「神の国の不思議さ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 列王記下、第1章 9節-14節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 51節-56節
・ 讃美歌 ; 328、523
1 主イエスは、ご自分が天に上げられる時期が近づいたことを感じ取り、エルサレムへと向かう決意を固められました。もっとも、ここに至るまで、主イエスがエルサレムを意識していなかったかといえば、決してそうではありません。むしろ主イエスのご生涯は初めからエルサレムを意識していた歩みであったと言ってよいと思います。けれども主イエスは、次第にエルサレムに向かうべき時が近づきつつあるのを感じておられました。そしてこのことへの強い意識が、主のお言葉の中に次第に出てくるようになります。エルサレムに向かって進み行くことが、ご自分に定められた歩みであり、その道を歩むべき時が今や来ている、そのことが今、主イエスの中でひしひしと感じられているのです。
エルサレムに向かう決意を固められた主イエスについて、新改訳の聖書はこう語ります。「エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ」、このように訳しております。さらに、文語訳の聖書はこう語ります、「御顔を堅くエルサレムに向けて進まんとし」、こう訳しているのです。つまり「決意を固められた」と訳されている言葉は、もとの言葉では「御顔をそちらの方にはっきりと向ける」、という書き方になっているのです。ご自身の御顔をエルサレムへと向けられ、そこに眼差しを注いで行かれるのです。
2 その主イエスが弟子たちと共にエルサレムに上って行くにあたって、主はガリラヤ地方から直接南へ降り、エルサレムへと向かう道をお選びになりました。ガリラヤから直接南下してエルサレムに入るためには、必ずサマリアと呼ばれている地方を経由しなければなりませんでした。この道の選び方は、実はあまり一般的なものではありません。というのはこの当時、エルサレムに住むユダヤ人と、サマリア人とは大変に仲が悪く、お互いに顔を合わせないですむものなら、そうしておきたい、そう思ってしまうような関係にあったのです。
紀元前の8世紀ころに、このサマリア地方はアッシリアと呼ばれる大きな国に占領され、それまでここにあったイスラエルの王国が滅ぼされてしまいます。この地を支配したアッシリア人は次々と外国人を移住させ、その結果、さまざまな外国の宗教がこの地に入ってくるようになります。イスラエルの神を信じる純粋な信仰はあやふやとなり、移住してきた外国人との結婚を通じて混血も進みました。ユダヤ人の血の純粋性も保てなくなっていったわけです。エルサレムの方に住むユダヤ人たちはサマリアの人々を、他の神々や外国人の血によって自らを汚し、貶めている、けしからぬ人々と見なしました。神に選ばれた民は清い者であるべきなのに、あんないい加減さでは救いに与れるはずがない、と思いこんでいたのです。サマリアの人たちもこれに負けるかと言わんばかりに、独自の聖書と礼拝の場所を定めて、エルサレムに対抗したのです。こうして両者の関係は険悪になるばかりでありました。そこでガリラヤ地方からエルサレムに向かう場合、サマリアを通ることをしないで、わざわざガリラヤ湖の東側を通って、サマリアを迂回していくことが一般的であったのです。
3 主イエスはしかし、そうした気まずい両者の関係を百もご承知の上で、エルサレムに向かう者として、このサマリア地方を通り抜けようとされたのです。しかもその場合、先に使いの者をお遣わしになりました。彼らに与えられた務めは主「イエスのために準備」をすることでありました。その具体的な内容がどんなことであったのかは、定かではありません。もしかしたら、取りあえずその日の宿を確保することが務めであったかもしれないし、あるいは当面の旅のために食料を手に入れる必要があったのかもしれません。そういう務めを帯びて村に入っていき、使いの者とサマリアの人々とがいろいろと交渉をしていたのでしょう。するとちょっとしたことがきっかけとなって、この旅の目的地はどこか、どこに向かってあなたがたは旅をしているのか、という話題になった。そこで使いに出された弟子たちは臆面もなく、エルサレムに向かう旅です、と答えたのでありましょう。それがこのサマリア人の村に大変な敵対感情を引き起こしたのです。先ほど述べたような理由により、サマリアの人々はエルサレムのユダヤ人と関係の深いような旅人に宿をかし、食料を分け与えるようなことをいやがりました。憎らしいユダヤ地方に向かう人たちに協力したくなかったのです。そんな旅人を歓迎するつもりはさらさらなかったのです。
4 使いの者たちはサマリア人たちのあからさまな拒絶に出くわしたのであります。その理由を福音書は、「イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」(53節)、と語ります。拒絶されたのは使いに出された弟子たちです。けれども、この弟子たちを拒むということは、主イエスご自身を拒むことに等しいのです。使いの弟子たちは戻ってきて主に報告したのでしょう、「先生、あなたがエルサレムに向かっておられることをお伝えしたら、この村の人々はあらゆる協力を拒みました」、と。使いに出されている弟子たちの言葉と業を拒むことは、その使いを出された主イエスご自身を拒むことになるのです。
そういう意味では、この弟子たちは主イエスの権威を託されて遣わされているのです。ここで「エルサレムを目指して」、と訳されている言葉にも、「顔」という言葉が使われています。すなわちこの箇所は、「しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった」、とも訳せるのです。主イエスはエルサレムを見つめ続けておられます。そこに焦点を定めておられるのです。そしてそこを見つめる眼差しの中で、今弟子たちの代表を使いの者としてお遣わしになるのです。いわばエルサレムに向かう主の眼差しを背中に受けて、それを身に帯びながら遣わされている。主イエスの全権大使としてこのサマリアの人々に向かい合っているのです。
弟子のヤコブとヨハネが怒りにうちふるえながら叫んだ声を聞けば、彼らもそういう気概を持って遣わされていたんだと実感できます。ヤコブとヨハネの二人は、おそらく遣わされた弟子たちの中に含まれていたのでしょう。直接サマリア人たちの拒絶に出会って、激しく腹を立てたに違いありません。それは私たちにも理解できる、ある意味で当然な反応です。「自分たちは主イエスの全権大使だぞ!その自分たちを軽くあしらい、自分たちのお願いにまったく取り合おうともしないとは何事だ、自分たちを遣わしておられるお方をいったいどなたと心得ているのか!」、そういう怒りが二人の中にこみ上げてきました。そこで、二人は声を合わせて叫ぶのです、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(54節)。
これは義憤であります。義なる憤りです。正義に基づいた怒りです。主を受け入れないなどということは許せない、と叫ぶ怒りです。実は私たちも日々、主イエスの権威を託されて、それぞれの持ち場に遣わされています。けれどもそこで私たちの言葉が十分に重んじられ、受け入れられるということは滅多にありません。主イエスを紹介して、主と共に歩むことのすばらしさを伝えたい、そう願ってなされるささやかな試みも、「やっぱりだめか」、と肩を落とすことで終わることが少なくありません。時には理解のない、棘(とげ)のある言葉をぶつけられます。教会が世界史の中で犯してきた過ちについて、どう答えてよいかも分からない中で説明を求められます。現代の戦争が、新興宗教の問題が、環境破壊が、キリスト教信仰のゆえに引き起こされている、と詰め寄られます。神がいるなら見せてみろ、と怒鳴られます。あの弟子たちが出会ったような拒絶に出くわすのです。ろくに言葉も返せずに引き下がってくる時、私たちもどうかすると思うかもしれません。「あんなこと言って、きっとあなたたちには天から神の裁きがあるぞ!」と。そんなことを思ってはいけない、と押さえつける思いの一方で、ここで弟子たちが自分の思いを代弁してくれている、わが意を得たりだ、といった思いもどこかでしています。そしてその方がよほど分かりやすい。話ははっきりする。実際に天からの裁きの火を思いのままに操ることができたのなら、どんなにいいことか、と思う。そうすれば天からの火で滅ぼされる人を見て、恐れ戦いた人々は悔い改めて神に立ち返るのでは、と想像してしまうでしょう。実際、あの旧約聖書に出てくる預言者エリヤは、アハズヤ王の遣わした部下たちを天からの火で焼き尽くし、王に悔い改めを求めました。自分もそんな力を持っていたらなあ、と思ったりしてしまう。
5 ところがこの怒りの言葉をはいた弟子たちを、主イエスは振り向いてお叱りになったのです。あのエルサレムに注がれている眼差しをいったん移して、弟子たちの方を振り向いて、二人をお叱りになったのです。そうせざるを得ないことを彼らがしでかしたからです。つまりこの二人が義憤に捕らえられて発した言葉は、主イエスのエルサレムに向かわれる道のりのために準備をするどころか、それを妨げる働きをしたのです。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」、この言葉は主のエルサレムへの歩みの邪魔をしているのです。主のためを思い、主がきっとお望みになっておられることだと感じて叫んだ言葉です。けれども「あなたがたの言っていることは神のご計画の邪魔をしている」、と言われてしまったのです。
この箇所の、マルコ福音書における対応箇所を挙げるとすれば、それは8章の31節以下です。人の子が必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と主がお語りになると、弟子のペトロは主イエスをわきへお連れして、主をいさめ始めます。すると主はペトロを叱っておっしゃるのです、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。今弟子たちが、天から火を降させてやろうか、と気色ばんでいるのは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことなのだ、主はそうおっしゃっておられるのです。先ほど、このヤコブとヨハネの言葉は義憤の言葉だ、と申しました。義なる憤りだ、と申しました。けれども、私たちがそう主張する時、主は問われるのです、「その義とはいったい誰の義なのか。何を基準としている義なのか」、と。
先日、キリスト教系のカルト宗教の代表が逮捕されました。神の怒りと呪いを説教で語り、多額の献金を要求し、自分の思い通りにしようと暴力を振るって少女を従わせていた、と言われます。この牧師を名乗る代表は、始めは神の義にお仕えする思いでいたかもしれません。けれども、いつしか神の義と、自分の義とのすり替えが起こってしまったのです。自分の欲望と神の思いとを取り違え、自分の思いの下に神を奉仕させる罪に陥ったのです。自分の欲望のために神を方便とする罪に陥ったのです。もし私たちが自分の気にくわない人を憎み、この人は滅びに定められていると決めつけ、それこそ主がお望みになっていることだ、と決めつけるならば、私たちにも同じ罪の誘惑が近づいているのです。もしそこで本当に天からの裁きの火が降るのなら、主の十字架抜きでそれが起こるのなら、誰よりも私たち自身が真っ先に焼き滅ぼされることになるでしょう。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」とおっしゃった神の御言葉を、私たちは魂に刻み込まねばなりません。
主イエスがエルサレムへ向かわれた目的、それは主が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活するためでありました。エルサレムへと向かう道は、何よりも十字架へと向かう道です。十字架にかかるための歩みです。そこで敢えて苦しみを引き受け、担うための歩みです。そのことが今の弟子たちにはまだ分かりません。誰が一番偉いかと議論をし、自分たちと一緒にならないで、独自に悪霊払いを行う者を蔑み、さらに今は敵対する者を自分たちが裁いてやると意気込んでいます。けれども主はご存知です。神の国はそういう形では決してやって来ないのだ、と。そうではない。神の国、神のご支配は、主イエスの十字架上での御苦しみを通して、初めて実現していくのです。主イエスの十字架を抜きにして、私たちの自分勝手な裁き合いの中で神の国が実現できると思うところに、私たちの罪があります。そのような思いこそが、天からの火で焼き尽くされねばなりません。主の十字架なしに、罪の赦しなしに、神の国への道は開かれないのです。主イエスが苦しみ、人々に拒絶されるお方として歩まれる、その歩みの彼方に、初めて神の国の門が開かれるのです。
6 今、主イエスはこの御国に入るべき神の民を呼び集めるために、私たちを遣わそうとされています。主が再び来られ、救いを完成してくださるその時の準備のために、私たちを先に使いの者としてお遣わしになるのです。その歩みは、サマリアのような拒絶に向き合うことになるかもしれません。神の御言葉が宣べ伝えられる時、反感や対立が引き起こされるかもしれません。この時にあたり私たちは、自分の人間の思いを神の御心と取り違えることなく、送り出した私たちを背後から見つめておられる、主の眼差しを、いつも感じていなければなりません。その眼差しはさらに私たちよりも先にある、エルサレムの十字架を見つめる眼差しなのです。主が私たちに代わって私たちの罪を担い、私たちの無理解と背きの罪をぬぐい去ってくださる十字架を目指していく眼差しです。神の国とは不思議なものです。天から火を降らせるような格好のいい仕方ではなく、主イエスにおける神の忍耐と苦しみを通じて、神のご支配は実現していくのです。このことを見つめておられる主の眼差しの中を歩む時、私たちが主に遣わされていく中で与えられる苦しみの受け止め方にも変化が生まれていくのです。最後に、その変化を語るペトロの手紙一4章12節以下の御言葉に聴きつつ、御名をあがめたいと願います。
「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです・・・キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御心よりも先走って自らの怒りに振り回される私たちを、どうか憐れんでください。あなたの御心が天から火を降らせて、私たちが気にくわない人々を焼き滅ぼすことだ、と自分に都合のいいことばかりを想像する私たちです。誰が神の民であり、誰が救いに与ることのできない者かを決める権限が、自分の手の中にあるかのように錯覚してしまいます。どうかあなたが私たちに託してくださる罪の赦しの権威が、私たちの思いではなく、あなたの御心に従って行われますように。私たちがあなたから遣わされていくその先で、敵対や拒絶に向き合う時にも、それがもたらすであろう結末を私たちが決めつけたり、まして私たちがその結末をもたらしてやろうなどともくろむことがありませんように。むしろ主の十字架における罪の赦しによって、あらゆる敵対や拒絶をも貫いて実現していく神の国の不思議な力にこそ信頼し、望みを新たにすることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。