「聖なるものに出会う時」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第6章 1節-13節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第5章 1節-11節
・ 讃美歌 ; 3、290
序 主イエスは悪魔の誘惑に打ち勝たれた後、ガリラヤでの伝道を始められました。悪霊を追い出し、病人を癒し、町々村々を巡り歩いて神の国の福音を告げ知らせたのです。ここまでの主イエスの言葉と業は、4章の14節、15節から始まる一つのかたまりに位置づけられています。会堂で主イエスが朗読したイザヤ書の預言、その実現が、主イエスにおいて具体的に起こっている様をこれまでの箇所が指し示しているのです。主イエスというお方がいったいどなたであるのか、そのことに特に力を入れて、今までの箇所が語ってきたわけです。
そして先ほどお読みいただいた5章の1節からは、また一つ新しい流れが加わります。主の弟子たちが登場し、信仰が生まれたことが語られます。またファリサイ派の人々や律法学者たちが主イエスに対して疑いの眼や非難の矛先を向け始めます。そうした中でも重い皮膚病や中風の者が癒され、レビが弟子とされ、手の萎えた人が癒されるという出来事が続くのです。そして6章16節で12弟子が呼び出されるところまでが一つのまとまりになっているわけです。
主イエスが神の国の福音を語り、それと結びついた癒しの業を行う時、そこには人間の反応が生まれます。応答が生まれるのです。ちょうど石ころが池に落ちると、そこに生まれる波紋が水面にわっかをつくりながら、何重にも広がっていくのと同じように、天から御子なる神が降られると、その出来事はこの地上に、人々のさまざまな反応を引き起こしていくのです。そうした反応の中でも、今語りかけられている箇所は、主イエスの招きの下に、最初の弟子たちが生まれた出来事を伝えています。
1 その日、主イエスはゲネサレト湖の湖畔に立っておられました。この湖はガリラヤ湖のことですが、その北西の岸に広がっていた平原地帯の地名がゲネサレトと呼ばれていたために、ガリラヤ湖のことを別名ゲネサレト湖とも呼ぶようになったのです。この豊かな土地が主イエスのガリラヤ伝道の拠点となったのでした。その地名の意味は、「君の庭園」、「支配者の庭」という意味です。主イエスはこのゲネサレトの地での伝道を通して、人々を失われたエデンの庭へと招きいれようとされたのではないでしょうか。ご自身の到来と共に始まっている神のご支配へと人々を招きいれ、神の国が近づいていることに人々の心の目を覚まさせようとされたのではないでしょうか。
そしてその招きに導かれて、大勢の群衆がその周りに押し寄せてきたのです。この箇所に対応するマルコの証は、主が「群衆に押しつぶされないため」(3:9-10)に小舟を用意するようお願いになられたと伝えております。それほどの数の群衆が、神の言葉を聞こうとして集まってきたのです。このガリラヤ湖畔の町々は汚れた霊に取りつかれた男がおり、たくさんの病人がおり、その病気で苦しむ者を抱えて日々を送っている家族がおり、熱にうなされる人がいる、そういうところです。そのような魂の死んだような状態になっている人々を癒し、再び立ち上がる力を与える、権威ある言葉がやってきたことに、人々の期待はこの上なく高まったに違いありません。
ところがこうして大勢の群衆が押し寄せてきた場所から、少し離れた岸辺では、人々のざわめきや足音、興奮した声に関心を示さない数人の人々が、舟から上がって網を洗っていました。彼らは一晩中漁をしていたのに、魚一匹釣ることもできず、くたくたに疲れきった漁師たちです。一晩中働いたのに、何の収穫も得られず、ただ疲れと眠さ、虚しさでいっぱいになった漁師たちです。おそらく彼らは、それまで一度も主にお目にかかったこともないし、その話を聞いたこともなかったことでしょう。けだるさの中で、漁の後始末をしていたのです。向こうに集まっている人々の様子に注意を惹かれることもなく、その集まりの中心にいったいどなたがおられるのかと関心を抱くこともなく、虚しい思いで網を洗っていたのです。
そこに歩み寄ってこられたお方が主イエスご自身でした。主は漁師シモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったのです。平凡な、けだるい日常の世界に、突然入り込んできたような出来事です。「なんでこの方は、名もないこんな自分に頼みごとをするんだろう。なぜこんな疲れ切っている自分にまた舟を出すようにお願いするんだろう。なぜ虚しさで気が滅入っている自分が駆り出されなければならないんだろう」。シモンはそんな思いでいっぱいになったことでしょう。
けれども、シモンはここで、本人も気づかないうちに、既に主の御用に用いられ始めているのではないでしょうか。内心面倒くさい思いに満たされていたかもしれない、やっかいなことに巻き込まれたと困っていたかもしれない。けれども知らず知らずのうちに、彼は主イエスと同じ舟に乗り、最も近い場所に座って、群衆に教える主の御言葉を聞く機会が与えられたのです。この時彼は初めて、「権威と力をもった言葉」に出会ったのではないでしょうか。「この言葉はいったい何だろう」と、思わず聴き入る言葉に出会ったのではないでしょうか。
このことがあったがゆえに、主イエスのお話が終わった後に与えれたお言葉にも、シモンは従う者とされたのではないでしょうか。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)。普通だったらこれはかなりの抵抗を引き起こす言葉です。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節)。彼もプロの漁師です。魚を獲ることで生計を立ててきた一人の男です。漁師のプライドもあったでしょう。長年培われた勘があり、自信もあったことでしょう。魚がどこに、いつ頃、どれくらいいるかなどということは、他の誰よりも自分が一番よく知っていると思っていたことでしょう。もしこの言葉が、他の人からのものであったなら、到底受け入れられない、激しい拒否と怒りを引き起こすことになったに違いありません。けれども主の側で、その一番近くで、神の国の福音を聞かされた彼の心には、主の御言葉の権威が刻みつけられていたのです。その言葉に従ってみようという思いが導き出されたのです。主の御言葉が、シモンの従う思いをも生み出し、引き出したのです。その結果導き出された彼の結論はこうだったのです、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)。神の言葉がシモンの応答を生み出し、引き出したのです。
2 そこで彼らの半信半疑の思いをひっくり返す、驚くべき出来事が起こったのでした。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになり、応援に駆けつけた舟も含め、二艘の舟が沈みそうになるくらい、魚でいっぱいになったというのです。昨晩までどんなにねばって頑張っても、一匹も釣れなかった湖、その同じ湖の同じ地点から大量の魚が獲れたのです。その時、シモンの中に生まれたのは、聖なるものと出会った時に生じる「おそれ」でした。彼は主の足元にひれ伏して叫んだのです、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。獲れた魚の量が常識を超えるものだったので、シモンも一緒にいた者も、激しい驚きに捕らえられたのです。
「聖」という言葉は、もともと汚れや正しくない状態からはるかに隔たっている、離れているという意味を持っています。ふつうわたしたちはそういった聖なるものからは分離され、遮断されていなければならないのです。イスラエルの民は神と出会った者は神の聖さ、聖なるお方からほとばしる清さによって必ず死に至ると信じていました。神と相見えたのになお生きているということは、奇蹟以外のなにものでもなかったのです。預言者イザヤが神に呼び出された時にも彼は、セラフィムと呼ばれる天使がこう歌い交わすのを聞くのです、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」。そして主の栄光を直接目の当たりにしたイザヤは叫ぶのです、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(5節)。シモンが捕らわれた思いもこれと一緒です。今まで主のお側、その至近距離に座ってお話を聞いていたことが、とんでもない畏れ多い行為、神と直接相見えるような危険きわまりない行為であったことに目が開かされたのです。今まですぐ側にいたのに、突如としてどんなに取り繕おうとしても間に合わない、途方もない距離の開きがシモンと主イエスの間に生じたのです。5節の「先生」という呼びかけが8節で「主よ」と変わっているのも、このことを表しているのです。
ところが、畏れるシモンに主はお語りになります、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。主は今、こうおっしゃってくださっているのではないでしょうか、「あなたが今感じている無限の隔たり、とてつもない距離感は正しい。わたしは聖なる者である。けれども、わたしはあなたを招き、あなたを用いたい。わたしの務めのためにあなたに働いてもらいたいのだ。今日の大漁は、後のお前がなす大伝道のまえぶれなのだ」と。シモンはその魚を獲る漁の技術を買われて主の弟子としていただいたのではありませんでした。むしろ一晩中がんばっても魚一匹獲れないような、どうしようもない破れと能力のなさを抱えた人間、そのくせプライド意識ばかり強く、他人から魚釣りのことで命令されることには耐えられないような自尊心の強い人間であったのではないでしょうか。しかしそんなシモンを主はご自分の下に招き寄せて、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃってくださるのです。何の条件もない、無条件の選びと招きです。
先日、地区集会に出席した折、ある教会員の方がご自分の信仰を与えられた経緯についてお話くださいました。義理のお父様が、病床にあった最晩年の頃、信仰に入るとはとても思えなかったのに、どうしてこうなるのか分からないといった具合に導かれ、病床洗礼に至ったというのです。その一部始終を、介護をしながら間近で見ていて、こう思ったというのです。私にはその言葉がとても印象的でした。「ヒエー、世の中にはこんなことがあるものなのか!神の働きとはこういうものなのか!」そう思われたというのです。それは論理で納得するというよりは、この世の日常の営みの中に突入してきた恵みの出来事です。理解するよりは体験するもの、味わうものではないでしょうか。「神はまことに生きておられる」、この方もそのことを生きて体験し、「神様、私の負けです。恐れ入りました」と観念した時、信仰が与えられ、洗礼へと導かれたのです。ここでも新たなシモン・ペトロが生まれているのではないでしょうか。
結 現代は「聖なるもの」などまるでないかのようにふるまっている世界です。昔は新しい年を迎える時は何か神秘的な、聖なる感覚を持ったものだといいます。しかしそんな「時」が持つ聖なる力も今はほとんど感じられなくなりました。宇宙開発が進み、何千メートルもある海の底の様子もカメラ映像で見ることができます。まだ行ったこともない世界中の国の様子が映像と共に刻々と伝えられてきます。先日は神戸の医者が、子供が生まれる前に性を識別し、生まれる子供の性を選択できる技術を実行に移していたことが報道されていました。生命の神秘さえ人間の望みで操作できるかのように思いこむ世界観が生まれているのです。
けれども、そういった世界の只中で、わたしたちは神の言葉を聴く礼拝に招かれているのです。「まことに神は生きておられる」ことを知らされるのです。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」との招きと呼び出しを聴くことができるのです。本当だったらそのそばにいることなど赦されない主なる神が、ご自身からわたしたちのそばに来られ、わたしたちと共にいてくださり、招いてくださり、御用に用いてくださるのです。主が私たちと共にいてくださるからこそ、わたしたちも聖なる神の恵みに与かれるのです。わたしたちは礼拝に招かれるたびに、この聖なる神と相見えるおそれと、しかしその主がわたしたちを招き、主がお与えくださる罪の赦しを無条件で与えられ、新しく御用に用いていただくことの幸いを味わっているのです。
祈り 救いの岩なる神様、わたしたちは、あなたとまともに相見えれば、本来生きていることなどできない、罪に汚れ、破れに満ちた存在です。ただ主が執り成し、わたしたちの罪をお引き受けくださるがゆえに、わたしたちはいつもあなたのおそばにいることが赦されています。どうかその恵みに堅くとどまらせ、いつも新しく聖なる主の御栄を仰ぎ、その御業の偉大さをたたえる賛美を歌わせてください。「恐れることはない」と言って御許に招き寄せ、御用のために用いてくださる主の信実により頼んで、生涯あなたに従う者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。