夕礼拝

罪人の私を憐れんでください

説教題「罪人の私を憐れんでください」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第51編1-14節
新約聖書 ルカによる福音書第18章9-14節

自分自身に信頼している者に対して
 ルカによる福音書を読み進め、先週から18章に入りました。先週の箇所1~8節で主イエスは、弟子たちに「不正な裁判官とやもめ」の譬えをお語りになりました。続く本日の箇所でも主イエスは譬えを語っていますが、誰にこの譬えを語っているのでしょうか。冒頭9節にこのようにあります。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」。本日の箇所で主イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」、譬えを語っているのです。
 そのように言われると私たちは、主イエスが私たちに語りかけてくださっているようには思えないのではないでしょうか。自分は正しい人間だとうぬぼれているわけではないし、他人を見下してもいない、と私たちは思っているからです。そのように思うのは、新共同訳が「うぬぼれて」と訳しているからかもしれません。「うぬぼれて」という訳は意訳で、直訳すれば「自分自身に信頼して」となります。つまりここで見つめられているのは、うぬぼれているかどうかではなく、自分は正しい人間だと自分自身に信頼しているかどうかなのです。主イエスは、自分自身に、自分の正しさに信頼している者に対して、この譬えをお語りになったのです。そうであるならば主イエスの譬えは私たちと無関係ではありえません。私たちもしばしば自分自身に、自分の正しさや力に頼ってしまう者だからです。そしてそのように自分の正しさに頼るとき、私たちは意識的にせよ、そうでないにせよ、ほかの人を見下してしまっているのです。ですから私たちは、主イエスがほかならぬ私たちに語ってくださっていることとして、この譬えを聞いていきたいし、聞かなくてはならないのです。

ファリサイ派と徴税人
 主イエスの譬えはこのように始まっています。10節です。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」。これが主イエスの譬えの設定です。まず「二人の人が祈るために神殿に上った」と言われていますが、「祈るため」と言われているのが大切です。当時、ユダヤ人は神殿に神様がいると考えていました。ですから二人は神様の前で、神様に祈り、神様に語りかけるために神殿に上ったのです。その二人の内の一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派は律法を厳格に守ることに熱心な人たちで、彼ら自身が自分たちは信仰に篤いと思っていましたし、周りの人たちもそのように思っていました。それに対して徴税人は、ほかのユダヤ人からは罪人の筆頭のように思われていました。その理由の一つは、彼らが仕事で異邦人に関わらなければならなかったからです。律法によれば異邦人は汚れた者であり、その異邦人と関わる徴税人もまた汚れている、と見なされたのです。もう一つの理由は、徴税人がローマ帝国の手先として同胞であるユダヤ人から税金を集めていたからです。中には、定められいてるよりも多くの税を集めて自分の懐に入れていた徴税人もいたようです。ユダヤを支配するローマ帝国のために働き、自分の同胞からお金を取る徴税人は、ほかのユダヤ人から嫌われ、罪人の最たるものと見なされていたのです。

ファリサイ派の祈り
 このように対照的なファリサイ派の人と徴税人ですが、その祈りも対照的でした。ファリサイ派の人の祈りが11節でこのように言われています。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。私たちは座って祈ることが多いかもしれませんが、ユダヤ人は立って祈るのが普通でした。13節にあるように徴税人も「遠くに立って」祈っています。このファリサイ派の人は、まず自分が「ほかの人たちのよう」でないことに感謝して祈っています。自分が奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でないことに、なにより今、離れたところで祈っているあの徴税人のような罪人でないことに感謝しているのです。この人は嘘を言っているのでも誇張して言っているのでもありませんが、この祈りにはファリサイ派らしさが表れています。「ファリサイ派」の語源は、はっきりしませんが、しばしば「自分と人を分け隔てる」という意味の名前だと言われます。この祈りでも自分が「ほかの人たちのよう」ではないことに、律法に違反して生きているほかの人たちとは分け隔てられていることに感謝しているのです。
 続けてこの人は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈っています。律法では、年に一度断食するよう定められていただけでしたから、「週に二度断食し」ているとは、律法の定めよりもはるかに多く断食していることになります。また律法では、農作物の収穫と家畜の増産分の十分の一を献げるよう定められていただけでしたから、「全収入の十分の一を献げている」というのも、律法の定めよりもはるかに多く献げていることになります。このようにファリサイ派の人は、自分が律法で求められている以上のことをしている、と言っているのです。もちろん週に二度断食することそれ自体が、あるいは全収入の十分の一を献げることそれ自体が間違っているわけではありません。神様の救いの恵みに感謝して、律法で求められている以上のことをしたのであれば、神様はそれを喜んでくださったに違いないのです。しかしファリサイ派の人は、そうではなかったのではないでしょうか。

自分自身に向かって語りかける
 この人の祈りについて11節冒頭で「心の中でこのように祈った」と言われています。「心の中で」と訳されていますが、直訳すれば「自分自身に対して」となります。ユダヤ人は通常、声に出して祈りました。そのことを考えれば、「自分自身に対して」祈るとは、声を出さないで祈ることであるという理解から、新共同訳は「心の中で祈った」と訳したのだと思います。しかしこの「自分自身に対して」は、このファリサイ派の人が神様に向かって語りかけているのではなく、自分自身に向かって語りかけていることを意味しているのではないでしょうか。そうであれば、この人の祈りはそもそも祈りになっていなかった、ということです。神様の前で、神様に祈り、神様に語りかけるために神殿に上ったにもかかわらず、この人は神様ではなく自分自身に向かって語っているに過ぎないのです。この人は神様を見るのではなく自分自身を見ています。しかもほかの人たちを見ることによって自分自身を見ているのです。「ほかの人たちのよう」ではないことへの感謝において、まさにこの人はほかの人を見ることで自分自身を見ています。あの人は奪い取る者、あの人は不正な者、あの人は姦通を犯す者、そしてこの人は徴税人、しかし自分はそのどれでもない、という仕方で自分自身を見ているのです。それは、自分とほかの人たちを比べて自分自身を見ている、ということにほかなりません。この人が律法で求められている以上のことをしていたのも、神様の救いの恵みに感謝しているからではなく、自分とほかの人を比べているからです。律法で求められている以上のことをすることで、この人は「ほかの人たちのよう」ではない自分を見つめています。ほかの人たちよりもより多く断食し、より多く献げものをしている自分を見つめているのです。このようにこの人は神様ではなく自分自身を見つめ、自分自身に向かって語っています。それはもはや神様との対話ではなく、独り言に過ぎません。神殿で神様の前に進み出ていても、そこで独り言を呟いているに過ぎないのです。
 それは別の言い方をすれば、このファリサイ派の人が本当は神様を必要としていない、ということです。主イエスはこの譬えを「自分は正しい人間だとうぬぼれている人々」、つまり「自分は正しい人間だと自分自身に信頼している人々」に対して語りました。自分自身に、自分の正しさや力に信頼して生きるとは、神様なしに生きること、神様を必要とせずに生きることにほかなりません。神様なしに生き、神様を必要とせずに生きる人は、このファリサイ派の人がそうであるように、自分自身ばかりを見て生きるようになります。自分とほかの人を比べて、ほかの人より優れている自分を見つめ、自分より劣っているほかの人を見下して生きるようになるのです。

ほかの人と比べて自分を見る
 このことは私たちにも起こることです。私たちも礼拝に来て、神様の前に進み出ます。しかしそこで私たちも神様を見るのではなく、自分自身を見ていることがあるのではないでしょうか。自分自身を、自分の正しさや力や行いを頼みとして、ほかの人と比べて自分を見てしまうのです。私たちはこのファリサイ派の人のような祈りはしないかもしれません。しかし逆転した形で、ほかの人と比べて自分を見ているだけの祈りをすることがあります。たとえばこのように祈るかもしれません。「私はファリサイ派の人とは違い、自分が罪人であり、律法を完全に守れない者であることを知っています。そのことを知らないファリサイ派の人や、ほかの人たちよりもましであることに感謝します」。自分が正しい人間ではなく罪人であると認めている祈りのように思えるかもしれません。しかし結局、このように祈るなら、私たちは自分とほかの人たちを比べて、その人たちとは違い罪人であると気づけている自分を見つめているだけなのです。あるいは自分の苦しみよりも大きな苦しみを味わっている人がたくさんいるのだから、自分の苦しみを神様に伝えるのは申し訳ない、と考えることがあるかもしれません。しかしそのように考えるなら、やはりほかの人たちと比べて、その人たちよりも苦しみが小さい自分を見つめているだけなのです。

徴税人の祈り
 このファリサイ派の人と対照的な徴税人の祈りが13節でこのように語られいています。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。ファリサイ派の人も徴税人もおそらく神殿の境内の庭、イスラエルの男性が入れる庭にいたのだと思います。ただ徴税人はファリサイ派の人から遠く離れたところにいたのです。目を天に上げ、天を仰いで祈るのもユダヤ人の普通の祈りの姿勢です。しかし徴税人は目をさえ天に上げようとしませんでした。自分は神様に目を向けることができないと分かっていたからです。その意味でこの徴税人は、祈ることすらできなかったのです。「胸を打ちながら」とは、激しい悲しみや嘆きを表すジェスチャーです。この徴税人は祈ることすらできない悲しみに打ちひしがれていたのです。ファリサイ派の人は神殿の近くまで行き、天を仰いで、先ほどの祈りを朗々と祈ったに違いありません。それに対して徴税人は、遠く離れたところで、目をさえ天に上げようとせず、祈ることすらできない悲しみに打ちひしがれて、胸を打ちながらただ一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言ったのです。

罪人の私を憐れんでください
 この「憐れんでください」は、17章13節で語られていた、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」という重い皮膚病を患っている十人の叫びと重なるように思えるかもしれません。しかし原文では、徴税人の「憐れんでください」は、この十人の「憐れんでください」と同じ言葉ではありません。口語訳では、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と訳されていましたが、この訳のほうが良いと思います。新約聖書でこの言葉が使われているのは二箇所だけで、もう一つの箇所では、「償う」と訳されていますし、この言葉からできた名詞は「罪を償う供え物」(ローマの信徒への手紙3章25節)と訳されているからです。つまり徴税人は、「神様、罪人である私の罪を償い、お赦しください」と言っているのです。漠然と「私を憐れんでください」、と言っているのではなく、具体的に「私の罪を償い、お赦しください」と言っているのです。

神だけを見て
 ここで徴税人は、ほかの人のことを一切、見ていません。ただ神様の前に立ち、しかし罪人である自分が神様の前に立ち得ないと分かっているから、顔を伏せ、胸を打ちながら、「私の罪をお赦しください」と言うしかなかったのです。徴税人はほかの人と比べて自分が律法を守れていないから、自分は罪人だと言っているのではありません。あるいは周りのユダヤ人が思っていたように、仕事で異邦人と接し、同胞から税金を集めているから自分は罪人だと言っているのでもありません。ただ神様との関係において、神様に背いて生きているから、自分は罪人だと言っているのです。徴税人とファリサイ派の人との決定的な違いは、神様だけを見ているのか、それとも自分自身とほかの人たちを見ているのかです。徴税人は神様だけと向き合い、ただ神様に自分の罪の赦しを求めました。それに対してファリサイ派の人は、自分とほかの人たちを比べて、ほかの人たちのようではない自分を見つめていたのです。
 共に読まれた旧約聖書詩編51編3節以下でも詩人は、ただ神様だけを見つめて、その神様に罪の赦しを求めています。「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」。この詩人もほかの人を一切、見ていません。ほかの人と比べて自分を見ようとしていません。ただ神様だけと向き合い、自分の罪を赦してください、と祈り求めているのです。

自分自身を低くする
 14節で主イエスはこのように言っています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。「義とされる」とは、義と認められる、正しいと認められるということです。神様との関係において正しいと認められたのは、あのファリサイ派の人ではなく徴税人であったのです。このことはこの譬えを聞いていた人たちにとって大きな驚きであったに違いありません。ファリサイ派の人たちこそ信仰に篤い、正しい者であり、徴税人は罪人の最たる者だと思っていたからです。それなのになぜファリサイ派ではなく徴税人が正しいと認められたのでしょうか。続けて主イエスはこのように言っています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。直訳すれば、「誰でも自分自身を高くする者は低くされ、自分自身を低くする者は高められる」となります。ファリサイ派の人は自分自身を高くする者であり、徴税人は自分自身を低くする者であり、そして自分自身を低くした徴税人が神様によって義とされ、高くされた、と言われているのです。けれども私たちは勘違いしてはいけません。ここで主イエスは、自分自身を高くするよりは、低くしたほうが、後で大きな報いが与えられる、と言われているのではありません。ファリサイ派の人のように、神様の前で自分の善い行いを数え上げるようなことはやめて、神様の前では謙遜に控え目にしていたほうが良い、と言われているのではないのです。先ほどの「私はファリサイ派の人とは違い、自分が罪人であり、律法を完全に守れない者であることを知っています。そのことを知らないファリサイ派の人や、ほかの人たちよりもましであることに感謝します」という祈りは、神様の前で謙遜に控え目にしているように思えます。しかし主イエスが言われる自分自身を低くするとは、このように自分とほかの人を比べて、自分を低くすることではありません。そうではなく徴税人がそうであったように、ほかの人を一切、見ることなく、ただ神様だけを見て、神様の前にへりくだることなのです。たとえ一見、神様の前で自分を低くしているように見えても、自分とほかの人を比べているのであれば、神様の前で自分を本当に低くしているとは言えないのです。徴税人は神様の前に立ち、神様とだけ向き合い、自分が神様の前に立ち得ない罪人であるゆえに、ただ「神様、罪人の私をお赦しください」と祈ったのです。祈るしかなかったのです。この徴税人の姿こそ、神様の前で自分自身を低くすることにほかならないのです。

神との関係において自分を見つめる
 ですからこの譬えは、私たちが神様との関係において自分を見つめることを求めています。神様との関係において自分を正しく評価するよう求めているのです。ほかの人と比べて自分を見つめ、自分を評価するのではありません。あのファリサイ派の人は、ほかの人と比べて自分を高く評価しました。一方、私たちの社会では、むしろほかの人と比べて自分を低く評価することのほうが問題になっているように思います。自己肯定感が低いことが問題である、と言われたりもします。しかしほかの人と比べている限り、自分を高く評価することも低く評価することも表裏一体であり、そこに違いはないのです。私たちがすべきことは、ほかの人と比べて自分を評価するのをやめて、神様の前に立ち、ただ神様だけと向き合うことです。神様の前で、自分が赦してもらうほかない罪人である、と自分を正しく評価し、ただ罪の赦しを求めることなのです。

キリストの十字架によって私たちの罪が償われた
 そのように神様の前で、「罪人の私をお赦しください」、「私の罪を償い、お赦しください」と祈る私たちのために、神様は独り子イエス・キリストを十字架に架けて、私たちの罪の償いとしてくださいました。私たちは誰一人として自分の罪を自分で償うことはできません。罪人である私たちは、自分の力で自分の罪を償い、神様との正しい関係を取り戻すことはできないのです。このことは、あのファリサイ派の人も徴税人もなんら変わりありません。ただファリサイ派の人はこのことに気づくことができず、徴税人は気づくことができたのです。主イエス・キリストこそ、私たちの「罪を償う供え物」として十字架で死んでくださり、私たちの罪を赦してくださいました。私たちはこの罪の赦しに与ることによって義とされ、神様との正しい関係に入れられているのです。そしてキリストの十字架の死による罪の赦しに与って生きる中でこそ、そこに示されている神様の愛を受けて生きる中でこそ、私たちはほかの人と比べて自分を高く評価することからも低く評価することからも自由になります。神様が恵みによって私たちに「大いなる肯定」を与えてくださっていると気づくことによってこそ、私たちはほかの人と比べて自分を低く評価することから解放されるのです。自己肯定感ではなく、つまり自分が自分を肯定できるかどうかではなく、神様が自分を肯定してくださっていることに目を向けるようになるのです。
 今、私たちは、主イエス・キリストが私たちの「罪を償う供え物」として十字架で死なれ、私たちの罪を赦してくださったことを覚える、レント(受難節)を歩んでいます。このレントに私たちは神様の前に立ち、ただ神様だけと向き合い、自分が神様の前に立ち得ない罪人であることを深く知らされ、「神様、罪人の私を憐れんでください」、「罪人の私をお赦しください」とひたすら祈りつつ歩んでいきたいのです。

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