主日礼拝

命を救うこと

「命を救うこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第57編1―12節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章1―6節
・ 讃美歌:18、135、377

安息日に会堂で
 主日礼拝において、原則としてマルコによる福音書を読み進めていますが、10月はいろいろと特別のことがありましたので、10月第一主日以来ほぼ一か月ぶりにマルコに戻って来たことになります。本日からその第3章に入るのですが、その最初の1節に「イエスはまた会堂にお入りになった」とあります。第1章の21節以下に、主イエスがカファルナウムの町の会堂に入って教えたことが語られていました。そして1章39節には、主イエスがガリラヤ中の会堂に行って教えを宣べ伝えたとあります。主イエスはガリラヤ地方で伝道の活動をお始めになったのですが、最初の頃にはあちこちの会堂でお教えになったのです。会堂とは、ユダヤ人が安息日ごとに集まって神様を礼拝し、律法の教えを聞く所です。主イエスはその安息日の礼拝に出席して、そこでお語りになったのです。本日の箇所で「また会堂にお入りになった」というのも、人々に話をするためにということです。そしてこの日は安息日だったのです。
 この日会堂に、片手の萎えた人がいました。主イエスが話をしておられる、その礼拝、集会の場に、障碍を負って苦しんでいる人がいたのです。そこに集まっていた人々は、主イエスがこの人を見てどうなさるかに注目していました。2節に「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。先ほど申しました1章21節以下の話においても、汚れた霊に取りつかれた男が会堂にいました。汚れた霊、悪霊に取りつかれると、自分の言葉ではなく悪霊の言葉を語るようになってしまいます。この人は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と叫びました。主イエスは悪霊を叱りつけてこの人から追い出し、この人を悪霊の支配から解放しました。安息日の会堂においてこのような癒しの業をなされたわけですが、その時にはそれを問題にする人はいませんでした。しかし前回読んだ2章23節以下には、ファリサイ派の人々が主イエスに、あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている、と文句を言ってきたことが語られています。主イエスと弟子たちは安息日の掟をきちんと守っていない、という批判が高まってきていたのです。そういう中で、本日の箇所において人々は主イエスが安息日にこの人を癒すのかどうかを注目しています。それは「イエスを訴えようと思って」です。主イエスが癒しをなさったら、安息日にはしてはならないことをしていると訴えよう、という悪意をもって注目しているのです。
 ところで、安息日に人の病気を癒すことはしてはならないことなのでしょうか。当時の律法学者たちの見解においては、命の危険がある病気や怪我の治療は安息日にも行ってよい、とされていました。しかし今すぐ治療しなければ命に関わるのでない、明日まで待つことができる治療行為は、安息日には休まなければならない「仕事」に当たると考えられていたのです。普通の医院は休みだが救急病院はやっている、というのと同じです。この人が、「片手の萎えた人」だったと語られていることにはその点で意味があります。つまりこれは、今すぐどうにかしなければ死んでしまうという状況ではないということです。安息日はその日の日没には終わるのですから、数時間待って、日が暮れてから癒しを行えば、安息日の掟にひっかかることはないのです。つまり今この会堂での安息日の礼拝の中でこの人を癒すというのは、当時のユダヤ人たちの感覚では、安息日の律法を意図的に破ることだったのです。

真ん中に立ちなさい
 主イエスご自身もまさに意図的にそれをなさったことは、3節に「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた」とあることから分かります。この人をわざわざ会堂の真ん中に連れ出したのです。それはある意味では残酷なことです。片手が萎えているという障碍を負って生きているこの人は、ただでさえ人々から好奇の目で見られ、つらい思いをしてきたのだと思います。なるべく人前に出たくない、人々に自分の姿を見られたくない、というのが彼の思いだったのではないでしょうか。それを、多くの人々が集まる安息日の会堂の真ん中に立たせるなんて、イエスはなんと思いやりのないことをするのだ、とも感じられるのです。
 しかしこのことは一つの大事なことを私たちに教えています。主イエスによる癒しなどの救いのみ業は、多くの場合、人々の見ている前で行われています。人目に触れない所でこっそりとなされることはないのです。それは一つには、これらの救いの業は、主イエスこそまことの神であり救い主であられることを人々に示すためになされることだからです。しかしそれだけではありません。このことは、主イエスによる救いにあずかる者の側においても大事な意味を持っているのです。つまり、主イエスによる救いにあずかることは、自分と主イエスとの間だけでこっそりと、他の人に気付かれないように起ることではない、ということです。主イエスによる救いは、他の人の前で、多くの人々の真ん中でこそ与えられるのです。その救いにあずかることの印が洗礼を受けることです。洗礼は、病気などの特別な事情がない限り、この礼拝堂のまさに真ん中で行われます。多くの会衆が見守る中で、主イエス・キリストを信じる信仰を告白し、そして洗礼を受けるのです。時々、洗礼を受けたいのだけれども、あんなふうにみんなの前に出て行って受けるのはいやです、誰もいない時に先生と二人だけで洗礼を授けてもらうことはできませんか、と言う人がいますが、それは出来ないのです。洗礼を受け、主イエス・キリストによる救いにあずかることは、誰にも見られずにこっそり隠れてできることではありません。人々の前ではっきりと信仰を言い表し、人々に対して、自分がキリスト信者、クリスチャンとして生きることを公にすることが大切なのです。そういう意味で私たちは皆、主イエスから、「真ん中に立ちなさい」と声をかけられ、招かれているのです。

主イエスが問題にしておられること
 さて主イエスは彼を真ん中に立たせた上で、自分を訴えようとして注目している人々に向かってお語りになりました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。安息日に癒しを行ったら訴えてやろうと思っている人々に対して、これは主イエスの激しい挑戦の言葉です。主イエスのこの激しいお言葉の意図するところを私たちは正しく受け止めなければなりません。その意図を正しく受け止めないと、この言葉に正しく反応することができないのです。例えば、こんなふうに反応することが起ります。「善を行うか悪を行うかとか、命を救うか殺すか、などというのは論理のすり替えだ。そんなことを問題にしているのではない。問題は、片手の萎えた人をどうして安息日の内に癒さなければならないかなのだ。日没になれば安息日は終わる、癒しはそれからすればよいではないか」。私のような理屈っぽい人間は言葉尻をとらえてそのように反応するわけですが、しかしそれは主イエスのお言葉の意図を正しく受け止めていないと言わなければならないでしょう。主イエスはそれこそ、そんなことを問題にしておられるのではないのです。では何が問題なのか。私たちは主イエスのお言葉を次のように捉えて「そうだそうだ」と思うかもしれません。つまり、「病気や障碍のある人を癒すという愛の業と、安息日の律法、規則を守ることとどちらが大切か。当然愛の業の方が大切なのだ。それをすることこそ善を行うこと、命を救うことであって、規則を守るなんていうことはそれに比べれば悪を行うこと、人を殺すことになる。だから我々も、掟や規則にこだわるのでなく、愛の業に励むことが大切なのだ」。しかしこのような捉え方も、主イエスのお言葉を正しく受け止めているとは言えないと思います。なぜなら主イエスは安息日の律法などどうでもよいとは言っておられないからです。「安息日に律法で許されているのは」という言い方がそれを示しています。主イエスがこのお言葉によって人々に求めておられるのは、安息日に会堂に集まって礼拝するよりも、世の中の苦しんでいる人、貧しい人のために奉仕することの方が大事だから、そういうことを第一に考えて生きるように、ということではないのです。主イエスがこの激しいお言葉によって問題にしておられるのは、今この安息日に片手の萎えた人を癒そうとしておられる主イエスこそ、2章の最後の所の言葉で言えば「安息日の主」であり、神様から遣わされた救い主である、ということです。主イエスが、安息日の主として、善を行い、命を救う業をしておられることを信じ、受け入れることをこそ求めておられるのです。訴えてやろうという悪意をもって主イエスに注目するのでなく、主イエスが善を行っておられ、命を救うこと、つまり神様の救いのみ業を行っておられることを見つめなさいと言っておられるのです。つまり主イエスはここで、あなたがたも手の萎えた人を癒すような愛の業に励みなさい、と言っておられるのではなくて、主イエスのみ業を神の救いのみ業として見つめ、主イエスを信じなさいと言っておられるのです。

拒絶の沈黙
 主イエスのこのお言葉を聞いた人々は「黙っていた」と4節の終わりにあります。沈黙が会堂を覆いました。沈黙にはいろいろな種類があります。今皆さんが説教に真剣に耳を傾けておられる、そういう沈黙もあります。しかし人の言葉を拒絶し、受け入れようとしない頑なな思いによる沈黙もあるのです。この時この会堂を支配したのはそういう沈黙でした。彼らは沈黙によって拒絶の意志を表したのです。彼らが拒絶したのは、愛の業を行うことではなくて、主イエスのなさる癒しを神の救いのみ業として見つめ受け入れることです。主イエスを神からの救い主と信じることを拒絶したのです。要するに主イエスを拒絶する沈黙が会堂を覆ったのです。

怒る主イエス
 この沈黙に対して、主イエスは「怒って人々を見回し」と5節に語られています。主イエスが怒ったのです。そういう主イエスのお姿が語られるのはめずらしいことです。主イエスは、柔和で穏やかで、優しい方であるというイメージを私たちは持っており、それは基本的に正しいイメージです。しかし聖書の中にいくつか、主イエスがお怒りになったことを語っている箇所があります。その一つがここです。主イエスの語りかけに対しておし黙り、沈黙によって拒絶を表している人々に、主イエスはお怒りになったのです。
 主イエスのこの怒りも、正しく捉えなければなりません。主イエスは何に怒られたのでしょうか。彼らが問いかけに答えずに沈黙していることでしょうか。それもあるでしょう。あるいは彼らが、安息日の律法を守ることの方を、病気や障碍のある人を癒すことよりも大事にしていることでしょうか。それもあるでしょう。しかし主イエスの怒りの中心的な理由は、先ほど申しましたように、彼らが主イエスのなさる癒しを神の救いのみ業として受け入れることを拒み、主イエスを神からの救い主と信じることを拒絶していることです。このことに対してこそ主イエスはお怒りになっているのです。そのことを捉えておかないと、主イエスのこの怒りの受け止め方を間違ってしまいます。その受け止め方を間違うとどうなるかというと、私たちも主イエスと共に怒り始めるのです。安息日の律法ばかりを大事にして愛を忘れ、規則を守ることばかりに固執して目の前にいる苦しんでいる人のことを見ていないこのファリサイ派の者たちはけしからん、と思うようになるのです。そういう思いは、自分もそうならないようにもっと愛を実践しなければ、という自己反省をも一方で生みますが、同時に人に対して、あの人は人を愛することよりも律法の方をより大事にしている、命を救うことより殺すことをしている、という義憤を抱くようなことをも生むのです。それはつまり、自分も主イエスの怒りを共有し、主イエスと共に怒ることができる者となろう、という思いで主イエスの怒りを受け止めてしまっているのです。

悲しむ主イエス
 しかし主イエスの怒りは、愛を実践していない人に向けられているのではありません。主イエスを神から遣わされた救い主として受け入れようとせずに拒んでいる人にこそ向けられているのです。私たちは、この怒りを主イエスと共に怒ることを考えるのではなくて、自分がこの主イエスの怒りの下にあることをこそ見つめなければならないのではないでしょうか。主イエスのみ言葉の前に押し黙り、沈黙によって拒絶を表している私たちを、主イエスの怒りのまなざしが見つめているのです。そのことを意識する時に、5節の「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」という言葉が迫って来るのです。主イエスは沈黙によってご自分を拒んでいる私たちに対して怒っておられると共に、私たちの頑なな心を悲しんでおられるのです。私たちの頑なな心、それは主イエスのみ業に神の救いの恵みを見ようとせず、主イエスを神からの救い主と信じようとしない頑なな心です。そのような私たちを怒りをもって見回しておられる主イエスは、しかし怒って私たちを滅ぼしてしまおうとしておられるのではありません。私たちのために深く悲しんでおられるのです。悲しんでいるということは、私たちのことを愛して下さっているということです。愛しているからこそ、怒りと悲しみとが結びついているのです。

悔い改めを求める主イエス
 怒りと悲しみとの結びついたまなざしで人々を見つめつつ、主イエスは片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。すると彼の手は元どおりになった。癒しの奇跡が行われたのです。このことによって主イエスは、沈黙している彼らに、主イエスが行っておられる善を、命を救う働きを、はっきりとお見せになったのです。ご自分が「安息日の主」であられることをお示しになったのです。それは「悔い改めて私を信じなさい」という招きです。安息日の会堂において、多くの人々の目の前でこの癒しをなさったことによって、主イエスは、沈黙している人々に悔い改めを求めておられるのです。沈黙にはいろいろな種類があると先ほど申しました。問題は、その沈黙からどのような言葉が生まれるかです。最後の6節に「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。彼らは主イエスを拒絶する沈黙の内に留まり続け、そこから、は主イエスを殺そうと相談する言葉が生まれていったのです。しかし別の可能性もあります。沈黙して主イエスのみ言葉に耳を傾け、そこから主イエスを信じる信仰の告白の言葉、神様を賛美しほめたたえる言葉や歌、そして神様への祈りの言葉が生まれる、ということも起るのです。私たちはまさにそういうことを体験しているのではないでしょうか。つまり私たちは、最初は、主イエスのことをうさん臭く思い、どうも怪しい、たぶらかされるのではないか、という思いでみ言葉を聞いている、つまり黙って聞いているけれども基本的に拒絶する思いでいる、ということが多々あります。しかしみ言葉を聞き続けていく中で、私たちの思いが変わってくる、主イエスを自分の救い主、まことの神として受け入れる思いが起ってくる、そしてついには、信仰の告白、神への賛美と感謝の言葉が私たちの口から出てくる、ということが起るのです。それが悔い改めです。沈黙の中で、そういう悔い改めが私たちに起ることを、主イエスは願い、待っておられるのです。

十字架と復活によって
 頑なに主イエスを拒んでいる人々を、主イエスは怒りと悲しみのまなざしで見回されました。その怒りは、先ほども申しましたように、頑なな者たちを滅ぼしてしまおうとする怒りではありません。主イエスは罪人である私たちをなお深く愛していて下さり、それゆえに私たちの頑なさを悲しんで下さるのです。その怒りと悲しみとの中での主イエスの歩みは、ファリサイ派やヘロデ派の相談と相まって、十字架の死へと向かっていきます。主イエスは、頑なな罪人に対する神様の怒りをご自分の身に背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって下さったことによって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。そしてさらに主イエスを死者の中から復活させて下さることによって、私たちに新しい命を与えて下さったのです。私たちは主イエスの十字架と復活において、神様のこの救いのみ業を示されています。それはこの日この会堂にいた人々が目の当たりにした、片手の萎えた人の癒しとは比べものにならないすばらしい恵みのみ業です。このみ業によって私たちは、主イエス・キリストこそ、善を行い、命を救って下さり、まことの安息を与えて下さる「安息日の主」であられることを示されているのです。頑なな心を悔い改めて、この主イエスを信じ、ほめたたえる信仰の言葉をこそ語っていきたいのです。

み言葉と聖餐の恵みに押し出されて
 そのために本日は聖餐の恵みが備えられています。主イエス・キリストが、頑なな罪人である私たちのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった、そして復活して天に昇り、肉体の死を越えた永遠の命にあずからせて下さることを約束して下さった、その救いの恵みを、聖餐のパンと杯とにあずかることによって体全体で味わうのです。この礼拝においてみ言葉と聖餐の恵みにあずかった私たちは、この礼拝の場からそれぞれの一週間の生活へと出て行きます。そこで私たちは新しい言葉を語っていくのです。ファリサイ派の人々が主イエスを殺そうと相談した言葉とは違う言葉、主イエスこそ救い主であられるという信仰の告白の言葉を語り、主イエスを遣わして下さった父なる神様をほめたたえる賛美の歌を歌い、主イエス・キリストのみ名による祈りにおいて神様に語りかけつつ、主イエスと共にこの一週間を歩んでいくのです。

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