夕礼拝

福音のはじめ

「福音のはじめ」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第40章3-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章1-8節
・ 讃美歌 ; 193、237

 
 「初め」

 「神の子イエス・キリストの福音の初め。」 マルコによる福音書は、「初め」という言葉から始まります。聖書の中に収められた福音書の内、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は共観福音書と呼ばれます。これら三つの福音書は互いに共通性を見出すことが出来るのです。同じ伝承から書かれたと言われるところがあったり、他の福音書を参考にして書かれたと言わるところがあったりします。しかし、福音書の書き出しは、大変異なっています。他の共観福音書の最初を見てみますと、マタイによる福音書はイエス・キリストの系図から記されています。ルカによる福音書は献呈の言葉から記されています。しかし、マルコは、そのどちらとも異なり、「初め」という言葉から書き記すのです。
 私達は、日々の生活の中で「初め」を意識します。元旦に「初日の出」を見に行く風習があります。何か新しいことを始める時に、「何事も初めが肝心」と言います。物事を初めたばかりの未熟な段階での謙遜さを忘れて傲慢になってしまっている時に、「初心忘れるべからず」と言ったりします。又、時に物事に失敗したり、自分の思うようにいかないことが起こると、そのことをはじめた時のことを思い起こして後悔します。けれども「後悔先に立たず」と言うように、始めてしまい、事が起こってしまった後では取り返しがつきません。私達は物事の「初め」を大切にし、時に、「初め」に立ち返ってみます。 私たちのなす業には、「初め」があります。すべての物事には「初め」があるのです。礼拝には初めがあります。礼拝の中での「説教」に初めがあります。私達の人生に「初め」があります。 
 旧約聖書の最初の言葉、創世記の1章1節、「初めに神は天と地を創造された」。ここでも最初に出てくるのは「初め」という言葉です。神が創造された天と地、この世には「初め」がある。そして、初めがあるということは終わりもある。それは、言い換えれば、時間があるということです。世には時間があり、私達は時間の中を生きている。「私達は時間的存在である」といっても良いでしょう。世界や私達人間が時間的存在である故に、私達のなす業にはすべて「初め」があるのです。

今起こっている福音

 「初め」がある。このことは、「イエス・キリストの福音」であっても同じです。「イエス・キリストの福音」。喜びの知らせにも「初め」がある。そのことをマルコは記しているのです。それは、「福音」が時間の中で起こっているということです。神が創造された世で起こっているということです。福音は、世とかけ離れたこと、私達の日々の生活から遥か彼方にある出来事であるのではありません。今、この場所で生きている私達の只中で起こっていることなのです。 もしかしたら、マルコによる福音書の最初の部分を読んで、なるほど、『マルコによる福音書』という物語の序論がここに記されているのだな。福音の全体を記した一つの物語の中の一部、物語の最初の段階で起こったことを最初の数節に記しているのだなと思われるかもしれません。そのように読むことが普通であると思います。しかし、次のように読むこともできると思います。マルコはこの福音書全体を通して、「初め」を記そうとしているのだと。この世で福音によって生かされた人々の中で起こっている福音。その福音の「初め」が、この福音書全体を通して記されている。古代教会の使徒達、宗教改革者達、信仰覚醒運動に根ざした世界大伝道のうねりの中で日本に遣わされてきた宣教師達、そして、今日本でキリスト者として生きる私達まで続いている人々に及んでいる福音の「初め」。これらの数限りない人々、この世で福音を知らされ、キリストに従いつつ生きた人々の間で、かつて起こり、いま起こっており、将来起こるであろうイエス・キリストの福音。その「初め」を記そうとしている。しかも、マルコはこの「初め」を、旧約聖書の預言者を引用しつつ、語りだしています。「預言者イザヤの書にこう書いてある」。この福音はキリスト以前を生きた人々と無関係ではない。アダムから始まり、アブラハム、モーセ、預言者達へと続いていく、イエス・キリスト以前を生きた人々もこの福音に含まれているのです。 私達は、マルコによる福音書を読み始めます。私達の世で起こっているイエス・キリストの福音の初めを読み始めます。そこで、私達ははっきりと知らされたいと思うのです。ここに、初めがある。ここから喜びの知らせが始まっている。そして、私達も、この福音書が記した「初め」に連なっている。世にあって、キリストに従ったすべての人々と共に福音に連なっている。喜びの知らせ、イエス・キリストに連なっている。それは、私達がイエス・キリストと共に、この世を歩むということです。「初め」の出来事を私達も生きるということです。今、この時、私達が与えられている場所で、イエス・キリストに従って、ガリラヤからエルサレムに至る主イエスの道を歩むということなのです。

荒野で叫ぶものの声

マルコはこの世で起こっている福音を語るに際して、預言者の中に記された「荒れ野で叫ぶ者の声」を記しています。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」。

 「荒れ野」。かわきひび割れた大地かもしれません。草木の育たない石や岩に囲まれ凸凹とした地かもしれません。潤いない砂地が果てしなく続く砂漠のような地かもしれません。そこは一見すると何の益をも生み出さない、意味のない土地かもしれません。意味がないだけならまだ良いでしょう。それは、私達に害のある、迷惑なものでしかないように思えることすらあるのです。
 この世には確かにそのような荒れ野があります。しかも、私達の身近にあります。日々報道されるニュースを見れば、そのことは歴然としています。世を見渡すとき、私達にとって確かに荒野としか言えないような現実があります。そして又、私達の教会には、キリスト者の人口に対する割合が約0.8%でしかないという現状があるのです。それは世を生きる人々の心を映し出しているようにも思えます。
 「荒れ野」。それは、私達の会社にあり、学校にあり、家庭にあります。国家にあり、社会にあり、心の内にあります。 しかし、荒れ野は、主の言葉が示される場所でもあり、信仰の訓練の場でもあります。モーセに率いられたイスラエルの民は荒野で40年間旅をしました。主イエスも荒野に向かわれました。私達は、世と離れた場所で、主の声を聞くのではないのです。どこか他の場所ではなく、荒れ野の只中でこそ、私達は主の声を聞くのです。
 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

道を整える

 確かに、私達は道を整えます。私達の人生は道を整えていくことそのものであるとさえ言えるでしょう。私達は日々自分の道を整えることにあくせくしているのです。現代は自由な社会です。職業選択の自由をはじめ様々な選択が委ねられています。若者たちは皆それぞれに自分の生きがいを求めて、生きる道を模索しています。将来の夢を持って努力している人もいるでしょう。又、そうではなく、はっきりとした夢ややるべきことが分からずに自分探しをする人もいます。若者に限ったことではありません。「○○才からの健康保険」と言った広告をよく目にします。又、最近は、個人の資産の活用法について提言したり、保険や預金等から総合的に個人の財政面で様々な計画を立てる専門家がいます。このことは、個人の人生設計への関心の高まりを示しています。皆、自己実現のために、自分のスキルを磨く努力をしたり、それぞれの人生設計をなすのです。それは現代を生きる私達にとって必然であり、大切なことであるとも言えます。
 しかし、私達が、そのような自分の道を整えることに熱心な反面、聖書が語る主の道を整えるということについて無関心になってしまうのであれば、問題です

主の道

 私達の道でない「主の道」。これは、私達が自分で整え、自分で歩む、自分の道とは異なっています。主の道を先ず通るのは、私達ではなく主であるという単純な事実です。私達はそこにおいて、僕となるのです。しかし、もし、自分の道を整えることにのみ関心があるとするなら、私達はその単純な事実をなかなか理解することはないでしょう。私達が自分の歩む道を自分で整えていこうとするとき、そこには、少なからず、自分自身が、人生の主人になってしまうからです。悪くすると、福音がはじまっているにも関わらず、まるで、世で起こっていないかのように、そのことに無関心になってしまうのです。
 そのような思いが、主の道を整えることをしにくくなっていることがあります。私達が、自分の人生の主となっている度合いに応じて、知らず知らずに主の歩みの障害になっている。私達自身が、岩場になり、砂地になる。いつの間にか、山となり、谷となってしまうのです。荒れ野はまさに私達の内にもあるのです。
 しかし、そのような荒れ野をも、主の道は整えられるのです。 私達が自分の人生の道を設計する時、山や谷があればなんらかの手段で回避するかもしれません。少しでも楽に越えられる道を探すことでしょう。険しい道や狭い道は避けようとするでしょう。しかし、主の道は違います。イザヤ書40章は次のように記します。

 「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え
 わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
 険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
 主の栄光がこうして現れるのを
 肉なる者は共に見る。」

主の道は、私達の荒れ野を回避することも飛び越えることもせず、荒れ野の真っ只中をまっすぐに通るのです。その道が通るところでは、谷は谷でなくなり、山は山でなくなる。そのことによって、主の栄光が現れるのです。

 主の道をまっすぐにする

 このために遣わされた一人の人として、洗礼者ヨハネが記されています。このヨハネが語った言葉に注目したいと思います。ヨハネは言います。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」。優れているのは私ではなく、私の後から来られる方である。その人は確かに私の後に来られるが、初めである方だ。わたしのしていることは、この方のためであり、自分のためではない。そのことをはっきりと語るのです。

主の道を整える。

 それは、自分のための何かを作ることでも、自己実現のための道を探すことでもありません。それは、自分のための道を整えるだけの歩みを終わることです。この世の荒れ野、私達の内にある荒れ野をまっすぐに突っ切って行く主の道が通るように、自らの思いではなく、そこを通られる主の思いがなることを願うことです。

永遠に立つ神の言葉
 私達が自分のために整える道には終わりがあります。イザヤ書40章は語ります。

 「肉なる者は皆、草に等しい。
 永らえても、すべては野の花のようなもの。
 草は枯れ、花はしぼむ」。

 私達の歩みは初めがあるということは、他でもなく終わりがあるということです。ですから、自分のために道を作る歩みは、それがどんなに素晴らしく見えたとしても、いずれ枯れてしぼんでしまうものです。しかし、続けて、次のように語られている。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。終わりのないもの私達の神の言葉。私達の世に介入してきている神の言葉。この永遠が私達の間にやってきている。初めがあり終わりがある私達の歩みの中に、永遠である神の言葉が同じく初めを持つものとして介入してきているのです。
 マルコによる福音書、この世で起こっている私達の福音の初め、イエス・キリストを記したものです。その最後の章、16章には、空の墓の記事が記されています。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメが、十字架に架けられ死んだイエスが納められた墓に行ってみると墓石がわきへと転がっている。墓の中に白い長い衣を着た若者がすわっており言うのです。今月の聖句に選ばれている箇所です。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
   「墓」とは、私達が最後に行き着く場所です。初めを持っている私達の終わりが「墓」であるといって良いでしょう。しかし、私達の福音の初めにおられる主イエスは復活され、そこにおられない。マルコによる福音書、「主イエス・キリストの福音の初め」の最後の部分は、時間の中に歩むものにとっての終わりとは異なっているのです。

終わりに

 私達の周りを見回すと、そこには世の荒れ野が広がっている。自分を顧みれば、自身の内に荒れ野がある。しかしその中で、主イエス・キリストの福音、喜びの知らせがはじまっています。荒れ野にあってはじまっています。荒れ野がただ広がっているのではなく、そこに、主の声が響いているのを聞くからです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。この声に促されて、私達は、このイエス・キリストの福音に連なるものとして、主と共に歩みだしたいと思います。

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