主日礼拝

安息日の主

「安息日の主」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第56章1-7節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第2章23-28節
・ 讃美歌:206、577、467

安息日にしてはならないこと
 本日与えられました箇所はマルコによる福音書の第2章23節から28節です。聖書の福音書が描き出す主イエスは、枕するところもなく、いつでも歩き続けておられる方です。ガリラヤの町々、村々を巡り歩きます。そして、エルサレムへと向かって旅をされるお方です。そのお方は、麦畑を通って行かれます。その日は安息日でありました。安息日は人間の業が止められる日です。けれども主イエスは立ち止まることをなさりません。立ち止まることなく、神の国の福音を宣べ伝えます。主イエスと一緒にいた弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めます。すると、ファリサイ派の人々は主イエスに言いました。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」(24節)ファリサイ派の人は、主イエスの弟子たちが勝手に人の麦畑で穂を積んで食べたのがいけないと言っているのではありません。それは神様から与えられた掟である律法において許されていました。空腹である者は、人の畑の作物を取って食べてもよいという掟がありました。しかし、自分が食べる以上に採ってそれを売ったりすることは許されていません。自分の飢えをしのぐことのみが許されているのです。神様は畑の所有者がそれを許すことによって貧しい人、飢えている人を助けるべきことを命じておられるのです。ファリサイ派の人々が批判したのは、弟子たちがこれをしたのが「安息日」だったからです。安息日には、一切の仕事をやめて休むことが律法に定められています。
 ユダヤ人の生活は主なる神の言葉である、律法を守るという生活です。律法の中心はいわゆる十戒です。主エジプト記第20章8節に記されている「安息日を心に留め、これを聖別せよ」との戒めを、ユダヤ人は真剣に受け止めていました。この安息日には、仕事をすることなどはもってのほかでした。例えば律法学者たちは二文字以上の文字を書くことも禁じられた労働のうちに入るのではないかと議論をしていたほどでした。「麦の穂を摘む」ということも当然禁じられていました。麦の穂を摘むことは刈り入れという仕事に当り、手でそれを揉むのは脱穀という仕事に当る、それゆえにこれは安息日にしてはならないことだ、とファリサイ派の人々は言っていたのです。ユダヤ人たちは、安息日の掟をそのように非常に大切に守っていたのです。彼らはそのことによって自分たちが神様の民であることを確認していました。安息日を守ることによって周囲の人々と自分たちとの違いをはっきりさせようとしていたのです。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」(24節)と咎めたファリサイ派の人々は、神様の律法を厳格に守り、そのことによって神の民としてしっかりと生きようとしていた人々だったのです。

主イエスのお答え
 主イエスはこの問いかけに答えて3つのことをお話になました。第1にダビデの話をされたのです。25、26節で主イエスはこう言われます。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」この話は旧約聖書サムエル記上21章にあります。ダビデはこの時既に神様のみ心によってサムエルから油を注がれてイスラエルの新たな王として立てられていましたが、実際にイスラエルを支配しているのは現在の王であるサウルです。ダビデはそのサウルの妬みによって命を狙われ、逃亡の身でした。そのダビデが、ある聖所において祭司にパンを求めたのです。しかしそこにはあいにく、律法において祭司しか食べてはならないと定められている供えのパン、つまり神様に捧げるものとして取り分けられていた聖別されたパンしかありませんでした。サムエル記の話では、祭司アヒメレクがそのパンをダビデに与えたとなっています。マルコによる福音書ではそれを、「ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えた」としています。ダビデは、祭司にしか許されていないパンを食べ、一緒にいた家来たちにも与えたのです。なぜ主イエスはここでこの話をなさったのでしょうか。ダビデは王様としての権威を与えられていたのだから、必要とあれば律法を超えて、それに反することだってすることができた、だから自分もまことの主として、安息日の律法に反することをすることができるのだ、ということではありません。王様なら律法を破ってもよい、と言うわけではありません。むしろ王様こそ、人々の先頭に立って誰よりもきちんと律法に従って、つまり神様のみ心に従って歩むべきだ、というのが聖書の示す教えです。ダビデがしたことは、神様のみ心に適うこと、神様が望んでおられることだったのです。神様はダビデをイスラエルの王として選び、立て、王位を与えようとしておられます。しかし今、サウルによって命を狙われ、逃亡の身です。そのダビデが空腹によって弱り、サウルに捕えられてしまうことは、神様のみ心ではないのです。それゆえに、ダビデが供えのパンを食べて力づけられ、命を救われることは、神様のみ心に適うことです。そのパンがそのように用いられることを、神様は願い、また喜んでおられるのです。
 つまりこのことは、表面的には律法に反することであるように見えるけれども、その律法をお与えになった神様のみ心には決して反していないのです。神様がイスラエルの民に律法、掟をお与えになったのは、民が神様の民として、その祝福の内に歩み、神様の守りと導きを受け、また神様をしっかりと拝み、仕えて歩むためです。その目的のためにこそ律法はあるのであって、表面的な事柄を守ることが目的ではありません。ダビデと供の者たちがここで供えのパンを食べることは、律法の目的に叶うことなのです。律法、神様の掟は、それが何を目指しているのか、神様がその掟においてどのようなことを求め、願っておられるのかをわきまえつつ受け止めることが大切です。そのことこそが、神の掟、律法を正しく守ることなのです。

ダビデの子である主イエス
 また主イエス御自身がこの「ダビデの子」だからです。神の国の到来を宣言しておられる主イエスは「ダビデの子」なのです。主イエスはやがて、十字架の死を控えてエルサレムにお入りになります。その時に民衆は「ダビデの子にホサナ」と言って迎えました。主イエスはダビデのように、いやそれ以上に深く確かな御業をもって神の国を確立するためにこの世に来られたのです。そのことを自覚しておられたので、主イエスはここでダビデのことを語られました。その意味では主イエスの弟子たちは、王の弟子であり、この王の支配をもたらすためには働く人々なのです。
 そして主イエスは27節で更に「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われました。これのことが主イエスが2番目に語られたことです。「人の子」と言う表現は主イエスがご自分のことをおっしゃる時に使われた言い方です。主イエスはここで、神様によって王として立てられたダビデが自分の判断で、律法では食べてはならないとされていたパンを食べ、供の者たちにも与えたように、主イエスも、安息日の主として、弟子たちの空腹を満たしてやるために、安息日にはしてはならないとされていることでも行なうことができるのだ、と言っておられるのです。

安息日の掟
 十戒の第四の戒めである安息日の掟が語られている聖書の箇所は二つあります。一つは出エジプト記の20章8~11節です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。ここには、「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあります。つまり自分が仕事を休むだけでなく、自分の家族や、自分の保護の下にいる人々、いや人々だけでなく家畜にまで、神様が七日目にお休みになった、その安息を与え、それにあずからせなければならない、と命じられているのです。つまり彼らに休みを与えよということです。そのためにこそ、一家の主人であるあなたが仕事を休み、日々の営みを停止するのです。そうしなければ、彼らに安らぎが与えられないからです。
 このことは、十戒を語っているもう一つの箇所、申命記の第5章にもはっきりとあります。その12~15節には「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」とあります。14節の終わりに、「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」とあることに注目しなければなりません。あなたの下にいる奴隷たちに休みを与えること、これが安息日の律法の大切な目的の一つなのです。そしてその根拠として15節には、あなた自身がかつてエジプトで奴隷であったが、主なる神様がそこから導き出し、奴隷の身分から解放して下さった、ということがあげられています。出エジプト記の20章においては、神様が天地創造のみ業において七日目に休まれたことが安息日の根拠とされていますが、申命記では、エジプトの奴隷状態からの解放の恵みが安息日の根拠なのです。それは、あなたの下にいる奴隷たちにも休みを与えるためです。奴隷の苦しみに喘いでいる人々に、神様の解放の恵みを味わわせ、希望を与える、そのために安息日が定められているのです。

本当の意味
 主イエスの弟子たちは「麦の穂を摘んだ」という理由で、ファリサイ派に咎められました。ファリサイ派の人は真剣だったのです。安息日をしっかりと守らなければならない、それを真実に守るのにはどうしたらよいのか、と問い続けました。問い続ける内に、安息日の本当の意味を見失ってしまったのです。人を生かすことではなく、人を裁くことに思いがいってしまったのです。正義の名において、そのことが正当化されてしまったのです。私たちもそういう罪を犯しているのではないでしょうか。神の賜物であるはずの安息日を、人間の義務にし、それによって人を裁いてしまう。「だから」私たちには主イエスが必要なのです。主イエスは私たち人間から安息を奪うあらゆるものに対して対抗してくださるのです。安息日に麦の穂を摘まないという小さなことさえ、それが主イエスと私たちとを引き離すものであれば、主イエスは断固として反対されます。主イエスは安息日を創造された主なる神の子、また「人の子」として私たちを救い、私たちを救いの安息の中に導き入れて下さる安息日の主であります。そして御自分を「安息日の主」であると宣言されたその主イエスは、十字架の死への道を歩まれたのです。主イエスの十字架の死によってこそ、私たちのまことの安息が、罪の奴隷状態からの解放が実現したのです。主イエス・キリストは、神様をも隣人をも愛するのではなく憎んでしまう罪に支配されている私たちが赦され、解放されて、神様の恵みの中で自由に、神様と隣人を愛して生きる者となるために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスのご生涯はそのような歩みでした。十字架にかかって死んで下さり、そして復活された主イエスこそ、私たちを本当に解放し、まことの安息を与えて下さる「安息日の主」なのです。主イエスは言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」神は独り子を通して、私たちのために安息を造り、私たちを安息へと招いて下さい。私たちはこの方のもとにおいてのみ、本当の安息、真実の憩いが与えられるのです。

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