「あなたの信仰があなたを救った」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第34編1-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第5章21-43節
・ 讃美歌 ; 2、195
二つの奇跡物語
本日お読みした箇所には、主イエスがなされた二つの癒しの物語が記されています。会堂長ヤイロの娘と、出血の止まらない女の物語です。しかも、二つの記事が並んで記されているのではなく、ヤイロの娘の癒しの物語に挟まれるようにして、出血の止まらない女の物語が記されています。二つの出来事が一つの物語として記されているのです。それは主イエスの周りに、様々な人々のそれぞれの事情が入り乱れており、主イエスが、そのような人々の思いに囲まれていたことを表しています。主イエスの周りには、大勢の群衆がいました。この物語の書き出しには「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た」とあります。ガリラヤで、主イエスはいつも群衆に囲まれていました。群衆が束になってやって来るというのは脅威でもあります。群衆の中で、一人ひとりの人間の個性は失われます。その中にいる人にとって周囲の人々は個性を持った、個人としてではなく、一塊となります。そこでは人々は必然的に自己中心的になり、自分のことしか考えなくなります。無我夢中になって人を掻き分けて、我先にと前に出ようとする。そのような群衆が、主イエスが押しつぶされそうになるほどの勢いで押し迫って来るのです。様々な人々が、皆それぞれに自分の願いを持ちかけていたのです。今日はそのような群衆の中にあって、主イエスに触れた一人の女の出来事に目を留めてみたいと思います。
ヤイロの娘と出血の止まらない女
主イエスが陸に上がると真っ先に主イエスの下にやってきたのは、会堂長のヤイロという人です。会堂長というのは、会堂毎に一人置かれていて、礼拝のことや、会堂のことを司っていた人です。当時、それなりの地位があった人でした。主イエスはよく安息日の会堂で教えられました。ですから、もしかするとこの人は主イエスと顔見知りであったかもしれません。ヤイロと名前が特定されていることからも、この人が知られていた人であることが分かります。主イエスが戻ってくるなり、真っ先にやってきて、主イエスの足下にひれ伏して願い出るのです。自分の幼い娘が死にそうになっているということを告げて、主イエスに手を置いてやってほしいと言うのです。そこで、主イエスは、ヤイロと一緒に出かけていくのです。
一方で、出血の止まらない女というのは、ヤイロとは対照的です。この人は、ヤイロの家に向かう主イエスの後を押し迫るようについていった群衆の中にいました。名前を何というのかも分かりません。群集に埋もれた一人の女です。
この人が患っていたのは、出血が止まらなくなる婦人病の一種ですが、出血が止まらないというのは汚れたものとされていました。彼女が触れた人、彼女が使ったものも汚れているとされたのです。ですから、この人は必然的に他者と関係を持つことができない人であったのです。病気による肉体の苦しみ以上に、汚れたものとして、社会の人々から避けられ、救いから遠いものと見なされることが、この女性を苦しめていたのです。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。いい医者がいるとなれば駆けつけ、病気に効く治療法があると聞けばためし、病気を治すために人生のすべてを捧げて来たのです。しかし、良くならないままに、財産を全て使い果たしてしまったというのです。最後の望みをかけて、主イエスの下にやってくるのです。主イエスが病をいやされ、悪霊を追放される方であることを聞きつけてやってくるのです。
服に触れて
この女は、群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエスの服に触れました。会堂長のヤイロのように正面から主イエスに近づけるはずもありません。誰にも気づかれないように、こっそりと近づいて主イエスの服に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったとあります。服にでも触れれば癒されるだろうというのは明らかに迷信的です。しかし、この女は、それほどまでに追い詰められていたのです。あらゆることを試して、その全てが功を奏しなかった。もうどんなことでも良いから、すがりたいという思いであったのです。そのような思いが、「服に触れた」ということに現されています。この女が、どれだけ本気で直ると思っていたかは分かりません。今まで今度こそ直るのではないかという希望が裏切られ続けてきたのです。今回もおそらく直ることはないだろうとどこかで予感しつつも、もしかしたら直るかもしれないというかすかな希望を抱いて、藁にもすがる思いで手を伸ばして触れたのです。
しかも、この行為は迷信的であるとともに、大胆な行為でもあります。この人は決して他のものにさわってはいけない汚れたものとされていたのです。しかし、この時は汚れているとされた手を伸ばすのです。自分の手を伸ばして主イエスに触れようとするのです。
主イエスの服に触れると、すぐに出血が止まって病気が癒されたことを体に感じたというのです。その時、主イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気がつき、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われるのです。弟子たちは、群衆が押し迫っていて、多くの人の体が触れ合っているのに、なぜそんなことを聞くのかと問います。しかし、主イエスは弟子たちに答えることもなく、自分に触れた者を捜し続けるのです。汚れているとされながら、かってに自分の服にふれたことによっていやされた人を責めようとしているのではありません。この人の本当の救いのために、出会おうとして下さるのです。この女は、病の苦しみにもまして、人々と交わりを持つことができないということにありました。しかし、主イエスはそのような汚れの中にある女性と真の交わりを持とうとして下さるのです。この女自身が、自ら進み出て、ご自身との関係へと入ってくることを待っておられるのです。真の救いの中に招こうとされるのです。
彼女はおそれにとらわれました。人にふれることを許されていなかった彼女が手を伸ばしてふれたのです。そして、自分の体が癒されることの中で、病を癒す力を持った方を前にして全てを話したのです。自分を捜そうとする、主イエスの声を聞き、自分の身に起こったことを顧みて、震えながら前に進みでて、すべてをありのまま話したのです。自分のこれまでの歩み。自分が汚れたものであることを話したのです。
あなたの信仰があなたを救った
この時、主イエスは一刻でも早くヤイロの家に行かなくてはならないという状況にありました。幼い娘が死にそうなのです。それは、これ以上ない程の急を要する事態です。おそらく、この時、主イエスと一行の歩みも自然と速まっていたに違いありません。しかし、主イエスは、一人の女のために足を止められたのです。主イエスは、ご自身の周りに押し寄せる群衆を、決して一かたまりの群れとして扱われない方です。その中にある一人の女性の救いを求める思いを見過ごされないのです。この物語が、主イエスに後ろから近づいて、その服に触れた人の病が癒され、主イエスが足を止めることなく先を急がれたというのであれば、これは、肉体の癒しという奇跡を記した物語でしかないでしょう。一人の病に苦しむ女の願望がかなえられたというだけです。しかし、そのようなことではなく、主イエスは足を止められたのです。そして、おそれつつ、すべてをありのまま話した女を受け入れて下さるのです。主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この女の抱いた思いは決して立派な信仰と呼べるようなものではありません。自分の願いをかなえるために、藁にでもすがるような思いで主イエスに近づき、服にでもふれればという迷信的な思いで服に触れたのです。しかし、主イエスが足を止めて、そこに信仰を見て下さるのです。主イエスは私たちの主イエスに対する思いが信仰とはほど遠いものであっても、そこでのばされる手が汚れていようとも、主イエスに向かって手を伸ばして触れられたことを感じた時に、足を止めて捜しその行いを「信仰」と言って下さるのです。主イエスは、ただ自分の願いから、半信半疑で主イエスに触れた女の、ありのまま全てを聞き、中途半端な、信仰とも言えない思いを、信仰と呼んで下さる方なのです。私たちは自ら信仰を確かめることはできません。主イエスが、私たちに信仰を見て下さるのです。このことに私たちの救いがあるのです。
十二年間
この箇所を読んで気になる一つのことは、十二年間という年数です。福音書はこれまでにも、主イエスの癒しの記事を記しています。しかし、癒された人の病の長さというのが具体的な数字で示されることはありませんでした。けれどもこの物語では、十二年間と記されているのです。ヤイロの娘が十二歳であったとありますが、この少女の生きた年数と出血が止まらない女が病に苦しんできた年数が同じ十二年間だったのです。少女とその家族は、まだ十二年しか生きていないのにと思っていたでしょう。出血が止まらない女は、もう十二年も苦しんでいるとの思いだったことでしょう。少女にしてみれば、これから人生が始まろうとしている、これからやれることがいくらでもある時に命を失う。この十二年間は何だったのかと思いたくなります。又、それと同じ期間、女は、人生の最も豊かな時期を病のために費やし「汚れたもの」として人々から見捨てられて過したのです。この人々にとって、この十二年は、意味を見出せない時間だったのではないでしょうか。「失われた10年」ということが言われます。バブルが崩壊した後の1990年代の約10年という長期にわたって不況と停滞に見舞われた時期を振り返ってこのように呼んだりします。経済的に見れば、何の進歩もなく停滞、後退だけの時間。「失われた」と言いたくなるような時間です。まさに、この二人の女性にとってこの十二年というのは「失われた十二年」とでも言うべきものでしかなかったのではないでしょうか。
失われた時間
私たちは誰しも、少なからず、このような「失われた」という思いにとらわれることがあるのではないかと思います。私は今年の三月まで神学校で学んでいました。神学校というのは様々な年齢の方が伝道者となるために学んでいる場所です。高校を卒業して直ぐ入学する者がいます。大学を卒業して編入する者がいます。社会で働かれていて一番の働き盛りの時に仕事をやめて入学する者もいます。勤め上げた職場を退職されて入って来られる方もいます。それぞれに人生の様々な時期に神様からの召しを受けて、神学校で学んでいるのです。そのように幅の広い年代の方々が、共に神様に仕えるために学ぶというのは喜びです。しかし、そのような中で、ふっと人間的な思いに支配されることがあります。たとえば、私は、自分よりはるかに、年配の方に、「君は人生の一番いい時期に神学校で学ぶことが出来て羨ましい」というようなことを言われることがありました。年をとってから、学ぶというのは、大変なことです。学生生活から離れて随分と年月がたってしまい、記憶力も衰えている。そのような大変さを経験する中で、自然とそのような思いになるのでしょう。又、私自身、自分より若いクラスメートを見て、その人の方が、自分よりも多くの可能性が開かれていると感じて、うらやましいという思いで見つめてしまうことがあります。それぞれ神さまに与えられた時期に献身した、神学校での生活でさえ、そのような思いが心によぎるのです。心のどこかで、自分が今まで過ごして来た時間を否定してしまう。それが無駄なものであったのではないかとさえ思ってしまうのです。私たちは、誰しも多かれ少なかれ、「失われた十二年」ということを経験するのではないでしょうか。
罪と死からの解放
もし、この女が、主イエスに迷信的に触れて癒されただけであったなら、この人の本当の救いにはならなかったでしょう。確かに病が癒されたということによって一時的に喜んだかもしれません。しかし、一方で、あの十二年間はなんだったのか、人生において、最も輝いているべきはずだったあの時間は何であったのかと思う。又、これからの歩みの中で、再び病になるかもしれない。病にならないとしても、いずれこの女の肉体は滅びるのです。私たちのこの世の歩みは、罪と死の力に支配されていて、限り在るものなのです。このことが解決されない限り、本当の意味での救いがあるとは言えません。
主イエスとの出会いとは、奇跡的な業で願望をかなえてくれる救い主と出会うことではありません。十字架において、私たちの根本的な病である罪と死の力と戦ってくださり、神様との和解を果たして下さった方と出会うことです。この方との出会いの中で、この方が、私たちが父なる神に確かに結ばれていることを示してくださるのです。私たちが神さまを求める思いがどれだけ不実なものであったとしても、その信仰とも言えない思いを信仰として受け止めてくださる。この方が、そうして下さるが故に、私たちは本当の病から解放されるのです。信仰の確かさは、私たちにはありません。私たちの主を求める思いは、真実なものではないのです。都合の良い時に自分勝手な思いで求めるだけです。そのような人間の、自分の思いに神様を従わせようとする思いの背後で、主イエスが十字架に赴かれるのです。しかし、主イエスはその十字架の上で、自らの命を捧げられることによって、神様と私たちの関係を回復して下さっているのです。
主イエスが足を止められて、それまでの全てをありのまま受け入れて下さり、その不完全な、彼女の思いを信仰と呼び救いを宣言されることを通して、本当の意味で、この女は救われたのです。神様と共に歩むものとされたのです。主イエスによって信仰が与えられて、生きることこそ、神様と共に新しいものとして歩むことだからです。
安心して行きなさい
主イエスの救いとは、私たちの不確かな歩み全てが受け止められ、担われるということです。「あなたの信仰があなたを救った」。この言葉は、肉体的な病を癒すためだけの言葉ではありません。この女のそれまでの「汚れたもの」として過ごした十二年、又、この女がこれから歩む時間全てをお救いになる宣言です。主イエスとの出会いの中で、この女の十二年間は、決して失われたものではありません。これまでに使い果たしてしまった財産、病気と共に過ごし、失望の中で何も建設的な歩みが出来なかったと感じてしまう時間、全てが意味を持ったのです。主イエスと出会うとは、そのようなことです。自分のこれまでの歩み、たとえそれが闇の中を歩むようなものであったとしても、主イエスとの出会いによってそれが闇ではなくなる。主イエスによって信仰が与えられるという本当の救いに与るために、意味があり貴いものであったということになるのです。人生の歩みすべてがこの方によって担われるのです。主イエスと出会ったこの人の歩みは、これから先、災いのない歩みであったということはありません。当然様々な困難とぶつかったことでしょう。もしかしたら何かの病を患うことがあったかもしれません。しかし、「安心して行く」ことが出来るのです。ありのまま全てを受け入れ、信仰を見出して下さる、主イエスによって根本的な「病気」を癒されているからです。私たちの中に信仰を見てくださる方が、「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言われるのです。
おわりに
私たちは、自分の罪のために、後ろから手を伸ばし主イエスに触れようとすることがあります。自分の思い、自分の願望から、主イエスを求める。信仰とは呼べないような、自分勝手な思いで主イエスを求める。しかし、主イエスはそこで歩みを止めて下さるのです。そして、この方の前で、私たちが、ありのまま全てを告白する時、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい」と語って下さるのです。ここに主イエスによって与えられる真の救いがあります。私たちの不確かな神を求める思いを、主イエスが信仰と呼んでくださり、神と共に生きるものとされるのです。この言葉を聞かされる時、人生の時間すべてが肯定されたものとなり、この方に担われて歩むものとされます。この言葉に押し出されて、新たな歩みを始めるものとされたいと思います。