「滅びないもの」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章6-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第13章28-31節
・ 讃美歌:134、204、469
いちじくの木からの教え
本日ご一緒に読むマルコによる福音書第13章28節に「いちじく の木から教えを学びなさい」という主イエス・キリストのお言葉が記 されています。いちじくの木は、主イエスがおられた地域ではごくあ りふれた、どこにでもある木でした。主イエスはそういう身近な木を 用いて教えを語られたのです。主イエスがここでお語りになった教え を知るために、私たちは何もいちじくの木を捜す必要はありません。 私たちは、私たちの身近にある木を、例えば桜の木を見つめればよい のです。桜というのは、考えてみると面白い木です。花が咲いている 時、花見の頃には葉は一枚もありません。緑が全くない枝に、あのピ ンクの花が一面に咲くわけです。そしてその花が散ると、瞬く間に緑 の葉が生え出てきて、いわゆる葉桜になります。その葉が秋になると 散り、冬場は枝だけの、冬枯れの姿になります。そのように木の様が 劇的に変わっていくことに私たちは、四季折々の風情を感じているわ けです。主イエスもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わ っていくことを示しておられます。それによって教えようとしておら れるのは、移り変わっていく木の姿から、今がどのような時なのかを 知れ、ということです。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近 いことが分かる」、桜にあてはめれば、葉桜を見れば、もうじき夏が 来ることが分かる、ということです。
歴史的感覚
ここに、聖書における物事の見方、捉え方の一つの特徴が表れてい ます。それは、物事を時の流れの中で捉え、今がどのような時で、こ れからどうなっていくのかを考える、ということです。それは私たち 日本人があまり意識しない感覚だと言えるでしょう。桜の木の姿に四 季折々の風情を感じるというのは、毎年繰り返される自然の営みのリ ズムを感じるということです。それを「円環的感覚」と言い表すこと ができます。一年なら一年というひとめぐりの環の上を繰り返しぐる ぐる回っている、そのリズムを感じているのです。そこには終わりは ありません。毎年四季は繰り返されていき、いつまでも続いていくの です。未来永劫とはそういう感覚です。それに対して主イエスが「葉 が伸びると、夏の近づいたことが分かる」と言っておられるのは、今はこうなっている、だからこの先はこうなっていく、というふうに物 事の変化の先を見つめる感覚です。それは円環的というよりも直線的 な感覚です。それを歴史的感覚と言うこともできます。歴史の年表を 思い浮かべて下さい。年表は直線的です。そういう直線的な歴史の流 れの中を生きているという感覚です。円環的感覚では歴史を見つめる ことはできません。それは歴史ではなく自然を見つめる感覚です。自 然における四季の移り変わり、そこにおける花鳥風月の風情を楽しむ には、円環的感覚が適しています。そこでは、葉桜になったから夏が 近いことが分かる、などというのは無粋な思いであって、これからど うなるかではなくて、花が咲けば花見を楽しみ、その散る様をいとお しみ、葉桜を喜び、冬枯れの姿を愛でる、ということでよいのです。 しかし人間の社会や歴史は、そのように眺めて愛でているだけでは済 みません。そこでは、過去を振り返り、過去の影響の下にある現在を 見つめ、今どうすることによってこれからどうなっていくという展望 を持って、将来に向かって進んで行かなければならないのです。
人の子が戸口に近づいている
主イエスがいちじくの木から学べと言っておられるのは、そういう 歴史的感覚です。しかもそれは、私たちがよく耳にしているような、 これからの世界経済はどうなっていくかとか、少子高齢化が社会にど のような影響を及ぼしていくか、気候変動によって地球はどうなって いくか、などといった、勿論それぞれに非常に大切なまた深刻な問題 ではありますが、しかし目先の歴史を見つめる感覚ではありません。 主イエスはもっと根本的な、この世の終わりをも視野に入れた歴史的 感覚を持つようにと言っておられるのです。29節に「それと同じよ うに、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸 口に近づいていると悟りなさい」とあります。いちじくの葉から夏の 接近を知るように、「これらのこと」を見たら「人の子が戸口に近づ いている」ことを悟れ。「人の子が」という言葉は原文にはありませ ん。先週読んだ26節に「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯 びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と語られていたこととのつな がりで、戸口に近づいているのは「人の子」だということが分かるの です。そしてそれは、主イエスがもう一度この世に来られ、それによ ってこの世が終わる時が近づいているということです。主イエスの再 臨によるこの世の終わりを視野に入れた歴史的感覚を持て、と主イエ スは言っておられるのです。
世の終わりは始まっている
「これらのことが起こるのを見たら」の「これらのこと」とは何で しょうか。私たちはそれをこの13章のこれまでの所で読んできまし た。それは、戦争や戦争のうわさ、民と民、国と国の敵対、地震や飢 饉などの天変地異、また信仰のゆえの迫害、あるいは偽者の救い主の 出現といった、様々な苦しみのことでした。人の子がもう一度来られ る前には、そのような苦しみが起るのです。それが次第に頂点に達し ていき、天地創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦 難が襲って来るのです。しかしそれは、いちじくの葉が伸びて夏の近 いことが分かるのと同じように、人の子が戸口に近づいている、つま り主イエスがもう一度来られることによってこの世が終わろうとして いる、そのことの徴なのだと悟れ、と主イエスは言っておられるので す。
これらの苦しみは、将来それが襲って来たら、いよいよ世の終わり が近いことを知ることができる、というものではありません。この福 音書が書かれ、読まれた時の教会の信者たちは、既にこれらの苦しみ の中にいたのです。戦争や地震や飢饉、迫害、偽者の救い主の出現な どは全て、彼らにとって将来のことではなくて、今直面し体験してい ることです。そしてそれは私たちもまた、彼らとは違った仕方でやは り直面し、体験していることです。戦争や戦争のうわさは今私たちの 周囲で大きくなっています。民は民に、国は国に敵対するような事態 が私たちの周囲にも多々起こっています。大きな地震や津波によって ある日突然全てを失うということも起こっているし、信仰のゆえに迫 害を受けることも、この社会において今次第に起こり始めています。 この福音書が書かれた当時の教会の人々も、また私たちも、「これら のこと」が起こるのを既に見ているのです。だから「人の子が戸口に 近づいている」ことを悟るべき時は、いつかではなくて今です。初代 の信仰者たち以来、教会は常に、「人の子が戸口に近づいている」こ とを、つまりこの世の終わりが既に始まっていることを意識しつつ歩 んでいるのです。そのことを視野に入れて生きることが私たちにも求 められているのです。
世の終わりを意識して生きるとは
しかしそれは、あと何年で主イエスがもう一度来てこの世が終わる のか、ということをいつも考えながら生きるということではありませ ん。「人の子が戸口に近づいている」という言葉をそのような感覚で 捉えるなら、初代の教会の時代からもう二千年が経とうとしているの に、まだ人の子は来ていない、主イエスのこのお言葉は間違っていたのではないか、ということになるでしょう。しかしこのお言葉は、世 の終わりまであと何年か、ということを考えさせようとしているので はないのです。教会の歴史の中には時折そういう間違いに陥った人 々が現れました。何年何月何日にこの世が終わる、などと言い出す人 が現れたのです。そのような思いに捕えられてしまった人は、本来神 様から自分に与えられているはずの日常の生活に手がつかなくなって しまいます。そして例えば、一切を放棄してお祈りばかりしているよ うになったりするのです。祈ることは悪いことではありませんが、こ のような祈りは、神様から自分に本来与えられているこの世における 務めを放棄してしまうということにおいて、「もうじきこの世が終わ るなら、今さら何をしても仕方がない、せいぜいやりたいことを好き なだけして楽しもう」という享楽的な生き方と本質的には変わりませ ん。「人の子が戸口に近づいている」ことを意識しつつ生きる信仰者 の生き方とはそのようなものではないのです。
それではどのように生きることが、世の終りを意識して生きること なのでしょうか。宗教改革者ルターが語った言葉とされていますが、 「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植 える」という言葉があります。この言葉に現されている生き方こそ、 「人の子が戸口に近づいている」ことを、つまりこの世の終わりが始 まっていることを正しく意識して生きる信仰者の生き方なのです。
このルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚 が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによ って今の時代の意味を捉え、将来への展望を持って、今自分がなすべ きことを見定め、実行していくことです。つまり、「私は今日リンゴ の木の苗を植える」ということに示されているように、今をしっかり と生きることです。そのような歴史的感覚は、「あと何年でこの世は 終わるのか」、つまりこの世はあと何年持つのかとこの世の耐用年数 を量っているだけのところには生まれないのです。そこには展望がな いからです。展望を見失ってしまうと私たちは、その時その時の喜び や快感を求めて脈絡なく、場当たり的に生きる、つまり刹那的な生き 方に陥ることになります。あと何年でこの世が終わるのか、というこ とに振り回されるところに生じるのは、全てを放棄して祈りに専念す ることも含めて、歴史に対する責任を放棄した刹那的な生き方なので す。
しかし、このルターの言葉に言い表されているように、この世の終 わり、終末を見つめつつ、なお刹那的な生き方に陥らずに歴史的感覚を持って、つまり将来への展望を持って今をしっかりと生きることは とても大変なことです。この世の終わりとは、この世の全てが滅びる 時です。私たちのこの世における営みが無に帰する時です。そういう 滅びや喪失、崩壊に直面する時に私たちは、展望を失います。そし て、この世における労苦は結局無駄なのではないか、一生懸命に生き ても結局は空しいのではないか、という思いに捕われて、歴史に対す る責任を放棄してしまい、刹那的な生き方に陥ってしまうことが多い のではないでしょうか。
死は終末の先取り
それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありま せん。私たちの人生の終わりである死を見つめる時にも同じことが起 ります。死は、私たちの人生の終末であり、この世において自分が持 っている全てのものを失う時であり、この世における自分の営みが無 に帰することです。そういう死が自分にも必ず訪れるのだし、人生は その死に向かって確実に近づいているのです。死は私たちに「終わ り」があることを意識させます。私たちの人生が、閉じられた円の上 をぐるぐるといつまでも回っているのではなくて、始めがあり終わり がある直線なのだということを、死が教えているのです。つまり死 は、私たちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、 この世の終わり、終末を私たちに見つめさせるのです。この世の終わ りが、私たちの人生において先取りされるのが死であると言うことが できます。その死を正面から見つめる時、私たちはやはり空しさに捕 えられ、刹那的になっていくし、そうならないためには、明白な事実 である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をし て、ごまかして生きている、それが私たちの現実なのではないでし ょうか。それゆえに、「たとえ明日この世が終わるとしても、私は今 日リンゴの木の苗を植える」と言ったあのルターの言葉は驚くべきも のです。それは言い換えれば、明日死ぬことが確実に分かっていると しても、私は今日も自分のいつもの仕事をする」ということです。こ のように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じ ることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生 き方はどこから生まれるのでしょうか。
神の言葉は滅びることがない
その秘密は、本日の箇所の31節にあると言うことができるでし ょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。ここに は、天地が滅びること、つまりこの世が終わり、人間の営みが全て無 に帰することが明確に見つめられています。しかしそれと同時に、そ の終わり、喪失、崩壊においても決して滅びることのないものがある ことが見つめられているのです。その「滅びないもの」とは「わたし の言葉」です。主イエス・キリストの言葉、神様のみ言葉です。天地 が滅びても、神の言葉だけは決して滅びない、その滅びないものを見 つめる時に、そこには展望が与えられ、刹那的にならない生き方が与 えられていく、主イエスはそのことを私たちに見つめさせようとして いるのです。
天地は滅びても神の言葉は決して滅びない、本日共に読まれた旧約 聖書の箇所、イザヤ書第40章6節以下にもそのことが語られていま す。主の風が吹きつけると、草は枯れ、花はしぼむ、しかし私たちの 神の言葉はとこしえに立つ。その草や花とは、「肉なる者は皆、草に 等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」とありますか ら、この世を生きている私たちのことです。私たちは、主の風、熱風 によって、草や花のように枯れ、しぼんでいくのです。そのことが私 たち一人一人の人生において起こるのが死であり、この世界全体に最 終的に起こるのがこの世の終わりなのです。しかしその終わりの時の 崩壊、滅亡を越えて、神の言葉はとこしえに立ち、決して滅びない。 ルターは、その決して滅びることのない神の言葉を見つめていたので す。それゆえに、全てのものが滅びていくこの世の終わりを見つめつ つ、また自らの人生の終わりである死をも見つめつつ、なお展望をも って、刹那的になることなく、「明日この世が終わるとしても、私は 今日リンゴの木の苗を植える」と言うことができたのです。
主イエス・キリストによる救いを告げる神の言葉
ルターが見つめていた、決して滅びることのない神の言葉、それは 主イエス・キリストによる救いを告げる言葉です。天地を造り、今も 支配しておられる主なる神様が、その独り子イエス・キリストをこの 世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十 字架にかかって死んで下さったのです。それによって神様は私たちの 罪を赦して下さり、私たちを神の子として下さったのです。神の言葉 は、この主イエス・キリストの十字架による救いを私たちに告げてい ます。その神の言葉が聖書に語られており、私たちは毎週の礼拝にお いてそのみ言葉を聞いているのです。天地が滅びても決して滅びるこ とのない神の言葉を、私たちも今こうして聞いているのです。
この神の言葉が、天地が滅びてもなお滅びることがないというのは 本当でしょうか。天地が滅びて人間が皆死んでしまえば、どのような 言葉も人間と共に滅びてしまうのではないか、意味をなさなくなるの ではないか、と私たちは思います。しかしそうではないのです。その ことを告げているのが、主イエス・キリストの復活です。神の子主イ エスは、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった だけではありません。その主イエスを、父なる神様が復活させて下さ ったのです。つまり主なる神様が死の力を打ち破って、主イエスに、 新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。それは、私たちにも同 じ復活の命、永遠の命を与えて下さるためです。主イエスを復活させ て下さったことによって神様は、私たちをも死の支配から解放し、永 遠の命を与えて下さるという救いを約束して下さっているのです。神 の言葉は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現した 神様のこの救いの約束を告げ知らせています。言い換えれば、独り子 イエス・キリストによって示された神様の愛が、死の力をも打ち破る ものであり、私たちの人生の終わりである死を越えてなお私たちを新 しく生かすものであることを、神の言葉は告げているのです。それゆ えに、この神の言葉は、そこに示された神の愛は、私たちの死と共に 滅びてしまうようなものではないし、この世の終わりに天地が滅びて も、それと共に滅びてしまうことはないのです。この世の終わりに天 地が滅びる、そのことは既に始まっており、そこに向けての苦しみを 既に私たちは味わっています。私たちが、確実に近づいて来る自分の 死へと向かう中で味わう様々な苦しみも、その終わりへと向かう大き な苦しみの一環です。しかしそれらの大きな苦しみを経て、最終的に 実現するのは、26節に語られていたこと、「そのとき、人の子が大 いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」というこ となのです。つまり人の子主イエスが、神としての、救い主としての 力と栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配が誰の目にも明ら かな仕方で確立するのです。それによって私たちの救いが完成し、復 活と永遠の命が与えられるのです。天地が滅びて終わる時に、主イエ スのご支配が確立し、私たちの救いが完成する、そのことを神の言葉 は私たちに告げ、約束しています。神の言葉を聞きつつ生きる私たち は、この世における苦しみを、人の子主イエスが戸口に近づいている ことの徴として受け止め、主イエスが来られた時には、私たちの救い が完成し、死に勝利する復活の命が与えられることを待ち望みつつ、 忍耐と希望に生きるのです。
私は今日リンゴの木の苗を植える
ルターが見つめていたのもこの神の言葉であり、そこに告げられて いる神の愛、主イエス・キリストの十字架と復活による救い、そして 主イエスがもう一度来られることによる救いの完成の約束です。この 神の言葉を、私たちも毎週礼拝において聞いています。それによって 私たちは、死によっても滅びない神様の愛を示され、死を越えた、こ の世の終わりを越えた展望と希望を与えられています。それは決し て、これから先世界がどうなるかが分かっている、ということではあ りません。この先何が起るかは誰にも分かりません。しかし私たち は、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、救いを与えて下 さった主イエスが、復活して今も生きておられ、この礼拝において私 たちと出会い、共にいて下さることを知っています。そしてその主イ エスは、私たちが様々な苦しみ悲しみを味わう時、あなたのその苦し みは、私がもう一度あなたがたの所に行って救いを完成することが近 づいている徴なのだ、と語りかけて下さるのです。この主イエス・キ リストとの交わりに生きている私たちは、ルターと共に、「たとえ明 日この世が終わるとしても、私は今日リンゴの木の苗を植える」と言 うことができます。この世の終わりをも、自分の死をも正面から見つ めつつ、主イエスの十字架と復活によって約束されている永遠の命へ の展望と希望を、滅びることのない神の言葉によって与えられ、神様 が今自分に与えて下さっているこの世での役割を忍耐強く果たし、こ の世の歴史に対して責任を持って生きていくことができるのです。