夕礼拝

過越の食事を共に

説教 「過越の食事を共に」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 出エジプト記第12章21-28節
新約聖書 ルカによる福音書第22章14-23節

主イエスが定めてくださった聖餐
 11月の第一主日を迎えました。夕礼拝では原則第一主日に聖餐にあずかっていて、本日もこの後、聖餐にあずかります。この聖餐は教会が勝手に定めた儀式ではありません。教会がパンとぶどう酒(ぶどう液)を使って聖餐を行おうと決めたのではなく、主イエスご自身が聖餐を定めてくださいました。教会は、その誕生したときから今に至るまで、主イエスがお定めになった聖餐を行い続けています。初めて教会にいらした方や教会にいらして間もない方が聖餐のある礼拝に出席すると、小さいパンと杯で一体何をしているのだろうと不思議に思うはずです。聖餐がどんな儀式か分からないので当然のことでしょう。一方で、洗礼を受けて毎月聖餐にあずかっている私たちは、聖餐の意味を分かっているつもりでいます。しかし毎月、繰り返しあずかっている内に、あってはならないことですけれども、やはりどこかで月一回やってくる定期的なイベントのような感覚になってしまうところがあるように思います。先週から私たちはルカによる福音書22章を読み始めました。本日は14節以下を読みますが、ここで主イエスは聖餐をお定めくださいました。私たちはこの箇所を通して、主イエスがどんな思いを持って聖餐を定めてくださったのかを受けとめ、また聖餐がどんな儀式なのかを示されていきたいと思います。

過越の食事
 冒頭14節に「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」とあります。22章1節で「さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた」と語られていて、さらに7節で「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た」と語られていました。その日のおそらく昼間に、主イエスによって遣わされた二人の弟子が過越の食事の準備をしたとも語られていました。そして日が暮れて、いよいよ過越の食事をとる時刻になり、主イエスは弟子たちと一緒にその食事の席に着いたのです。
 この「過越の食事」では、焼いた小羊の肉を食べ、また酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べます。小羊の肉を食べるのは、かつてイスラエルの民が小羊の犠牲によってエジプトから救い出されたからです。かつてイスラエルの民はエジプトで奴隷として暮らしていました。しかし神様はモーセを遣わして、彼らをエジプトから救い出そうとされます。いくつもの災いがエジプトとその王ファラオを襲いますが、ファラオは心を頑なにして、彼らをエジプトから去らせようとはしませんでした。そこで神様は最大にして最後の災いをくだされます。人間であれ家畜であれ、エジプトの国中の初子を撃つという災いです。その際、神様はモーセを通してイスラエルの民に命じられました。共に読まれた出エジプト記12章21節以下にこのようにあります。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」。いよいよ神様は初子を撃つためにエジプト中を巡られましたが、屠られた過越の小羊の血が塗られた家は通り過ぎたので、つまり過ぎ越されたので、イスラエルの民の初子は撃たれることがありませんでした。この最大にして最後の災いの後、ファラオは彼らをエジプトから去らせました。また酵母を入れないパンを食べるのも、イスラエルの民がエジプトから脱出したとき急いでいて、パン生地を寝かして膨らませる時間がなかったため、酵母を入れないパンを焼いたからです。このように神様がエジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放し、救い出されたことを記念して、彼らは過越の食事を守り続けてきました。彼らは過越の食事をする度に、神様が自分たちの先祖に成し遂げてくださった救いのみ業を繰り返し想い起こしてきたのです。

切に願っていた
 この過越の食事の席に主イエスが弟子たちと一緒に着くと、主イエスはこのように言われました。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。「切に願っていた」は、原文を直訳すれば「願うことを願っていた」となります。「願う」という意味の言葉が二重に使われていて、強く願っていることを言い表しています。それほどの強い願いを持って、主イエスは弟子たちと一緒に過越の食事をとろうとされたのです。直前の7節以下で、主イエスご自身がイニシアチブを取って過越の食事の準備を進められたのも、この主イエスの強い願いのゆえであったに違いありません。主イエスの切なる願いによって、今、主イエスは弟子たちと一緒に過越の食事の席に着かれたのです。

過越の出来事が指し示している救い
 そのように主イエスが強く願われたのは、単に習慣に従って、ほかのユダヤ人たちと同じように、弟子たちと過越の食事をしたかったからではありません。この過越の食事は木曜日の夜の出来事です。主イエスは木曜日の夜の内に逮捕され、金曜日の午前中に十字架に架けられ昼過ぎに死なれます。それゆえこの食事は、まさに「最後の晩餐」でした。主イエスが十字架の死を目前にして、弟子たちと一緒に過越の食事をとろうとされたのは、このご自分の十字架の死の意味を彼らに伝えるためです。ご自分がまことの過越の小羊として十字架で死なれることを伝えようとされたのです。かつて小羊が犠牲となることによって、イスラエルの民はエジプトの支配のもとから、その奴隷状態から解放されました。そしてこの過越の出来事はいずれ実現することの予兆、先ぶれでした。主イエスがまことの小羊として犠牲となることによって、私たちが罪の支配のもとから、罪の奴隷状態から解放され、救い出されることを指し示していたのです。主イエスは一緒に過越の食事をとりながら、この食事が記念している過越の出来事が、ご自分の十字架の死によって実現する救いを指し示していることを弟子たちに伝えようとされたのです。そのためにこそ主イエスは切なる願いを持って、苦しみを受ける前に、十字架で死なれる前に、弟子たちと過越の食事をとられたのです。

神の国が来て救いが完成するまで
 その中で主イエスは聖餐をお定めになったのですが、聖餐の制定について語っているのは19、20節です。17節でも主イエスは「杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから」、「これを取り、互いに回して飲みなさい」と言われていますが、これは聖餐の制定を語っているのではありません。むしろ17、18節は、16節と対応しています。どちらも「言っておくが」で始まり、「〇〇するまで、✕✕することはない」という表現だからです。16節では、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言われています。このお言葉は分かりにくいと思います。主イエスは弟子たちと一緒に過越の食事をとることを切に願っていた、と言われていたのに、ここでは「わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言われているからです。主イエスは過越の食事をとられたのだろうか、それともとられなかったのだろうか、と思わなくもありません。そこで聖書協会共同訳を見てみると、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまでは、私はもはや二度と過越の食事をすることはない」と言われています。これなら分かります。主イエスは弟子たちに、「今、あなたたちと一緒に過越の食事をしているけれど、もはや二度と過越の食事をすることはない」と伝えられたのです。しかしさらに難しいのは、「神の国で過越が成し遂げられるまで」が何を意味しているのか、ということです。16節と対応している18節に目を向ければ、18節では、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われています。18節の「神の国が来る」とは、終わりの日に神の国が来て、救いが完成することでしょう。そうであれば16節の「神の国で過越が成し遂げられる」というのも、世の終わりの神の国の到来と救いの完成を見つめているのではないでしょうか。22章30節に「あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし」とあるように、終わりの日に神の国が来て救いが完成するとき、弟子たちは、そして私たちは神の国で祝いの食卓に着いて、主イエスと共に飲み食いします。しかしそのときまで、主イエスは「過越の食事をとることはない」し、「ぶどうの実から作ったものを飲むことは決して」ない。そのときまで主イエスは弟子たちと、そして私たちと共に飲み食いすることはないのです。あの過越の出来事が指し示していた救いは、もうまもなく、主イエスがまことの小羊として十字架で死なれることによって実現します。しかしそれで完成するわけではありません。その救いが完成するのは終わりの日です。この後、主イエスは十字架で死なれ、復活され、天に昇られます。今、主イエスは天におられますから、私たちはこの地上で「目に見える」主イエスと共に食卓を囲むことはできません。終わりの日に主イエスが再び来てくださり、救いが完成するときに、私たちは「目に見える」主イエスと共に食卓を囲むことができるのです。主イエスは弟子たちと一緒に過越の食事をとられ、ご自分が過越の小羊として十字架で死なれることによって救いが実現することを伝え、そして終わりの日に神の国が来て、その救いが完成するときまで共に食卓を囲むことはない、と伝えました。もうまもなく十字架で死ななければならないという切迫感の中で、主イエスは切なる願いを持ってこのことを伝えようとされたのです。

主イエスの切なる願いを受けとめられない
 しかし弟子たちは、この主イエスの切なる願いを受けとめることはできませんでした。聖餐をお定めになった後、21節で主イエスは、ご自分を裏切る者が手を食卓に置いている、と言われました。それを聞いた弟子たちは、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」と言われています。さらに24節では、弟子たちの間に、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」と言われています。今、まさに主イエスが十字架で死なれようとしているときに、救いが実現しようとしているときに、そのことに心を向けようとせず、自分たちの中で誰が裏切るのか、誰がいちばん偉いのかということに熱中していたのです。ここに主イエスの強い願いを受けとめられない弟子たちの姿があります。そしてそれは私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちも日々、主イエスの十字架の死に心を向けるよりも、自分と隣人を比べることに心を奪われています。どちらが悪いのか、どちらが偉いのか、どちらが優れているのかに熱中して、怒りに駆られたり優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりしています。いえ、日々の生活だけではないかもしれません。礼拝に集められてなお、私たちは主イエスの十字架よりも自分のことに、隣人との関係に心をかき乱されているのではないでしょうか。主イエスの十字架の死を見つめられずにいる。それによって実現した救いを見つめられずにいる。そして神の国の到来と救いの完成を待ち望むことができずにいる。それが私たちの偽りのない姿なのです。

わたしの体
 しかし主イエスは、そのような弟子たちであるからこそ、そして私たちであるからこそ、なお強い願いを持って聖餐を定めてくださいました。「目に見えない」主イエスに、「目に見えない」救いに心を向けることができない私たちが、聖霊の働きによって「目に見えない」主イエスと共に食卓を囲み続けるために聖餐を定めてくださったのです。その聖餐において、主イエスの十字架の死の意味が告げられています。19節でこのように言われています。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」。「あなたがたのために与えられる」とは、「あなたがたの代わりにささげられる」ということです。過越の出来事において小羊が犠牲としてささげられることによってイスラエルの民が救われたように、十字架の死において主イエスが私たちの代わりにご自身の体を、ご自身の命をささげてくださることによって私たちは救われたのです。

わたしの血による新しい契約
 このようにして聖餐のパンについて定められた主イエスは、食事が終わると聖餐の杯についても定められました。20節でこのように言われています。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。ここでも「あなたがたのために」とは、「あなたがたの代わりに」ということです。私たちの代わりに主イエスが十字架で血を流して、死んでくださったことによって、神様と私たちとの間に「新しい契約」が結ばれました。「新しい契約」と言われていますから、「古い契約」があります。それは旧約聖書で神様とイスラエルの民との間に結ばれた契約です。出エジプト記24章では、エジプトを脱出した後、シナイ山のふもとで、神様がイスラエルの民と契約を結ばれたことが語られています。その6節以下にこのようにあります。「モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」。モーセが血の半分を祭壇に、残りの半分をイスラエルの民に振りかけることによって契約が結ばれています。古い契約は、神様とイスラエルの民の両方に半分ずつ血が注がれることによって結ばれました。それは、象徴的に両者が血を流して契約を結んだことを意味しています。しかし「新しい契約」は、そうではありません。「新しい契約」が結ばれるために、私たちは命を失うどころか一滴の血も流していません。主イエスが流した血だけで、主イエスが失った命だけで、神様と私たちの間に「新しい契約」が結ばれたのです。普通は契約を結ぶとき、その両者に覚悟と決断が求められます。古い契約が結ばれるときに、神様とイスラエルの民の両方に半分ずつ血が注がれたのは、民にも覚悟と決断を求めたからです。しかし私たちは何の覚悟もせずに、何の決断もせずに、それどころか神様のことより自分のことばかり考えて生きているのに、神様は一方的な恵みによって主イエスを十字架に架けることによって、私たちと「新しい契約」を結んでくださいました。翌日には主イエスが十字架で死なれるのに、誰が裏切るのか、誰がいちばん偉いのか、と自分たちのことばかり考えていた弟子たちのように、私たちも自分のことや隣人との関係ばかりを気にして生きています。そのような私たちであるにもかかわらず、神様は主イエスが十字架で流された血によって、私たちと「新しい契約」を結び、私たちを神の民としてくださり、神様と共に生きられるようにしてくださったのです。

わたしの記念として
 19節でパンについてお定めになったとき、主イエスは「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。一方20節で杯についてお定めになったときには、そのように言われませんでした。しかしそれは、ただルカ福音書が記していないだけだと思います。私たちは主イエスの記念としてパンだけにあずかるのではなくパンと杯の両方にあずかります。私たちの代わりに主イエスが十字架でその体をささげ、その血を流して私たちを救ってくだり、私たちと「新しい契約」を結んでくださったことを記念して、私たちは聖餐においてパンと杯にあずかるのです。「記念する」とは「想い起こす」ことです。イスラエルの民が過越の食事において過越の出来事、出エジプトの救いの出来事を想い起こし続けたように、私たちは聖餐において主イエスの十字架による救いの出来事を想い起こし続けます。「記念する」「想い起こす」というのは、単に過去の出来事を思い出すことでも、懐かしむことでもありません。過去の出来事が、単に過去だけでなく、現在にも影響を与え続けていることを想い起こすのです。2000年ほど前の主イエスの十字架の死による救いが、現在の私たちに働きかけ、現在の私たちを生かし続けています。聖餐のパンと杯にあずかることを通して、私たちは主イエスの十字架の死による救いの恵みを味わい、その救いの恵みによって生かされていることを実感するのです。共に読まれた出エジプト記12章26節以下では、過越の食事において、自分の子どもが「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねるときには、「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と答えなさい、と言われています。それは、大昔にその子どもの先祖が救われたことだけを伝えているのではありません。その救いの恵みの内に、今、その子どもが生かされていることを伝えているのです。同じように聖餐で私たちは、2000年前に主イエスが私たちのために十字架で死んでくださったことを想い起こします。しかしそれだけでなく、パンを食し、杯にあずかることを通して、主イエスが体を裂き、血を流して成し遂げてくださった救いの恵みを体全体で味わい、今、私たちがその救いの恵みによって生かされていることを実感するのです。自分のことや隣人との関係にばかり心をかき乱されている私たちが、聖餐において主イエスの十字架の死を見つめ、それによって実現した救いを見つめ、その救いの恵みを味わい、そして終わりの日の神の国での祝宴を待ち望む信仰を確かにされるのです。

聖餐に共にあずかる群れ
 19節で「イエスはパンを取り」と言われていますが、これは「一つのパンを取り」ということです。主イエスは一つのパンを取って、それをちぎって弟子たちに分け与えました。また17節で「(杯を)互いに回して飲みなさい」と言われていたように、主イエスが渡した杯を弟子たちは回し飲みしました。これは普通の過越の食事ではあり得ないことでした。通常、過越の食事では各自に杯が配られたからです。主イエスは過越の食事をしながら、しかし弟子たちのためにまったく新たに聖餐を定めてくださったのです。弟子たちのためだけではありません。本日の箇所で弟子たちは一貫して「使徒たち」と呼ばれています。「使徒」とは「遣わされた者」という意味ですが、主イエスによって遣わされた者である使徒たちが、後の教会を築いていきます。ですから主イエスは、後の教会のために、後の教会の肢とされるキリスト者のために聖餐を定めてくださいました。私たちの教会のためにも、私たちのためにも聖餐を定めてくださったのです。これから私たちは聖餐にあずかりますが、本日の箇所で主イエスが言われた通りに行うわけではありません。小さく切り分けられたパンにあずかりますし、別々の小さな杯でぶどう汁にあずかります。しかしそうであっても私たちはパンと杯にあずかるとき、一つのパンと一つの杯に共にあずかっていることを想い起こします。そのことによって私たちは、聖餐において私たちがキリストに結ばれて一つとされていることを味わうのです。教会は聖餐に共にあずかる群れです。私たちが一つの群れとされているのは、互いに気が合うからでも、趣味が同じだからでも、政治的立場が同じだからでもなく、共に聖餐にあずかっているからなのです。
 この共にあずかる聖餐に、私たちは主イエスの強い願いによって招かれています。主イエスの切なる願いは聖餐を定めただけでなく、今も聖餐を支え続けています。これから私たちがあずかる聖餐は、主イエスの強い願いによって支えられ、執り行われるのです。だから私たちはただ定期的に、機械的に聖餐にあずかるのではなく、この主イエスの切なる願いと招きにお応えして聖餐にあずかります。パンと杯にあずかることを通して私たちは、主イエスが私たちの代わりにささげてくださった体と、流してくださった血とによって救われたことを想い起こし、その救いの恵みを体全体で味わい、その救いの恵みの内に生かされていることに感謝して、世の終わりの救いの完成を待ち望みつつ生きる者とされるのです。

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