主日礼拝

受難と復活の主

「受難と復活の主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第9章9-13節  
・ 讃美歌:12、294、441

誰にも話してはならない
  先週の主の日の礼拝において、マルコによる福音書第9章1?8節よりみ言葉に聞きました。そこには、主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちを連れて高い山に登られた時、そのお姿が真っ白く輝く栄光のお姿に変わったということが語られていました。「山上の変貌」と呼ばれている出来事です。三人の弟子たちは主イエスの栄光のお姿を見たのです。本日の箇所はその続きで、この出来事の後、山を下りてくる途中で主イエスが彼らにお語りになったことから始まっています。9節において主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」とおっしゃいました。「今見たこと」とは勿論、山上の変貌の出来事、主イエスの栄光のお姿を見たということです。それを誰にも話してはならないと主イエスは口止めなさったのです。しかし何故、このことを人に話したらいけないのでしょうか。弟子たちは、主イエスの栄光のお姿を見たという素晴らしい体験を他の仲間たちにも一刻も早く伝えたいと思ったでしょうし、さらに多くの人々にそれを伝えることによって、主イエスを信じ、従って来る人々が新たに起されるだろうという希望も抱いたでしょう。しかし主イエスはそれを誰にも話すなとおっしゃるのです。
  こういうことはこれまでにも何度もありました。主イエスは、ご自分が神の子、救い主であられること、また救い主としてなさった奇跡のことを、人に話すなと命じて来られたのです。5章で、会堂長ヤイロの娘を生き返らせた時もそうでした。7章で、耳が聞こえず口の利けない人を癒された時もそうでした。8章において、「あなたがたは私を何者だと言うのか」という主イエスの問いに答えてペトロが、「あなたは、メシアです」、つまり「あなたこそ神様から遣わされる救い主です」という信仰告白をした時にも、主イエスはご自分のことを誰にも話さないようにとおっしゃったのです。ご自分が神から遣わされたメシア、救い主であられることを、また救い主としての力あるみ業を、隠しておこうとする主イエスの姿勢はずっと一貫しているのです。その理由についてはこれまでにもお話ししてきました。主イエスは、ご自分の大いなる力を見せて人々をあっと驚かせ、それによって従わせるということはなさらないのです。それは謙遜の美徳というようなことではなくて、主イエスが成し遂げようとしておられる救いの本質に関わることです。それについては後で触れたいと思いますが、ここで先ず注目したいのは、山の上での栄光のお姿について人に話してはならない、という命令には、「人の子が死者の中から復活するまでは」という限定がつけられていたことです。主イエスの栄光のお姿について語ってはならないのは、主イエスの復活までであって、それ以降は、大いにそれを語ってよいのです。

復活における栄光の先取り
  このことは、山上の変貌における主イエスの栄光は、復活における栄光の先取りだった、ということを示していると言えるでしょう。三人の弟子たちは、主イエスの復活において明らかとなる栄光を、先取りして垣間見ることを許されたのです。逆に言えば、彼らが見た栄光は、主イエスの復活においてこそ本当に明らかとなるし、理解されるのです。言い換えれば、復活なさった主イエスとの出会いを与えられるまでは、山の上で見た主イエスの栄光の本当の意味は分からないのです。そのことは、主イエスの栄光のお姿を見てペトロが口走った言葉からも分かります。彼は、エリヤとモーセがそこに現れ、栄光の姿の主イエスと語り合っているのを見て、三人のために小屋を建てましょうと言いました。それは先週申しましたように、主イエスとエリヤとモーセにそこに留まってもらいたいという思いからの言葉です。つまり彼は主イエスの栄光のお姿を地上に留めておいて、いつでもそれを見ることができるようにしたいと思ったのです。しかし主イエスの栄光は、人間が自分のもとに留めておけるようなものではありません。ペトロは主イエスの栄光が全く分かっていないのです。それが分かるようになるのは、主イエスの復活を経てからです。それゆえに主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」とおっしゃったのです。

心に留めて
主イエスの復活を既に知らされている私たちには、主イエスの栄光が復活の栄光であることは当たり前ですが、この時の弟子たちには、「人の子が死者の中から復活する」と言われても何のことか分かりませんでした。10節にはこうあります。「彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」。ここに「心に留めて」とあることに、それこそ心を留めたいと思います。この言葉は読み過ごされがちです。例えばこの10節を、「彼らはそれを聞いて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った」と変えても全く違和感は覚えないでしょう。つまり私たちは「心に留めて」を「それを聞いて」ぐらいの意味にしか受け止めていないのです。しかしこの「心に留めて」は非常に強い意味を持つ言葉です。同じ言葉はマルコの7章3、4節に出てきます。そこにはこうあります。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。ここに「固く守って」という言葉が二回出てきますが、これが「心に留めて」と同じ言葉なのです。つまり弟子たちは主イエスの「人の子が死者の中から復活する」というお言葉を、ファリサイ派の人々が律法に固執しているようにしっかりと、固く心に留めたのです。その意味が分かったわけではありません。分からなかったけれども、この主イエスのお言葉をしっかりと固く心に留め、それはどういうことなのだろうかと論じ合ったのです。

まずエリヤが来る
そのように真剣に論じ合っていく中で、彼らは一つの問いを主イエスに投げかけました。それが11節の「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」という問いです。この問いは、彼らが論じ合っていた、「死者の中から復活するとはどういうことか」ということとは関係がないようにも思われます。だからここは話が混乱していて、別の時になされた質問が文脈を無視してここに置かれているのだと考える人もいます。しかしこの問いは、今弟子たちが論じ合っている問題と深い所でつながっています。そのつながりを掘り起こしていきたいと思います。
ここで弟子たちは、律法学者たちが「まずエリヤが来るはずだ」と言っていることを取り上げています。律法学者は、当時のユダヤ人たちにおける信仰の指導者、聖書の専門家です。その専門家たちが、「先ずエリヤが来る」と言っている、その「先ず」とは、救い主メシアが来る前に、ということです。救い主が現れる前に先ずエリヤが遣わされる、そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、マラキ書第3章19節以下です。ここには「主の日」が来ることが語られています。それは神様がこの世をお裁きになる日です。その裁きによって、神に逆らう者たちは滅ぼされます。19節には、その日は「炉のように燃える日」であり、「高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」とあります。しかし同時にその日は、神を信じ従っている者たちの救いが完成される日でもあります。20節には「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように踊り出て跳び回る」とあります。このように、「主の日」には、救われる者と滅びる者とがはっきりと分けられるのです。神様による裁きとはそういうことです。その裁きの日が23節では「大いなる恐るべき主の日」と呼ばれています。そしてその日が来る前に、神様が預言者エリヤを遣わして下さるのです。そのエリヤが来てすることは24節です。「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。主の日には神様による裁きが行なわれる、その時に全ての者が滅ぼされてしまうようなことがないように、前もって人々の心を父である神に向けさせ、神様と人々との間に良い関係を回復することがエリヤの使命です。主イエスが12節で「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする」と言っておられるのはそのことです。「元どおりにする」とは、神様が最初に人間をお造りになった、その本来の姿に立ち戻らせるということです。人間はもともと、神様の下で、神様に従って、神様と良い交わりをもって生きる者として造られました。しかし人間はその本来の生き方を捨ててしまい、自分が主人となって、自分の思い通りに生きるようになりました。それが人間の罪の根本です。その結果、神様と人間との良い関係は失われ、人間は神様の敵になってしまったのです。そのために神様の裁きの日を、炉のように燃える日として恐れなければならなくなったのです。つまり主の日が「大いなる恐るべき日」になってしまったのです。それゆえに、神様との失われた良い関係が元どおりに回復されることが私たちの救いです。その救いが実現するなら、主の日に「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つ」ことはなくなります。主の日を、救いの完成の日として待ち望むことができるようになるのです。その救いへの第一歩は、私たちの心が、父である神様の方にしっかり向き変わることです。エリヤはそのように私たちの心を神様へと向き変わらせるために遣わされるのです。
これがマラキの預言ですが、律法学者たちはこの預言に基づいて、救い主メシアが来る前に、その備えをさせるエリヤが先ず来るはずだと言っていました。そしてその教えは、だからイエスはメシアではない、という主張の根拠とされていたのです。つまりエリヤがまだ来ていないのだから、今現れているイエスがメシアであるはずはない、と彼らは言っていたのです。「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」という弟子たちの問いはそこに向けられています。エリヤがまだ来ていないのだとしたら、彼らの言うように主イエスは救い主メシアではないということなのでしょうか、という問いです。

エリヤは既に来た
これに対する主イエスのお答えが12、13節です。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」。主イエスのこのお言葉は正直言って分かりにくいですが、12節の後半を省くと分かりやすくなります。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである」。これなら分かるのです。つまり主イエスは、エリヤは既に来た、と言っておられるのです。それは誰のことかはここには説明されていませんが、この福音書を読んできた私たちには分かります。それは洗礼者ヨハネです。ヨハネは主イエスに先立って現れ、人々に悔い改めを求めました。その悔い改めの印として洗礼を授けました。そのことこそが、エリヤとしての働きだったのです。神様の方を向いておらず離れてしまっている人間の心が、神様の方に向き変わること、それが悔い改めです。洗礼者ヨハネはその悔い改めを人々に求めることによって、メシアである主イエスが来られるための備えをしたのです。しかしイスラエルの人々は、特に指導者であった律法学者たちはヨハネをエリヤとして受け入れず、「好きなようにあしらった」のです。ヨハネは殺されてしまいました。しかし確かにヨハネにおいてエリヤは既にこの世に来たのだ、と主イエスは言っておられるのです。これが律法学者たちに対する主イエスの反論です。エリヤであるヨハネが既に来て備えをなし、そして今、メシアである私が活動しているのだから、律法学者たちの言うことに惑わされるな、と弟子たちに教えておられるのです。

メシアの到来についてのイメージ
しかし12、13節の主イエスのお言葉は、そのことだけを語っているのではありません。そこにはもっと深い内容があるのです。このお言葉によって主イエスは、先ずエリヤが来て備えをし、それからメシアが来ることによって、どのような救いが実現するのかを示そうとしておられるのです。さらに言えば、その救いについて律法学者たちが見つめ考えていることと、主イエスのお考え、ということはそれは父なる神様のお考えですが、それがいかに大きくかけ離れているかを示そうとしておられるのです。
律法学者たちは、先ずエリヤが来て、その後にメシアが来ることによって、どのような救いが実現すると考えていたのでしょうか。彼らは、メシアの到来によって敵対する者に対する勝利が実現し、神様の栄光が現れ、そのご支配が完成すると考えていました。その先触れとして来るエリヤも、神様に敵対する者たちを滅ぼして、メシアの栄光に満ちた到来のためのお膳立てを全て整えるのだと考えていたのです。つまり譬えて言うならば、エリヤは大名行列の先触れのように捉えられているのです。行列の先頭で「下に?、下に?」と告げるあれです。あれが来ると、道行く人も、沿道の人も皆脇へどいて土下座をしてお大名様を迎えなければならない、そのように皆が「へへ?」と平伏しているところに、栄光に満ちたメシアが来る、それが彼らの抱いている救いのイメージなのです。

苦しみを受ける救い主
主イエスは、彼らが考えているのとは全く違うメシアの姿を語り、全く違う救いのイメージを示しておられます。それを示しているのが、12節後半の「それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか」というお言葉です。このお言葉は、主イエスが見つめておられる救い主メシアの姿と律法学者たちが思い描いている姿との違いを明確にするために語られているのです。ここで主イエスが「聖書に書いてある」と言っておられるのは、イザヤ書第53章の、「苦難の僕」と呼ばれる箇所であると考えてよいでしょう。神様から遣わされた僕が、自らは何の罪もないのに、多くの人の罪を背負って苦しみを受け、殺される。それによって、罪ある人々が赦され、癒される、神様がそういう救いのみ業をなさろうとしておられる、ということをあの箇所は語っているのです。つまり主イエスが見つめておられるメシアは、全ての者がひれ伏して迎える中に栄光に満ちてやって来るお大名のような姿ではなくて、私たち人間の罪やそれによる苦しみ悲しみの現実のただ中に踏み込んで来られ、自らが苦しみを重ね、辱めを受けるメシアです。主イエスはそのようなメシアとして、つまり私たちの罪をご自分の身に背負って苦しみを受け、十字架につけられて殺されることによって罪の赦しを与えて下さる救い主として、この世に来られ、歩んでおられるのです。

好きなようにあしらわれたエリヤ
そして主イエスがそのようなメシアであられるがゆえに、その道備えをするエリヤも、律法学者たちが考えているのとは全く違う仕方でこの世に来るのです。いやもう既に来たのです。それが洗礼者ヨハネです。先ほど申しましたように、ヨハネは人々に悔い改めを求めました。苦しみを重ね、辱めを受けることによって罪人の救いを実現して下さるメシアの到来に備えるために必要なことは、そのような救いを与えようとして下さっている父なる神様にしっかりと顔を向けることです。自分が主人になり、自分の思いによって生きている私たちが、神様の方に向き変わり、神様との交わりに生きていくこと、つまり悔い改めることこそ、この救いにあずかるための備えなのです。そのように悔い改めを求めたヨハネを、人々は「好きなようにあしらった」、受け入れずに殺してしまったのです。しかしそのことは、このエリヤに続いて来るメシアである主イエスが、「苦しみを重ね、辱めを受ける」ことによって救い主としてのみ業を実現していかれることと深く結び合っています。ヨハネが人々によって好きなようにあしらわれ、殺されてしまったことは、主イエスが多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されることによって救い主としてのみ業を成し遂げられることへの、まことに相応しい備えだったのです。先ずエリヤであるヨハネが来て好きなようにあしらわれ、それからメシアである主イエスが来て苦しみを重ね、辱めを受け、十字架につけられて殺されることによって、罪人である私たちのための救いが、罪の赦しが、実現したのです。

受難と復活における栄光
十字架につけられて死んだ主イエスを、父なる神様は死者の中から復活させ、栄光を与えて下さいました。そのことによって、主イエスの十字架の苦しみと死が、私たちの罪を全て背負って下さった、救い主としての苦しみであり死であったこと、その苦しみと死とによって確かに私たちの罪が赦され、救いが与えられていることを示して下さったのです。復活においてこそ、主イエスのメシア、救い主としての栄光が示され、現されています。しかしそれは十字架の苦しみと死を経ての栄光、苦しみを重ね、辱めを受けることと切り離すことのできない栄光です。律法学者たちは、メシアの栄光を、苦しみとは無縁な栄光として、地上における支配者の栄光をさらに輝かしくした栄光として捉えていました。エリヤもその栄光の先触れとして捉えていたのです。だから、まだエリヤは来ていない、先ずエリヤが来るはずだ、と言っていたのです。そのために彼らは、主イエスをメシアとして迎えることができなかったのです。私たちもともすれば、苦しみと無縁な、勝利のみの栄光を求めてしまいます。信仰においてすら、そのような栄光を追い求めてしまうのです。しかしそうなると、主イエスの救い主としての栄光を見ることはできなくなります。救い主どころか、その先触れのエリヤすらまだ来ていない、ということになってしまうのです。しかし主イエスの栄光は、受難と復活において現された栄光です。三人の弟子たちは、その栄光を垣間見ることを許されました。しかし同時に「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と命じられました。受難と復活を抜きにして主イエスの栄光が語られ、見つめられるべきではないからです。
  私たちもこのことを、しっかりと心に留めて歩みたいのです。主イエスが地上の歩みにおいてご自分の栄光を隠し、口止めしておられたことは、主イエスが成し遂げようとしておられる救いの本質と関わっていると最初の方で申しました。主イエスは苦しみを重ね、辱めを受け、十字架につけられて死ぬことを経て復活して私たちの救いを成し遂げて下さったのです。そこにこそ、主イエスの救い主としての栄光があるのです。このことをしっかりと固く心に留めていくことによって、私たちは、苦しみや悲しみの中においても、病や老いや死に直面している時にも、主イエスの栄光のお姿を垣間見つつ、慰めと支えと希望を与えられて歩むことができるのです。

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