「恐れるな、ただ信じなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第98編1―9節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第5章21―43節
・ 讃美歌:297、157、454
二つの話
本日はマルコによる福音書の第5章21節以下をご一緒に読んでいきます。最初の21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」とあります。先週読んだ5章1節以下において主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、その東南のデカポリス地方、ゲラサ人の地に行かれました。そこで汚れた霊に取りつかれた一人の男を癒されました。そして本日の箇所で再び舟に乗って、もとのガリラヤ地方に戻られたのです。すると今度は二人の女性との出会いが起りました。一人は会堂長の一人でヤイロという人の幼い娘です。もう一人は十二年間出血の止まらない病気で苦しんできた人です。この二人も、主イエスによってその病を癒され、あるいは死んでしまったのを生き返らせていただいて、新しい人生を歩み出すことができたのです。しかも本日の箇所においてこの二つの出来事は織り成されるように語られています。21節から24節に、会堂長ヤイロが主イエスのもとに来て、娘が死にそうだから来て癒してほしいと願ったこと、主イエスがその願いを聞いて出かけたことが語られています。ところが25節以下には、ヤイロの家へと向かう途中で、十二年間出血の止まらない病気の女が、後ろからそっと主イエスの服に触れて、そこで癒しの出来事が起ったことが語られているのです。この話が中に挟まれて、35節から再びヤイロの娘の話になっています。このようにこの箇所には、二つの話がサンドイッチ構造になって語られています。マルコによる福音書にはしばしばこういう語り方が出てきます。それは、この二つの話が内容において密接に結びついているから、両者を一つの話として読んでほしい、という著者のサインだと言ってよいでしょう。ですからこの二つの話は本来切り離さずに読むべきではあるのですが、しかしこの両方について語っていくとなると余りにも長い話になってしまうので、本日は会堂長ヤイロの娘の話を中心に読み、来週、もう一人の女性の癒しの話を中心に読みたいと思います。しかしこの二つの話が結び合っていることは、常に意識しながら読んでいきたいと思います。
会堂長ヤイロ
さてヤイロの娘の話と申しましたが、むしろ重要な登場人物は父親であるヤイロです。彼は会堂長の一人だったとあります。会堂というのは、当時のユダヤ人たちの礼拝の場所であり、同時に学校や集会所でもあった、シナゴーグと呼ばれる場所であり、彼はその管理者だったのです。会堂長はいわゆるラビ、律法の教師ではありませんが、人々から信頼され尊敬されていた信仰者であり、私たちの教会で言えばさしずめ長老の一人というところでしょう。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏したのです。そして23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と「しきりに願った」のです。主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていたと21節にあります。その多くの群衆の目の前で、主イエスの足もとにひれ伏してこのように願うというのは、地位も名誉もある彼にとっては大変な勇気のいることだったのではないでしょうか。しかし彼は、もはや恥や外聞にこだわってはおれない、切羽詰まった状況にあったのです。42節から分かるように十二歳になっていた最愛の娘が死にかけていたのです。勿論これまでに、医者を始めとしていろいろと手を尽くして娘の病気を治そうとしてきたでしょう。しかしもう万策尽きてしまったのです。恐ろしい死の力が愛する娘を、そして彼の家庭を飲み込もうとしており、その力の前で自分が全く無力であることを思い知らされているのです。そういう苦しみ、絶望の中で彼は、主イエスの足もとにひれ伏したのです。 おそらく彼は主イエスに今日初めて会ったわけではないでしょう。主イエスがガリラヤでの活動の拠点としておられたのはカファルナウムの町であり、彼はおそらくそこの会堂長の一人だったのだと思います。ですから彼が管理している会堂で主イエスが説教してきたのを彼は聞いていたのでしょう。1章21節以下には、主イエスが会堂で、汚れた霊に取りつかれていた男を癒したことが語られていましたが、彼はそのみ業を目の前で見ていたのだろうとも思います。そのように彼はこれまでにも主イエスのみ言葉を聞き、そのみ業を見てきたのです。しかし今まで彼は、主イエスの足もとにひれ伏すことはありませんでした。それは彼が会堂長という社会的にも宗教的にも一目置かれる立場に立つ者として生きていたことと関係しています。ユダヤ人社会の重鎮であり、信仰的にも指導者である、そういう自負、自尊心を彼は持っており、これまではその自分の立場から、主イエスの教えやみ業について、いいとか悪いとか判断していたのではないでしょうか。つまり彼は主イエスとはある距離を保ちつつ、その教えやみ業を評価、判定していたのです。そしてそれは社会的地位のある彼のような人だけのことではなく、主イエスの周りに集まって来ていた群衆たちも基本的に同じです。彼らは、イエスという人がどんなことを語るのか、どんな業を行うのか、という興味や関心によって集まって来ました。そしてイエスの教えを聞き、み業を見て、この教えは納得できるとか、いやこれはおかしいとか、この業は不思議だなどと言っていたのです。そういう思いや姿勢は今この礼拝に集っている私たちの中にもあります。私たちはそれぞれ、自分がこれまでに得てきた知識や体験に基づいてある世界観、人生観あるいは信念を持っています。社会的地位に基づく自負や自尊心もあります。私たちはそういう自分の思いを基準にして、教会の教え、聖書の教えを評価し、なるほどと思ったり、それはちょっと納得できないと思ったり、そんなバカなことが、と思ったりしているのです。つまり主イエスとはある距離を保ちつつ、判定しようとしているのです。ヤイロもこれまではまさにそのように主イエスのことを外から、ある距離をもって眺めていました。しかし今、娘が死にかけているという人生の危機に直面して、自分の力ではどうすることもできない恐ろしい死の力に脅かされる中で、彼は主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、自分の人生観や思想を脱ぎ捨てて、主イエスに「助けてください」とすがったのです。彼は主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言っています。しかしそれは彼が、主イエスが手を置いてくれれば娘の病気は必ず治ると心から信じていた、主イエスこそ救い主だという信仰を持っていたということではないでしょう。むしろ、あちこちで癒しの業を行っているという評判の、そして彼自身もイエスの一言で汚れた霊が追い出されたのを目撃した、そのイエスという方に、まさに溺れる者が藁をもつかむ思いですがった、ということだったのだと思うのです。
応えて下さる主イエス
主イエス・キリストは、距離を置いて外から評価、判定しようとしている者に対しては何もお語りになりません。しかしみ前にひれ伏して救いを求める者の願いには応えて下さるのです。24節に「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた」とあるのはそのことを示しています。苦しみの中で、地位も名誉も信念もなげうって救いを求めて来た人の思いを、主イエスはしっかりと受け止めて下さるのです。しかし彼らがヤイロの家へと急いでいる途中でハプニングが起こりました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた一人の女性が、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」という思いによってです。主イエスはこの女性の思いを敏感に感じ取られました。そして群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言ってその人を見いだそうとなさったのです。ここにも、苦しみの中で救いを求めてすがってくる人の思いにしっかり応えて下さる主イエスのお姿が示されています。ヤイロに対してもこの女性に対しても、主イエスは同じように、深い苦しみの中から救いを求める思いを受け止め、それに応えて下さっているのです。ここに、この二つの癒しの出来事の共通性があります。そこにおいてこの二つの話は結びあっているのです。
恐れることはない
間に挟み込まれているこの女性の話は来週もう一度読むことにして、本日は35節以下のヤイロの娘の話の続きを読んでいきます。思わぬハプニングによって足留めをくっている間に、ヤイロの家から使いの者が来ました。そして、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げたのです。娘は死んだ、死の力がついにあの子を捕えてしまった、もう取り戻すことはできない、それはヤイロが最も恐れていたことでした。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」。この言葉は深い絶望と諦めを語っています。藁にもすがる思いでイエスの救いを求めたけれども間に合わなかった、まだ息のある内なら癒してもらえたかもしれない、しかし今となってはもう、病を癒す奇跡を行うことのできる者であってもどうしようもない、死の力に捕えられてしまった娘を取り戻すことは誰にも出来ない、そのように告げる言葉をヤイロは聞いたのです。 ところが36節、「イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」。「そばで聞いて」とありますが、ここは以前の口語訳聖書では「聞き流して」と訳されていました。文脈からするとこちらの方がよいと思います。「無視して」と訳しているものもあります。娘は死んだという絶望の知らせを主イエスは聞き流し、無視したのです。そのような知らせには耳を貸さないのです。私たちもそういうことをすることがあります。余りにも悪い知らせ、つらい出来事を聞かされると、それに耳を塞ぎ、「そんな話は聞きたくない」という仕方で自分を守ろうとするのです。しかし主イエスはここでそんなことをしているのではありません。主イエスは、「お嬢さんは亡くなりました」という知らせをちゃんと聞いた上で、それに動ずることなく、「恐れることはない。ただ信じなさい」とおっしゃったのです。しかしいったいこの状況の中で、どうして恐れないでいることなどできるのでしょうか。何を信じることができるというのでしょうか。
泣くことしかできない人間
彼らがヤイロの家に着くと、「人々が大声で泣きわめいて騒いでい」ました。十二歳の娘の死を嘆き悲しんでいる人々の姿かと思うのですが、注解書を読みますと、この人々は葬式の時に雇われる「泣き男、泣き女」たちだろうと言われています。つまり、彼らが泣きわめいて騒いでいるのは、仕事として、お金をもらってそうしているのです。日本にも昔そういう風習があったようです。お金持ちの葬式ほど、そういう人々が沢山雇われて、派手に泣き叫ぶ声に包まれるのです。どうしてそういう風習が生まれるのか。それは一つには、葬式を、できるだけ派手な立派なものにすることによってその家の地位や名誉を現わそうとするということがあるからでしょう。しかしもう一つの理由は、抗いようのない死の力に支配されてしまうというどうしようもない苦しみの現実を前にして、せめてできるだけ多くの人に泣いてもらうことによって慰めを得たい、ということではないでしょうか。できるだけ多くの人に、自分の死を悼んで泣いてほしい、それが、死んで行く自分にとっても、また家族にとっても、せめてもの慰めとなる、そういう思いから「泣き男、泣き女」が生まれてくるのです。そこには、死の力の支配の前で、泣くことしかできない人間の無力さが現れています。勿論、泣くこと、涙を流すことは、悲しみの中にいる者に慰めをも与えてくれます。泣くことができるのはすばらしいことです。また人のために涙を流すことは貴いことです。「泣き男、泣き女」の涙は空しいものであるとしても、人間が心から流す涙を神様は決して疎かにはなさいません。主イエスも、私たち人間のために涙を流して下さった方であることを聖書は語っています。しかし、主イエスは私たちのために泣いて下さっただけではありません。死の力の支配の下で私たちはただ泣くことしかできませんが、主イエスは、私たちをその支配から解放して下さるのです。
眠っている者を目覚めさせる
そのことがここに示されていきます。主イエスは家の中に入り、人々に「なぜ泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われました。これは、本当は死んでいない、死んだように見えるけれども眠っているだけだ、ということではありません。ヤイロの娘は、医学的、生物学的には本当に死んだのです。だから人々は主イエスを「あざ笑った」のです。子供が本当に死んでしまったことを知っていたからです。では主イエスはなぜ、「眠っているのだ」とおっしゃったのでしょうか。死んだ者のことを「眠っている」と表現する箇所が聖書にはいくつかあります。例えばヨハネによる福音書第11章11節です。ここは有名な「ラザロの復活」の場面ですが、主イエスは「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言っておられます。死んでいるラザロを復活させることを「眠っている者を起こす」と言っておられるのです。ここから分かるように、死んだ者を「眠っている」と表現するのは、その眠りから目覚める、つまり復活することを予想してのことです。ですから「子供は死んだのではない。眠っているのだ」という主イエスのお言葉は、「この子を私が復活させる、目覚めさせる」ということなのです。そして主イエスはそのお言葉を実行なさいます。子供のいる部屋に入り、その手を取って、「タリタ、クム」と言われたのです。それは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味でした。まさに眠っている少女を起こすように、主イエスは彼女をお呼びになったのです。すると少女は、深い眠りから爽快に目覚めたかのように、すぐに起き上がって歩き出したのです。
主イエスが共におられるなら
この驚くべきみ業において特徴的なことは、主イエスが、この少女が死んだという事実を、最初から最後まで認めておられない、ということです。「お嬢さんは亡くなりました」という知らせを主イエスは「聞き流し、無視して」、「恐れるな、ただ信じなさい」とおっしゃり、また「子供は眠っているだけだ」とおっしゃり、そして少女に「起きなさい」と呼びかけたのです。それは先程も申しましたように、少女の死という現実に目を塞いでいるのではありません。主イエスは、死の圧倒的な力の前で恐れおののき、恥も外聞も棄ててひれ伏して救いを求めた一人の父親の思いに応えて歩み出して下さったのです。それは、彼の娘をまさに捕えようとしている死の力を打ち破って、彼ら家族を絶望から救い出して下さるためでした。そのように主イエスは、真剣に救いを求めて来る者の願いに応えて、死の支配からの解放を与えるためにその人と共に歩み出して下さるのです。その歩みの途中で、娘の死の知らせが届きます。間に合わなかった、もう絶望だ、と思わずにはおれないような事態が、主イエスが共に歩んで下さっている間にも起るのです。しかし主イエスはそこで、「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいます。何を信じなさいとおっしゃるのか。それは、主イエスがひとたび共に歩み出して下さっているなら、死の力が私たちを支配することはもはやないのだということをです。主イエスが死の力を打ち破り、その絶望から私たちを救い出して下さるのだということをです。主イエスのこの恵みの力の前では、肉体の死も、眠っているのと同じであり、目覚める時が与えられるのだということをです。そのことを信じなさいと主イエスは言っておられるのです。そして「信じなさい」とおっしゃるだけでなく、その救いを体験させて下さるのです。 40節にあるようにこの奇跡は、皆を外に出し、子供の両親と、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちのみの前で行われました。また43節には主イエスが彼らに、「このことを誰にも知らせないようにと厳しく命じ」たとあります。つまりこの奇跡を体験したのは、死の力による絶望の中から真剣に主イエスの救いを求めたこの両親と、そして主イエスに従って歩んでいる弟子たちだけだったのです。主イエスに対して距離を置き、外からあれこれ評価し判定している人々はこのみ業を体験するこができません。主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めていく者だけが、主イエスが死の力を打ち破って絶望から救い出して下さることを体験することができるのです。
主イエスの十字架と復活によって
この少女の復活の出来事は、主イエスの十字架の死と復活とによって実現した救いを指し示しています。主イエスは十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを脅かしている死をご自分の身に引き受けて下さり、私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。そして父なる神様は死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さいました。主イエスの十字架の死と復活とにおいて、神様の恵みが死の力に勝利し、私たちをその支配から解放して下さったのです。主イエスが死んで復活して下さったことによって、もはや私たちの死は、眠りに過ぎないものとなったのです。主イエスの復活にあずかって、私たちもその眠りから目覚める時が来ることが約束されたのです。私たちは誰もがいつか必ず死んで眠りにつきます。しかしその死は、もはや私たちを最終的に支配する力ではありません。神様が死の力を打ち滅ぼして私たちを目覚めさせ、復活の命、永遠の命を与えて下さることが約束されているのです。主イエスはこの少女を死の力から奪い返して両親に返して下さることによって、主イエスご自身の十字架の死と復活によって実現する救いの恵みを先取りして示して下さったのです。「ただ信じなさい」とは、この救いの恵みを信じなさいということであり、このことを信じる時に私たちは、「恐れることはない」という主の励まし、支えのみ言葉をも共に聞くことができるのです。
礼拝において
私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみ困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。私たちにも、そういう機会が与えられています。それがこの主の日の礼拝です。礼拝において私たちは、主イエスから距離を置いて、その教えやみ業を自分の思いによって判定しているようなこともあります。しかし深い苦しみ悲しみの中で、主イエスの足もとにひれ伏して真剣に救いを求めることも、この礼拝の中でこそできるのです。その時主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出して下さいます。その歩みにおいても、「もう先生を煩わすには及ばない」と私たちを絶望させるような出来事が起ります。しかし主イエスはそこで私たちに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけて下さるのです。その主のみ言葉を聞くことができるのもこの礼拝の場です。そして私たちはこの礼拝において、ヤイロとその家族が体験したように、主イエスによって死の力が打ち破られ、その絶望からの解放が与えられることを体験していくのです。それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって実現した恵みです。十字架と復活の主イエスが、この礼拝において私たちに出会って下さり、「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたを脅かしている死は、私の恵みの前では眠りに過ぎない」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。死の恐れの中から起き上がりなさい」と告げて下さっているのです。