「主イエスは墓に葬られた」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第88編1-19節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章42-47節
・ 讃美歌: 1、314、525、81
主イエスの十字架の暗さ
主イエス・キリストは十字架の上で息を引き取られました。マルコによる福音書のその場面を先週の礼拝において読みました。この福音書が伝えている主イエスの十字架の上での最後の、そして唯一のお言葉は、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」でした。その意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。それは文字通り、父なる神に見捨てられてしまったという絶望の言葉なのだということを先週の礼拝においてお話ししました。主イエス・キリストは、神に見捨てられた絶望の内に死なれたのです。そのことを割引なしにしっかりと見つめることによってこそ、主イエスの十字架の死は、同じ絶望の闇に閉ざされてしまう私たちの救いの出来事となるのです。つまり、主イエスの十字架の死という出来事の徹底的な暗さを見つめることが大事なのです。そこに中途半端な明るさを見出そうとすると、例えば主イエスは十字架の死に臨んでもなお父なる神に信頼しておられたのだ、などということにしてしまうと、主イエスの十字架の死は、私たちの絶望と関わりのないものになってしまいます。そしてそれは私たちの絶望の闇を照らす光ではなくなってしまうのです。主イエスの十字架の徹底的な暗さを見つめることによってこそ、それは私たちが陥る深い絶望の闇をも照らす光となるのです。
詩88編
先ほど、旧約聖書、詩編第88編が朗読されました。これは詩編の中で最も暗い詩です。その15節に「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか」とあります。この問いは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という主イエスの十字架上での叫びと重なるものです。また16、17節にはこうあります。「わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧倒し、あなたを恐れてわたしは滅びます」。これも、主なる神の怒り、憤りの下で自分は滅ぼされようとしているという絶望を語っています。そして最後の18、19節においては「それは大水のように絶え間なくわたしの周りに渦巻き、いっせいに襲いかかります。愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」とこの詩がしめくくられています。光の全く見えない暗闇に閉ざされたまま、この詩は終わっているのです。何とも救いのない絶望的な詩であり、私たちは聖書の中にこのような詩があることを不可解に思ったりもします。けれども、私たちは時として、まさにこの詩のような暗闇、絶望に陥ることがあります。心配し、祈ってきた後藤健二さんがついに殺害されてしまったという今朝のニュースを聞いた私たちは今まさにその暗闇、絶望の中にいます。「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」と終わっているこの詩はまさに今の私たちの思いを代弁している、これはまさに私たちのことだ、と感じているのです。主イエスの十字架を覆っているのもこの詩と同じ暗闇です。主イエスもまた、「主よ、なぜわたしの魂を突き放し、なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか」と叫び、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という絶望の中で死なれたのです。その暗闇の深さゆえに、主イエスの十字架の死は、苦しみ、悲しみ、絶望の中におり、光を見出せない暗闇に閉ざされている私たちにとって、まさに自分のこと、身近なことなのです。
主イエスの埋葬
さて本日ご一緒に読む42節以下は、十字架の上で息を引き取られた主イエスの遺体が埋葬されたことを語っている所です。42節に「既に夕方になった」とあります。主イエスは、午前9時に十字架につけられ、午後3時頃に亡くなりました。間もなく夕方になろうとしている時刻です。「その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので」とあります。ユダヤの暦では、一日は日没から始まります。つまり夕方になって日没が近づいていたということは、翌日になろうとしていたということです。その日没から安息日が始まろうとしていたのです。安息日には遺体を埋葬するような仕事をすることができません。ですから亡くなった主イエスの遺体を、日が暮れる迄に、急いで埋葬する必要があったのです。それで42節、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」のです。「この人も神の国を待ち望んでいたのである」とあります。ヨセフは救い主メシアによる神の国の到来を待ち望んでおり、主イエスに対して好意的な思いを持っていたので、議員の一人だったけれども、主イエスをピラトに引き渡した議会の決定には反対していたのでしょう。身分の高い議員である彼が十字架の死刑になった主イエスの遺体の引き取りを願い出ることは大変勇気のいることでした。総督ピラトは、「イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い」と44節にあります。朝の9時に十字架につけられた者が午後3時に死ぬというのは、普通よりかなり早かったのです。それでピラトは百人隊長を呼び寄せて、本当にもう死んでしまったのかと確かめた上で、遺体の引き渡しを許しました。それでアリマタヤのヨセフは、主イエスの遺体を十字架から降ろして亜麻布で巻き、岩を掘って造った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がして蓋をしました。そのようにして、主イエスの遺体は日没前、金曜日の内に墓に葬られたのです。
「葬られ」の大切さ
アリマタヤのヨセフによって主イエスの遺体が墓に葬られたことは、四つの福音書全てが語っています。福音書を書いた四人全員が、主イエスが十字架にかかって死んだことだけでなく墓に葬られたことをぜひ書いておかなければならないと考えたのです。主イエスが葬られたことは、教会の信仰においても大切なこととして告白されていきました。先ほどご一緒に告白した使徒信条には、主イエスが「苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」と語られていました。「葬られた」ことを抜きにして主イエスの受難、十字架の苦しみを見つめることはできない、と使徒信条は語っているのです。使徒信条と並ぶもう一つの基本信条であるニカイア信条は、「十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ」となっています。つまりニカイア信条には「死にて」という言葉はなくて「葬られ」だけがあるのです。勿論「葬られた」は「死んだ」という意味を含んでいるのであって、使徒信条とニカイア信条とで告白していることが違うわけではありません。ここで注目したいのは、どちらの信条においても、「葬られた」ことが、「苦しみを受け」「十字架につけられ」と並んで、主イエスの歩みを言い表すために欠かすことのできないものとされていることです。主イエスが墓に葬られたことは、私たちの信仰においてとても大事なことなのです。だから四つの福音書全てがそれを語っているのです。それでは、主イエスが墓に葬られたことは私たちの信仰においてどのような意味を持っているのでしょうか。
墓に葬られる絶望
そのことを考えるために、もう一度先程の詩編88編に戻りたいと思います。この詩の前半には、墓とそれに関係する言葉が多く出てきます。4?6節に「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失った者とされ、汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました」とあります。自分は墓に横たわる死人のようになってしまった、と詩人は嘆いているのです。「命は陰府にのぞんでいます」も「穴に下る者のうちに数えられ」も、「墓に横たわる者となりました」と同じことです。次の7節の「あなたは地の底の穴にわたしを置かれます、影に閉ざされた所、暗闇の地に」も同じことを語っています。そして、このように死んで墓穴に葬られてしまうことが絶望である理由が6節の最後の二行に語られています。「あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」。つまり、死んで墓に葬られた者には神はもはや心を留めて下さらない、彼らは神の御手から切り離されてしまっている、だからそれは絶望なのです。そのことは11?13節にも語られています。「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がってあなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が、忘却の地で恵みの御業が告げ知らされたりするでしょうか」。死んで墓に葬られた者は、もはや神から切り離されており、神が彼らに驚くべきみ業をなさることはもうないのです。墓の中は滅びの国、忘却の地なのであって、そこでは神の恵みの御業がなされ、神の慈しみが語られ、それに感謝することはもうないのです。これが、旧約聖書における死についての基本的な捉え方です。死んでしまったらもう神から切り離されてしまい、神との交わりが断たれてしまう、それゆえに死は絶望であり、死後の世界、陰府とは暗黒の世界なのです。墓に葬られるとはその暗黒の世界に閉じ込められることであり、この詩人は生きながら墓に葬られたような暗闇の中にいるのです。詩人はそういう絶望を語っているのであって、そこにこの詩の暗さの根源があるのです。
主イエスが死んで墓に葬られたことは、この絶望を主イエスご自身が味わい、この暗闇の中に身を置かれたことを意味しています。この詩人が本当に深い苦しみの中で、光の全く見えない暗闇に閉ざされた絶望を体験している、まさにそれと同じことを、主イエスは十字架の死と、そして墓に葬られたことにおいて体験なさったのです。先ほど、この詩と同じ暗闇が主イエスの十字架を覆っていると申しましたが、主イエスが墓に葬られたことにおいてこそ、この詩が語っている暗闇が主イエスを覆い尽くしたと言うことができるのです。主イエスが墓に葬られたことに大事な意味があるというのは、このことによって、詩編88編の詩人が語っている、神に見捨てられ、その怒りによって滅ぼされ、もはや神とのつながりを断たれてしまう、その全く光の見えない絶望の闇の中に、主イエスご自身が身を置かれたからなのです。
墓は復活の場でもある
しかし事はそれで終わりではありませんでした。主イエスが葬られた墓、それは次の16章においては、主イエスの復活の場となります。主イエスの埋葬のことが丁寧に語られているのは、そのように埋葬された主イエスが復活なさったことを語るための備えなのです。またここには主イエスの埋葬を見届けた女性たちのことが語られていますが、それは、三日目の週の始めの日の朝、この女性たちがこの墓で、主イエスの復活を最初に告げられたことを語るための備えなのです。この女性たちは、40、41節においては、主イエスの十字架の死を遠くから見守っていたと語られています。主イエスの十字架の死と葬りとを見ていた女性たちが、主イエスの復活の証人として立てられていったのです。このようにこの埋葬の場面は、復活の場面への備えとなっています。四つの福音書全てに埋葬のことが語られているのはそのためだと言えるでしょう。墓に葬られた主イエスは、父なる神によって復活し、その墓から、死と闇の支配から、神に見捨てられ滅ぼされる絶望から、解放されたのです。主イエスが葬られたことの大事な意味はここにこそあります。つまりそれは、あの詩編88編が語っている暗闇、絶望の中に主イエスご自身が身を置かれたということであると同時に、父なる神の力によって主イエスがこの墓から、神に見捨てられ、その怒りによって滅ぼされ、もはや神とのつながりを断たれてしまう、全く光の見えない絶望の闇から解放されて復活した、その救いの恵みの大きさがここに示されているのです。
主イエスの十字架の徹底的な暗さを割引なしに見つめることが大切なのだ、そのことによってこそ、主イエスの十字架は私たちが陥る絶望の闇を照らす光となるのだ、ということを、先週も、そして先程も申しました。そのことはさらに具体的には、主イエスが墓に葬られたことにおいて示されている、詩編88編が語っている出口のない絶望の闇を見つめることによってこそ、主イエスの復活によってその墓が開かれ、絶望の闇の中に新しい光が輝き、闇を打ち砕いた、その救いの恵みがはっきりと見えてくる、ということです。主イエスは死んで墓に葬られた、その主イエスが父なる神によって復活させられ、墓から解放されて新しい命、永遠の命を生きる者とされた、そこに、私たちは私たち自身の救いの希望を見出すのです。
死の支配下にある絶望
私たちは誰もが皆、遅かれ早かれ、地上の人生を終えて死んで墓に葬られていきます。墓に葬られることが人生の歩みの終着点であることを誰もが知っているのです。それゆえに私たちはそこにある平安や安らぎを求めています。死んだ人に向かって「安らかにお眠りください」と語りかけることもその現れですし、墓をいわゆる「終の住処」と考えて、墓石に「安らぎ」とか「憩い」という文字を彫ることもあります。地上の人生における苦しみや悲しみからの解放として死を捉えるという感覚もあります。そのようにして私たちは死を何とかして平安として捉えようとしているのです。しかしそれは、私たちの中に、死に対する深い恐れがあることの現れです。死が、光の全くない暗闇であり絶望であることを私たちは心の奥底で感じているのです。しかしそれは余りにも恐ろしい、まさに絶望的なことですから、そのことは見ないようにしている、むしろ死は平安なのだと思い込もうとしているのです。「千の風になって」という歌に根強い人気があるのもそのためです。あの歌が語っているのは、私は死んでも墓の中にいるのではない、形を変えて、風になって愛する者たちを見守っているのだと思いたい、という人間の願望です。つまり死の支配を否定しようとしているのです。墓に「憩い」と彫って「安らかにお眠りください」と祈ることと、「私のお墓の前で泣かないでください」というあの歌とは、一見全く違うように見えて、実は同じ思いに基づいているのです。それは死の支配による絶望を否定したい、死は絶望ではないと思いたい、ということです。それに対してあの詩編88編は、死の支配による絶望を赤裸々に語っています。死において、神に見捨てられ、神の怒りによって滅ぼされ、もはや神とのつながりを断たれてしまう、墓に葬られることにこの詩はそういう絶望を見ているのです。それは私たちがなるべく見たくない、否定したいと思っていることです。私たちは、死は平安の内に憩うことなのだ、千の風になって愛する者たちと共にいることができるのだ、と思いたいのです。しかし死とは、やはり命を失うこと、まだ生きたいと願っていてももはや生きることができなくなることであり、愛する者たちから切り離されてしまうことであり、神の恵みを失ってしまう苦しみ、絶望であることを、私たちは否定することができません。いわゆる天寿を全うしての大往生なら、その苦しみや絶望は少ないのかもしれませんが、それでも本人にとっては死ぬことはやはり苦しみ悲しみであるかもしれません。まして、世の中には様々な心残りがある中での、無念の死があります。このたびの出来事のように、まさに理不尽に殺されてしまう、ということがあるのです。そうでなくても、何の心残りもなく満足して死ぬことができる人などそういないでしょう。だから死は、やはり私たちが味わう最も大きな苦しみ悲しみであり絶望です。そして墓は、その死の力が私たちの人生を支配していることの目に見える印です。墓は私たちに、お前も最後は死に捕えられてここに葬られて終わるのだ、と語りかけているのです。
主イエスの復活による希望
十字架につけられて死んだ主イエスは墓に葬られました。それは、神の独り子であられる主イエスが、死の苦しみを体験し、死の支配の下に身を置かれたということです。主イエスは、神に見捨てられ、その怒りによって滅ぼされ、もはや神とのつながりを断たれてしまう、その全く光の見えない絶望の闇の中に身を置いて下さり、死の絶望を一切の割引なしに味わって下さったのです。このことによって主イエスは、死の力に支配されており、それをどんなに否定しようとしても、無念のうちにそれに捕えられて墓に葬られるしかない私たちと共にいて下さり、私たちより先に、死の苦しみ、絶望を味わって下さったのです。私たちがこの苦しみと絶望に直面する時、そこには先に、十字架につけられ、死んで葬られた主イエス・キリストがおられ、支えて下さるのです。そして主イエスの父である神は、主イエスを墓から解放し、復活させて下さいました。主イエスをも支配した死の力を神は打ち破り、それに勝利して、復活の命を与えて下さったのです。私たちは信仰において、復活して今も生きておられる主イエスと結び合わされ、主イエスの復活の命にあずかって生きる者とされます。そこには、私たち自身も墓から解放され、復活と永遠の命を与えられるという希望が見えて来るのです。私たちの人生を最終的に支配するのは、死の力ではなくて、それに勝利した神の愛、恵みです。墓が私たちの「終の住処」なのではなくて、神が私たちを墓から解放して、復活と永遠の命を生きる者として下さるのです。主イエスが墓の中から復活したことを信じる者は、この希望に生きることができるのです。
この希望を見つめている者は、主イエスの十字架の徹底的な暗さを見つめることができます。この世を支配している人間の罪の深さと、死の支配の下に置かれている苦しみと絶望をありのままに見つめ、人間の力でその罪と死の支配による絶望の闇を打ち払うことはできないことを、詩編88編が語っている全く光の見えない絶望こそがこの世界の、私たちの現実であることをごまかさずに見つめることができるのです。そしてその絶望の闇に閉ざされている中で、なおそこで私たちは、主イエスを復活させ、死の力に勝利して下さった神の力とそのご支配を信じて、暗闇の中に一筋の光を見出し、その光の方へと一歩を踏み出していくことができるのです。
主イエスの葬りは希望の拠り所
主イエスの十字架の死と葬りとを見つめるとは、私たち人間が神に背き逆らう罪によって命の源である神から離れてしまって、罪のもたらす死の支配の下に置かれていることを見つめることです。私たちは、自分の、また他の人の罪によってもたらされる苦しみ悲しみを背負って生きており、そして最後には死の力に捕えられて墓に葬られるという絶望の現実を生きています。その絶望をできるだけ見ないようにして、必死に身を守ろうとしていますが、絶望は様々な出来事においてその不気味な姿を表し、そして最後には死によって私たちを捕えていきます。しかし主イエス・キリストがその私たちの現実の中に来て下さり、十字架にかかって死んで葬られることによって絶望と死の支配下に身を置いて下さり、そして父なる神が主イエスを復活させて墓から解放して下さったことによって、神の恵みの力によって私たちも死の支配から解放され、主イエスに与えられたのと同じ復活と永遠の命を生きる者とされるという希望が示されたのです。主イエスの葬られた墓が復活の場となったことによって、私たちの死の苦しみも葬りも、復活と永遠の命へと向かう一歩となりました。主イエスが死んで墓に葬られたことによって、既に死んで墓に葬られた人々にも、このたび無念の死を遂げたと思われる兄弟にも、そしてこれから死んで墓に葬られていく私たちにも、希望の拠り所が与えられているのです。