夕礼拝

審きの日に備えて

「審きの日に備えて」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 出エジプト記、第63章 7節-19節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第12章 1節-12節
・ 讃美歌21; 18、559

 
1 (表と裏の使い分けーそれは偽善)
表と裏、建前と本音を使い分けるというのは、私たちの中にしみついてしまっているものの一つでしょう。自分でも知らないうちに、ごくごく自然なものとして身に付いてしまっている。心の中では本当はあんな人に挨拶なんかしたくないのだけれども、一緒に仕事をしていく上では関係がこじれるのも困るから、一応挨拶しておくとするか。あの人からはしょっちゅう集会に来るよう誘われるけれど、正直言っていきたくなんかない。まあ適当に、「ありがとうございます。近いうちに」、社交辞令でその程度の返事をしておこうか。こんな感じで毎日の営みが行われているのです。表と裏、本音と建て前とを区別して上手に用いるというのはやむを得ないところがあるし、円滑な社会生活のために時には必要なことですらあるだろう、私たちはそう思います。  
けれども今、主イエスはおっしゃいます、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(2節)。今主イエスは、こと神様に対する態度においては、そういう使い分けは決して通用しないとおっしゃる。表面上の言葉と行いが、心の奥底にある思いとの間で分裂していてはいけないのです。神がご覧になってはおられないだろう、と思って「ここだけの話」と暗闇の中で、あるいは奥の部屋でささやく。それはみんな神の前に引き出されて吟味されることになるのです。神の前で秘密を持つということは許されない。隠しおおせると思っていたあらゆる内緒の話が、「明るみで聞かれ」、「屋根の上で言い広められる」ことになるのです。「えっ、こんなはずではなかった!神様は自分の建前の姿をご覧になって信仰熱心だと思っているとばかり踏んでいたのに、まさか心の底の本音まで見透かされていようとは!」、神の審きが行われる時には、何の言い逃れもできない。すべてが神の眼差しの下に置かれて吟味される。世の終わりの時に行 われる審きとはそういうものだ、というのです。

2 (ファリサイ派のパン種)
主イエスはこのことを他の誰でもない、「まず弟子たちに」お話になりました。「弟子たち」、つまり後の教会に向かってであります。数え切れないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどにひしめき合っているにも関わらず、主はまずは弟子たちにお話になったのです。主はこの警告のようなお言葉を、まずは弟子たちに語り伝えたかった。ということは、弟子たち、つまりは後の教会こそが、ここで主イエスが警告しておられる「偽善」の罪に陥りやすかったからにほかなりません。弟子たち、教会こそが、外側と内側との間に、分裂や食い違いを抱え込みやすかったのです。表と裏、建前と本音を使い分けたい誘惑に駆られやすかったのです。  
といいますのも、この当時ルカの属していた教会は、厳しい迫害に直面していたらしいのです。ローマ帝国による支配が強められ、教会に対して迫害の手が伸びてきた。信仰を守ろうとした結果、殺されて殉教する者が出てきた。苦しみのあまりに信仰を捨ててしまう者が出てきた。自分たちにもその恐るべき力がひたひたと迫ってきている。なんとか自分の身を守りたい。そのためには、心で信じていることを公に言い表すのはちょっとはばかられる。多少の態度の使い分けはやむを得ないだろう。そういうことで、信仰についてローマの役人から取り調べを受けている暗い部屋、裁判を受けている奥まった部屋では、自分が信じていることを隠して、主イエスのことなど知らない、とうそぶく。そうやって迫害の手から自分を守り、命を守ることを考えざるを得なくなっていたのです。  
ルカの教会の人々の間には、明らかに恐れがありました。それは、信仰ゆえに命を失ってしまうかもしれない、という恐れです。迫害の故に命を落としてしまうかもしれないことへの恐れです。この死の恐怖におびえている教会の人々の姿が、今主イエスのまわりに集まっている弟子たちの姿に重ね合わせられているのです。弟子たちもまた畏れていた。なにせ、当時の権力者であったファリサイ派や律法の専門家たちに、とんでもない非難の言葉を浴びせ、彼らの反感、悪意、激しい憎しみを引き起こしていたからです。こういうお方のそばにいては、自分たちの身にも危険が及ぶかもしれない。このお方の下に留まって、このお方についていくということで、本当にいいのだろうか。ここでも、弟子たちの表面上の主に従う歩みと、心の中の迷いとの間に分裂が起こってしまっています。主イエスの前では「どこまでも従ってまいります」と言っているけれども、ひとたびローマの役人たちの前に引っ張り出されたりしたならどうなってしまうか分からない。そんな恐れが、彼らの中にも湧 き上がってきていたに違いないのです。  
主イエスは、この弟子たちの中にある恐れをよくご存知でありました。それゆえにこうおっしゃってくださったのです。「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(4節)。さらに7節でも「恐れるな」と語りかけられ、11節では「心配してはならない」と力づけてくださっています。弱く心萎え果てそうな弟子たちの心を受け取り、その恐れを追い払おうと一生懸命になってくださっているのです。主は、私たちの命が死んで終わってしまったらそれですべておしまいだとはおっしゃいません。そうではない。死の向こうに言ってみるなら「本当の命」か「本当の死」かの分かれ目が待っている。しかもそのことをお決めになる権威を持っておられるお方こそが、今あなたがたの信じている神なのだ、とおっしゃるのです。「言っておくが、この方を恐れなさい」(5節)。主はそうおっしゃいます。「恐れるな」とお語りになる一方で、「この方を恐れなさい」とおっしゃる。恐れを克服する道は、「本当に恐れるべきお方を知 る」ことなのです。この世の命が終わったその先で、その人を本当の滅びへと至らせるのか、永遠の命、神とのとこしえの交わりの内に生かしてくださるのか、それをお決めになる権威を持っておられるまことの支配者が私たちの主なのです。本当に恐れるべきお方を心から恐れることによって、逆に私たちは、ほかのすべての恐れから解き放たれるのです。  
ということは、私たちはもはや、この人生の中で、全ての物事の帳尻あわせをする必要はない。どんな死に方をするかさえ決定的な問題ではない。本当につきつめて言うなら、迫害にあって死んでしまったって致命的な失敗ではない。避けられるものなら避けたいけれども、そうなってしまったってすべてがそこで終わってしまうのではない。人生の幸せと不幸の量を比べて、幸せが多くならなければ、せめて両方でトントンでなければ、死んでも死にきれない、といった思いからは、私たちは自由にされているのです。なぜなら、人生の最終的な決済は、この世の命が終わるところでなされるのではなく、その先にある、神の審きの場で行われるからです。そこで神の御前でどう生きてきたか、それが厳しく問われるのです。死の先で、神の御前で、なんとおっしゃっていただけるか、それこそが私たちにとっての決定的な問題なのです。

3 (誰が何と言おうと私はここに立つ!)
死の向こうで、どう生きてきたかが問われるということは、とりもなおさず、今この時、私たちが神のみ前でどう生きているか、それが厳しく問われている、ということでもあります。将来、再び来られる主イエスに何とおっしゃっていただけるのか、そのことはまさにいまこの時を、私たちがどう生きているか、ということと密接に結びついているのです。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(8-9節)。  
先月私たちの教会に、アメリカからストーラー先生をお招きしました。いろいろとお話をうかがう機会がありましたが、私が先生から受けた質問の一つは、日本のキリスト者は、自分の信仰を他の人に言い表したがらないと聞くが、それはどういった原因によるのか、というものでした。私は家族や職場での人間関係が難しくなったり、理解を得られなかったりすることへの恐れがある、ということをお話ししました。けれどもそう答えながらも、私たちはもしかすると、そういったことを過剰に心配しすぎているのかもしれない、そうも思いました。聞かれもしないのに「わたしクリスチャンです、わたしクリスチャンです」と言って回る必要はないけれども、何かのきっかけで「あなたは教会に行っているの?」、「あなたクリスチャンなの?」と尋ねられた時には事実を隠す必要はないのではないか。むしろそこからその人との新しい関わりが生まれることだってあるのではないのか、その人も関心を持ってさらにいろいろ聞いてくることもあるのではないのか、そう思いました。私自身 も、キリスト者ではない方と一緒に食事をする時、相手の方が私の信仰を理解してくださって、私が食前の黙祷を捧げている間も待ってくださっているという体験を何度もいたしました。 16世紀に教会の改革者として大きな働きをしたルターという人は、議会に呼び出され、自分の信仰を撤回するように迫られた時、こう叫んだと伝えられています。「私はここに立つ。私はこうする以外に何もできない。神よ、私を助けてください、アーメン!」。私たちは自分自身を守ろうとして建前と本音の使い分けをいたします。自分の身に危険が及ぶことへの恐れから偽善に陥ります。けれども実は本当の意味で自分を守る道は、むしろこの信仰を公に言い表し、自分の立つところをはっきりと内外に示すことなのだ、と主はおっしゃる。それはこの世の何物に媚びるためでもない。再び来られる主イエスに対して節操を貫くためです。神の御前で、神に対して誠意を貫くためなのです。恐るべきお方を真実に恐れるがゆえなのです。「他の誰が何と言おうと私はここに立つ!」、悔いなくそう言える足場が、私たちには与えられているのです。

4 (聖霊なる神ご自身が弁護してくださる)
それでも私たちは思うかもしれません。「でもそれは信仰の強い、がっしりとしたキリスト者の話でしょう。自分たちのような信仰者は、ひとたび迫害や激しい苦しみが襲ってきた日にはどうなってしまうか分からないですよ」、と。けれども、ルターという人こそは、自分の弱さや破れ、罪や誘惑に翻弄される自分の姿を深く知っている人でありました。だからこそ、ただ神の守りと支えのみに信頼することで、逆に大胆になれたのです。  
このことを思い見るながら、10節以下を読み直しますと、興味深いことが見えてまいります。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。さっき主はこうおっしゃったばかりです。「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。人の子は世の終わりに再び来られる主イエスのことです。すると、人々の前で主イエスを否むこともまた、人の子の悪口を言うことになるのではないでしょうか。それなのに、今はそのお言葉を弱めたかのように、「人の子の悪口を言う者は皆赦される」とおっしゃる。それに代わって登場してくるのは聖霊であります。「聖霊を冒涜する者は赦されない」(10節)。  
主イエスはご存知なのです。主の御前で、神の前で、最後まで節操を貫くというのが、私たちの業ではない、ということを。私たちがどこまで主の前に誠実を貫けるのか、突き詰めて問われていくなら、私たちは口をつぐんでしまうかもしれない。しかし聖霊なる神ご自身がそこでおっしゃるのです。「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(11-12節)。聖霊なる神ご自身が働いてくださって、自分の力では主への節操を守りきれない、弱い私たちを顧みてくださるのです。私たちが主イエスの友人であり続けることができるわけではない。しかし主イエスが「友人であるあなたがた」と、今日も私たちに呼びかけ、私たちの友となってくださるのです。そして聖霊の御業に自らを委ねるよう招いてくださる。聖霊なる神ご自身が働いてくださって、私たちを守り、語るべき言葉を授けてくださるのです。聖霊こそが、私たちを守る最後の砦なのです。主イ エスの地上におけるご生涯を理解できず、まさにローマの前で主イエスを否んでしまったペトロを初めとする弟子たちでした。けれども、その彼らの罪は、主の十字架の血により赦され、清められたのです。そして弟子たちを使徒として新しく造りかえ、罪の赦しの恵みを宣べ伝える者として遣わしてくださるのです。この恵みから、もし再び私たちが離れ去ってしまうことがあるとしたら、その時は確信犯として、主の恵みを意図的に拒否する者として、離れ去ることになるでしょう。聖霊という最後の救いの砦を拒むことになるでしょう。その罪は赦されない。救いの恵みに与った者でありながら、神の御心を知らされた者でありながら、なおその恵みを、その御心を意図的に拒む者は、自らを救いから切り離してしまうからです。

5 (聖霊の御業に信頼して)
そうであってはならない。主が差し出してくださったこの恵みの中に留まり続けるのです。主の招きの御声をいつも新しく聴き続けるのです。何といっても、神が特別の眼差しを注ぎ、顧み、守ってくださっているのが私たちなのです。当時最も貧しい人でも、食料として手軽に手に入れることができたと言われる雀たちも、その一羽一羽が神のものとして数えられているのです。私たちの髪の毛一本一本すら、神に数えられているのです。まして、私たち一人一人が、神のものとして覚えられ、顧みられ、数えられていることは疑いのない、確かなことなのです。聖霊がそのことを私たちに信じさせてくださいます。そして私たちの救いを完成させるまで、責任を持って私たちを担ってくださるのです。私たちがどんな浮き沈みの激しい人生を歩もうと、さらにはどんな死に方をさえもしようと、変わらぬ主のまことがあるのです。主の真実が貫かれるのです。この主の御前で、私たちはもはや自分を取り繕ったり、弱くもろい自分を隠そうとしたりする必要はありません。主がすべてをご存知の上で、 御霊において、私たちの救いの完成まで、支え、面倒を見てくださるからです。 預言者イザヤは語っています。「主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。 そして主は彼らの救い主となられた。 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 
愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった」(63:8-9)。この主なる神の「聖なる霊を苦しめ」(10節)ることがあってはならない。どんな孤独や試練の時にも、私たちを見捨てたり、捨て置いたりすることなく、救いの完成まで担い続けてくださる聖霊の御業に信頼して、私たちは今日も信仰を告白して生きるのです。他の何ものでもない、主なる神のみを恐れる民として「わたしはここに立つ!」と言い切ることのできる、その恵みの中を生きるのです。

祈り
 主イエス・キリストの父なる神様、心の奥底まで鋭く見通されるあなたの眼差しの下で、私たちの偽善は暴かれ、表も裏もなくなります。どうか御前に裸にされた私たちが、もはや何ものにも心奪われず、ただ御子イエス・キリストの十字架の死に共に与り、復活の命に与って生きる者として御前を生きることができますように。救いの御業を導き完成してくださる聖霊なる御神に支えられて、今日も新しく信仰を公に言い表す歩みを刻ませてください。聖霊の助けによって、与えられている恵みに堅く留まり、まことに恐れるべきただ独りのお方を知らされた者として、「我ここに立つ」と言える本当の幸いの内に生かしてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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