2024年10月20日
説教題「み言葉に聞き、目を覚まして祈る」 副牧師 川嶋章弘
詩編 第119編89~96節
ルカによる福音書 第21章29~38節
神殿で主イエスが語ったこと
本日の箇所の終わり、37、38節にこのようにあります。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」。これと対を成すのが、19章47、48節で、このように言われていました。「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」。どちらも主イエスが神殿の境内で教えておられ、その主イエスの話を聞くために民衆が集まっていたことを報告しています。この二つの文章に挟まれて、20章1節から21章36節では、エルサレム神殿の境内で主イエスが語られたことを記しています。これまで何回かに亘って読み進めてきましたが、本日はいよいよその最後の部分を読もうとしています。
主イエスはエルサレム神殿に入られる直前に、エルサレムに入場されました。その日から主イエスの地上のご生涯の最後の一週間の歩み、受難週の歩みが始まりました。本日、21章を読み終えますが、22章に入りますと、主の晩餐やオリーブ山での祈り、主イエスの逮捕と裁判、そして十字架の死が語られていきます。そのため私たちは、22章以降だけに主イエスのご受難が語られていると思いがちですが、しかし主イエスが神殿でお語りになったのも受難週の歩みの中での出来事です。私たちはここにも主イエスのご受難が、主イエスの死が意識されていることを見逃してはならないのです。
世の終わりについて
このように受難週の前半、主イエスは神殿の境内で教えておられましたが、その最後にお語りになったのは、「世の終わり」についてです。ここで主イエスは、とりわけ弟子たちに向かって、主イエスに従って生きようとする人たちに向かって、つまり私たちに向かって、「世の終わり」についてお語りになっています。それは、12節以下で主イエスを信じて生きる人たちに対する迫害について語られていることからも分かります。21章5節から本日の箇所の終わりまで、主イエスは数日後のご自分の死を見つめつつ、弟子たちに向かって、そして私たちに向かって、「世の終わり」について語ってくださったのです。
主イエスが再び来てくださる
これまで読み進めてきたように、「世の終わり」はいつ起こるのか、世の終わりが起こるときにはどんな徴があるのか、という問いに対して、主イエスは戦争や地震や飢饉や疫病は起こるけれど、それで「世の終わり」が来るわけではない、とお答えになりました。そうではなく21章27節で、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とあるように、ご自身を「人の子」と呼ばれた主イエスが、「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」ときに、「世の終わり」は来ます。「雲に乗って来る」と言われると、ある漫画の主人公が筋斗雲(きんとうん)に乗っているのを思い浮かべるかもしれませんが、そのようなことではありません。「雲」というのは、神様がそこに現臨している、そこに現に臨んでくださっていることのしるしです。十字架で死なれ、復活して、今天におられる主イエスがまことの神様として、「大いなる力と栄光」を伴って「世の終わり」に来てくださいます。主イエスが再び来てくださることによって、「世の終わり」は来るのです。
救いの完成の時
この主イエスが再び来てくださる「世の終わり」に対して、私たちは不安や恐れを抱く必要はありません。25節後半から、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」と言われていましたが、人々が「不安に陥」り、「おびえ、恐ろしさのあまり気を失う」のは、世の終わりに「何が起こるのか」を知らないからであり、そのために「なすすべを知ら」ないからです。しかし私たちは、主イエスが再び来てくださる「世の終わり」が救いの完成の時であり、28節の言葉で言えば、「解放の時」であることを知らされています。私たちはかつて罪に支配され、神様と隣人を愛するよりも憎んでばかりいました。しかしその私たちを罪の支配から解放するために、主イエス・キリストは私たちの代わりに、私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、復活されました。私たちはすでに、この主イエスの十字架と復活によって罪の支配から解放され、救われているのです。しかしその救いは、まだ目に見える形で完成していません。むしろ私たちの目に見える現実は、罪と悪が力を奮っているように思える、神様の救いなんてないかのように思える、苦しみと悲しみに溢れた現実です。しかし主イエスが再び来てくださる世の終わりに、私たちの救いは、誰の目にも見える仕方で完成します。先ほどの27節で、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」と言われていましたが、「人々」というのはキリスト者だけではなく、すべての人のことです。誰もが見える形で、まことの神様であられる主イエスが再び来てくださり、私たちの救いと解放を完成してくださるのです。そしてその世の終わりに復活と永遠の命にあずかるという約束が、主イエスによって救われた私たちに与えられています。だから私たちはこの約束に希望を置いて、身をかがめて、うつむいて歩くしかないような厳しい現実の中にあってなお、世の終わりに至るまで、「身を起こして頭を上げ」て歩んでいくことができるのです。その歩みにおいて、19節で「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と言われていたように、私たちには忍耐が求められます。与えられている状況のもとに留まり、逃げることなく忍耐して歩んでいかなくてはなりません。もちろんその忍耐は自分の頑張りによるのではありません。18節で「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と主イエスが約束してくださっているように、神様が私たちと共にいてくださり、いつも守ってくださるから、私たちは忍耐して歩めるのです。
神の国が近づいていると知る
主イエスは本日の箇所でも「世の終わり」について、「世の終わり」と向き合う私たちの姿勢について語っています。まず主イエスは29節から譬えを話されました。この譬えは、主イエスの地上のご生涯における最後の譬えです。このように語り始めます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずから分かる」。いちじくの木は、冬の間は葉を落としていて、春になると「葉が出始める」ようです。そのためイスラエルの人たちはいちじくの木を見て、季節を感じていました。このことは私たち日本人にもよく分かります。四季折々の花を見て、私たちは春夏秋冬を感じるからです。もっとも最近は、今年のように10月半ばになっても夏日があり、秋がどんどん短くなっているように思えます。日本の四季は失われていくのかもしれません。それでもなお私たちは、梅の花がほころぶのを見て春が近いのを感じます。それと同じようにイスラエルの人たちも、いちじくの木に葉が出始めたのを見て、夏が近いと感じたのでしょう。
もちろん主イエスがこの譬えで本当に語ろうとしているのは、季節を感じることではありません。いちじくの木について語った後、続けて主イエスはこのように言われました。「それと同じように、あなたがたはこれらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」。いちじくの木に葉が出始めるのを見て夏が近いのを知るように、あるいは私たちが、梅がほころぶのを見て春が近いのを知るように、「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と言われたのです。「これらのこと」とは、21章8節以下で語られてきたことです。特に10節、11節に記されている、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」ことが、「これらのこと」であると言えるでしょう。また「神の国が近づいている」というのは、「世の終わり」が近づいている、ということです。なぜなら世の終わりに、神の国、神のご支配は完成するからです。主イエスの十字架と復活によって、すでに神のご支配はこの地上に始まっています。しかしそれは私たちの目には見えません。信じるしかないことです。先ほども申したように、私たちの目に見えるのは、神のご支配がないかのように思える悲惨な現実です。その現実の中で私たちは目に見えない神のご支配を信じて生きるのです。すでに始まっている神のご支配は、「世の終わり」に目に見える形で完成します。私たちは戦争や災害や異常現象を見るとき、「世の終わり」が近いことを、神のご支配の完成が近づいていることを知らされるのです。
いつも「世の終わり」の近さに心を向けて
そうであるならばまさに今、戦争や災害や異常気象に直面している私たちは、世の終わりが近いことを知らされています。しかしこのことは、これまでは世の終わりが近づいていなかったけれど、今は近づいている、今世界で起こっている戦争や災害や異常気象は、そのしるしだ、ということではありません。私たちは、今直面していることに思いが向きがちですが、考えてみれば、人類が戦争や災害や異常現象に直面するのは今に始まったことではありません。これまでも直面してきたし、これからも直面するに違いないのです。ですから「これらのこと」は、これから起こることというより、これまでもこれからも起こり続けていることです。「世の終わり」に至るまで、「これらのこと」は起こり続けます。ですから私たちは、いつでも「世の終わり」が、「神の国」が近づいていることを知らされているのです。まだ神の国は近づいていないようだからぼーっとしていて良いとか、そろそろ近づいてきたようだから準備しようとか、そういうことではありません。私たちはいつでも「世の終わり」の近さ、「神の国」の完成の近さに心を向けて歩んでいきます。神のご支配の完成が近づいていることを信じ、今は目に見えない神のご支配を信じて生きるのです。
しかしその「世の終わり」の近さは、私たち人間の感覚でとらえられるものではありません。主イエスが十字架で死なれ、復活され、天に昇られてから、ずっと「世の終わり」は近づいてきました。しかし私たちの感覚からすれば、「世の終わり」は近づいたのではなく、2000年以上経ってもまだ来ていない、ということになります。けれども神様のご計画を私たちの感覚でとらえられるはずがありません。「世の終わり」が近づいているとは、私たちにはいつ来るのか分からなくても、それが必ず来ることを見つめています。だからこそ私たちは絶えず、「世の終わり」の近さを意識して生きていくのです。これまでもこれからも戦争や災害が起こり続けることは、私たちの心を絶えず「世の終わり」の近さに、「世の終わり」が必ず来ることに向けさせるのです。「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」とは、このことを私たちに告げているのです。
自分の死と世の終わり
このことを主イエスがご自分の死の直前に語られたことには、大切な意味があります。私たちは普段、「世の終わり」の近さを感じるよりも、自分の死の近さを感じて生きているのではないでしょうか。歳を重ねればもちろんのこと、若くてもいずれ自分が死を迎えることを意識するのではないかと思います。そしてしばしばこの社会では「死んだら終わり」と考えられています。自分の死と世の終わりを区別しないことすらあるように思えます。自分が死ねば、少なくとも自分にとっては、世の終わりも同然と思っているところがある。あるいはそこまで思わなくても、自分が死んだ後に、世が終わっても終わらなくても、自分には関係ないと思っているところがある。しかし主イエスはご自分の死を見つめながら、「世の終わり」について、32節でこのように言われています。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」。この主イエスのお言葉は解釈が難しく、「すべてのこと」や「この時代」が何を意味しているのかについて色々な考えがあります。しかし「すべてのこと」とは、これまで21章で語られてきたすべてのこと、つまり戦争や災害、あるいはキリスト者への迫害であり、「この時代」とは「この世」を意味しているのでしょう。ですから9節の「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と同じことが見つめられているのです。そうであれば私たちの死は、「世の終わり」ではありません。私たちが死を迎えた後も、世は滅びることなく続いていきます。「死んだら終わり」なのではない。その先がある。私たちが死を迎えた後も、世は続き、そしていつかは分からないけれど必ず世は終わるのです。このときから数日後に、主イエスは十字架に架けられて死なれます。しかしそれで終わりではありませんでした。主イエスは復活させられて、永遠の命を生きておられます。同じように私たちも「世の終わり」に復活させられ、永遠の命を生きるようになります。私たちが死を迎えた後も、世は続き、そして必ず世は終わり、そのとき私たちは復活させられ、永遠の命にあずかるのです。そうであれば私たちが自分の死に目を向けるとき、その先にある世の終わりの復活と永遠の命にも目を向けなくてはなりません。そのことによって、「死んだら終わり」ではない、と気づかされます。主イエスはご自分の死の直前に、「世の終わり」について語ることを通して、私たちが自分の死の先にある、主イエスの十字架と復活によって約束されている「世の終わり」の救いの完成に目を向けるよう告げておられるのです。
神の言葉は滅びない
主イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われます。この世は必ず終わり、天地は滅びるけれど、主イエスのお言葉は、つまり神の言葉は決して滅びません。主イエスの十字架と復活によって実現した救いが、主イエスが再び来られる世の終わりに完成することを告げる神の言葉は、世の終わりに滅びることなく実現するのです。復活と永遠の命の約束のみ言葉は私たちの死を超えて、世の終わりを超えて、滅びることなく生き続けるのです。共に読まれた詩編119編89節には、「主よ、とこしえに 御言葉は天に確立しています」とあります。私たちは滅びることのない神の言葉、とこしえに天に確立している神の言葉に聞き続けます。そのことによって死によって失われない希望を、世の終わりを超えて失われない希望を与えられ、不条理な苦しみの現実の中にあっても、絶望することなく生きていくことができるのです。
突然に、しかし思いも寄らないことでなく
私たちには世の終わりがいつ来るのかは分かりません。だから34節で主イエスは私たちに「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」と言われます。「その日」とは、主イエスが再び来てくださる世の終わりです。この主イエスのお言葉は、心が鈍くならなければ、世の終わりが不意にやって来ることはない、突然やって来ることはない、と言っているようにも思えます。しかしこれまで見てきたように私たちには世の終わりがいつ来るのかは分からないのであり、それは、世の終わりが突然やって来るということにほかなりません。ですから心が鈍くなっても、ならなくても、世の終わりは突然やって来ます。ここで主イエスが強調されているのは、心が鈍くなれば世の終わりが突然やって来るということではなく、「罠のように」やって来るということです。「罠のように」というのは、「予期していないこと」、「思いも寄らないこと」を意味しているのでしょう。世の終わりは突然やって来るけれど、心が鈍って、世の終わりに備えて生きていないならば、それは、「思いも寄らないこと」としてやって来る、と言われているのです。さらに35節では「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」と言われています。それは、世の終わりが地上のすべての人に同時に到来する、ということです。突然に、またすべての人に同時に到来する世の終わりが、私たちにとって「思いも寄らないこと」にならないために、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と言われているのです。
心が鈍くなる
「放縦」は、酒で酔っ払った結果、頭が機能しなくなる状況を意味する言葉です。そのため聖書協会共同訳では「二日酔い」と訳されています。その原因となるのが「深酒」ですが、いずれも比喩的に使われていて、酒に限らず、この世の色々な魅力に心を奪われ、それに酔いしれることが見つめられています。その背後には「生活の思い煩い」があります。私たちが二日酔いになるほど酒を飲むのは、しばしば「生活の思い煩い」を、「人生の思い煩い」を忘れたいからではないでしょうか。日々の歩みの中で多くの思い煩いを抱え、それから逃れようとして、それを忘れようとして、この世の色々な魅力に心を奪われることによって、私たちの心は鈍くなり、「世の終わり」に目を向けなくなるのです。「世の終わり」の救いの完成よりも、今の楽しみや喜びばかりに、あるいは苦しみや悲しみばかりに目を向けているからです。心が鈍くなることによって私たちは、いつ来るのか分からなくても、必ず来る世の終わりを意識して生きることから、その近さを意識して生きることから離れてしまうのです。
いつも神との交わりに生きる
36節で主イエスはこのように言われています。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。「起ころうとしているこれらすべてのこと」とは、これまで語られてきた様々な困難のことです。これらの困難から逃れるとは、困難を免れることではありません。私たちは世の終わりに至るまで、これらの困難に直面する、と語られてきたからです。ですから困難から逃れるとは、それを免れることではなく、それに耐え抜くことではないでしょうか。ここでも19節の「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」が見つめられているのです。困難に直面する中で忍耐して生きるために、心が鈍くなることなく生きるために、主イエスは私たちに、「いつも目を覚まして祈りなさい」と言われます。それはもちろん徹夜しなさい、ということではありません。いつも目を覚ますとは、いつも祈ることであり、要するにいつも神様と対話して、神様との交わりに生きることです。そのように生きることによって、困難の中にある私たちに忍耐が与えられ、人生の煩いを抱えている私たちに鈍らない心が与えられていくのです。
み言葉に聞き、目を覚まして祈る
私たちは困難の中にあっても、人生の煩いを抱えているときも、滅びることのない、とこしえに天に確立している神の言葉に聞き続け、いつも目を覚まして祈り、神様と対話し、神様との交わりをもって生きていきます。そのように生きるとき、私たちは世の終わりの救いの完成に、神の国の完成にしっかり目を向けて生きることができるのです。その歩みに、「死んだら終わり」ではない、自分の死を超えた世の終わりの復活と永遠の命の希望が与えられます。この世の色々な魅力によってではなく、自分の力や頑張りによってでもなく、この希望によって私たちは、困難なときも思い煩うときも、忍耐して、心を鈍らせることなく生きていくのです。