「信仰のない者の信仰」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第40編1-18節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章14-29節
・ 讃美歌:19、377、432、79
聖霊を信じ、祈り求めよう
11月の最後の主の日、24日に、今年度第二回の教会全体修養会を行ないます。主題は、今年度の年間主題である「キリストの福音を伝道する教会」ですが、今回はそこに「聖霊を信じ、祈り求めよう」という副題がつけられています。キリストの福音を宣べ伝えていくという教会の第一の使命が果たされていくためには、聖霊の存在と力と働きを信じて、それを祈り求めていくことが何よりも大切であることをご一緒に確認したいと思ってこの副題を提案しました。このところ「伝道する教会」ということが常に語られていて、皆さんは何だかいつもお尻をたたかれているように感じておられるかもしれません。しかし、伝道は、根本的には神様がなさっておられることです。私たちが自分の力で人を導いて救いにあずからせる、などということではありません。神様が、聖霊のお働きによって、人の心を開いて下さり、主イエス・キリストを信じる信仰を与えて下さるのです。私たちは、その聖霊のお働きのほんの一端を担わせていただくに過ぎないのです。ですから、「頑張って伝道しなければ」という思いも、逆に「伝道なんて自分にはできない」という思いも、どちらも間違っています。どちらも、神様ご自身が伝道なさる、ということを見失っている言葉です。私たちのなすべきことは、神様が、聖霊の働きによって、弱く無力な自分を用いて、キリストの福音を人々に伝え、救いのみ業をおし進めて下さることを信じて、その神様のみ業の中で用いられることを受け入れると共に、そのことを祈り求めていくことなのです。ですから、伝道の使命を果たしていくために私たちのなすべき最も大切なことは、祈ることなのです。聖霊を信じて、そのお働きを祈り求めることこそ、キリストの福音を伝道する教会の基本なのです。 先週の伝道礼拝においては、祈ることができることこそが、信仰者に与えられている最も大きな幸いである、というお話しをしました。その時申しましたように、信仰を持って生きるとは祈りつつ生きることなのです。祈ることは、信仰の基本であり、そこで与えられる幸いの中心です。そしてさらに、私たちが主から与えられた伝道の使命を果していくために最も大事なことでもあるのです。
祈りによらなければ
本日ご一緒に読むマルコによる福音書第9章の29節で、主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とおっしゃいました。ここにも、祈りの大切さが語られています。「この種のもの」と言われているのは「汚れた霊」です。この場合には、一人の子供に取りついて、耳を聞こえなくし、ものを言うこともできなくしている、そして22節にあるように、その子を何度も火の中や水の中に投げ込み、殺そうとしている霊です。この霊が子供に取りついたために、子供自身も、また家族も、苦しみのどん底に突き落とされ、命をも脅かされているのです。20節に語られている、引きつけを起し、地面に倒れ、転び回って泡を吹いている、という症状から、今日の私たちは、これは多分こういう病気だったのだろう、と推察することができますし、今なら発作を抑える薬も開発されているわけですが、当時はそのような知識も、治療法もない中で、これは汚れた霊に取りつかれたことによって起っていることだと考えられ、その霊を追い出すための様々な試みがなされたのです。そういうことを古代の人々の無知によることとして片付けてしまうことは正しくありません。医学や科学がどんなに進歩しても、私たちの人生が、命を脅かし、苦しみ悲しみに引きずり込もうとする、また罪へと引き込もうとする様々な力に取り囲まれているという事実は変わりません。私たちは自分の力でそれらに対抗することができないのです。そういう現実の中にいる私たちに、主イエスは、「祈りによらなければ、それらの力に打ち勝つことはできない」と告げておられるのです。それは現代を生きる私たちもしっかりと聞くべきみ言葉です。
弟子たちの失敗
祈りによってこそ、私たちを脅かしている様々な力に打ち勝つことができます。また私たちが主から託された伝道の使命を果していく上でも最も大切なことは祈りです。私たちはこの祈りの大切さを深く心に止めたいと思います。けれども祈りが大切であるということを、毎日の生活の中で祈りを欠かしてはならないとか、何をするにしても先ず祈りから始めなければならない、などということとしてのみ受け取ってはならないと思います。主イエスがここで「祈りによらなければ」とおっしゃった、その文脈をしっかり捉えなければならないのです。主イエスのこのお言葉は、弟子たちのある問いへの答えとして語られたものです。その問いとは28節の「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」というものです。弟子たちは汚れた霊を追い出すことができなかった、その挫折、失敗の中でこの問いがなされているのです。 事は、主イエスが三人の弟子を連れて高い山に登っておられて不在である間に起りました。麓で待っていた弟子たちのところに、一人の父親が、汚れた霊に取りつかれた子供を連れて来たのです。この父親は、主イエスの噂を聞いて、息子を癒していただきたいという希望を持って来たのです。ところが折悪しく主イエスは不在でした。そこで弟子たちに、息子から汚れた霊を追い出してくれるように頼んだのです。しかし弟子たちにはそれが出来ませんでした。弟子たちが命じても、汚れた霊は言うことを聞かず、子供や癒されなかったのです。その騒ぎを聞きつけて、大勢の群衆が、そして律法学者たちもそこに集まって来たことが14節から分かります。弟子たちは律法学者たちと議論していた、と14節にあるわけですが、はっきり言って議論にはならなかったでしょう。汚れた霊を追い出すことができなかった、という事実の前では、弟子たちが何を言っても、その言葉には何の力もありません。彼らは一方的に押しまくられてたじたじとなるしかなかったでしょう。「偉そうなことを言っても、現実に苦しんでいる人を救うことができないではないか」と言われて返す言葉がない、そういう弟子たちの惨めな姿は、私たちの姿でもあり、教会の姿でもあると思います。私たちの信仰の生活は、また教会の伝道の歩みは、こういう惨めな敗北の繰り返しなのではないでしょうか。 ところで私たちは、弟子たちが汚れた霊を追い出すことができなかったのは当たり前だと思います。そういうことが出来るのは主イエスお一人だと思っているからです。しかし、これまで読んできたところには、そうではないことが語られていました。この福音書の6章の7節以下に、主イエスが十二人の弟子たちを派遣して伝道させたことが語られていました。その際主イエスは彼らに、汚れた霊に対する権能をお授けになったのです。そして弟子たちは、6章13節にあるように、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒したのです。弟子たちはそういう体験をしていました。ですから彼らは、この父親が子供を癒して下さいと言ってきた時に、「いやそれは私たちには出来ないから、イエス様が帰って来られるまで待って下さい」とは言わなかったのです。自分たちで汚れた霊を追い出そうとしたのです。しかしこのたびはそれが出来ませんでした。それで「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」という問いが生まれたのです。前には出来たのに、どうして今度は出来なかったのだろうか、ということです。それに対して主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とお答えになったのです。
神の力を借りる祈り
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」というのは、汚れた霊の種類の話ではありません。この子に取りついていた霊は、以前彼らが追い出したのとは種類が違っていて、祈りによらなければ追い出せない類いのものだ、ということではないのです。主イエスが言っておられるのは、あなたがたの祈りに問題がある、ということです。おそらく弟子たちは、今回この子供に取りついている汚れた霊を追い出そうとした時にも、祈ったと思います。神様の力を祈り求めてから、汚れた霊に「この子から出て行け」と命じたのでしょう。全く祈ることなしに、魔術師のように自分の力で霊を追い出せるなどとは思ってはいなかったと思います。私たちだってそうでしょう。信仰によって何かをしようとする時には、例えば誰かを礼拝に誘うという伝道をしようとする時には、祈るのです。全く祈らずにすることはないでしょう。問題は祈ったか祈らなかったかではなくて、その祈りの内容、あるいは姿勢なのです。6章の場面と本日の9章の場面とで、弟子たちの祈りの内容あるいは姿勢にどんな違いがあるのでしょうか。6章において主イエスに遣わされて伝道し、悪霊を追い出した時、弟子たちは、自分たちには悪霊を追放したり病を癒したりする力はとうていないことをよく知っていたと思います。自分たちがそのようなことをすることができるとしたら、そこに働いているのは主イエスの権威と力だ、つまり悪霊追放や癒しは神様が聖霊の働きによってなさるみ業であって、自分たちはそのために用いられて、そのみ業のほんの一端を担うだけなのだ、ということを彼らは明確に意識しており、そういう意識をもって祈ったのです。そこでの祈りは、「まことに弱く、何の力もない自分ですが、み心ならば私を神様のこの大きな恵みのみ業のために用いて下さい」というものだったろうと思います。しかし今回、この父親の願いを受けて、それでは我々が…と言って彼らがした祈りは、「神様どうぞ私たちがこの汚れた霊を追い出し、子供を癒すことができるように、力をお貸し下さい」という祈りだったのではないでしょうか。そのように熱心に祈り、そして汚れた霊を追い出そうとしたが、出来なかったのです。それは、彼らの祈りが、神様ご自身が聖霊の働きによってして下さる救いのみ業の中で用いていただき、その一端を担わせていただく、という思いによってではなくて、自分に与えられている力によって苦しんでいる人を救う、そういう自分の働きのために神様の力を借りる、つまり自分の業に神様を参与させ、もっと言えば神様の力を用いようとするような祈りになっていたからなのではないでしょうか。そこに、このたびの彼らの祈りの根本的な問題があったのです。 この弟子たちの祈りはまさに、私たちの日頃の祈りではないでしょうか。神様の助けを祈って求めながら、結局は自分の力で、自分の業をあくせくと行なっているのが私たちの姿なのではないでしょうか。しかしそのような業は結局実を結ばないのです。弟子たちと同じように私たちも、自分の無力さを思い知らされ、挫折し、偉そうなことを言っていても結局何も出来ない者として恥をかいてしまうのです。私たちの信仰の生活が、また教会の伝道が、惨めな敗北の繰り返しとなってしまうことの根本的な原因はそこにあるのではないでしょうか。そういう私たちに主イエスは、「祈りによらなければ」とおっしゃっています。それは、一日の生活の中にもっと祈る時間を沢山取らなければいけないとか、祈ってから事を始めなければダメだ、ということではなくて、「あなたの祈りは祈りになっていない」ということでしょう。言い換えれば、あなたと神様との関係は正しくない、ということです。神様との正しい関係とは、神様が主人として私たちの救いを決意し、行なって下さる、私たちはその救いにあずかり、そして私たちも、その救いのみ業の一端を担う者とされ、そのために用いられていくことです。自分が主人として生きて行くために神様の力を借り、神様を自分の業に巻き込んでいくというのは正しい関係ではないのです。そういう間違った思いの中で、どんなに熱心に時間をかけて祈っていても、それは本当の祈りになっていないのです。そして本当の祈りがなされていなければ、神様のみ業によってこそ行なわれる、汚れた霊の力、命を脅かし、苦しみ悲しみや罪に引きずり込もうとする様々な力からの解放は実現しないのです。
おできになるなら
弟子たちは汚れた霊を追い出すことが出来ませんでした。しかし主イエス・キリストがその霊を叱り、「わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」とお命じになると、霊は出て行き、子供は癒されたのです。私たちはこのことを、「さすがはイエス様。弟子たちには出来ないことでもイエス様なら出来る」というふうに読んでしまってはなりません。ここから読み取るべきなのはそういうことではなくて、この癒しのみ業において主イエスが、神様との正しい関係とはどのようなものなのか、また私たちが本当に祈るべきことは何なのかを示して下さっているのです。そのことをこそ読み取っていかなければなりません。 主イエスのお姿を見ると、霊は発作を起こさせ、子供は地面に倒れて、転び回って泡を吹きました。父親はその様子を見て「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願ったのです。この願いは、ある意味ではまことに礼儀正しい、謙遜な願いであると言えます。決して無理強いをしていない、何が何でも助けてくださいと言って主イエスを困らせるようなことはしていないのです。できますならお願いします、と言っているのです。しかしそれに対して主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」とおっしゃいました。「もしおできになるなら」というのは、人間どうしの間でものを頼む時には礼儀正しい頼み方です。しかし、事が主イエスとの、神様との関係になると、話は違うのです。私たちと神様との関係において、「もしできるならこうして下さい」と願うことは、正しい信仰ではないのです。なぜならそこには、「できるならこうしてほしい、しかしできないなら、また別の手を考える」という思いがあるからです。この父親は、自分で子供を救おうとしており、そのために主イエスの力を借りようとしているのです。そしてもしそれが駄目なら、また別の手立てを、あちこち手を尽くして探していこうとしているのです。「おできになるなら」という彼の願いにはそのように、主イエスの力を借りて、自分の願っていることを実現しよう、という姿勢があるのです。主イエスがそれに対して、「『できれば』と言うか」とお答えになったのは、そのような彼の姿勢に対する否です。それに続いて主イエスは、「信じる者には何でもできる」とおっしゃいました。これは不思議なお言葉です。「あなたは『もしできれば』と私の力を疑っているのか、私は何でもできるんだ」とおっしゃったのなら、話の筋が通るのです。しかしそうではなくて、「信じる者には何でもできる」とおっしゃった。それは、この父親に、神様との正しい関係を教えようとしておられるお言葉です。「あなたは、自分で子供を救おうと思い、そのために私の力を借りようとしている。しかしそうではなくて、神様ご自身が恵みのみ業をなさるのだ。あなたは、自分がそのみ業を受け、さらにその一端を担わせていただくのだということを見つめるべきなのだ。あなたが主で、神があなたの計画に協力するのではない。神が主であって、あなたが神のみ業のために用いられていくのだ。それこそが神様との正しい関係、つまり本当の信仰なのだ。この本当の信仰に生きる時に初めてあなたは、何でもできる、不可能を可能にする神の恵みの力、全能の力にあずかることができるのだ」と主イエスは言っておられるのです。
信じます。信仰のないわたしをお助けください。
この主イエスのお言葉を聞いた父親はすぐにこう叫びました。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。これも不思議な言葉です。「信じます」というのは信仰の告白です。ということは信仰があるということです。それなのに「信仰のないわたし」と言っている、この人は信仰があるのかないのか、矛盾したことを言っているのです。けれどもまさにこの論理的には矛盾した叫びが、信仰の本質をよく表しているのです。彼は主イエスの「『できれば』と言うか」という語りかけによって、自分が主人であろうとし、神様の力を利用しようとする思いから、神様を主人とする信仰、神様のみ業に自分が用いられることを願い求める真実の信仰への転換を与えられたのです。「信じます」という彼の叫びはそのことを示しています。そしてそのような真実の信仰を与えられた時に、同時に示されるのは、自分は信仰を持っていると言えるようなものではない、ということです。それまで、自分が何ほどかは持っていると思っていた信仰は、実は自分の思いや願いのために神様の力を利用しようとしていたことに過ぎなかった、ということを彼は示されたのです。私たちも、そのような思いを信仰と勘違いして、自分には信仰があるとかないとか、信仰が強いとか弱いとか言っています。しかし真実の信仰とは、私たちが持つものではなくて、神様が、信仰のない、つまり神様との関係が切れてしまっている私たちを、主イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さり、神の子として新しく生かして下さる、その救いの恵みをいただいて生きることです。神様ご自身が、独り子主イエスにおいてそういう救いのみ業を行なって下さり、私たちをそのみ業によって捉えて下さる、そしてさらに、その恵みのみ業の中で用いて下さるのです。この事実を感謝しつつ信じ、受け入れることが真実の信仰です。そして「信仰のないわたしをお助けください」と願うことこそ、私たちが本当に祈るべきことなのです。
十字架の死に至るまで
最後に19節に注目したいと思います。弟子たちが汚れた霊を追い出せなかったことを聞いて主イエスは「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃいました。信仰のない、それは本当の祈りのない、ということでもあります。自分の思いや願いに神を利用しようとするような信仰ならざる信仰、祈りならざる祈りは満ちているけれども、神様ご自身がして下さる救いのみ業の中で、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈る、そういう本当の信仰と本当の祈りがないことを、主イエスは嘆いておられるのです。しかしこれは、もう我慢できない、もうこのような不信仰な連中とつき合うのはご免だ、ということではありません。主イエス・キリストは、不信仰な私たちの罪を背負って下さり、最後まで、十字架の死に至るまで、私たちのことを我慢し、背負い続けて下さったのです。そこに、神様ご自身が成し遂げて下さった大いなる救いのみ業があります。私たちはその救いのみ業によって、罪を赦され、神の子とされて歩み、そして神様がさらに多くの人々にこの救いの恵みを与えようとしておられる伝道のみ業の一端を担う者として用いられていくのです。
聖餐にあずかる私たちの祈り
この後聖餐にあずかります。聖餐は、主イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して、信仰のない、罪人である私たちのために贖いの業を成し遂げて下さったことを体全体で覚えていくために与えられているものです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という祈りは、聖餐にあずかる私たちの祈りでもあります。そのように祈りつつ聖餐にあずかることによって、私たちは、自分が主人になって、自分の力で頑張って何かをしていく信仰と、そのために神様の力を利用しようとする祈りではなくて、伝道にせよ、様々な奉仕の業、愛の業にせよ、主ご自身が聖霊の働きによって行なって下さるみ業のために用いられていくことを信じる真実の信仰と、そのことを祈り求めていく真実の祈りに生きることができるのです。