主日礼拝

聞く耳のある者とは

「聞く耳のある者とは」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第119編105―112節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第4章21―25節  
・ 讃美歌:55、151、430

神の国の秘密
 今私たちは礼拝においてマルコによる福音書の第4章を読んでいます。第4章には、主イエスがお語りになったいくつかのたとえ話が並べられています。これまで読んできたところには「種を蒔く人のたとえ」とその説明があり、それと並んで、たとえ話を用いて語ることの意味あるいは目的が11、12節に語られていました。そこにおいて示されたのは、主イエスはたとえ話によって「神の国の秘密」をお語りになったということです。神の国とは、神様のご支配という意味です。主イエスは1章の15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を始められました。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配が今や実現しようとしている、それは言い換えれば救いが実現しようとしている、ということです。その救いの実現を告げる福音、良い知らせを主イエスは宣べ伝えておられたのです。しかしその神の国の福音は、同時に「秘密」でもあります。「秘密」というのは「隠されていること」という意味です。神様のご支配の実現という救いは、隠されており、誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていないのです。「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉はそのことを言い表しています。神の国は、近づいているけれどもまだ目に見える現実とはなっていないのです。だから神の国の福音は「信じる」しかないのです。誰の目にもはっきり見えているなら、信じる必要はないわけです。また説明によって理解することができるならやはり信じる必要はないのです。しかし神の国は隠された秘密であり、信じるしかないものです。その神の国の秘密を、身近で具体的な事柄を用いて、体験させ、味わわせてくれるのが、主イエスの語られたたとえ話なのです。ですからそれは神の国についての説明ではなくて、ある意味「謎掛け」のような話です。隠された神の国が謎掛けによって示されているのです。たとえ話を読む私たちは、その謎を解かなければなりません。本日の箇所に語られているたとえ話も、謎のような話です。その謎をどのように解いたらよいのかをご一緒に考えていきたいのです。

ともし火のたとえ
 本日の箇所に先ず語られているのは「ともし火のたとえ」です。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と主イエスはおっしゃいました。この「ともし火」をろうそくの火と考えてしまうとイメージがつかみにくくなります。このともし火は、素焼きの水指しのようなものに油を入れ、芯をそれに浸して火を灯すランプです。それなら、升の下や寝台の下にも置けないことはないわけです。しかしランプをそんな所に置くために持って来る者はいない。ランプは燭台の上などのよく見える所に置いて、光が部屋中を照らすようにするものだ、ということです。これはまことに尤もな話ですが、これがどのような意味で神の国の秘密を語っているのか、それはまさに謎掛けだと言えるでしょう。

あなたがたの光?
 マタイによる福音書の第5章15節にこれと同じ題材を用いたたとえが語られています。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。このたとえは次の16節の教えへとつながっています。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ここでは、ともし火とは明らかに「あなたがたの光」であり、その意味しているのは「あなたがたの立派な行い」です。それを世の人々の前で明るく輝かせなさい、それによってあなたがたは、その前の14節にある、「世の光」としての役割を果たすことができる、と教えられているのです。これは分かりやすい教えです。自分がそのように「世の光」、この世のともし火になることができているかどうかは別にして、教えの意味はよく理解できるわけです。ところが、本日の箇所におけるともし火のたとえはそういうことを語っているのではありません。「あなたがたの光を輝かせなさい」という教えはここにはないのです。その代わりにマルコが語っているのは22節の「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という教えです。この教えがともし火のたとえと結びつけられている所にマルコにおけるこのたとえ話の特徴があり、そしてここに、このたとえの謎を解く鍵があるのです。

悪事は露見する?
 「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉は、主イエスの教えと言うよりも、当時一般に語られていた諺だろうと思われます。私たちも、この言葉をこれだけ取り出して諺のように読むことが多いのではないでしょうか。そしてその際には、多くの場合この言葉は、「悪事はいつまでも隠しておけるものではなく、必ず露見する」という意味で捉えられているのではないでしょうか。日本の諺で言えば、「悪事千里を走る」とか「天網恢々疎にして漏らさず」といったところです。私たちには誰でも、自分の心の中に秘め、隠している罪があると思います。絶対に人に知られたくない、知られてはならないと思っている罪、それは人間の目からは死ぬまで隠しおおせるかもしれない、しかし私たちは最後に、神様の前に立たなければならないのです。人間の目はごまかすことができても、神様は、私たちの心の中の秘められた思いまで全てご存知です。神様の裁きの前では、隠していることが全て明るみに出されるのです。神様を信じて生きるとは、そのように、自分の隠しているどんなことも全て知っておられ、それをお裁きになる方がおられることを覚えて生きることです。22節の言葉は、それだけを取り出して読まれるなら、そういう意味に理解されることが多いでしょう。そのこと自体は信仰における大事な教えですが、しかしマルコ福音書4章22節が語っているのはそういうことではありません。主イエスは確かに当時の諺を用いておられますが、それを、ともし火のたとえと結びつけることによって、そこに全く新しい意味を込めておられるのです。

あらわになるため
 その意味を知るヒントは、21節に二回出てくる「ため」という言葉にあります。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」。そして実は22節にも、翻訳には現れていませんが、同じ「ため」という言葉が二回語られているのです。それを意識して訳し直してみるとこうなります。「隠れているもので、あらわになるためでないものはなく、秘められたもので、公になるためでないものはない」。つまりこの22節も、隠れているもの、秘められたものは、あらわになるため、公になるためのものなのだ、ということを語っているのです。21節と22節はこの点において結びついています。ともし火は、升や寝台の下に置かれて隠されてしまうためのものではない、燭台の上に置かれ、あらわに、公にされるためのものだ。それと同じように、今隠されているもの、秘められているものも、あらわになり、公になるためにあるのだ、という流れがここにはあるのです。

隠されている神の国
 21節と22節のこのつながりから、ともし火のたとえの謎が解けてきます。このたとえは、燭台の上に置かれ、あらわにされるべきともし火が、升の下や寝台の下に置かれて隠され、その光が多くの人に見えなくなっているという現実を見つめつつ語られているのです。それが、神の国が隠されている、という現実です。神の国、神様のご支配、つまり救いは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによって決定的に近づき、実現しようとしているのです。しかし主イエスは、誰が見てもこの方こそ神様の独り子であり、救い主、まことの王であられると分かるようなお姿でこの世に来られたのではありませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの村の貧しい大工として育って来られた主イエスは、人の目を引くような立派な、神々しいお方では全くなかったのです。だからそのイエスが神の国の福音を宣べ伝え始め、癒しの奇跡などを行うようになったのを見て、身内の者たちは「気が変になった」と思ったのです。いわゆる聖画には、主イエスの頭の周りに後光が描かれていますが、実際の主イエスにはそんなものはありませんでした。主イエスが神様の独り子であり、救い主であられることは、隠されていたのです。つまり、主イエスにおいて到来している神の国というともし火は、升の下、寝台の下に置かれ、隠されていたのです。  しかし、このともし火はいつまでも隠されたまま、秘められたままでいるわけではありません。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはないのです。今は隠されていて、誰の目にも明かにはなっていないけれども、いつかそれがあらわになり、公になり、全ての人々が主イエス・キリストにおける神の国のともし火に照らされる時が来るのです。22節はその約束を語っています。このように、ともし火のたとえは、主イエスによって到来した神の国、救いは今は隠されているけれども、将来必ずあらわになる、その時を信じて、希望を持って待ち望みつつ、今のこの時の、神の国が隠されている現実の中を、忍耐しつつ歩むようにと教えているのです。

ともし火が来る
 主イエスによってもたらされた神の国のともし火は隠されている、そのことが最もはっきりと現れているのが、主イエスの十字架の死です。升の下に置かれたともし火がじきに消えてしまうように、主イエスの光は人間の罪の力によってかき消されてしまったのです。父なる神様は、その主イエスを復活させて下さり、もはや死ぬことのない永遠の命に生きるともし火を新たにともして下さいました。そのともし火のもとに集められ、それによって照らされている群れが教会です。しかしこのともし火も、誰の目にも明らかに見えているものではありません。教会はいつの時代にも、このともし火を見ることができない、見ようとしない、圧倒的に多数の人々に取り囲まれています。福音書が書かれた初代の教会も、今日の私たちも同じです。主イエス・キリストこそ神の子、救い主であられ、主イエスの十字架と復活において、神様のご支配が、即ち私たちの救いが実現しているという福音は、いつの時代にも隠されているのです。神の支配など絵空事に過ぎない、悲惨な出来事に満ちたこの世の現実のどこに神の支配があるなどと言えるのか、という圧倒的な声の中で、教会は、主イエス・キリストの十字架と復活において実現している神の国、神様のご支配を信じて、その隠されたともし火を見つめつつ歩むのです。そのことが可能なのは、主イエスにおいて隠された仕方で実現している神様のご支配が、いつか必ずあらわになり、全ての人の目に見える現実となり、全世界が、主イエス・キリストのご支配のもとに服する時が来る、という約束を信じているからです。その約束は、復活して天に昇られた主イエスが、もう一度この世に来て下さり、最後の審判をなさる再臨の時、この世の終わりの時に実現します。21節は「ともし火を持って来るのは」と訳されていますが、ここは直訳すると「ともし火が来るのは」です。誰かが持って来るのではなくて、ともし火自体が来ると語られているのです。そこに、主イエス・キリストがもう一度この世に来られることが意識されています。主イエスがもう一度来て下さる再臨の時には、全ての隠されていることがあらわになります。私たちが隠している罪も全てあらわにされます。しかしそれ以上に、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、罪の赦しと永遠の命の希望を与えて下さった、主イエス・キリストの救いの恵み、主イエスにおいて実現している神様の恵みのご支配があらわになり、実現するのです。この主イエスによる罪の赦しを信じて、それに依り頼んで生きる者は、すべての隠されたことがあらわになる終わりの日の裁きを、恐れるのではなく、むしろ希望をもって待ち望みつつ生きることができるのです。

聞く耳のある者は聞きなさい
 このように、このともし火のたとえにおいて、ともし火とは私たちの良い行いではありません。私たちが世の光となって人々を照らすということは、ここでは求められていないのです。ここでのともし火は、主イエス・キリストにおいて到来している神の国です。私たちに求められていることは、この今は隠されているともし火を、信仰の目をもってしっかりと見つめることです。そしてこのともし火をしっかり見つめるためには、そのともし火を、神の国を私たちに語り示している神様のみ言葉をしっかりと聞くことが必要です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第119編105節にあったように、神様のみ言葉こそ、私たちの道の光であり、私たちの歩みを照らすともし火なのです。それゆえに主イエスは、ともし火のたとえの後の23節で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。聞く耳とは、神の国の秘密、その謎を信仰をもって聞き取る耳です。そういう耳をもってみ言葉を聞くことによって私たちは、今は隠されているが必ずあらわになるともし火を見つめつつ生きる者となり、主イエスがもう一度来られる終わりの日に、神様のご支配があらわになることを希望をもって待ち望む者となることができるのです。

どのような秤でみ言葉を聞くか
 神様のみ言葉を、聞く耳をもって聞くことが、ともし火を見つめて生きるためには必要です。主イエスはさらに24節で、「み言葉を聞く」ことに関する教えをお語りになりました。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」。「何を聞いているかに注意しなさい」とあります。み言葉を、ただ漫然と聞くのではなく、注意不覚聞くことが求められています。しかしそれは、居眠りをせずに、一言も聞き漏らさないように、というだけのことではありません。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとあります。み言葉を聞くことが、ある秤をもって何かを量ることにたとえられているのです。私たちは、およそ人の言葉、話を聞く時に、いつもそれを自分の秤で量っていると言えるでしょう。自分の秤で量って、これは価値があると思うと、その話を一生懸命に聞くのです。逆に、自分の秤に照らして、これはあまり価値がない、と思うと、心に止めずに聞き流すのです。現代は、膨大な数の情報、話、言葉が洪水のように溢れている時代です。その中で、情報を選択して、聞くべき言葉と聞かなくてもよい言葉とをしっかり見分けることが必要です。そのための秤を自分の中に持っていないと、情報の洪水に押し流されてしまいます。しかしそれは同時に、自分がどのような秤によって情報を量っているかが問われているということでもあります。秤が不適切だと、必要な情報を見逃し、役に立たない情報に振り回されてしまうことも起るのです。そのように、世の中の情報を量る秤は大切です。しかし私たちにとって本当に大切なのは、神様のみ言葉を聞く時に、どのような秤を持っているかです。神様のみ言葉を聞く時には、この世の情報を量るのとは違う秤が必要です。つまり、私たちが自分の考えによってみ言葉の価値を判断してこれは必要だとかこれはいらないなどと判定するような秤ではなくて、神様が与えて下さる恵みのみ言葉をできるだけ沢山汲み取っていくことができるような、大きな秤が必要なのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」というのはそういうことを語っています。具体的に言えば、一升を量れるような大きな升を持っていれば、そこにみ言葉の恵みが豊かに注がれるのです。そして「更にたくさん与えられる」とも語られています。神様はそのように大きな升でみ言葉の恵みを受けようとしている者に、更におまけをどんどん与えて下さるのです。しかし逆に、神様のみ言葉を自分の思いによって評価し、判断し、自分に役に立つと思われるものだけを聞こうとしている人は、自分の思いや考えという小さな、500ミリリットルぐらいの計量カップしか持っていないことになります。どういう秤を持っているかによって、いただくことができるみ言葉の恵みが全く違ってしまうのです。25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」というみ言葉はそういうことを語っているのです。「持っている人」とは、お金持ちのことではありません。み言葉をいただくための大きな升を持っている人です。持っていない人とは、貧しい人ではなくて、み言葉を聞く器の小さい人です。自分の思いや考えというちっぽけな器によって量っていたのでは、隠されている神様のご支配のともし火を見ることができません。この世の現実の暗さ、闇の圧倒的な力に目を塞がれて、神の言葉など、信仰など、何の役にも立たない、何の力もない、と感じられ、結局、与えられている恵みをも失ってしまうことが起るのです。しかしそれは、み言葉に力がないからではなくて、その人の、み言葉をいただく秤がちっぽけなものだったからなのです。

悔い改めの思いをもって
 私たちは、どのような秤で、神様のみ言葉を聞いているでしょうか。その秤の大きさはどれくらいでしょうか。そしてそれをより大きくするためには何が必要なのでしょうか。勘違いをしてはならないのは、その秤の大きさは、私たちの理解力の大きさではないし、頭がいいか悪いかでもありません。またそれは私たちの信仰心の厚さでもありません。ちっぽけな私たちの持つ信仰心など、もともとまことにちっぽけなものでしかないのです。要するにこの秤の大きさは、私たちの側のいわゆる「人間としての器の大きさ」ではありません。それでは、み言葉を聞く時に整えるべき秤とは何でしょうか。ある牧師はそれを「悔い改めること」だと語りました。あの1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というみ言葉に導かれてのことです。神様のみ言葉によって語られているのは、神の国の福音です。それを聞く私たちに求められているのは、悔い改めることです。自分が神様に背き逆らっている罪を認め、神様のみもとに立ち帰って赦しを願うことです。み言葉は、そういう悔い改めの思いをもって聞く時にこそ、恵みの力を発揮するのです。逆に言えば、悔い改めることなしにみ言葉を聞いても、その恵みの力は伝わって来ないのです。なぜならその場合には私たちは、自分の思いや考えによってみ言葉を量り、評価し、自分の思いに合うことだけを聞き、そうでないことには耳を塞いでいるからです。要するに自分が主人になって神様のみ言葉を取捨選択しているのです。悔い改めるとは、そのように自分が主人となってみ言葉を評価、判断することをやめて、神様こそが自分の主人であることを認め、神様のみ言葉によって自分の思いや感覚、考えを変えられていくことを受け入れることです。そのような秤をもってみ言葉を聞く時にこそ、み言葉の恵みは豊かに与えられていくのです。「聞く耳のある者」とは、この悔い改めの思いをもってみ言葉を聞く人です。その人には、人間の思いや力によっては及びもつかない神様の恵みの世界が開かれ、示されていくのです。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している神の国のともし火が見えてきます。今は隠されているけれども、いつか必ずあらわになり、全世界を照らすことになる、神様の恵みのご支配がはっきりと見えてくるのです。そのともし火を見つめつつ、人間の罪と、それによる苦しみ悲しみが支配しているこの世の現実の闇の中で、罪と死の力に対する神様の恵みの勝利を信じて、希望をもって歩んでいくならば、私たち自身が世の光となり、希望のともし火として輝いていくということもまた起っていくでしょう。

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