「主の家族とはだれか」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第27編7-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第3章31-35節
・ 讃美歌:19、51
<主イエスの家族>
主イエスの家族、と聞いて、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。
まず、主イエスを産んだ母のマリアが、思い浮かびやすいかも知れません。
マルコ福音書には主イエスの誕生の経緯は詳しく書かれていませんが、マタイ福音書やルカ福音書には、マリアがヨセフという婚約者と一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもり、ベツレヘムという町に滞在中に出産をして、飼い葉桶の中に寝かせた、ということなどが語られています。
これは、主イエスが聖霊によって宿られた「まことの神の子である」ということと同時に、一人の人間の女性から生まれ、「まことの人間になられた」ということを明らかにしています。
そして、主イエスとその母となったマリアを迎え入れた、ヨセフがいます。
さらには、主イエスがお生まれになった後、マリアとヨセフの間に子供が与えられています。主イエスの兄弟、ということになりますが、それはマルコの6:3に、故郷の人々が主イエスのことを「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言っていることから、分かります。
ヨセフの名前がないので、この時にはもう亡くなっていたようですが、主イエスにはこの時、母マリアと、4人の弟たちと、何人かの妹たちがいたのです。
「家族」といえば、わたしたちはまずこのような肉親や血縁関係を思い浮かべるのではないでしょうか。そして主イエスも確かに、このような「家族」の中で育ち、生活し、生きておられました。
<主イエスを取り戻しに来た家族>
この主イエスの家族がやってきました。
実は、二週間前の夕礼拝でご一緒に聞いた聖書箇所の3:21にも、主イエスの「身内の人たち」が登場していました。ここにも、母マリアや兄弟たちがいたかも知れません。
身内の人たちがやってきた目的は、主イエスを「取り押さえ」るためでした。なぜなら、人々が、主イエスのことを「あの男は気が変になっている」と言っていたからです。
主イエスは30歳ごろから、救いの御業のために活動を始められたと考えられています。主イエスは、「神の国の福音」を宣べ伝え、多くの癒しや悪霊を追い出す業を行っておられました。
「神の国の福音」とは、1:15にある、活動の初めから主イエスがずっと語り続けておられることです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
これは、神の恵みのご支配が近付いたことを人々に告げ、神から離れている罪の歩みをやめて、神に立ち帰りなさい、という知らせです。そして、このメッセージがまことに神からのものであることを示すために、主イエスは癒しや奇跡の業を「しるし」として行っておられたのです。
しかし、このことを受け入れない人々は、主イエスのことを「気が変になっている」と言ったり、主イエスの力を悪魔の力だと言ったりして反発しました。
また主イエスは、人々の間で地位も高く権威のある律法学者と論争をして、反感を買い、とても危うい立場に立っておられました。
そんな主イエスを放っておけない、と思ったのでしょう。家族、身内の人たちは、主イエスを取り押さえ、自分たちの許で大人しくさせておこうと思ったようです。
母であるマリアは、主イエスが聖霊によって自分の胎に宿った「神の独り子」であることをよく知っていますが、また同時に、自分がお腹を痛めて産んだ「我が息子」です。
主イエスが神の御子であるということがどういうことであるか、何をすることなのか、具体的には分からなかったでしょうし、いざ、主イエスが神の御業を行なう時が来ても、戸惑いばかりであったでしょう。マリアはいつしか主イエスのことを、神の救いを実現する神の御子としてではなく、肉親の家族として、大切な愛する息子として、見ていたのかも知れません。
このようにして、主イエスを取り押さえに来た身内、家族は、前回は失敗しましたが、再び、主イエスを自分たちのところに連れ戻そうとして、やってきたのです。
<だれが家族か>
31節では「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。32節には、「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」とあるので、人が多くてマリアや兄弟たちは近づくことができなかったのかも知れません。しかし、その主イエスを取り囲む輪の中に入って行こうとはしませんでした。呼び出して、自分たちの許に来させようとしたのです。
そんな家族を見て、主イエスに告げる人がありました。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」
それを聞いて、主イエスは言われました。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。」
自分の家族に対して、あの人たちはわたしとは関係ない、ということです。なんて冷たい答えなんだろう、と感じてしまいます。
しかし主イエスはここで、肉親や家族との関係を超えた、もっと重要な、主イエスとの「関係」とは何かについて、語ろうとしておられるのです。
主イエスは、マリアたちのことを「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言った後、周りに座っている人々を見回されました。
主イエスの周りには、大勢の人が座っていました。これらの人々は、主イエスの教えを聞こうとして、または、癒しや救いを求めて、主イエスの許に集まってきた人々です。
これらの人々を見つめて、このように言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また、母なのだ。」
「神の御心を行なう人」。それが、主イエスの兄弟であり、姉妹であり、また母である。神の御心を行なう人こそが、主イエスの家族である。そのように主イエスは語られます。
<神の御心を行なう人>
では、神の御心を行なう、とはどういうことなのでしょうか。熱心なことでしょうか。禁欲的で清く正しい人のことでしょうか。良い行いをたくさんしている人のことでしょうか。立派で尊敬される人になることでしょうか。
そう言われてしまうとわたしたちは、「神の御心を行なうなんて自分には中々出来そうにない、主イエスの家族になる資格は得られそうにない、自分はふさわしくなれない」などと思ってしまいそうです。
こういった思いは、すでに洗礼を受けている方も思うかも知れませんが、洗礼を受ける前の方が、特にこれに似たようなことを仰るのを、お聞きするように思います。
自分はまだ洗礼を受ける段階に達していない。知識不足だし、立派になれないし、まだまだダメです。もっとちゃんとしてから、ちゃんと色々分かってから、洗礼を受けます、というのです。
でも、洗礼を受けること、つまり、主イエスが自分の救い主であると信じ、この方の十字架と復活によって罪を赦され、神の恵みの中を生きる者とされることは、自分の努力や、聖書の知識や、人としての立派さで得られるものなのでしょうか。決してそうではありません。
それは同時に、わたしは頑張っているし、良いことをたくさんしている、だいたい神さまのことも分かってきたから、わたしは救われるのにふさわしい、なんていうことも決してないということです。
わたしたちは、生きておられる主イエスと出会い、神に救っていただく他には、救われる道はないのです。わたしたちが出来ることは、神から一方的に与えられる救いを受け取り、自分をその恵みに、神の御手に委ねることだけです。それが洗礼を受けるということです。わたしたちは、神を信頼して、神の恵みのふところに飛び込むだけなのです。
そして、それこそ、神が望んでおられることなのです。
神の御心とは、神から離れ、罪に捕らわれ、滅びへと向かっているわたしたちが、神の方へと向き直り、神のもとに立ち帰り、神の愛をしっかりと受け止めて、神と共に歩んでいくことです。
主イエスは、この救いへと人々を招き、また、すべての人に罪の赦しを得させるために、神の国の福音を宣べ伝え、そしてご自分がすべての人の罪を担って、十字架の死へと向かわれるのです。
この主イエスの招きに応き、御言葉に耳を傾けること。これこそ、神の御心を行なう人となることなのです。
<外と内>
34節に書かれていること、主イエスが言われた言葉を、もう一度よく聞いてみましょう。「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。
主イエスは、ご自分の周りに座っている人々を見て、その人たちを、わたしの母、わたしの兄弟と呼んでいます。そしてそれは、彼らこそ、神の御心を行っている、と仰っているのです。
周りに集まった人々は、主イエスの言葉を聞いて、あるいは噂を聞いて、教えを聞いてみたいと思った。知りたいと思った。病を癒してもらいたいと思った。苦しみを取り除いて欲しいと思った。それで、主イエスのところにやってきた。そのような人々です。
彼らは、立派とか、信仰熱心とかではなく、とりわけ弱く、貧しく、孤独な、小さい人々ではなかったでしょうか。
そして、彼らは他に何をするでもなく、ただ、主イエスの許にやって来たのです。
彼らの中で、主イエスがどなたかを、本当に分かっている者はいませんでした。ただ、行なわれている奇跡や癒しを求めて来ただけかも知れないし、興味本位だったかも知れない。
しかし主イエスはそれでも、「見なさい。わたしのところに来た。それが神の御心だ。あなたはわたしの兄弟だ。わたしの姉妹だ。わたしの家族だ。」ご自分の許に来た者に、そのように語りかけて下さるのです。「わたしはあなたの家族だ。」そう言って下さるのです。
そして、主イエスの方が、一人一人をしっかりと捕らえ、その手を離そうとはなさらず、まことの救いを教え、与えようとされるのです。神の御心を、主イエスが行って下さるのです。
そして、血の繋がりが切っても切れない関係である血縁の家族以上に、もっと深く強い関係を結んで下さるのです。
ここに集うわたしたちもそうです。礼拝に集ったのは、神の招きがあったからに他なりません。
わたしたちの内にある思いや動機は、実は様々だったのかも知れません。学校の宿題かも知れないし、苦しみを抱えてかも知れないし、聖書のことを知りたいとか、知人に誘われたとか、たまたま入ってみたとか、それぞれに事情は異なります。
しかし、わたしたちは皆、この神を礼拝する場所に、神によって招かれ、集められたのです。そして、聖書を通して主イエスのみ言葉を聞いている。祈りをささげ、賛美をし、生きておられる神との交わりを与えられている。ここで神が語りかけておられ、それを聞こうとしているのです。
そんなわたしたちを、主イエスは「あなたはわたしの家族だ」「神の御心を行なう人だ」と言って下さる。そして、神の力によって、わたしたちに恵みを、救いを与えて下さるのです。慰めと、癒しと、平安を与えて下さるのです。
しかし、主イエスのもとに来ないなら、外に立っているだけなら、主イエスは肉親の家族であっても、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われます。
マリアや兄弟たちは、主イエスの福音を聴き、神の招きに応えて来たのではなくて、主イエスを取り押さえ、自分たちのところに連れ戻しに来たのです。主イエスを遣わされた神の御心に従うのではなく、自分たち家族の思いに主イエスを従わせようとして、やってきたのです。
自分の思い中心では、自分の思い描くように物事を支配しようとする中では、神の救いに自分を委ねることは出来ません。神のご支配を、受け入れようとしていないのです。
だから主イエスは、招き続けておられます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」「わたしの許に来なさい。良い知らせを聞きなさい。神の救い、神の恵みを受け入れなさい。」
外に立っているのではなく、主イエスの許へ行くこと。御言葉を聞き、神のわたしたちへの愛、わたしたちを救うという御心を知り、主イエスの招きに応えること。それが「神の御心を行なう人」なのです。
<御心に従い抜くことができるのは主イエスだけ>
しかし、わたしたちには、見つめておかなければならないことがあります。
主イエスの許に集り、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と主イエスに言っていただいた人々は、その後どうなったでしょうか。
主イエスが十字架に架かられる時には、この時に集まっていた人々はもとより、最も近くで従っていた弟子たちさえ、主イエスから離れてしまったのです。
わたしたちも、救いを知りながら、恵みを受け、主イエスに受け入れられていながら、しかし目の前のことに捕らわれたり、自分の思いが強くなったり、神の力を疑ったりして、主イエスの許を離れてしまうこと、神への思いが揺らぐこと、罪に陥ることが、生きている限り繰り返しあります。
わたしたちは神の御心からすぐに離れてしまう。本当に、罪深く、弱い者です。
では、離れてしまったら、その時点でわたしたちは主イエスの家族失格になるのでしょうか。神の家族であり続けるには、御心を行なう人であり続けるには、どうしなければならないのでしょうか。
何度も繰り返しますが、わたしたちは、自分の意志や、努力や、行ないによって、主イエスの家族になれたり、なれなかったりするのではありません。
神の御心に、まことに最後まで従い抜くことができるのは、神の御子、主イエスただお一人です。それは主イエスにとっても簡単なことではありませんでした。主イエスは、わたしたちと同じ、まことの人となって下さいました。わたしたちの苦しみ、悲しみ、恐れ、不安を、すべてご存知です。あらゆる誘惑や、弱さを、ご存知です。
十字架の前に、主イエスが祈られた祈りが、マルコ福音書の14:32以下に書かれています。そこには、「イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに(弟子たちに)言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい』」。とあります。
恐れもだえるほどの苦しみを味わわれた。しかし、こう祈られました。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
主イエスは、父なる神の御心が行われることを祈り、恐れ、もだえ、苦しみつつ、神のご計画にご自分を委ねられたのです。
こうして、主イエスが神の御心に最後まで従順に従い抜いて下さり、わたしたちの罪のために、十字架に架かって死んで下さいました。そして父なる神は、主イエスを十字架の死から復活させられました。
そうして、救いの御業が成し遂げられたことを示し、またわたしたちが罪から解放され、死の滅びから救われ、わたしたちも神と共に生きる永遠の命にあずかること、復活の体を与えられることを、約束して下さったのです。
主イエスが、わたしたちのすべての罪を担い、神の御心に従うことができないわたしたちに、赦しを与えて下さいました。ご自分の御業によって、神の御許に帰ることを赦して下さいました。主イエスの十字架の死に与って、罪を赦された者として歩むこと、主イエスの復活に与って、神の子として歩むことを、わたしたちに赦して下さったのです。
この赦しの中でこそ、わたしたちは神の招きに応えることができます。立ち帰ることができます。御言葉を聞き続けることができます。
どんなに弱く、罪深い歩みであっても、主イエスが、御言葉を聞いた者を確かに捕らえて下さり、「わたしの家族だ」と言って下さる。繰り返し罪に陥るわたしたちを、ご自分の十字架の死による罪の赦しの中に置いて下さり、繰り返し招き、繰り返し「恵みの中に留まりなさい」と語りかけて下さるのです。
その御声の中で、わたしたちは、神の御心を求めるように、神の喜びを求めるように、神の力によって、聖霊の導きによって変えられていきます。神の恵みを何度も受け、何度も癒され、何度も強められ、何度も立ち上がらされる中で、神を「父よ」と呼び、ますます、神に頼り、信頼し、愛する者、神の御心を行なう人とされていくのです。