「本当の人間らしさ」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第103篇 1節-22節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第8章 26節-39節
・ 讃美歌 ; 444、356
1 主イエスがお生まれになるのを待ち望む時、待降節の第一主日を迎えております。この時はまた、十字架につけられた後に甦り、天に昇られ、神の右に座しておられる主イエスが、私たちの救いを完成するために再び来られるのを待ち望む時でもあります。いずれの意味においても、主イエスをお迎えするために私たちの中に場所が用意されることを祈り願いつつ過ごす時です。今日の出来事は悪霊にその魂を奪われていた一人の男の中に、神が主イエスをお迎えするための場所を用意してくださった、という事件です。
2 主イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、渡ってきた先はゲラサ人の地方でした。そこはユダヤ教以外の信仰を持つ人々、異邦人と呼ばれる人たちがたくさん住んでいた場所です。ガリラヤ湖の向こう岸に横たわっている世界、どんな土地かもよく分からない場所です。その土地に入ることさえ、弟子たちにとっては初めての体験だったかもしれません。恐れがあったでしょう。不安があったはずです。その恐れと不安に追い討ちをかけるようにして、一番初めに彼らを出迎えたのは、悪霊に取りつかれている男でした。汚れた霊に支配されている人でした。この男はもう長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていたと言われています。さらにこの男が悪霊に取りつかれたのは一回や二回の話ではない。もう何回も汚れた霊に取りつかれていたのです。それゆえに彼の中には、実にたくさんの悪霊が居座っていたのです。
福音書において悪霊は、人間の中に入り込んで精神を狂わせ、口を利けなくしたり、目を見えなくさせたり、自分自身を傷つけさせたり、とさまざまな苦しみを引き起こす存在としてとらえられています。おそらくこの男も、まだ若い頃に悪霊の力にとらえられ、精神の安定を失い、人間の交わりの中から自らを切り離して毎日を送ってきたのでしょう。もはや家族からも見放され、村や町の人々からも相手にされなくなってしまったのです。かわいそうで憐れな男として扱われていたのです。もはや一人の人間として見なされていなかったのです。もはや人間として認めてもらえなくなった人がどのような扱いを受けるか、それは29節から分かります。彼は鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたのです。自由を奪われ、悪さを働いたり、暴力を振るったりしないように監禁されていたのです。悪霊がこの男をのっとって、支配しているのを、周囲の人々はどうすることもできなかったのです。衣服を身に着けないで裸でいることを恥ずかしいと感じる心ももはや失っています。家に帰ることもできず、墓場に好んで住んでいるのです。死の世界、闇の世界、生きた人間のぬくもりがない場所、生きた交わりが失われている場所を慕っているのです。この人は人間でありながら、もはや人間らしく生きることができなくなってしまっています。
私たちが主イエスと共にこの人と出会う時、この人はどんな存在として受け止められるでしょうか。この人は特別な、ごくごく例外的な男でしょうか。憐れむべき、気の毒な人だけれども、まあ、私たちと直接は関係ない人だ、私たちは衣服もきちんと着ているし、帰るべき家もあるのだから、関係ないだろう、そんな風に考えるでしょうか。私はこの夏、カトリックの作家、加賀乙彦が書いた、『帰らない夏』という小説を読みました。この小説は戦争時代に、陸軍幼年学校に入学した幼き少年が、過酷な訓練に耐えていく中で、次第に天皇を中心とする神の国日本を信じるようになり、この国のためにすべてを捧げる覚悟を固めていく様を描き出します。けれどもこの主人公は、突然の敗戦を迎えた時、その現実を受け止めきれることができず、言葉が力を失った、という感想を抱きつつ、自決していくのです。切腹をして血潮がとびちる中で、「だあれもいない、だあれもいない」という声を聞きながら、主人公が息を引き取っていくのがこの小説の最後の場面なのです。「寂しい」、「虚しい」というのが読み終わった後の私の感想でした。自分が青春のすべてをかけていた戦争への勝利という信念が打ち壊された時、この少年は自殺という形でしかその出来事を受け止めることができなかったのです。あの戦争の時代を生きた人々の証言を聞く時、まるで国全体が、人々みんなが、何か得体の知れない力に取りつかれていたのかもしれない、そういった印象を与えられるのです。
得体のない力に私たちがとらえられて苦しむのは、何も60年前の時代ばかりの話ではありません。数年前に神戸で少年が小学生を殺害するという衝撃的な事件が印象づけたように、病的な形で死に魅かれ、人との交わりを閉ざして自分の世界にこもってしまう人が増えています。インターネットで知り合った人が一緒になって自殺をする事件が起きますし、ストレスがたまると、自分で手首を傷つけ、それによって落ち着きを取り戻すような若者も増えてきているのです。子供の虐待や夫の家庭内暴力のニュースも後を絶ちません。先日は親を殴り殺した少年が捕まりました。そんな出来事を聞く時、私たちはたとえ家にいても、あの悪霊に取りつかれた男のように、家に住まないで墓場を住まいとしているようなものではないでしょうか。外見は家に住んでいても、そこに人間としての交わりも会話もなく、憎しみあいや不信感だけが渦巻いているなら、それは墓場を住まいとしているようなものではないでしょうか。そこまで行かなくとも、周囲からうらまれている、攻撃されている、そんな思いにとりつかれて苦しむことは私たちにもあります。過去にしでかした過ち、取り返しのつかない形で人を傷つけてしまった出来事の光景が思いの中に浮かび上がってくると、頭をかきむしって甦ってくる思いを振り払いたくなる、そんな体験をします。もう同じことを繰り返すまいと思って新しい土地、新しい職場で新しい関係を築いていこうとしても、またうまくいかない。もう自分でどうこうできるものではない、何か自分とは違う力が自分を支配して、思いのままに振舞っている、自分を振り回している、過去のとらわれやしがらみからいつまでたっても自由になれない、そんな思いに苦しめられる時、私たちもまたあの悪霊の支配に苦しめられているのです。人間として、健やかに生きる道を奪われているのです。あの男が悪霊によって荒れ野へ駆り立てられるのと同じように、魂を荒れ野の中に追い立てられているのです。
3 けれどもこの男の中に陣取っている悪霊に対して、主イエスは真正面から
向き合われます。不思議なことに、この地方に到着した時は一緒だったあの弟子たちが、主イエスと悪霊とのやりとりの際にはまったく出てまいりません。悪霊との戦いを戦っておられるのは実に主イエスお一人なのです。思うにこの時、弟子たちはそばにいながら、なす術を知らず、ただただここで繰り広がられる主イエスと悪霊とのせめぎあいを見守っているしかなかったのではないでしょうか。彼ら自身も悪霊のわめき叫ぶ声に怯えながら、とにかくそこに立ち続けているので精一杯だったのではないでしょうか。そうです、この戦いは主イエスだけが担える戦いなのです。主イエスだけが向き合える戦いなのです。そこで人間は何もなしえない。ちょっと手を出せばたちまち自分たちも、あの男と同じように取りつかれてしまうことを知っているのです。ですから彼らは自分たちを支配するこの悪霊の力に怯え、震えているしかない。ただ主イエスがこの戦いを戦ってくださることに希望を見出すのです。
16世紀に教会の改革運動を指導したルターという人は、この悪霊の力を鋭く感じ取る感覚を持った人ですが、こんな言葉を残しています。「人間の意志は神とサタンの間に、いわば荷物を背負う馬のように置かれている。もし神が御したもうなら、それは神が欲したもうところへ欲し向かうのである。もしサタンが御していれば、サタンが欲する方へ欲し向かうのである。いずれの御者の方へ走りより、いずれの御者を求めるかを選択する力は彼にはない。むしろ御者たちの方が、いずれがこれを捕らえ、おのれのものにするかと、競り合っているのである」。ここで起こっているのは、私たちの心と体、その人生全体の支配を巡って繰り広げられる神と悪魔のせめぎあいであり、戦いです。私たちをご自身のものとして取り戻すために神が悪霊の前に立ちはだかってくださるのです。
そこで気づかされることは、この戦いにおいて、主イエスは圧倒的に優勢というか、初めから悪霊に対して有無を言わせぬ力を振るっておられるということです。主イエスも悪霊に取りつかれて苦しむというのではない、最初に出会った段階から、悪霊はわめきながらひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」(28節)と願うのです。勝負あった、という感じです。「底なしの淵」と呼ばれるような混沌とした世界に悪霊を追い込み、そこに閉じ込めてしまう、そういう権威を持ったお方として主イエスは立ちはだかっておられるのです。主イエスと悪霊とのやりとりの中で、ただ一つ、実際に交わされた言葉として記されているのは、主イエスの「名は何というか」という問いと、「レギオン」と答えた悪霊の言葉です。このやりとりにおいて勝負は決せられたのです。「名は体を表す」とも言われるように、こと聖書において名前は単にそのものを指し示す記号のようなものでなく、本体そのもの、実体そのものを表します。主イエスの問いの前に悪霊は身を潜め、正体を顕さずに隠しおおせることはできませんでした。悪魔は神の子の前に黙秘権を持つ力はないのです。そこで悪霊の正体は暴かれ、神のご支配が取って代わったのです。
4 もはやこの男の中に居座ることはできないと分かった時、悪霊は豚の群れの中に入ることを願い出て、許しを得ます。そして豚の群れを崖っぷちの下にある湖の中へ駆り立てて、溺れ死なせてしまうのです。この悪霊の名前は「レギオン」でした。それは当時この地方を支配していたローマ帝国の軍隊を構成する一つの単位、5千人から6千人の部隊の名前だったと言われております。今NHKでローマ帝国の特集番組が放送されていますが、ローマの軍隊はその残虐さで広く知られていたことが紹介されていました。作戦に失敗すると部隊の一人が見せしめのために殺害されたといいますし、攻撃された町は何も残らないほどに滅ぼしつくされたと伝えられています。けれどもそのローマ帝国でさえ、内部からの腐敗によって滅亡への道を歩んでいくのです。それと同じように、悪霊は自ら破滅する道を突き進んでいくのです。神のご支配がやってくる時、悪の力は自滅に追いやられるのです。
5 ところがです。人々はこの出来事を喜ぶことができなかった。悪霊の取りつかれていた人の救われた次第を知らされた時、自分たちのところから出て行ってもらいたいと願ったのです。それはなぜかと言えば、すっかり恐れに取りつかれていたからだ、というのです。なぜでしょうか。この恐れとはいったい何でしょうか。私は思います。彼らはあの悪霊に取りつかれた男を迷惑がって鎖につないだりしていたけれども、実はあの男の中に、自分たちの現実の姿を見ていたのではないでしょうか。彼を見ると、自分の中にもある悪霊に支配された姿を見ているようで、見るに忍びなかったのではないでしょうか。それでこの男が癒されたのを目の当たりにした時、自分の中にも巣食っている悪霊たちがいっせいに叫びだしたのです。この「イエスという者をここから追い出せ。さもなければ今度は自分たちも追い出されてしまう!これではかなわないから、早くこの神の子をここから遠ざけるのだ」、そう言って、この地方の人々をけしかけたのです。彼らの中にはまだ悪霊がうごめいていて、主イエスをお迎えするための場所が用意されていなかったのです。
主イエスはしかし、この願いを聞き入れて帰ろうとなさいます。はるばる湖を渡り、しかも今日の箇所の直前で語られていた、あの激しい嵐をも乗り越えて、やっと辿り着いたゲラサ人の地です。それなのに着いたと思ったらもうさようなら、です。ここで得られた実りはあの悪霊に取りつかれたたった一人の男の癒しのみでした。私たちはここで労苦の割には実りの少ない伝道の大変さを思うかもしれません。けれどもどうでしょう。主イエスはもしかしたら、この男一人の救いのためにはるばるガリラヤ湖を渡ってきたのかもしれないのです。主イエスは十分目的を果たしたのです。なぜなら、この地方における主イエスの御業の続きを担ってくれる人を得たからです。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(39節)。主イエスのお供をすることではなく、この地で主イエスの伝道の業の続きをなすために、この男は召されたのです。その働きを、主は託してくださったのです。先ほど悪霊との戦いは、主イエスだけが担えるものだ、と言いました。けれども主があの十字架の上で悪の力に打ち勝ち、とこしえの命を私たちに約束し、聖霊を送ってその命を今ここから生き始めることができるようにしてくださった時、主イエスはなお残されている悪霊との戦い、伝道の戦いを私たちに託されたのです。いや、ご自身が今も戦っていてくださる悪霊との戦いのために、私たちを用いてくださっているのです。聖霊の働きの中で私たちは主と一つにされ、主の戦う戦いを、また自らの戦いとして戦うよう招かれているのです。
神があなたになさったことをことごとく話せと命じられたこの男は、実際には「イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広め」(39節)ました。つまりこの男の中では、神が自分にしてくださったことと、主イエスが自分にしてくださったことは別々のことではありません、一つのこと、同じことなのです。主イエスこそが、生ける神の子にほかならないからです。このことを証しする務めを、今主は私たちにも託してくださいます。けれどもそれは何か立派なこと、大々的なことを始めるのではありません。神が、主イエスが、「自分にしてくださったこと」を言い広めるのです。自分にとことんかまってくださり、ついには独り子をこの世に贈り、十字架の死にまで引き渡された神の恵みのご支配をそのままに語るのです。かつて悪霊につかれていたが、今は癒されているこの男が証しすれば、その言葉は説得力を持ちます。今は主イエスを受け容れない町の人々にも、彼の家の人にも、主イエスをお迎えする場所が形造られるかもしれないのです。
そのことを期待しつつ、主イエスは御業の続きを私たちに託してお帰りになるのです。私たちは主イエスの十字架と甦りの光の中で本当の人間らしさを取り戻し、服を着、正気になって立ち上がるのです。人間の交わりの中へ、証しの場へと帰っていくのです。それがこの礼拝において起こっていることです。人と人との健やかな交わりを回復し、もう一度歩み出すことができます。破滅に向かってまっしぐらに走っていた道から、主イエスのご支配の中を人間らしく生きる道へと向き直るのです。待降節を迎えるこの時、私たちは帰られた主イエスが再び来られる時を待ち望みつつ、私たちの中に、またこの町の中に、世界の中に、そこに住む人々の心の中に、主イエスをお迎えする場所が形造られることを願いつつ、今日も証しに生きるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、私というこの一人にとことんかまってくださり、私というこの一人を救い出すために、あなたははるばるガリラヤ湖をわたってきてくださいました。あなたは私たちの罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださいます。あなたの恵みの中に留まらせてください。あなたが私たちの人生を治めてくださるからこそ回復できる、本当の人間らしさを教えてください。その中でもう一度立ち上がらせてください。そして立ち上がったなら、あなたが私たちにしてくださったことを宣べ伝えつつ、なお続いているあなたの御業に参加させてください。どうかあなたをお迎えする場所が、この世界に少しでもおし広げられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。