を幽霊と思ったのでしょうか。それは、弟子たちが、逆風の中で、神に真剣に祈ることもせずに、主から見捨てられたと思い、主に信頼することをしていなかったからです。幽霊というのは、実際には存在していないものです。幽霊だと思ったというのは、主がその場にいて下さるということが分からなかったということです。ここにも、試練の中にある時の人間の姿が示されていると言って良いでしょう。人間の罪によって生み出される隔たりによって、主に見放されたという思いの中で、そばにおられる主イエスを幽霊だと思ってしまうのです。試練の中で共におられる主に気づくことが出来ないのです。
主イエスは、おびえる弟子たちに向かって、「安心しなさい。わたしだ、恐れることはない」と語られます。ここで「わたしだ」と言われている言葉は、主がおられることを告げる言葉、「わたしはある」という意味の言葉です。ご自身を幽霊だとする弟子たちに向かって、主イエスが共にいて下さるということを示して下さっているのです。嵐の中で、死の恐怖に見舞われる弟子たちに、主は見捨てているのではないということを示しているのです。
十字架において神から見捨てられる主
ご自身のことを理解しない弟子たちのそばに行き、逆風に向かって歩まれる主イエスは、その生涯の最後に十字架に赴きます。そして十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれるのです。
十字架において、主イエスは、父なる神から見捨てられたのです。十字架とは、当時の最も思い犯罪人に対する刑罰です。しかし、それは犯罪に対する一つの刑罰を意味するだけでなく、罪の支配の中にある者が受けるべき死を意味しています。罪人が神によって裁かれることを意味しています。本来であれば、罪に支配され神様を愛することにおいても隣人を愛することにおいても破れのあるものこそ、十字架において死ぬべきものなのです。それは、私たちを含めた全ての人が受けるべきものなのです。しかし、そのような人々に変わって、主イエスが十字架の死を死なれたのです。主イエスが十字架で死なれたことによって、私たちは、どのような時も、神様から見捨てられることはないのです。
私たちが人生において、遭遇する最も大きな逆風、私たちを漕ぎ悩ませ、その進路を妨害するものは、私たち自身の罪によってもたらされる死の力です。しかし、主イエスが、既に、十字架において私たちが受けるべき裁きを変わって受けられたからこそ、それは恐れるものではなくなっているのです。十字架において、主イエスがその逆風の中へと歩み、それを乗り越えて下さったからです。主イエスが舟に乗り込まれると、風は静まります。主イエスが共にいて下さることによって逆風は逆風ではなくなるのです。
ゲネサレトでの癒し
湖を渡り終えた舟は、ゲネサレトという土地に着きます。そこでは、主イエスを求めてやってくる大勢の人々がいたことが記されています。人々は、主イエスがおられるということを聞きつけて、病人を運び始めるのです。「せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。」とあります。対岸に渡っても、そこで主イエスを待っていたのは、ご自身を追い求める群衆でした。ここには、自分の願望から迷信的な思いで、主イエスに触れようとする人々の姿があります。この群衆の姿にも、主イエスに対する無理解が現れています。人々は、主イエスを、罪から救うために来られた救い主としてではなく、自分の願いを叶えてもらうための救い主として受け止めているのです。本日の聖書の箇所には、主イエスに従う者の心の鈍さの指摘と共に、心が鈍っている者が、主イエスに接する時の二つの姿が示されています。一つは、弟子たちのように、試練の中で、主イエスを触れることの出来ない幽霊のようなものにしてしまうということです。主イエスに、「何故私を見放されたのかと」不満をぶつけるだけで、その恵に気づかないのです。もう一つは、ゲネサレトにいた人々のように、主イエスがおられることを聞きつけ、迷信的な思いで主イエスの服にでも触れようとするということです。主イエスに触れることで、御利益を得ようとするのです。主イエスを自分の願望をかなえてくれるだけの救い主としてしまうのです。どちらも、マルコによる福音書が示す、主イエスに対する、人間の無理解です。しかし、そのような主を理解しない者のために、主は十字架において救いを成し遂げて下さっているのです。逆風の中で、尚、「わたしはある」と語って下さるのです。
とりなしておられる主
私たちは、今、聖霊を通してキリストを知らされます。しかし、地上を歩む主イエスと共にいるのではありません。主イエスは十字架に架かって死なれ三日後に復活された後、弟子たちにご自身を現されてから、再び来られることを約束して天に昇られたのです。主イエスは天に昇られた後を生きている私たちは、肉体を取られた主イエスが共におられない中を生きているのです。その歩みは、丁度、主イエスが乗られない舟で湖に漕ぎ出した弟子たちのような歩みです。しかし、私たちは主イエスに見放されているのではありません。主イエスは、天において、神の右の座について、私たちのためにとりなしの祈りを捧げていて下さるのです。私たちが、逆風の中で、漕ぎ悩む時にも、又、私たちが、主イエスのことを理解せずに、時に神様にたいして不満を言い、神様に見放されたと嘆く時も、十字架で罪を担って下さった主イエスがとりなして下さっているのです。そうすることによって、肉をとって世を歩まれた時よりもはるかに近く、私たちの側におられるのです。たとえ、私たちの罪が、神様を見失い、神様との間の隔たりを大きくしてしまう時にも、主イエスの故に、それは私たちと神様の間を隔てるものではないのです。
私たちは、聖書が指摘する、神様の御心を理解しない心の鈍さの中にあります。満ち溢れる主の恵に気づかずに、試練の中で主が共におられることが分からなくなります。主イエスを自分の願いを叶えてくれる、自らの思い描く救い主として追い求めてしまいます。私たちが地上を歩む以上、この心の鈍さから自由になることはないでしょう。しかし、そのような私たちのために主イエスがとりなしておられるのです。そして、今、とりなすことによって、私たちと共にいて下さる主イエスは、再び、私たちの下に来て下さることを約束されているのです。その時まで、信仰生活における試練は続きます。しかし、主イエスが弟子たちに語られた言葉が、私たちにも語られています。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」この言葉を聞き続けて歩むものでありたいと思います。