主日礼拝

神の国は誰のものか

「神の国は誰のものか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第7章6-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章13-16節  
・ 讃美歌:115、205、470

子供への祝福を求めて来る親たち  
 本日ご一緒に読む聖書の箇所、マルコによる福音書第10章13節以下には、主イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来たことが語られています。主イエスに触れていただくため、というのは、最後の16節に「手を置いて祝福された」とあるように、主イエスに祝福していただくため、ということです。親たちは子供たちを祝福してもらおうとして連れて来たのです。そこで彼らが願い、期待していたのは、主イエスに触れてもらうことによって子供たちが無事に元気に良い子に育つように、ということだったでしょう。これと同じようなことは私たちの周囲にもあります。偉いお坊さんに触れてもらうと無病息災のご利益がある、と思われていることがあるし、子供たちが無事に元気に良い子に育つことを願っての儀式は、七五三を始めとして、様々な形で行なわれています。子供の健やかな成長を願うのは親の自然な思いです。この人たちもそういう素朴な思いで、子供たちへの祝福を求めて主イエスのもとに来たのです。

主イエスのために配慮する弟子たち  
 しかし主イエスの弟子たちはこの親たちを叱り、追い返そうとしました。その弟子たちの思いは私たちにも分かります。私たちも弟子たちの立場にいたら同じことをしたのではないかと思うのです。先週の礼拝において読みましたが、10章の1節には、主イエスの一行がそれまでいたガリラヤ地方を去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれたことが語られていました。主イエスはガリラヤから南へと移動を始めたのです。その目的地はエルサレムです。次の11章には、主イエスがエルサレムに入られたことが語られており、その週の内に主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。つまり10章から始まったエルサレムへの旅は十字架の苦しみと死へと歩みです。主イエスはそのことをはっきりと自覚しておられました。既に二度に亘って、ご自分が間もなく捕えられ殺されることを予告しておられたのです。弟子たちにはそのお言葉の意味がしっかり分かってはいませんでしたが、主イエスがこれからかなり緊迫した大事な場面を迎えようとしておられる、そのためにエルサレムへと向かっておられることは感じ取っていたでしょう。今大事な時を迎えようとしておられる先生にできるだけ余計な負担をかけないようにしなければ、と彼らは考えていたのでしょう。主イエスのもとには、ただでさえ多くの人々が来て、病気を直してもらおうとしたり、あるいは先週の所に語られていたように、敵対しているファリサイ派の人々が来て論争をしかけたりしていたのです。この上子供たちにまでまつわりつかれたら、主イエスは疲れ果ててしまう、弟子たちはそういうことから主イエスを守ろうと配慮、気配りをしているのです。そういう弟子たちの思いはよく分かります。私たちも同じことをしただろうというのはそういうことです。

いいかげんな信仰を責める弟子たち  
 弟子たちにはさらにこういう思いもあっただろうと思います。それは、子供への祝福を求めてやって来るこの親たちは身勝手だ、という批判の思いです。彼らは、主イエスの都合など考えずにやって来て、自分や家族への祝福だけを求め、それを受けると元通りの自分中心の生活へと帰って行くのです。彼らは、主イエスに従って生きようとか、自分の生活や財産をなげうって主イエスの弟子となり、従って行こうなどという気持ちはこれっぽっちも持っていません。自分と家族の幸せ、満足のみを求め、そのために主イエスを利用しようとしているのです。そんな身勝手な願いに付き合う必要はない、と弟子たちは思ったのではないでしょうか。そしてそこに当然潜んでいる思いは、自分たちは全てを捨てて主イエスに従っている、いろいろな苦しみを背負いながら、主イエスの弟子として歩んでいるのだ、という思いです。我々は、自分の幸せだけを求めているこの連中とは違う、だからこの親たちを叱り、追い返す権利がある、と考えていたのでしょう。弟子たちのこの気持ちも、私たちにはよく分かるのではないでしょうか。私たちの間でも、人によって信仰の成長の度合いが様々に違います。この親たちと同じような、自分や家族の幸福だけを追い求めているような信仰から、弟子たちのようにいろいろなことを投げ打って主イエスに従っている信仰まで、成長の度合いというか、熱心さが違っているのです。そういう歩みの中で、信仰が成長し、より熱心になり、神様と教会にいろいろな形で身を献げて奉仕していくようになればなる程、つまり弟子たちの信仰に近づいていけばいく程、私たちはこの弟子たちの思いが分かるようになっていきます。自分や家族に祝福を求めることばかりを求めていて、神様のため、教会のために身を献げて奉仕しようとしない者たちのことが我慢ならなくなっていき、そのような人たちを批判し、責めるようになるのです。その思いの裏側には、自分は信仰においてこれだけのことをしている、身を捧げて神様と教会に、また隣人に奉仕している、という誇り、自負があります。そういう誇りや自負を覚えれば覚える程、いいかげんな信仰に生きている人々を批判し、責める思いが強くなっていくのです。弟子たちはそのような思いで、この親たちを叱り、追い返そうとしたのでしょう。私たちも、この弟子たちと同じようなことをしばしばしているのではないでしょうか。

憤る主イエス  
 しかし14節には、「イエスはこれを見て憤り」とあります。子供たちを連れて来た親たちを叱った弟子たちを見て、主イエスは憤られた、お怒りになったのです。この話は、マタイ福音書にもルカ福音書にも語られていますが、主イエスが「憤られた」ことを語っているのはこのマルコだけです。マタイもルカも、マルコ福音書を土台として書かれていることは今日聖書を学ぶ時の常識となっています。だとすればマタイとルカはこの話を語り直す時に、マルコにはあった主イエスの「憤り」を削除したのです。そこには、この程度のことで「憤る」のは主イエスらしくない、という思いがあったのかもしれません。あるいは、教会の指導者、使徒として人々に尊敬されている弟子たちが主イエスの「憤り」を受けたなどと書くのは使徒たちの名誉を損ねる、という思いが働いたのかもしれません。しかし、最初に書かれた福音書であり、使徒ペトロの直接の証言を元にしていると言われるこのマルコ福音書は、ここで主イエスが憤られたことをはっきり語っているのです。主イエスは、子供たちを連れて来た親たちを叱り、追い返そうとした弟子たちに対して憤り、むしろ彼らをお叱りになったのです。

子供たちをわたしのところに来させなさい  
 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」と主イエスはおっしゃいました。ここで注目したいのは、弟子たちは、子供たちを連れて来た親たちを叱ったのですが、主イエスがおっしゃったのは、「子供たちをわたしのところに来させなさい」だったということです。つまり主イエスは、子供たちへの祝福を求めている親たちの思いをそのまま認め受け入れておられるのではありません。偉いお坊さんに触れてもらって無病息災を願ったり、七五三に子供の健やかな成長を願ってお参りをするような思いを受け入れて叶えてやろうとしておられるわけではないのです。もしも主イエスがここでこの親たちの思いを認め受け入れて、子供を祝福して欲しい人はいつでも連れていらっしゃい、とおっしゃったならば、私たちはもっと大々的に宣伝をして、「七五三の祝福はぜひ教会で。七歳五歳三歳のお子さんに限らず、教会は何歳のお子さんでも受け付けます」ということをするでしょう。そこで一人いくらかの料金を取れば、教会の財政も随分潤うだろうと思いますが、主イエスのお言葉はそのようなことに道を開くものではありません。主イエスが、「わたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とおっしゃっているのは、子供を祝福して欲しい親ではなくて、子供たちなのです。

神の国はこのような者たちのものである  
 主イエスがそのように子供たちを喜んで迎え入れ、祝福を与えようとしておられるのは何故なのでしょうか。それは14節の後半にあるように「神の国はこのような者たちのものである」からです。神の国、それは主イエスが宣べ伝えていた福音の中心です。1章15節にあったように、主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語ってこられたのです。神の国とは、神様のご支配という意味です。神様が恵みをもって私たちを支配して下さる、その神のご支配が今や実現しようとしている、と主イエスは告げておられたのです。主イエスがなさった数々の癒しの奇跡は、この神様の恵みのご支配の現れであり、それを証しするものでした。主イエス・キリストは、神の国を人々に示し、人々をそれにあずからせるためにこの世に来られたのです。その神の国、神様の恵みのご支配にあずかることができるのは、子供のような者たちなのだ、だから子供たちをわたしのところに来させなさい、と主はおっしゃったのです。

「子供のように」とは  
 それでは「子供のように」とはどういうことでしょうか。子供のように純真な、汚れを知らない、ということでしょうか。そうではありません。子供は純真であり、汚れを知らないという考え方は聖書にはありません。またそれは事実ではないでしょう。今日子供たちの間で起っている陰湿ないじめの問題一つを取っても、子供には罪や汚れがないというのは大人の勝手な願望に過ぎないことが分かります。子供は子供なりにやはり罪を持っているのです。むしろその罪が、大人の場合よりもよりストレートに現れるのです。主イエスが「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃったのも、決して子供を理想化して言っておられるのではありません。その意味は次の15節に示されているのです。15節には「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とあります。「子供のように」の意味は「神の国を受け入れる」ということです。子供のように純真な、汚れを知らない者ではなくて、神の国を受け入れる者として子供が見つめられているのです。

神の国を受け入れる  
 しかしこの「神の国を受け入れる」ということも、誤解してはなりません。主イエスが子供たちに見つめておられるのは、主イエスが教え示しておられる神の国を、あれこれ理屈を言って疑ったりケチをつけたりせずに、言われた通りに信じ受け入れる素直さ、ということではありません。もしそうなら先程の「子供は汚れを知らない」と同じように「子供は素直だ」ということになるわけですが、それも事実ではないでしょう。子供が素直に何でも言うことを聞くなら親は苦労しないのです。「子供のように神の国を受け入れる」というのは、従って子供たちの持っている素直さという長所、良い所を見ての話ではありません。「受け入れる」はこの場合、積極的な行為として語られているのではなくて、与えられたものをただ受ける、という受動的なこととして見つめられているのです。ここに出て来る子供たちが、親たちに連れて来られた者たちであることが大事です。つまり彼ら子供たちは、自分の意志で主イエスのもとに来たのではありません。彼ら自身が自分で主イエスの祝福を求めているのではないし、主イエスが宣べ伝えておられる神の国を受け入れ、それを信じて来ているのでもないのです。彼ら子供たちは、親に連れて来られるままに主イエスのもとに来たのです。そして主イエスが受け入れ、祝福して下さるなら彼らは祝福を受けるし、そうでないなら祝福を受けずに帰ることになるのです。つまり彼らは主イエスの祝福を全く受動的に、ただ受けるのみです。自分はこれこれの良い行いをしています、これだけの正しさ、立派さを持っています、これだけのものを神様にお捧げし、奉仕しています、だから祝福して下さいなどと要求することはないし、そんなことは考えていないのです。子供というのは、そのように神様に対して、交換条件と言うか、自分はこれだけのことをしている、だから、という主張をすることが全く出来ない者、ただ神様の恵みをいただくしかない者です。主イエスはそのような子供たちを喜んで迎え入れて下さり、彼らを抱き上げ、手を置いて祝福して下さるのです。主イエスが子供たちの一人一人を抱き上げて下さった、それは、親たちが期待し、求めていた以上のことをして下さったということです。親たちは、主イエスに触れてもらって祝福をいただこうとして子供たちを連れて来たのです。それは神社で七五三のお祝いをするのと変わらない思いだったでしょう。しかし主イエスは、子供たち一人一人をご自分の腕に抱き上げて下さった、それぞれの全身を、それぞれの人生の全体を、み手の内に置いて、祝福して下さったのです。

ただ神の恵みによって  
 「神の国はこのような者たちのものである」というみ言葉は、神の国、神様の恵みのご支配はこのようにして与えられるのだ、ということです。神の国に入り、その恵みにあずかるためには、何らかの資格や条件を満たさなければならないのではありません。子供のように無邪気で純真で素直な者だけが神の国に入ることができる、ということでもありません。自分の中には、神の国に入るに価する資格や相応しさなど何一つないのに、ただ神様の恵みと憐れみによって私たちは、神の国に迎え入れられるのです。主イエス・キリストはそういう恵みを私たちに示し、与えて下さっています。私たちはこの子供たちと同じように、主イエスからその恵みをただ受けることしかできないのです。  
 そのことを見つめる時に、主イエスの弟子たちに対するあの憤りの意味が分かってきます。弟子たちは、主イエスに祝福してもらおうとして子供たちを連れて来た親たちを叱りました。それは、主イエスを七五三の神社と同じに考えてはならない、という限りにおいては決して間違ったことではありません。しかし弟子たちがそこで、ただ祝福だけをいただこうとしているこの親たちには主イエスの祝福を、つまり神の国の恵みを受ける資格がない、それに対して自分たちは、全てを捨てて主に従い奉仕しているがゆえに、神の国の祝福にあずかる資格があるし、いいかげんな親たちを追い返す権利があると思っている、そのことに対して主イエスは憤っておられるのです。弟子たちが神の国の恵みに、主イエスの祝福にあずかることができているのは、彼らが立派な奉仕をしているからでも、様々なものを投げ打って主イエスに従っているからでもありません。彼らもまた、ただ神様の恵みによって、主イエスが彼らを選び、招いて下さったから、主イエスのもとに集い、弟子として歩むことが出来ているのです。自分の中にどんな資格が、相応しさがあるか、ということにおいては、彼らとあの親たちの間には何も違いはないのです。そのことが分かっておらず、自分たちを何か立派な、恵みにあずかる資格のある者であるように思い、他の人々を資格のない者として斥けようとするのは、主イエスが宣べ伝えておられる神の国のことが全く分かっていない、主イエスの憤りはそのことへと向けられているのです。  
 神の国に入る、つまり神様の恵みのご支配のもとに、神の民として生きることは、私たちの側の何らかの立派さや相応しさによることではありません。それは神様が恵みによって私たちを選び、ご自分のものとして召し集めて下さったことによってのみ起ることなのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第7章6?8節はそのことを語っています。イスラエルの民が神様に選ばれて、主の聖なる民、宝の民とされた、それはイスラエルが他の民族と比べて数が多いとか、立派な民だったからではないのです。むしろイスラエルは、他のどの民よりも貧弱だったとあります。そのイスラエルが選ばれて神様の民とされたのは、ただ彼らに対する主の愛のゆえです。主はこの愛のゆえに、愛のゆえにのみ、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、ご自分の宝の民として下さったのです。従ってイスラエルには、他の民族に対して誇ることができるものは何一つないし、他の民族を見下すことができる根拠も何一つありません。出来ることはただ一つ。神様の選びの恵み、ただ神様のみ心によって与えられている愛をひたすら受け、それを感謝して生きることだけなのです。子供のように神の国を受け入れるとはそういうことなのです。

幼児洗礼  
 本日のこの箇所は、古来教会において、幼児洗礼を行なうことの一つの根拠として読まれてきました。幼児洗礼というのは、信仰者の両親の下に生まれた子供に、幼児の内に、従って本人の自覚や信仰の決断なしに、親の信仰によって洗礼を授け、その子を教会の一員として迎え、教会全体で育てて行く、ということです。本日の箇所における主イエスのお言葉は、幼児に洗礼を授けることについて語っているわけではありませんから、ここを幼児洗礼の直接の根拠とすることには無理があると言わなければならないでしょう。しかしこの箇所が語っている、神の国に入ることは、人間の側のいかなる資格や決意によるのでもなく、ただ神様の恵みによる選びによって与えられるのであって、私たちはその恵みを感謝して受けるのみなのだ、という教えは、幼児洗礼において最も端的に、はっきりと表されていると言うことができるでしょう。子供は、神の国の恵みにあずかるのに相応しいどのような資格も持ってはいないのです。これだけの善い行いをしたということもないし、これだけ熱心に信仰に励み、奉仕しているということもない、それどころか、信じるという決心すらもまだ出来てはいないのです。ただ親の手に抱かれて、与えられるものを受けるのみの存在、それが子供です。そのような者に洗礼が授けられ、神の民とされ、神の国の祝福が与えられる、これこそ、神の国の恵みに最も相応しいあり方であると言えるでしょう。そしてそれは、実は大人になってから受ける洗礼においても同じなのです。大人が受ける洗礼も、私たちがそれを受けるに相応しい何らかの働き、奉仕、あるいは決意をすることに対して、見返りとして、ご褒美として与えられるものではありません。何の資格も相応しさもない私たちが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神様が成し遂げて下さった罪の赦しの恵みを信じて受け入れ、その恵みに身を委ねる時に、神様が私たちを抱き上げ、私たちの人生の全体をみ手の内に置いて祝福して下さる、それが洗礼を受けるということであり、幼児洗礼も大人の洗礼もこの点は同じなのです。

一人の子供を受け入れる  
 子供のように神の国を受け入れる、つまり神様の恵みを子供のようにただ受ける者となる時に私たちは、人の資格を云々し、相応しくないと言って人を排斥していくような思いから解放されます。そして、主イエスが人々に祝福を与えようとしておられる、そのみ業に仕える者となり、主イエスのもとに集って来る人々を妨げずに喜んで迎え入れる者となることができるのです。主イエスは本日の箇所の前の頁、9章の36節以下でも、一人の子供を抱き上げて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と弟子たちにお語りになりました。子供のように神の国を受け入れることと、一人の子供を受け入れることはつながっています。主イエスが、何の相応しさもない子供である私たちを受け入れて下さり、私たちは主イエスに抱かれて祝福をいただいています。それゆえに私たちも、主イエスのもとへと、教会へと集って来る人々を喜んで迎え入れていくのです。

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