「神の国は近づいた」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第96編1-13節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章14-15
・ 讃美歌:10、494
<神の国はどんな国?>
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
主イエスが宣べ伝えられた、神の福音です。神の福音とは、神の「良い知らせ」ということです。教会は、主イエスご自身がこの福音を語って下さってから、今もずっと、このことを宣べ伝え続けていますし、これからも宣べ伝え続けます。この知らせに、喜びがあり、救いへの招きがあり、そして希望があるからです。
それは、どのような喜びであり、なぜ救いであり、どんな希望なのでしょうか。どうしてわたしたちにとっての「良い知らせ」、福音なのでしょうか。そのことを、共に御言葉から聞いていきたいと思います。
まず、わたしたちは「神の国」について、知らなければならないと思います。神の国は、どのような国なのでしょうか?
初めて「神の国」と聞いたら、多くの人は、昔話や物語に聞くような「天国/極楽」みたいなことかな、とか、死んだ後に良いことをした人の魂が行く、平和で楽しい場所、というようなイメージを持つかも知れません。
でも、聖書で用いられている「国」という言葉は、そもそも国土や場所を表す言葉ではありません。これは「王であること」や、その「支配」「主権」を意味する言葉です。つまり、「神の国」というときには、それはどこかの場所ではなくて、神が王となって支配なさる、ということを表しており、「神の支配」という意味なのです。
ですから、神の国は、人が死んだ後に行くような「場所」などではありません。
神の御子、主イエスは、まことの人となってこの世に来られ、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言されました。「神の国」は、この地上を生きている者、わたしたちに「近づいて」くるものです。時は満ち、神の国、つまり神の支配が近づいた、というのは、この世に、ここに、王なる神の支配が及ぶ、その時がついに来た、ということなのです。
<まことの支配者>
しかしわたしたちは、「支配」というと、あまり良い印象を持ちません。わたしたちの世における「支配」というのは、人を従わせる強制的な力を持つからです。この地上の国を治めるためには、何らかの体制が必要で、「権力」を行使しつつ、色々な仕方、色々な力での「支配」が行われています。民主主義だって、多数による支配、ということであり、この決定によって人の行為を規定したり、制限したりしています。そうして、地上の国、人々の生活は、何らかの「支配」のもとで営まれています。
しかしまた、日本にいるわたしたちは、政治的な支配があるとしても、自分の人生や生き方を、他の何者かに支配される、などということは、思いもよらないのではないでしょうか。わたしの人生は、わたしのものであり、わたしが支配していると思っている。自分の人生を、他の誰かに支配され、強制されるようなことはない。自分の思うように自分の人生を支配し、自由に、何でも望むように歩んで行ってよい。そう思って、色々と計画を立て、よりよい人生を、満たされた生活を、求めていこうとしているのではないでしょうか。
しかし、主イエスは告げます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」
神の国。神の支配。まことの支配者は、この世のすべてをお造りになった神なのです。
わたしたちをまことに支配する者は、世の支配者ではないし、ましてやわたし自身でもありません。この世を、わたしをお造りになった方、この方だけが、わたしたちをまことに支配する方なのです。今や、その神の支配が来た。だから、この方に立ち帰りなさい。福音を信じなさい。そのように、主イエスは告げられたのです。
このことが宣べ伝えられたのは、世のすべての人が、その造り主である神に逆らい、神から離れてしまって、罪の中に捕えられているからです。神と共に生きるようにと造られた人間が、神から離れてしまうことが、聖書で言う「罪」ということです。
それはどういうことか、ということが、創世記のアダムとエバの物語で示されています。これは、すべての人が陥っている罪の物語です。神が造られた世界に住む、神に造られたアダムとエバは、蛇から誘惑を受け、神が生きるために必要なものをすべて与えてくださった楽園の中で、ただ一つ禁じられていた、善悪を知る木の実を食べました。蛇は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」と誘ったのです。それで人は、自分が神のようになり、神のご支配から逃れ、自分の力で自由に生きられると思いました。でも、神の支配から出ることは、自由ではなく、罪に支配されるということでした。神との関係を破り、またそのことによって、隣人との関係をも破壊していくことでした。
造り主である、まことの神のご支配の中でこそ、神との関係の中で生きることにおいてこそ、人は本当の自由を生きることが出来るのです。
罪に支配され、神とも、隣人との関係も破れてしまった人間に、神は御自分の御子イエスを遣わして下さいました。
そして、「神の国は近づいた。神こそがまことの支配者だ。救いの約束の時が来て、神の支配が来るのだから、あなたたちは、悔い改めて、神のもとに帰ってきなさい。神がまことの支配者であることを受け入れなさい。神の福音を信じなさい。」そのように、主イエスは宣べ伝えられたのです。
<世の支配の中で>
しかし、この神の支配を、わたしたちはこの世にあって、どのように知り、どのように受け入れたら良いのでしょうか。こんなに苦しく、悲しいことが多く、不公平で、弱い者が虐げられるようなこの世界に、本当に神の支配があるのだろうか。そんなふうに思ってしまいます。いっそ、死んだら全く新しい別の幸せな国に行ける、と言われた方が、分かりやすいかも知れません。こんな世の中で。そう思います。
しかし聖書は、主イエスがこのことを宣べ伝えられた当時の時代も、わたしたちが今もそう感じているように、とても神が支配なさっているとは思えないような状況だったことを語っています。
14節には「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き」と書かれていました。
この「ヨハネ」は、1:2節以下に語られているように、旧約聖書で「救い主が来る前に、その道を整える者」として預言されていた、神に遣わされた人物です。ヨルダン川で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を授けていたので、洗礼者ヨハネと呼ばれていました。このヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と言って、主イエスが旧約聖書の時代から預言されていた、神の救いを実現する「救い主」であることを人々に指し示したのです。
この洗礼者ヨハネが、「捕えられた」とあります。マルコによる福音書の6章14節以下には、ヨハネが捕えられ、殺されてしまったいきさつが詳しく語られています。
ヨハネを捕えたのは、当時この地域を支配していたヘロデ・アンティパスです。ヘロデは、自分の兄弟の妻と結婚したことを、律法違反だとヨハネに咎められたのです。それで、ヨハネを捕えて牢につなぎました。ヨハネは正しい人であり、指摘したことは真っ当なことでしたが、ヘロデは権力にモノを言わせ、自分に不利なこと、権力を揺るがすようなことを言うヨハネを捕え、口を封じたのです。
ここには、まことの神を畏れず、人が支配者となって神のように振る舞い、そのために正しい人を捕え、命さえ奪ってしまう、そんな人の罪の恐ろしさが描かれています。
そして世界は、まさにこのような利己的な人の支配、世の支配に、すべて覆われてしまっているように見えるのです。
しかし、主イエスはこの状況の中で、ガリラヤへ行き、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言されました。
「ガリラヤ」は9節に「イエスはガリラヤのナザレからきて」とあるように、ご自分の出身地でもありますが、同時にこのヘロデが支配している地域でもあります。世の不正や権力が力を振るうど真ん中で、神の御心に背く人の罪の只中で、主イエスは神の支配が来たことを告げ、まことの王である神の許に立ち帰りなさいと言われたのです。
この罪の世の現実は、わたしたち自身の人生においても、同じであると言えます。わたしたちは確かに理不尽で不正に満ちた世の支配の中で生きていますが、それだけでなく、わたし自身の人生においても、わたしは神を忘れ、自分が支配者となり、神を退け、人を傷つけ、思うままに振る舞って生きているのではないでしょうか。
しかしそのわたしたちの罪のど真ん中に、主イエスは来られて、あなたのまことの支配者は神である。あなたの王は、あなたではなく、神である。この方に自分を明け渡し、受け入れなさいと、告げられるのです。
<神の支配=主イエスの到来>
この神の支配は、どのようになされるのでしょうか。それは、わたしたちが思う、地上の支配のように、わたしたちを支配するのではありません。わたしたちは、支配される、というと、力ずくであったり、圧倒的な権力であったり、抵抗できない力によって服従させられる、と思うのではないでしょうか。神の支配が、もし悪党が一気に滅びる、というようなものだったら、たぶんわたしも一緒に滅びてしまいます。
しかし、神の支配は、わたしたちの思いもよらない方法でなされるのです。
「神の国は近づいた」という主イエスの言葉は、14節で「神の福音を宣べ伝えて」とあるように、「神の福音」と言われています。そして1:1には「神の子イエス・キリストの福音の初め」とありました。つまり、この「神の国/神の支配」は、「神の福音」であり、それは「主イエス・キリストの福音」なのです。神の国は、この方によって実現するのです。神が旧約聖書の時代から約束されていた通り、神の御心を実現なさる救い主として、神の御子イエス・キリストが世に来られた。そのゆえに、時は満ち、神の国は近づいた、と言われたのです。それが、福音です。
ところが主イエスは、圧倒的な力で人々を支配する、威厳ある王として来られたのではありませんでした。神の子でありながら、罪人と同じように悔い改めの洗礼を受け、神から離れて歩む、この世の破れと苦しみにある人々の只中に立たれたのです。主イエスは、王ではなく、僕となられました。そして、人を力で支配し、奪い、殺すのではなく、むしろ人に仕え、与え、人を生かしました。それが神のご支配です。
主イエスが、神の国、神のご支配を宣べ伝え、その「しるし」として神の権威を現されたのは、マルコのこの後ところで語られていきますが、人を苦しめる悪霊を追い出すこと、病を癒すこと、罪を赦すこと、死んだ人を生き返らせることにおいてです。神の支配は、人を癒し、慰め、命を与えます。それが、まことの王である神のご支配の「しるし」です。
そして、神の支配が、この世に打ち立てられるのは、主イエスの十字架の死による、すべての人のための罪の赦しの出来事によってです。主イエスは、この神の国の福音を宣べ伝えつつ、十字架の死に向かって歩んで行かれました。主イエスの十字架の死は、わたしたちが神との関係を破壊し、神に背いた、その罪を償って下さるためのものなのです。
神に立ち帰りなさい、神から離れてしまったことを悔い改めなさい、と言われた時に、自分が神のようになり、神との関係を自ら捨ててしまった人間は、神のところに戻る道をすっかり失ってしまいました。罪に支配される者となり、死に捕らわれている中で、自分の力では、神の許に立ち帰ることは出来なくなったのです。しかも本当は、この罪によって、神に裁かれ、滅びに定められる者なのです。神は公正に裁かれる方です。その裁きの前に、わたしたちは有罪を宣告されるしかない者なのです。
しかし、神は、わたしたちが神の許に立ち帰り、神の恵みの支配の許で、神と共に生きる者となることを望んで下さいました。それを、御心として下さいました。
そのために、神の御子イエスご自身が、わたしたちの罪の中にまで、闇の底にまで降ってきて下さり、その罪をすべてご自分の身に負って、ご自分の命によって、贖って下さったのです。神の公正な裁きにおいて、わたしたちが神に赦され、新しい命を生きる者となるために、御自分の命を与えて下さったのです。力ずくの支配ではなく、御自分の十字架の死によって罪を赦し、罪の中にあるわたしたちに、神のご支配を来たらせて下さったのです。
十字架で死なれた主イエスを、父なる神は三日の後に復活させられました。このことによって、わたしたちは、罪の赦し、神のご支配を確かにされ、また死の支配からも解放されているのだということ。主イエスを復活させて下さった神が、信じる者をも終わりの日に復活させて下さるということを、確かな希望として、約束として、与えられたのです。
主イエスはこのようにして神の支配を実現させて下さいます。わたしたちは、自分の努力や、頑張りや、反省することなどによって、神の国に到達したり、罪の赦しを得たり、救いを得られるのではありません。わたしたちは自分で何もできないのです。ただ、主イエスがご自分の命によって与えて下さった罪の赦しを信じ、神の許に立ち帰り、感謝して受け取ることしか出来ないのです。そうして、神の支配の中で生きることへと招かれているのです。
主イエスは、ガリラヤで「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられた後、この十字架と復活の道を歩んで行かれ、救いの御業を実現して下さいました。
これが、福音です。主イエスの十字架と復活のご生涯において実現した、わたしたちの救いの出来事です。わたしたちに罪の赦しと、命を宣告する、神の支配を告げる、良い知らせです。
<神の国の完成を待ち望む>
この知らせを、教会は宣べ伝え続けています。復活の主イエス・キリストが、この福音を信じなさいと、語りかけて下さいます。この福音が語られるところに、確かに、神の恵みによるご支配があります。
神の支配を信じることは、決して思い込みや、現実逃避のようなことではありません。神の国は、この世に来ました。時は満ちたのです。主イエス・キリストは、まことの人となって、わたしたちの罪で覆われたこの世界に来られ、神の約束を実現し、苦しみや悲しみ、貧しさを担い、すべての者の罪を負って下さったのです。
神の恵みのもとには、確かに、癒しと、慰めと、平安があります。キリスト者は、みな、具体的な世の歩みにおける、苦しみや、悲しみや、また罪の只中で、確かに神が支え、導き、生かして下さる。慰めを与え、癒しを与えられ、平安を与えられ、立ち上がらせて下さる。その恵みを繰り返し味わい、繰り返し神に立ち帰り、神の支配に生きるのです。
どんな苦しみも、悲しみも、恐れも、死も、神が支配しておられます。そしてそこにしか、希望はありません。わたしたちがこの世で得るもので、確かなものは何もありません。ただ神の恵みだけが、確かです。復活の主イエスとの出会いと、交わりの中で、この世の支配は、本当にわたしたちを支配することは出来ず、まことの神だけが、わたしを恵みの内に支配して下さる、その御手の内に保って下さるということを、信じることができるのです。
この神のもとに、わたしたちは帰らなければなりません。神と共に生きるところに、本当の人間の喜びと、自由が与えられるのです。
そしてわたしたちは、神の国の完成を待ち望みます。それは、天に上げられた復活の主イエスが、再び来られる日、終わりの日に実現します。
確かに神の国は、主イエスによってわたしたちのところに到来しました。しかし、いまだ完成はしていません。まだ、神の支配は、すべての者に明らかになってはいません。
神を知らずに、闇に捕らわれている者、神から離れて生きている者、神の支配を知らない者がまだ多くいます。神の御心は、すべての人が福音を信じることです。終わりの時まで、主イエスはこの福音をすべての人に告げ知らせることをお命じになりました。
ですから、教会は、まだこの知らせを知らない者たちに、福音を宣べ伝え続けるのです。主イエス・キリストの十字架と復活を語り続けるのです。わたしたちは、この世に対して、神の恵みのご支配が確かにあることを、事実、神に生かされているその自分の歩みにおいて、証しすることができます。そして、終わりの日に、復活に与り、神の支配が世のすべてに明らかになる、その救いの完成の日を、希望を持って待ち望んでいるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」この喜びを、救いへの招きを、唯一の希望を、わたしたちは知らされていますし、一人でも多くの人に宣べ伝えていきたいのです。