夕礼拝

目は開け、心は燃えて

説 教 「目は開け、心は燃えて」副牧師 川嶋章弘
旧 約 詩編第119編17-24節
新 約 ルカによる福音書第24章13-35節

エルサレムから離れ去りエマオへ向かって
 ルカによる福音書24章13~35節の物語を読み進めています。前回、27節までを読みました。前回の箇所を振り返りつつ、28節以下を読み進めていきます。
 冒頭13、14節で「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」と言われています。「ちょうどこの日」とは、週の初めの日のことであり、主イエスが復活された日のことです。しかしこの二人の弟子は、なお主イエスの復活を信じられずにいました。そしてエルサレムから六十スタディオン、つまり約11キロメートル離れたエマオへと向かっていたのです。11キロメートルは、大人の足でおおよそ2時間の距離だそうです。エマオへ向かう二人の弟子の気持ちが、21節の言葉によく表れています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。「あの方」とは主イエスのことです。彼らは、主イエスこそがイスラエルと自分たちをローマの支配から解放してくださる、と望みをかけて、主イエスに従って来たのです。しかし主イエスは十字架につけられて死なれました。彼らの望みは打ち砕かれたのです。「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」とも言われています。それは、主イエスが十字架で死なれてから三日目となり、遺体が腐り始める時期だから、もう何の望みもない、ということです。主イエスの十字架の死によって、彼らは希望を打ち砕かれ、何の望みもないように思える現実の中にいたのです。22、23節で語られているように彼らは、女性の弟子たちから主イエスの遺体を納めた墓が空になっていたことや、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことを聞いていましたし、仲間が空の墓を確認したことも知っていました。しかしそれでも二人の弟子は主イエスの復活を信じることができなかった。それどころかエルサレムに留まることもせず、その日の内にエルサレムから離れ去り、エマオへ向かったのです。それほど彼らの絶望は深かったのです。

神の救いから離れて行く
 ところで、この福音書の著者であるルカは、エルサレムという場所を大切にしています。このことは、この福音書がエルサレムの場面で始まり、また終わることからも分かります。この福音書の終わり24章52、53節では、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」、と言われています。彼らとは弟子たちのことですから、ルカ福音書は、その最後の場面で、弟子たちがエルサレム神殿の境内で神様をほめたたえていたことを語っているのです。福音書記者ルカにとって、エルサレムは主イエス・キリストが十字架で死なれ、復活され、天に上げられることを通して、神様の救いのみ業が実現する場所です。ですから二人の弟子が、エルサレムから離れ去ろうとすることは、ルカの視点からすると、神様の救いのみ業の実現から遠ざかろうとすること、つまり神様の救いから離れて行くことなのです。

共に歩みながら
 そのようにエルサレムから離れ、神様の救いから離れて行こうとする二人の弟子に、復活された主イエスご自身のほうから近づいて来てくださり、一緒に歩き始めてくださいました。しかし二人の弟子は、一緒に歩き始めた人が復活の主イエスだとは分かりません。心の目が遮られていたからです。それでも主イエスは、心の目が遮られ、何の望みもないように思える現実の中を歩む二人に寄り添って、共に歩んでくださり、語りかけてくださり、二人の話を聞いて、その心の内に抱えていた気持ちを受けとめてくださいました。その上で主イエスは二人の弟子にこのように言われました。25節です。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。主イエスは彼らに対して、物分かりが悪く、心が鈍い、と言われます。だから彼らは預言者たちの言ったこと、つまり聖書が告げていることを信じられないのです。この場合、聖書とは旧約聖書のことです。旧約聖書の色々な箇所で、メシア(救い主)が苦しみを受けて栄光に入ると告げられているのに、それを読んでも、あるいは聞いても、心が鈍くて信じられないのです。しかし主イエスはそのような二人をなお見限ることはありませんでした。27節にあるように、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。旧約聖書全体から、ご自分について書かれているみ言葉について説き明かしてくださった。主イエスご自身が説教をしてくださったのです。

私たちと共に歩んでくださる
 私たちはこの二人の弟子の姿に自分の姿を重ねます。私たちは主イエスの復活を信じていますし、主イエスの十字架と復活による救いを信じています。しかし信仰生活の中で、私たちも救いから離れて行こうとすることが、救いの恵みの内に生きることから離れて行こうとすることがあります。希望が打ち砕かれ、何の望みもないように思える現実を生きる中で、孤立して生きているように感じずにはいられない中で、復活して生きて働かれる主イエスを見失い、主イエスに信頼せず自分の力に頼り、神様の救いの恵みの内に生きることから離れて行こうとするのです。私たちは信仰生活の中で、繰り返し、エルサレムから離れ去りエマオへ向かっているような状況に直面するのです。
 そのような私たちの歩みに、復活の主イエスが伴っていてくださいます。私たちが自分の苦しみに一杯一杯で、そのことに気づくことができなくても、復活の主イエスは確かに私たちに寄り添い、共に歩んでいてくださいます。その歩みの中で、主イエスは私たちに語りかけ、私たちの話を聞き、私たちの心の内にある気持ちを受けとめてくださり、そしてみ言葉を語って、それを説き明かしてくださるのです。私たちがみ言葉とその説き明かしを聞くのは、主の日の礼拝においてです。あの日、エマオへの途上で二人の弟子が主イエスから聖書の説き明かしを聞いたように、私たちも礼拝において聖書とその説き明かしである説教を聞くのです。もちろん礼拝の説教者は主イエスご自身ではありません。その意味で、二人の弟子と私たちには違いもあります。しかし私たちは、礼拝でみ言葉の説き明かしが語られるとき、それは単なる説教者の言葉ではなく、聖霊のお働きによって神の言葉、キリストの言葉になる、と信じています。その意味で、二人の弟子たちに起こったことは、私たちにも起こっていることなのです。

一緒にいてほしい
 さて、エルサレムから約11キロメール、おおよそ2時間の旅をして、二人の弟子と主イエスは、もうまもなくエマオに着こうとしていました。主イエスはなおも先へ行こうとされる様子でしたが、二人の弟子は、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、主イエスを無理に引き止めました。「一緒にお泊まりください」は、直訳すれば、「私たちと一緒にいてください」となります。彼らがそのように言ったのは、少し不思議な感じもします。なぜなら少し前に彼らは主イエスから、「物分かりが悪く、心が鈍い」と叱られていたからです。もし私たちが、誰かから「あなたは物分かりが悪く、心が鈍いですね」と言われたら、そんなことを面と向かって言う人と一緒にいたいとは、まして一緒に泊まりたいとは思わないでしょう。しかし彼らは主イエスに自分たちと一緒にいてほしいと強く願ったのです。なぜでしょうか。「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言っていますから、主イエスが夜道を歩かれるのを心配したのかもしれません。しかしそれだけではないと思います。むしろ彼らは、「自分たちと一緒にいてほしい」という主イエスへの気持ちを抑えられなかったのです。彼らがそのような気持ちを抱いたのは、主イエスがエマオに至るまで自分たちに寄り添い、共に歩んでくださり、自分たちに語りかけ、自分たちの話を聞いてくださったからです。彼らはいきなり叱られたのではありません。それまでに関わりがありました。その関わりの中で、彼らは主イエスに対して、誰だか分からないけれど、この人は信頼できるかもしれない、この人の言うことなら聞いてみよう、と思うようになったのです。なによりも彼らは、主イエスの説教をもっと聞きたかったのではないでしょうか。主イエスによる聖書のみ言葉の説き明かしをもっと聞きたいと思ったから、彼らは主イエスに「自分たちと一緒にいてほしい」と強く願い、無理に引き止めたのです。

心が燃えて
 32節で二人の弟子は、主イエスが自分たちと共に歩んでくださったときのことを、また聖書を説き明かしてくださったときのことを振り返ってこのように語り合っています。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。主イエスの説教を聞いたとき彼らの心は燃えました。それは、主イエスの説き明かしを聞くことによって聖書の知識が増えて彼らの心が明るくなった、ということではないでしょう。そうではなく彼らの心が熱くなった、燃え立った、ということです。とはいえそのときに、彼らは自分の心が熱くなり、燃え立ったことに気づけたわけではありませんでした。後から振り返って、そのことに気づいたのです。しかし自分では気づけていなかったとしても、心が熱くなり、燃え立ったからこそ、彼らは主イエスと一緒にいたいと、主イエスの話をもっと聞きたいと思ったに違いありません。その彼らの思いを主イエスは受けとめられました。29節の終わりに、「イエスは共に泊まるため家に入られた」とあります。これも直訳すれば、「イエスは彼らと一緒にいるために(家に)入られた」となります。自分たちと一緒にいてほしい、という二人の弟子の強い願いに応えて、主イエスは彼らと一緒にいてくださったのです。

それだけでは信じられない
 このように二人の弟子は、エマオへの道を主イエスが共に歩んでくださり、なによりみ言葉を説き明かしてくださったことによって心が燃えて、主イエスと一緒にいたい、その話をもっと聞きたい、という強い願いを持つようになりました。ところがルカ福音書は、それで彼らが主イエスの復活を信じることができた、とは語っていません。彼らの目は依然として遮られていて、自分たちと一緒にいる人が復活された主イエスだとは分からなかったのです。復活の主イエスが共に歩いてくださった。み言葉を説き明かしてくださった。しかしそれだけで主イエスの復活を信じる者が起こされるのではない。ルカ福音書はこのことを見つめているのです。

共に食卓を囲むことによって
 では、どのようにして主イエスの復活を信じる者が起こされるのでしょうか。それが、30、31節に語られています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。すでに夕方になっていました。2時間ほど歩き続けて、お腹も空いていたはずです。そこで一緒に夕食をとることになりました。その食卓で、主イエスが、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」とき、二人の目は開け、そこにおられるのが復活された主イエスだと分かったのです。このとき彼らは主イエスの復活を信じたのです。主イエスの復活は、そのことについていくら論じ合っても、信じられるようになるのではありません。二人はエマオへの途上で、あれこれ話し合い、論じ合っていましたが、それで彼らは主イエスの復活を信じられたわけではまったくありませんでした。主イエスの復活を論じ合うというのは、結局自分の知識や理解で復活を分かろうとすることです。しかし私たちの知識や理解で、主イエスの復活を信じることなどできないのです。また彼らは、エマオへの道を主イエスが共に歩いてくださり、み言葉を説き明かしてくださっても、なお主イエスの復活を信じられたわけではありませんでした。主イエスの復活は、み言葉の説き明かしだけでも信じられるわけではないのです。主イエスの復活を信じる信仰が起こされるのは、復活された主イエスと共に食卓を囲むことによってです。共に食事をとるという、身体を伴った体験によって、五感や身体全体で感じる体験によって、二人の弟子は目を開かれ、主イエスの復活を信じたのです。主イエスの復活を信じる信仰は、復活されて生きておられる主イエスと出会い、交わりを持つことによってこそ起こされていくのです。

聖餐にあずかることによって
 ルカ福音書は、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」、この出来事に、明らかに主の晩餐を重ねています。主イエスは十字架に架けられる前の夜に、十二人の弟子と最後の食事をとられました。その主の晩餐の場面の中で、22章19節には、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き」とあります。本日の箇所の30節は、この22章19節を受けているのです。ですからこの30節は、主イエスがお定めになった「聖餐」を見つめている、と言えます。ルカ福音書は、私たちキリスト者が、聖餐においてこそ、復活されて生きておられる主イエスと出会うことを見つめているのです。私たちは聖餐において、キリストの体であるパンと、流された血であるぶどう汁にあずかることを通して、体全体で、五感を伴って、主イエス・キリストによる救いの恵みを味わいます。聖餐においてこそ、私たちは身体を伴って、復活の主イエスと交わりを持つことができるのです。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスご自身がお定めくださった聖餐にあずかることによって起こされていくのです。

説教と聖餐
 しかし主イエスと共に食卓を囲み、そこで復活の主イエスを信じる前に、二人の弟子が主イエスによるみ言葉の説き明かしを聞いて、心が燃えたことも忘れてはなりません。このことは私たちの礼拝における、説教と聖餐の関係を見つめている、と言ってよいでしょう。聖書のみ言葉の説き明かしである説教を聞いて、心が燃えることこそ、主イエスの復活を信じる備えとなります。それなしに私たちは主イエスの復活を信じられるわけではありません。エマオへの道で起こったのと同じように、説教者の言葉を用いて、神様ご自身が、主イエスご自身が語りかけてくださることを聞いて、たとえそのときは気づかなくても、心が熱くなり、燃え立つことが、主イエスの復活を信じる備えとなるのです。その備えがあってこそ、私たちは聖餐にあずかり、身体を伴って、復活の主イエスと出会い、交わりを持つことを通して、主イエスの復活を信じることができるのです。復活の主イエスが、これまでも私たちと共に歩んでいてくださったことに、そしてこれらかも共に歩んでくださることを信じることができるのです。ルカ福音書はこの物語を通して、初代の教会のキリスト者たちに、そして私たちに、説教と聖餐によってこそ信仰生活が支えられ続けていくことを告げています。私たちの信仰生活は、説教と聖餐によって、そのどちらかではなく、その両方によって養われ、支えられ、守られているのです。

目に見えない復活の主イエスを信じる
 31節では、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と言われていました。主イエスの復活を信じられない間は、主イエスの姿が見えていたのに、主イエスの復活を信じると、主イエスの姿は見えなくなったのです。このことも私たちの信仰の核心を突いています。私たちが復活の主イエスを信じて生きるとは、目には見えないけれど、復活されて今も生きて働かれる主イエスを信じて生きるということだからです。ルカ福音書の続きである使徒言行録が語るように、復活された主イエスは、40日間に亘って地上で弟子たちに現れた後、天に昇られました。だから主イエスは、今、天におられ、地上を生きる私たちの目には見えません。しかし天におられるからこそ、主イエスは聖霊のお働きによって、私たち一人ひとりといつでもどこでも一緒にいてくださるのです。そのことを私たちはこの目で見て信じるのではなく、この目で見ないで、心の目によって、信仰によって信じます。「目が開かれる」とは、目に見えない復活の主イエスを信じる心の目が開かれることであり、目に見えない復活の主イエスを信じる信仰が起こされることにほかなりません。そのことがなによりも礼拝で説教を聞き、聖餐にあずかることによって起こるのです。

主イエスの復活を証しせずにはいられない
 目が開かれて主イエスの復活を信じた二人は、「時を移さず出発して」、エルサレムに戻りました。戻ってみると、「十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言って」いました。二人の弟子も、自分たちが経験したことを証ししました。エマオへ向かう道で、主イエスが寄り添って、共に歩んでくださり、語りかけてくださり、自分たちの話を聞いて、心の内にあった気持ちを受けとめてくださり、そしてみ言葉を語り、説き明かしてくださったこと。そして共に食卓を囲んで、主イエスがパンを取り、それを裂いてくださったそのときに、エマオへの道を共に歩んでくださり、今、パンを裂いてくださった方が、復活された主イエスだと分かったこと。そのすべてを証しした、証しせずにはいられなかったのです。「時を移さず出発して」と言われていました。もうとっくに日は沈み、夜になっていました。しかし彼らは朝を待たずに、時を移さず、夜中の間に出発して、夜道を11キロメール歩いて、2時間ほどかけてエルサレムに戻ったのです。夜道の旅は、今よりずっと危険が多かったに違いありません。それでも彼らは居ても立ってもいられなかった。イースターの喜びに満たされたからです。主イエスの復活を、自分たちの身に起こったことを証しせずにはいられなかったからです。本当に主イエスは復活した、と証しせずにはいられなかったのです。

目が開け、心は燃えて
 私たちは信仰生活の中で、希望を打ち砕かれ、何の望みもないように思える現実を生きる中で、孤立して生きているように感じずにはいられない中で、復活の主イエスを見失い、自分一人で苦しんでいるように思い、神様の救いの恵みの内に生きることから離れて行こうとしてしまいます。しかしそのような中で、私たちは礼拝へと招かれ、そこで説教を聞き、聖餐にあずかることを通して、目が開かれ、心が燃やされるのです。何の望みもないと、一人ぼっちだと思っていた、その自分と復活の主イエスが共に歩んでいてくださったことに気づかされるのです。これからも目に見えない復活の主イエスが私たちといつも共に歩んでくださることを知らされるのです。私たちは信仰生活の中で、度々、苦しみや悲しみや思い煩いによって、心の目、信仰の目が遮られてしまいます。そのような弱さ、欠け、罪を抱えています。しかし神様はそのような私たちを毎週礼拝へと招いてくださり、説教と聖餐にあずからせることによって、私たちの目を開かせてくださり、心を燃え立たせてくださり、主イエスの復活を信じる者へと変えてくださるのです。いえ、それだけではありません。主イエスの復活を信じた二人の弟子が、主イエスの復活を証しせずにはいられなかったように、目が開かれ、心が燃やされて、主イエスの復活を信じる者へと変えられた私たちも、主イエスの復活を証しせずにはいられないのです。復活して今も生きて働かれている主イエスが、私たちといつも共に歩んでいてくださる、と証しせずにはいられないのです。私たちはこの夕礼拝からそれぞれの生活の場へと遣わされていきます。その遣わされた先で、私たちは主イエスの復活の証人(あかしびと)として歩んでいくのです。

関連記事

TOP