夕礼拝

神に献げて生きる

説 教 「神に献げて生きる」副牧師 川嶋章弘
旧 約 列王記上第17章8-16節
新 約 ルカによる福音書第20章45節-21章4節

弟子たちに言われた
 前回、主イエスが「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と問われた箇所を読みました。この問いかけは、基本的には律法学者や祭司長たち、つまりユダヤ教の宗教指導者たちに向けられたものでした。しかし前回お話ししたように、主イエスがこのことを問いかけたとき、主イエスの周りには民衆や主イエスの弟子たちもいました。このことが前回の箇所に続く本日の箇所の冒頭45節からも分かります。このように言われています。「民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた」。民衆や弟子たちもそこにいて、主イエスの問いかけを聞いていたのです。そして問いかけを終えられた主イエスは、本日の箇所で弟子たちに向かって話し始められました。前回の箇所の冒頭41節には、「イエスは彼らに言われた」とあり、主イエスが問いかけた相手は「彼ら」と言われていてはっきりしませんでした。だからこそ主イエスが宗教指導者たちだけでなく民衆や弟子たちにも問いかけた、と受けとめたのす。それに対して本日の箇所の冒頭では、「イエスは弟子たちに言われた」とあり、主イエスが語りかけた相手は、はっきりと「弟子たち」と言われています。もちろん主イエスの周りから宗教指導者たちや民衆がいなくなったわけではないでしょう。しかし主イエスは大勢の人たちがいる中で、主イエスに敵対する宗教指導者たちや、主イエスに勝手な期待をする民衆がいる中で、弟子たちだけに語りかけたのです。

主イエスの弟子とは
 この主イエスの弟子たちとは、十二人の弟子を中心として、主イエスの地上のご生涯において、主イエスに従った者たちを指しています。しかしそれだけではありません。主イエスの弟子とはあらゆる時代において主イエスを信じ、主イエスに従って生きる者たちのことであり、すなわちすべてのキリスト者のことであり、つまり私たちのことです。主イエスはここですべてのキリスト者に、私たちに語りかけているのです。さらに言えば、まだキリスト者となっていなくても、主イエスの弟子として生きたいと考えている者たち、あるいは主イエスの弟子として生きることに関心を持っている者たちにも、主イエスは語りかけている、と言って良いと思います。要するに今この礼拝堂に集っているすべての方々に向かって、主イエスは語りかけているのです。今このときも、この教会の周辺、関内やみなとみらいでは色々なイベントが行われていて、そこには多くの人たちが集っています。その中にあって、主イエスは神様によってこの礼拝に招かれた私たちに語りかけてくださいます。主イエスの弟子として生きようとする私たちに、この世の中で当たり前とされている生き方とは違う、主イエスの弟子としての生き方を語ってくださるのです。

一連の流れの中にある二つの話
 さて本日の箇所は、20章45節から21章4節までで、20章45節から47節までと、21章1節から4節までの二つの話に分けられます。しかしこの二つの話はばらばらに読むのではなく、続けて読むことによって、主イエスが弟子たちに示されたことを受けとめることができます。ルカによる福音書の土台となったマルコ福音書では、この二つの話は章をまたぐことなく続いていますし、そもそも章や節は便宜上付けられたものに過ぎません。なによりもルカ福音書そのものが、この二つの話をひと続きの出来事として語っています。そのことが21章1節の「イエスは目を上げて」から分かります。20章45節以下で、当時のユダヤの教師がそうであったように、主イエスはおそらく腰を掛けて座って弟子たちに話しておられました。その話が終わると、主イエスはふと「目を上げ」られたのです。そして目線を上げてご覧になった出来事について、さらに話を続けられたのです。このように本日の箇所の二つの話は一連の流れの中にあり、続けて読むことを私たちに求めています。そして続けて読むことによってこそ、この箇所で見つめられている主イエスの弟子としての生き方が示されていくのです。

律法学者に気をつけなさい
 主イエスはまず弟子たちに、「律法学者に気をつけなさい」と言われました。「律法学者に気をつけなさい」とは、律法学者を警戒しなさいということではなく、律法学者のようになってはならない、ということです。主イエスは弟子たちに、律法学者のようになるな、と警告しているのです。この警告に続けて主イエスは、律法学者の具体的な六つの振る舞いについて語っています。まず律法学者は「長い衣をまとって歩き回りたが」る、と言われています。長い衣は律法学者が着る服で、彼らのステータスシンボルでした。それを着て歩き回りたがっているということは、自分が律法学者であることを世間の人々に見せびらかしたい、ということにほかなりません。自分が長い衣を着ているのを見た人たちから、「あの人は立派な律法学者さんだ」と思われたり、言われたりするのを期待していたのです。また主イエスは律法学者が「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」と言われています。律法学者は自分から挨拶するよりも、広場にいる人たちから挨拶されることを好んだのです。それは、彼らが自分を敬い、特別扱いしてくれる人々を求めたということです。そのような思いがあるから、「会堂では上席、宴会では上座に座ること」をも好みました。神様を礼拝する会堂においても、隣人と交わりを持つ宴会においても、彼らは自分が敬われ、特別扱いされることを求めたのです。さらに主イエスは律法学者が「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」とも言われています。「やもめ」とは、夫と死別した女性のことです。古代の社会においては現代とは比べものにならないほど、やもめの立場は脆弱であり、やもめが生きていくのは困難を極めました。だからこそ旧約聖書は、イスラエルの人たちの共同体がやもめ(寡婦)を保護するよう命じているのです。主イエスは、律法学者が保護すべきやもめの家を食い物にしていると言われます。それが具体的に何を意味しているのかはっきりとしませんが、本来、率先してやもめを保護すべき律法学者が、自分の社会的地位を利用し、やもめの弱みにつけ込み、むしろやもめを食い物にしていたということでしょう。また律法学者は「見せかけの長い祈り」をしました。「見せかけの長い祈りをする」とは、神様を見つめて、神様に向かって祈るのではなく、周りの人たちの視線を意識して祈るということです。律法学者は長く祈ることによって周りの人たちに自分の信心深さ、自分の敬虔さをアッピールしたのです。

自分とほかの人を比べる
 このように律法学者は、神様を見つめて生きるのではなく、ほかの人の目を気にして生きていました。ほかの人が自分をどう扱うか、自分に対してどう思うかを気にして生きていたのです。人から敬われ、特別扱いされることを求め、人からの名声、誉れを得ようとしていたのです。そのように生きるとき、彼らは自分とほかの人を比べて生きています。自分とほかの人を比べて、自分のほうがより高い地位、立場にいることを好むから、広場で挨拶されることを、会堂では上席に、宴会では上座に座ることを好むのです。ほかの人よりも自分のほうが敬虔であることをアッピールするために、見せかけの長い祈りをするのです。それでいて自分の利益のためには自分の社会的地位を利用し、やもめの弱みにつけ込んでも構わない、と思っているのです。

この世の当たり前の生き方
 主イエスは弟子たちに、そして私たちにこのようになってはならない、このように生きてはならない、と言われます。そのように言われても、私たちの多くは自分が律法学者のように生きているとは思っていません。広場で挨拶されたいとは思わないし、礼拝堂でも前の席ではなく後ろや端の席に、交わりの場でも上座ではなく末席に座りたいと思っている、そのように思うのです。しかしそのように思っている理由が、人の目を気にしているからなのであれば、私たちは結局、律法学者と本質的に変わりありません。ほかの人が自分をどう扱い、どう思うかを気にして、目立たないようにしているに過ぎないのです。ほかの人からどう見られるかを気にして振る舞うのであれば、「見せかけの長い祈り」をする律法学者と、私たちは同じなのです。そしてほかの人の目を気にして生きるとき、私たちも自分とほかの人を比べて生きています。通っている学校や勤め先、あるいは住んでいる場所、持っているもの、そういったことを比較して生きているのです。そのような生き方は決して珍しいものではなく、むしろこの世の中では当たり前とされている生き方です。自分とほかの人を比べて、より人からの名声や誉れを得ようとする律法学者の生き方は、私たちの社会でも当たり前の生き方であり、推奨されている生き方ですらあるのです。しかしその結果、何が起こっているのでしょうか。私たちはとっても生きづらくなっているのではないでしょうか。いつも人の目を気にして、いつも人と比べて生きるのは、とてもしんどく、苦しいことです。人と比べて優越感に浸ったかと思えば、たちまち劣等感に苛まれることがあり、不安な日々を過ごさなければなりません。それだけでなく、ほかの人と比べてばかりいると、やもめの弱みにつけ込んで利益を得ようとした律法学者のように、相手を利用して、自分が利益を得ることを考えるようになるのです。このようにこの世の当たり前の生き方は、律法学者の生き方とそう変わりません。だからこそ私たちは、主イエスの「律法学者のようになるな」という警告を、自分たちに向けられた警告として聞くのです。しかしそれならば、私たちはどのように生きたら良いのだろうかと思います。その私たちに、主イエスは21章1節以下で、律法学者の生き方、この世の当たり前の生き方とはまったく違う生き方を示されるのです。

だれよりもたくさん入れた
 主イエスは弟子たちに律法学者のようになってはならない、と話された後で、目を上げて、「金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを」ご覧になりました。また「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを」ご覧になりました。レプトン銅貨は、聖書の後ろにある付録の「度量衡および通貨」を見ると、「最小の銅貨で、1デナリオンの128分の1」とあります。1デナリオンは一日の賃金に当たりますから、レプトン銅貨二枚は、一日の賃金の64分の1になります。仮に一日の賃金が1万円であれば、その64分の1はおおよそ160円ですから、私たちの感覚からすれば僅かな金額です。ルカ福音書は、金持ちたちがどれだけ献金をささげたかを記していません。しかしルカ福音書の土台となったマルコ福音書は、「大勢の金持ちがたくさん入れていた」と記しています。金持ちたちは多額の献金をささげたのに対して、やもめは僅かな金額の献金をささげたのです。ところがそれをご覧になった主イエスはこのように言われました。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。私たちの感覚からすれば、つまり人の目からすれば、たくさん入れたのは金持ちであって、やもめは僅かしか入れなかったことになります。別の言い方をすれば、あの律法学者のようにほかの人と比べて生きているならば、たくさん献金をささげたのは金持ちであって、やもめではありません。しかし主イエスは「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言われます。ここにほかの人と比べる生き方とは、まったく違う生き方が見つめられているのです。

金持ちたちの献金
 主イエスはそのように言われた理由をこのように説明しています。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。金持ちたちの献金について、主イエスは「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金した」と言われています。ここでは20章45~47節とは違って、律法学者ではなく金持ちが登場していますが、しかしこれまで見てきた律法学者の生き方が金持ちの生き方に重ね合わせられている、と言えるでしょう。マルコ福音書に記され、ルカ福音書が前提にしているように、金持ちたちは多額の献金をささげました。しかしそれは、律法学者がそうであったように、ほかの人の目を気にして、ほかの人と比べて、そのようにしたのではないでしょうか。律法学者が見せかけの長い祈りをしたように、金持ちたちもほかの人より多くの献金をささげることで、周りの人たちに自分の信心深さや敬虔さをアッピールしようとしたのです。律法学者が長い衣をまとって歩き回りたがったように、彼らも多くの献金をささげることで周りの人たちからの名声や誉れを得ようとしたのです。しかし主イエスはこのような金持ちたちの献金を喜ばれませんでした。彼らが神様を見つめて献金をささげたのではなく、人の目を気にして、人と比べて献金をささげたからです。ほかの人と比べてこれぐらい献げれば良いだろう、これぐらい献げれば自分の信仰深さを示せるだろうと思っていたからです。しかも彼らは「有り余る中から献金した」に過ぎません。それは、ほかの人と比べれば多額の献金であったとしても、献金をささげたからといって、この金持ちたちの生活にはなんの影響もなかった、ということにほかなりません。彼らは人の目には多額の献金をささげても、これまでとなんら変わらない生活をすることができました。自分の買いたいものを買い、食べたいものを食べ、行きたいところに行って、それでも余っているから、それを献金したに過ぎないのです。金持ちたちの献金は、神様ではなくほかの人を見て、ほかの人と比べてささげられた献金であり、自分の生活になんの影響も及ぼさないような献金であったのです。

やもめの献金
 それに対して主イエスは、やもめの献金についてこのように言われています。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」。このやもめは貧しいやもめであった、と言われています。すでにお話ししたように、当時のやもめは社会的に弱い立場にあり、生活に大きな困難が伴いました。貧しさに苦しんでいる人も少なくなかったのです。しかしこのやもめは困難な生活の中で、貧しさの中で、「持っている生活費を全部」献金しました。この献金は人の目を気にしたり、人と比べたりしてささげられたのではありません。もしそうであれば、人の目には僅かな金額でしかないレプトン銅貨二枚をささげることはできなかったはずです。周りの人からどう見られるかを心配して、あるいは周りの人と比べて僅かでしかないことに負い目を感じてささげられなかったに違いないのです。しかしこのやもめは人の目を気にすることなく、人と比べることもなく、ただ神様だけを見つめてささげました。神様だけを見つめて、「乏しい中から持っている生活費を全部」ささげたのです。このやもめの献金を主イエスは喜んでくださり、「だれよりもたくさん入れた」と言われたのです。

金額ではなく割合なのか?
 しかしそうであるなら、献金で大切なのはささげる額ではなく、ささげる割合だと言われているように思えるかもしれません。どれだけの額をささげたかではなく、自分が持っているお金の中で、どれだけの割合のお金をささげたかが問われているように思えるのです。金持ちたちは多額の献金をささげても、持っていたお金に比べれば僅かな額しかささげなかったのに対して、やもめは少額の献金であっても、持っていたお金のすべてをささげました。つまりやもめのほうが金持ちたちと比べて、自分の持っているお金の中で大きい割合の献金をささげたのです。主イエスはそのことを評価して、やもめに対して、「だれよりもたくさん入れた」と言われた、そのように考えてしまうのです。しかしそれは間違っています。もしそうであれば、結局、人と比べて献金をささげていることになります。ささげる額の代わりに、ささげる割合で比べているだけです。それでは人の目を気にして、人と比べてささげる献金であることに変わりはないのです。

神に献げて生きる
 このやもめは、自分が持っているお金に対してどれぐらいの割合の献金をささげたら良いだろうかと考えていたのではありません。そんなことはまったく気にしていなかったのです。「持っている生活費を全部入れた」というのは、ささげる割合について見つめているのではありません。「生活費」と訳された言葉は、もともと「生活」とか「命」を意味する言葉です。つまり「持っている生活費を全部入れる」というのは、金額の問題でも割合の問題でもなく、自分の生活のすべてを、自分の命を神様に献げて生きることを見つめているのです。献金というのは、神様に自分の生活のすべてを献げて生きることの「しるし」です。だから献金は「献身のしるし」と言われるのです。このやもめの献金において見つめられているのは、自分の生活のすべてを神様に献げて、神様に委ねて生きることであり、そのように生きることこそ、主イエスは弟子たちに、そして私たちに願っておられるのです。自分の生活全体を神様に献げ、神様に委ねる生き方は、金持ちたちや律法学者の生き方とは、そしてこの世の中の当たり前の生き方とは、まったく違う生き方です。人の目を気にするのでも、人と比べるのでもなく、ただ神様だけを見つめ、神様が自分の人生を導いてくださることに信頼して生きるのです。この生き方は、共に読まれた旧約聖書列王記上17章8節以下のエリヤとサレプタのやもめの物語でも示されています。干ばつが起こり、やもめとその息子は、壷の中にある一握りの小麦粉と瓶の中にあるわずかな油で作った食べ物を食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりでした。しかしこのやもめは、エリヤの言葉に従って、その小麦粉と油でまずエリヤのために小さいパン菓子を作り、その後で、自分と息子のために作ることにしたのです。その日を生きるために必要な食べ物をエリヤに渡すことは、自分の命を神様に委ねて、神様に献げて生きることの象徴です。この物語は、そのように神様に自分の命と生活のすべてを献げて、委ねて生きる者を、神様が養ってくださることを見つめているのです。

人と比べて生きることからの解放
 金持ちたちは多額の献金をしても自分たちの生活になんら影響がありませんでした。しかしやもめのように生活費を全部ささげれば、つまり自分の生活全体を神様に献げ、また委ねるならば、それまでの生活と同じ生活はできません。それまでと同じように、自分の買いたいものを買い、食べたいものを食べ、行きたいところに行く生活はできなくなります。自分の好きなように、思い通りに生きることはできなくなるのです。それは窮屈で不自由なことなのでしょうか。そうではありません。むしろ本当の解放と自由をもたらすのです。そのように生きることに、金持ちや律法学者の生き方とはまったく違う、この世の当たり前の生き方とはまったく違う生き方があるのです。私たちは神様だけを見つめ、神様に献げて生きることによってこそ、自分とほかの人を比べて、優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりして疲れ切ってしまう人生から解放されます。いつも人の目を気にして、いつも人と比べて生きる苦しい日々から解放されるのです。私たちが見つめて生きる神様は、私たちが自分の生活全体を献げ、委ねる神様は、得体の知れない神様ではありません。私たちのために独り子イエス・キリストを十字架に架けるほどに私たちを大切にしてくださり、どこまでも愛してくださる神様です。だから私たちは安心して神様に献げて、委ねて生きることができます。私たちは、私たち以上に私たちを大切にしてくださり、愛してくださっている神様に、私たちをいつも恵みによって導いてくださる神様に、自分の生活全体を献げて、委ねて生きるのです。そのように生きることによってこそ、私たちは人の目を気にしたり、人と比べたりすることから解放されて、本当の平安、安心を与えられて生きることができるのです。この主イエスの弟子としての生き方に、神様に献げて生きる生き方に、主イエスは私たち一人ひとりを招いておられるのです。

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