「洗礼者ヨハネの死」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第59編2-12節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第6章14-29節
・ 讃美歌 ; 55、534
ヨハネからイエスへ
私たちは、新しい年最初の礼拝を守っています。クリスマスの礼拝では、主イエス・キリストが、生ける神の言葉として、私たちのもとに来られたことをお祝いしました。教会の暦では、本日は降誕節第二主日で、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受ける箇所が読まれることが多い日です。主イエスは宣教を開始する前に洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのです。
本日お読みした聖書は、主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの死の場面です。洗礼者ヨハネは、主イエスが宣教を開始される前に、悔い改めて神のもとに立ち返ることを教えて、人々に洗礼を授けた人でした。マルコによる福音書は、この洗礼者ヨハネの活動から書き始められています。「神の子イエス・キリストの福音の初め。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。[主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ]』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」。ヨハネの活動は、主イエスの道を備えるものでした。ヨハネは、人々に洗礼を授けながら、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしはかがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と告げました。主イエスに洗礼を授けたヨハネは、後に捕らえられてしまします。マルコによる福音書第1章14節には次のようにあります。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。主イエスが活動を始められたのは、ヨハネが捕らえられた後すぐのことだったのです。ヨハネと交代するかのように主イエスが福音を語り始めたのです。
ヨハネの捕縛
1章14節にはヨハネが捕らえられたということだけしか記されていません。その内実は、本日の箇所に詳しく書かれています。6章17節には、次のようにあります。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた」。ここでヘロデと言われているのは、主イエスが生まれた時ユダヤの王だったヘロデ王の息子、ヘロデ・アンティパスです。この息子のヘロデは、自分の兄弟の妻と結婚していて、そのことについて、ヨハネは、律法においては赦されていないことだと非難したのです。ヘロデは自らの権力でヨハネを捕らえさせ、牢につないでいたのでした。ヘロデは父親のヘロデ大王ほどの権力者ではありませんでしたが、ヨハネを捕らえて、牢につないでおくことができるだけの権力を持っていた人でした。ヨハネは、政治的権力を持たない、民衆にだけ罪を悔い改めることを迫ったのではありません。時の権力者であるヘロデに対しても、へつらうことなく、神の道に立ち返ることを勧めたのです。自分が語る相手がどんな立場のものであろうと、その人を恐れることなく、ただ、神の言葉に立ち続けたのです。ヨハネは、主イエスのように、神のもとから来られた、生ける神の言葉ではありません。しかし、ヨハネは確かに、神の言葉に仕え、悔い改めを語ったのです。その点において、ヨハネは主イエスと同じ働きをなしたのです。そのように神の言葉に立ち続けたからこそ、ヨハネは捕らえられることになったのです。
ヨハネの殺害
ヨハネを捕らえたヘロデは、すぐにヨハネを殺害することはありませんでした。ヘロデの父親ヘロデ大王は、主イエスの誕生を聞き恐れを抱いて、主イエスを殺そうとして、二歳以下の男の子を抹殺した人でした。世に来た神の言葉である主イエスを殺害しようとしたのです。息子のヘロデは、父親のように、神の言葉を完全に拒絶したのではありません。神の言葉を語るヨハネのことを心から憎んでいたのではないのです。20節には、「なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」とあります。ヘロデは、ヨハネが語る言葉に喜んで耳を傾けていたのです。ヨハネは確かにヘロデを非難する言葉を語りました。しかし、それは、ただ非難するためだけの言葉ではありません。ヘロデが神の前で悔い改め、正しい道を歩み、救いにいたるようになることを願いつつ、愛をもって語ったのです。ヘロデはヨハネが語る言葉が、ただ非難するためだけのものではないことが分かったのです。だから、彼は、簡単にヨハネを殺すことが出来る地位にありながら、彼を恐れ、保護したのです。
しかし、ヘロデは、結局ヨハネを殺すことになります。ヨハネは、ヘロデの妻に恨まれていたのです。結婚のことを非難されて、妻のヘロディアはヨハネを恨み、あわよくば殺してしまいたいと願っていたのです。しかし、ヘロデはヨハネを恐れ、保護しているのです。そのような中で、ヘロデの誕生日の祝いの席で、ヘロディアの娘が踊りを踊って客を喜ばせた時に好機がやってきます。ヘロデが、娘に、このことの褒美として何でもやると言ったのです。この娘は母親ヘロディアに何を求めるべきかを尋ね、言われたことに従って、洗礼者ヨハネの首を要求したのです。ヘロデは心を痛めつつも、客の手前、衛兵に命じて、ヨハネの首をはねて盆に載せて少女に渡し、少女はそれを母親に渡したのです。ヘロディアはこのようにして、恨みを抱いていたヨハネの殺害を実現したのです。
殺害の理由
ヘロデは、何故、恐れ保護していたはずの、ヨハネを殺したのでしょうか。26節には、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とあります。ヘロデは、自分はヨハネを正しいと知りながら、他人の目を気にして、ヨハネを殺してしまったのです。ヨハネの語る神の言葉に耳を傾けていながら、自分の立場を守るため、周囲の人の間で面目を保つために、神の言葉を殺してしまうのです。ヘロデは、ただ耳を傾けているだけで、神の言葉に従い悔い改める、自分の全てをその言葉に従わせて、自らの歩みの方向を変えるということをしていなかったのです。ヘロデは確かに権力によってヨハネを殺すことが出来ましたが、一方で、この時の娘の願いを退けることも出来たことでしょう。しかし、娘に従ってしまうのです。ヘロデは、人々を前にして、自分の立場を守ることを優先してしまうのです。神を恐れるよりも、人を恐れ、いとも簡単に神の言葉を殺してしまうのです。ヘロデはヨハネの語る言葉に対する恐れよりも、自分の周りの人々を恐れ、対面を取り繕うことを優先させたのです。他人の目というのは、私たちが思う以上に強力に人間を縛っているものなのです。そして人間の支配というのは、常に、このような人々に対する恐れの中でなされるものなのです。周囲の人への恐れの中で、神の言葉に喜んで耳を傾けていながら、置かれている自分の立場を守ることが、御言葉に聞き従うことに優先してしまうことがあるのです。私たちは、この物語を読んで、本当に悪いのは、裏で殺害をたくらんで策を弄したヘロディアで、渋々ヨハネに手をかけた、ヘロデではないと思ってしまう節があるのではないかと思います。しかし、ここで見つめられているのは、人間が支配する世にあって、神よりも人を恐れる人間の罪です。そして、そのような罪によって、人間の支配を打ち立て、神の言葉を抹殺してしまうのです。
悔い改めない私たち
私たちはともすると、ここに記されているヘロデによるヨハネ殺害は、自分とは縁遠いことであると感じてしまいます。そのことの理由は、踊って客を喜ばせたことによって、簡単に褒美を何でもやると誓い、洗礼者ヨハネの首をと言う娘の願いを聞いて首をはねてしまうヘロデの姿が、今の私たちから見るとあまりにも残忍で非道なものに見えてしまうからです。しかし、それは置かれている時代や立場、持っている権力の違いに過ぎません。ここでのヘロデの洗礼者ヨハネに対する態度は、決して私たちと無縁のことではありません。神の言葉が語られる時、そこでは必ず悔い改め求められます。悔い改めるというのは心の方向を転換するということを意味します。自分のそれまで歩んでいた方向から、向きを変えて新たな方向へと進みだすことです。ヘロデは「ヨハネは正しい聖なる人であることを知って」いて、ヨハネの言葉を聞いていました。しかし、にも関わらず、この悔い改めには至らなかったのです。「その教えを聞いて当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とあります。このヘロデの当惑は、正しいもの、聖なるものに触れ、自分があまりにそれと異なっていて、歩みを変えることができない時に人間の心に引き起こされるものと言って良いでしょう。私たちも神の言葉に接する時に、このヘロデの当惑を経験することがあるのではないでしょうか。聖書の御言葉を聞き、主イエス・キリストが聖なる方で、正しい方であることは受け入れている。そして、その教えに喜んで耳を傾ける。しかし、そこで本当に、神の言葉を受け入れて、悔い改めることが出来ない。洗礼を受けることがためらわれることもあるでしょう、なかなか自分自身を変えることが出来ないということもあるのではないかと思います。自らの歩みの方向を変えることをしないでいる方が楽なのです。そして本当の意味で悔い改めがなされていない限り、御言葉を喜んで聞いていても、本当に救いに与るものとして、主イエスに従っているとは言えないのです。そのような時、ヘロデがヨハネを牢に入れたまま生かしておいたように、神の言葉を自分の支配下において、自分の都合の良い時は御言葉に耳を傾けていていても、自分の都合が悪くなると、その言葉を聞かなくなってしまうのです。語られている神の言葉を抹消してしまうのです。それは、神の言葉に対して喜んで耳を傾けていながら、いとも簡単にヨハネを殺してしまったヘロデと変わることはないのです。
主イエスの死と復活
人々はヨハネだけではなく、人となられた神の言葉である主イエスをも殺害します。主イエス・キリストを十字架につけることが決められた裁判に目をとめたいと思います。洗礼者ヨハネは、主イエスと同じように、神の言葉に従って歩み、それを語りました。その歩みは明らかに主イエス・キリストの歩みを先取りするかのようにして、映し出しているのです。主イエス・キリストも又、世の権力によって裁かれました。ローマ総督ポンテオ・ピラトのもとで裁判を受けたのです。主イエスの裁判を記した、マルコによる福音書15章の6節以下の記述によれば、ピラトは、「祭司長たちがイエスを引き渡したのはねたみのためだと分かっていた」のです。しかし「群衆を満足させようと思って」「イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」のです。ピラトは イエスに何の罪も見いだせないことを知っていたのにもかかわらず、「十字架につけろ」と激しく叫ぶ群衆を前にして、自らが正しいと思うこととは異なる決定を下すのです。そのような人間の支配の中で、主イエスは十字架につけられたのです。私たちが礼拝の中で告白しています使徒信条において、主イエスの生涯は、処女マリアより生まれと告白した後、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白し、十字架につけられと続きます。この信仰告白は、主イエスの生涯の中で「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ということに注目しています。それは、この方の生涯は、神よりも人を恐れる人々の罪によって苦しめられるものだったのだということを現しているとも言うことが出来ます。それは、真の神を恐れることをしない、人間の支配によって苦しめられたということです。主イエスを、正しい、聖なる方だと知っていながら、人々に対する恐れの中で自分を守ることに必死になり、この方の下で悔い改め、自分の歩みをこの方へと変えることが出来ないものによって苦しめられたのです。その結果十字架につけられるのです。それは、人間の支配によって主イエス・キリスト、生ける神の言葉が抹殺される出来事です。ヨハネが、ヘロデによって殺されたように、主イエスも又、人間の支配の中で殺されていったのです。
真の悔い改め
私たちに神の言葉が臨む時、いつも、神の支配の中への方向転換が求められます。しかし、人間はこの悔い改めは、私たちには難しいことです。事実、神の言葉を語ったヨハネは殺害され、その後に御言葉を語られた主イエスも十字架につけられたのです。これは、徹頭徹尾、神の言葉に対して抵抗をし、悔い改めることをしない人間の罪の姿を示しています。人間の支配がヨハネだけではなく、主イエスを十字架につけて殺してしまいます。しかし、主イエスはこの十字架の死から、三日目に復活されるのです。主イエスご自身が復活されることによって、主イエスは人間の罪の力に勝利されたのです。この十字架によって人間の支配の中で神の支配が貫かれていることを知らされるのです。このことを知らされる中で、私たちは真に悔い改めるものとされるのです。私たちは、日々の生活の中で、自分の歩みを悔い改めることなく、自分が主人となって、都合の良いように神の言葉に接することがあります。自分の判断で、喜んで耳を傾け、恐れを抱くこともあれば、その言葉に従わずに、周囲の人々への恐れから、語られる言葉に生きることをしないことがあります。ヘロデのように、又ピラトのように、神の言葉を殺しつつ歩んでいます。しかし、そのような者であったとしても、神が、真の神を主とし得ない、人間の罪を打ち破り自らの支配を打ち立てて下さっているのです。神の言葉を抹殺してしまう、人間の支配が主イエスによって打ち破られ、神の支配が示されるのです。人間の支配の中で、私たちの罪を克服する形で主イエスが神の支配を実現して下さるのです。
主の弟子として悔い改めつつ歩む
本日の箇所の前後を読むと、主イエスの宣教の業が徐々に活発になって行くところであることが分かります。直前には主イエスが十二弟子を派遣したことが記されていました。12節には、次のようにあります。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」。主イエスは弟子達を用いて伝道の業を展開されたのです。そして、本日の箇所の直後の30節には、次のようにあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。伝道の成果を報告したのです。今日お読みした、ヨハネの殺害をはさんで、主イエスの弟子による悔い改めの宣教と、その宣教の実りの報告がなされるのです。神の言葉が人々に語られ、その実りが大きくなっていくところでは、必ず神の言葉に対する反動も生まれます。神の言葉の進展の中で、人間の、神の言葉に反抗する思いや神の言葉を恐れる思いも又大きくなっていくのです。しかし、そのような反動にも関わらず、神の言葉は宣べ伝えられていくのです。主イエスと弟子達によって、神の国の福音が語られ、洗礼が授けられて行くのです。私たちも、主イエスのもとで真に悔い改めて歩む時、主イエスの弟子達のように、主イエスの業に用いられて行くようになるのです。主イエスによって、立ち返らされたものとしての証をなし、この主イエスの下へと人々を導くものとされるのです。そのような歩みを通して、神様の御支配をこの地に示されていくのです。新しい年の歩みが、主に立ち返りつつ、神様の御支配を世に示すものとなることを願います。