「恵によって用いられる」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 列王記下 第4章42-44節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章30-44節
・ 讃美歌:329、56、392
弟子たちの報告
本日は、マルコによる福音書第6章の30節以下をご一緒に読みます。最初の30節にこうあります。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。これは6章7節以下の、主イエスが十二人の弟子たちを宣教のため、また悪霊を追い出し、病人を癒すために派遣されたという所からのつながりの話です。「使徒たち」とは主イエスの十二人の弟子たちのことで、「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。主イエスによって遣わされた使徒たちが、主イエスのもとに帰って来て、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。彼らが行ったことや教えたことは、この6章の12、13節に語られていました。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」。つまり彼らが「行ったこと」は、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」ことであり、「教えたこと」は「悔い改めさせるために宣教した」ということです。彼らは主イエスに遣わされてこのような働きをしてきたのです。そして帰って来て、主イエスに自分たちのしてきたことを報告したのです。「残らず報告した」という所に、彼らの喜び、あるいは驚き、そして興奮が感じられます。「私たちはこんなふうに語りました。その言葉を人々が聞いてくれました。そしてこんなふうに悪霊を追い出し、病を癒すことができました」と、堰を切ったように報告したのでしょう。「あれも言いたい、これも報告したい」というすばらしい体験を彼らは沢山与えられたのです。
祈るために
そのように自分たちの体験を喜んで報告した弟子たちに主イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とおっしゃいました。それは、「ご苦労だった。さぞ疲れただろう。しばらくゆっくり休んで英気を養いなさい」ということだったのでしょうか。ここに「人里離れた所へ行って」と言われています。主イエスは弟子たちを「人里離れた所」へ行かせようとしておられるのです。それは一つには31節後半にあるように、「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったから」です。しかし主イエスがこのようにおっしゃった一番の目的は、この福音書の第1章35節を読むことによって分かります。そこには「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。主イエスご自身がしばしば「人里離れた所」に行っておられたのです。それはただ休むためではなくて、祈るためでした。主イエスは人里離れた所で、父なる神様と向き合い、語り合う、神様との交わりの時を持っておられました。そのことを、今弟子たちにもさせようとしておられるのです。弟子たちには今こそ、そういう祈りの時が必要だと主イエスは判断なさったのです。
順調な時にこそ
1章35節というのは、主イエスが多くの人々にみ言葉を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気を癒しておられた時の話です。そのために多くの人々が主イエスのもとへと押し寄せて来ました。そういう、言ってみれば自分の働きが順調に行き、人々に受け入れられ、ある意味で人気が出ている、そういう時にこそ主イエスは人里離れた所へ行って祈ることを大切にされたのです。人間は、自分の働きがうまく行っている時ほど、自分の力で何でもできるように思ってしまい、神様から離れてしまいがちです。だから、本当に祈ることが必要なのは、困っている時、苦しみ悲しみの時よりもむしろ、順調な時、うまくいっている時だと言うことができます。そのような時こそ、その順調な働きを中断して、人々から離れて神様と向き合い、祈ることが大切なのです。帰って来た弟子たちは、素晴らしい働きを与えられた喜び、充実感で意気揚々としていたでしょう。主イエスに自分たちの働きを報告したら、すぐにまた出掛けて行ってさらに宣教し、癒しの業を続けよう、と思っていたかもしれません。そういう弟子たちに主イエスは、今あなたがたに必要なのは、心も体も休めて、つまり自分の業、働きをやめて、人々からも離れて、神様と向き合い、祈ることだ、とおっしゃったのです。
静まって祈ることは難しい
「あなたがただけで」人里離れた所へ行けとおっしゃった主イエスは、しかし結局ご自分も舟に乗って弟子たちと一緒に行かれました。このことは、弟子たちは自分たちだけでは本当に休み、祈ることができない、ということを示しているのかもしれません。主イエスに「休んで祈りなさい」と言われても、ついつい動きたくなる、働きたくなる、祈るよりも活動していたくなる、それは弟子たちも私たちも同じです。じっと祈っているよりも、何かをして働きたくなる、「奉仕」をしたくなるのです。そうしていないと不安になるのです。年配の教会員の方がよく、「自分はもう何も奉仕ができない役立たずになってしまって心苦しい」というようなことをおっしゃいます。そんなことはないのであって、教会のこと、みんなのことを覚えて祈って下さることが最大の奉仕なのですが、そういうことを言ってもなかなか言葉通りに受け止めてもらえません。「先生は私をがっかりさせないための社交辞令としてそう言っているので、本心ではやっぱり、こいつは何もできないお荷物だ、と思っているに違いない」と思っておられるのではないでしょうか。しかしそれは全く違うのです。祈っているというのは、何もしていないことではありません。祈っているだけでは意味がない、ともし思っているとしたら、私たちはその感覚を先ず根本的に改めなければなりません。以前に婦人会報にも書きましたが、私の出身教会に昔、二十年寝たきりで、食事から下の世話まで、全てお嫁さんにしてもらいながら、家族のこと、教会のことを祈り続けたおばあちゃんがいました。まさに何も出来ずにただ祈り続けた人です。しかしその方の存在が、そのご家族にとって、また教会にとって、どれほど大きな慰めであり支えであったか、量り知ることができません。目に見える奉仕だけが奉仕ではないのです。人知れず祈ることの意味と大切さを知ることができなければ、私たちの信仰は結局人の目、人からの評価に振り回され、神様を信じるのではなくて自分の誉れを求めるような、信仰ならざる信仰になってしまうでしょう。弟子たちも、人々の間で良い働きをすることができた、という体験の中で、知らず知らずの内に人からの評価に振り回されるような思いに陥っていく危険の中にあった、そのために主イエスは、人里離れた所で祈る時を持たせようとなさったのです。しかし自分の体験に興奮している弟子たちはなかなか自分たちだけで静まって祈ることができない、だから主イエスご自身が共に行って、人間の業を休んで祈ることの模範を示そうとなさったのかもしれません。静まって祈ることはそのようになかなか難しいことであり、そこにおいても私たちは主イエスに従うことが必要なのです。
深い憐れみによって
人里離れた所へ行くために、主イエスと弟子たちは舟に乗って出発しました。しかし人々は主イエスがしばしば祈りに行っておられた場所を知っていたのでしょう。一行の先回りをして待っていたのです。人里離れた所に上陸するはずが、すべての町から一斉に駆けつけて来た群衆でそこは大変な騒ぎになっていたのです。それほどまでに人々は、主イエスのみ言葉とみ業とを求めていました。主イエスはその大勢の群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれました。人里離れたこんな所にまで主イエスを求めて押し寄せて来るということは、彼らには、自分たちを本当に養い、守ってくれる飼い主、主人がいないのです。それはある意味では誰にも支配されずに自由ですが、実際には寄る辺ない身である、ということです。彼らが主イエスのもとに押し寄せて来たのは、そういう自覚があったかどうかはともかく、自分の本当の主人、保護者、信頼して自分を委ねることのできる飼い主を求めていたのです。主イエスはそのような人々を見て、「深く憐れみ」ました。これはただ「可哀想に思った」というのではありません。この言葉は「内蔵が揺り動かされる」という意味であり、新約聖書では、主イエスご自身にのみ用いられています。主イエスが、苦しんでいる人を、内蔵が揺り動かされるように深く憐れんで下さる、そういう特別な憐れみを示す言葉です。そういう深い憐れみによって主イエスは、人々にいろいろと教え始められた、み言葉を語っていかれたのです。
五千人が満腹になった奇跡
主イエスの話が続いて行く間に、弟子たちは次第に心配になってきました。ここは街中ではなくて人里離れた場所です。そこに、男だけでも五千人の人々が集まっているのです。まもなく日が暮れる。そうしたら、こんなに大勢の人々が腹をすかせたまま一夜を過ごさなければならなくなる。そうならないためには、そろそろお開きにしないと、このままではみんな家に帰り着くことができなくなる…。それで彼らは主イエスに「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と言ったのです。すると主イエスは驚くようなことをおっしゃいました。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。「そんな無理な」と弟子たちは思いました。「私たちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金です。ですから一人の人が二百日かけて稼ぐ金、それくらいなければ、この多くの群衆に食べ物を与えることはできないのです。「二百デナリオンもの」と金額を出しているのは、「そんなお金が私たちにないことは、先生あなたもよくご存じでしょう」ということでしょう。すると主イエスは、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃいました。あなたがたは今どれだけのものを持っているのか、と主は問われたのです。「五つのパンと魚が二匹」それが弟子たちの持っている全てでした。その五つのパンと魚二匹で、主イエスは、男だけで五千人もの人々を満腹させるという奇跡を行われたのです。 この奇跡はこのように合理的に説明されることがあります。「群衆の多くは自分の食料を持って来ていた。しかし、あまりに多くの人々がいる中で、自分の食料を出して自分だけで食べることもできず、かといってみんなに分け始めたらとても足りそうもないので、みんなそれを出さずに隠していた。ところが主イエスと弟子たちが、自分たちの持っている五つのパンと二匹の魚を人々に分け与え始めた姿を見て、人々も自分の持っているものを出して分け合い始めた。そうしたら、結果的にはみんなが満腹することができた。あるいは、腹はまだ空いていたかもしれないが、心が、互いに分かち合うことの喜びで満たされたのだ」。このように捉えれば、この出来事を説明することができます。しかしその場合にはこの話は、「自分の持っているものを互いに分かち合うことの素晴らしさ」を教える単なる道徳の話になります。マルコが語ろうとしているのはそんな倫理的な教えではありません。マルコはこの出来事を、主イエスのなさった奇跡として語っているのです。その奇跡の物語によってマルコは何を語ろうとしているのでしょうか。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」
そもそも主イエスが弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは何のためだったのでしょうか。そのことと、32節までの所に語られていたこととは関係があると思います。弟子たちは、主イエスによって遣わされた使徒として、み言葉を語り、悪霊を追い出し、病を癒すという素晴しい働きを与えられました。「こんなことができた、あんなこともできた」という成功体験を与えられたのです。主イエスは彼らを人里離れた所で休ませ、神様と向き合い、祈る時を持たせようとしておられました。しかしそれを果すことができず、今またこのように多くの群衆に囲まれているのです。その弟子たちに主イエスが、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃったのは、彼らに、自分たちの力がどれほどのものかを自覚させるためだったと言えるでしょう。弟子たちは、我々は素晴しいことができた、良い働きができた、神様の救いを人々に分け与えることができた、と喜んでいます。自分たちにはこんな力があったのだ、とある意味で有頂天になっていたのです。その弟子たちに主イエスは「それではあなたがたがこの群衆に食べ物を分け与えてごらん」とおっしゃったのです。弟子たちは「そんなことはできません」と言うしかありません。素晴しい働きが出来た、自分たちにはこんなに力があったのだ、と思い上がっていた彼らは、これによって、自分たちの力がどれほどのものだったのかを思い知らされたのです。
主イエスはこのようにして、有頂天になっている弟子たちの目を覚まさせたのです。しかしそれは、「こんなことも出来ないくせに思い上がるな」と弟子たちの天狗の鼻をへし折ることが目的ではありません。それに続いて主イエスは「パンは幾つあるのか。見て来なさい」とおっしゃっています。弟子たちが今持っているものを確認させておられるのです。パンが五つと魚が二匹、それが弟子たちの持っている全てでした。彼らが人々に分け与えることができるものはそれだけなのです。それは五千人からの人々の前では、何の役にも立たないちっぽけなものです。しかしそのことを確かめた上で主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を手に取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡して配らせ、魚も皆に分配なさったのです。すると、すべての人が食べて満腹し、さらに十二の籠にいっぱいになるくらい余りが出たのです。先程共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記下の第4章42節以下には、預言者エリシャが二十個のパンで百人の人々を満腹させ、余りが出たことが語られていますが、それ以上の奇跡が起こったのです。
恵みによって用いられる
この奇跡は何のために、また誰のためになされたのでしょうか。この奇跡は勿論第一には、飼い主のいない羊のように彷徨い、養ってくれる主人なしに寄る辺ない思いをしている群衆たちに、主イエスがまことの羊飼いとして食物を与え、養って下さるという憐れみのみ業です。しかしこの奇跡は群衆のためである以上に弟子たちのためになされたと言うことができるのではないでしょうか。主イエスは弟子たちの持っているものが、五千人の前では全く無力な五つのパンと二匹の魚でしかないことを確認した上で、その五つのパンと二匹の魚とを用いて、五千人の人々を満腹させて下さったのです。主イエスが用いて下さるなら、彼らの持っているちっぽけなものが信じられない実りを生むことを示して下さったのです。そしてそれは、彼らが主イエスによって遣わされてみ言葉を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病を癒す働きをした、そこで体験したのと実は同じことだったのです。彼ら自身の中に、人々に語るべき何かがあり、人々を救う力があったのではありません。彼らは、自分が持っている何かを人々に与えたのではなくて、ただ主イエスが、神様が、恵みのみ業のために彼らを用いて下さったので、あのような働きをすることができたのです。帰って来た彼らが本当に見つめ、感謝するべきであったのはそのことなのです。ところが彼らは、み業のために自分たちを用いて下さった神様の恵みに感謝するよりも、自分たちが行ったことや教えたこと、悪霊を追い出したり、病を癒したことばかりに目を奪われており、そればかりを興奮して語っていたのです。それゆえに主イエスは彼らに、人里離れた所で祈るように言われました。祈って神様と向き合うことによって、自分が弱い小さな器であるという事実を見つめ、その弱い小さな器である自分に神様が豊かな恵みを注いで下さり、その恵みによって用いて下さって、良い働きを与えて下さったことを感謝するようになるためです。そのご計画は群衆によって阻まれましたが、その代わりに主は、この五つのパンと二匹の魚の奇跡によって弟子たちに同じことを示して下さったのです。弟子たちの持っていたものは、五千人の人々を満腹させることなどとうていできないものでした。飼い主のいない羊のような彼らの有様を憐れんで下さる主イエスの恵みこそが五千人の人々を満腹させたのです。しかしそのみ業のために主イエスは、弟子たちの持っていたパンと魚を用いて下さいました。神様の恵みによって用いられるなら、自分たちの、何の役にも立たないように見えるちっぽけなものが驚くべき実りを生むことを、弟子たちは体験したのです。
新しい神の民の結集
彼らが持っていたパンと魚が用いられただけではありません。39節で主イエスは弟子たちに、皆を組に分けて座らせるようにお命じになりました。そして41節には、主イエスが賛美の祈りを唱えて裂いたパンと魚を弟子たちに渡して配らせたとあります。主イエスの恵み、憐れみによって与えられたパンと魚を、実際に人々に配ったのは弟子たちだったのです。このように彼らは、主イエスの恵みが人々に与えられるために用いられました。飼い主のいない羊のような人々に対する主イエスの憐れみは、弟子たちを通して人々に伝えられ、こうして人々は主イエスという羊飼いの下に養われる羊の群れとなったのです。「すべての人が食べて満腹した」という42節の言葉はそういうことを表していると言えるでしょう。そして43節には「そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった」とあります。十二の籠は十二人の弟子たちと対応しています。十二人の弟子たちが、パンと魚とを人々に配り、そしてその残りを集めたのです。ここに集められた全ての人が、十二人の弟子たちの手を通して、主イエスの恵みによって養われ、有り余るほどに満腹したのです。その十二は、神様の民イスラエルの部族の数です。主イエスはこの十二人の弟子たち、つまり使徒たちを中心として、新しいイスラエル、新しい神の民をご自分のもとに呼び集めようとしておられるのです。それが教会です。本当に信頼できる主人を持たず、飼い主のいない羊のように彷徨っていた私たちが、私たちの罪を全て背負って十字架の死を引き受けて下さったまことの羊飼いであられる主イエスのもとに、新しいイスラエル、新しい神の民として集められ、主イエスの恵みによって養われていく、それが教会なのです。神様のもとから自由になろうとして迷い出て、結局寄る辺ない身となり、飼い主のいない羊のように彷徨っている私たちは、使徒たちを中心として呼び集められている教会に連なる者となることによって、罪を赦され、神様の民とされ、恵みのみ言葉によって養われ、育まれ、守られていくのです。 私たちを用いて下さる主
そして主イエスは弟子たちと同じように私たちをも、この恵みのみ業の前進のために用いて下さいます。私たちの持っている力はちっぽけなもので、私たちが自分の力でそれを用いようとしても、この世の現実の前で何の役にも立ちません。しかし主イエスは私たちを、深い憐れみによる救いのみ業の中で、恵みによって用いて下さるのです。すると、そのちっぽけな私たちが、主イエスの救いを宣べ伝え、人々にそれを分け与えていく働きの一端を担うことができるようになるのです。それは目に見える目覚ましい奉仕ではないかもしれません。誰も知らない所でひたすら執り成し祈り続けるという、人からは全く評価されない働きかもしれません。しかし主イエスはそのような私たちの小さな、目に見えない働きを用いて、恵みのみ業を前進させて下さるのです。そのことに目を開かれるためには、自分の業をやめて休み、祈りにおいて神様と向き合うことが必要です。一人一人の歩みにおいても、教会の歩みにおいても、そういう時を大切にしていきたいと思います。