説教題 「気を落とさずに祈る」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第55編13-24節
新約聖書 ルカによる福音書第18章1-8節
すでに実現し将来完成する神のご支配を信じて
ルカによる福音書を読み進めて、本日から18章に入ります。しかし新しい章に入るからといって、必ずしもそれまでと異なるテーマが始まるというわけではありません。私たちの持っている聖書の章や節は、後から便宜的に付けられたものだからです。本日の箇所も17章20節以下とつながっていて、その文脈の中で読むことが大切です。ですからまず17章20節以下で語られていたことを簡単に振り返っておきます。
21節で主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われていました。神の国とは神のご支配のことです。主イエスがこの地上に来てくださったことにおいて神の国は到来し、その十字架の死と復活によってすでに神のご支配がこの地上に、私たちのただ中に実現しているのです。しかしこの神のご支配は、今、私たちの目に見えるわけではありません。それが明らかになるのは、復活して天におられる主イエスが再び私たちのところに来てくださるときです。そのときのことを主イエスは「人の子が現れるとき」(26節)や「人の子が現れる日」(30節)と言われていました。それは私たちにとって審きのときであり救いの完成のときです。私たちは目には見えなくてもすでに神のご支配が実現し、将来、人の子が現れるときに神のご支配が完成することを信じ、それに備えて生きているのです。
主イエスの昇天後の時代に生きる私たちに向けて
そのように生きる私たちに、本日の箇所で主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」てくださっています。冒頭1節に「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」とあります。17章22節以下と同じように、本日の箇所でも、主イエスは弟子たちに向けて語っています。しかしそれは22節以下がそうであったように、単に目の前にいる弟子たちに語りかけているのではありません。主イエスが十字架で死なれ、復活され、天に上げられた後の時代に、主イエスに会いたいと望んでも会えない時代に、主イエスが再び来てくださる日を一日だけでも見たいと望んでも見られない時代に生きる弟子たちに向かって語りかけているのです。私たちも同じ時代に生きています。主イエスはご自身が天に上げられた後の時代を生きる弟子たちに向けて、そして私たちに向けて「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」ておられるのです。
不正な裁判官
そのために主イエスがお語りになった譬え話が2節以下です。2節で「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」と語られ、まず裁判官が登場します。この裁判官は、裁判官にあるまじき人物です。旧約聖書の歴代誌下19章6~7節に、裁判官とはどのようにあるべきかが語られています。「彼[ヨシャファト]は裁判官に言った。『人のためではなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように。今、主への恐れがあなたたちにあるように。注意深く裁きなさい。わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない』」。裁判官は人のためではなく主のために裁くのだから、不正や偏見や収賄がないよう注意深く裁くよう命じられています。そして公正に裁くためになによりも求められることは「主への恐れ」である、と言われているのです。しかし主イエスの譬え話に登場する裁判官は神様を畏れない裁判官であり、裁判官としてなによりも必要とされる「主への恐れ」を持っていませんでした。6節で「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と言われているように、主イエスはこの裁判官を「不正な裁判官」と呼んでいます。歴代誌下に示されているように、「主への恐れ」がない裁判官の裁きは不正な偏見のある裁き、あるいは賄賂によって判決が変わる裁きとなってもおかしくないのです。
神を畏れて生きる
裁判官だけが神様を畏れることを求められ、主への恐れを持つことを求められているのではありません。私たちすべてのキリスト者が求められています。神様を信じるとは神様を畏れて生きることであり、主への恐れなしに私たちの信仰はないのです。私たちは私たちのすべてを知っておられる神様を畏れて生きています。詩編139編1~4節に「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる」とあります。神様は誰も見ていなくても私たちがすることを見ておられ、誰一人知らなくても私たちの心の中にある色々な企てを知っておられ、私たちが言葉にする前から、あるいは言葉にせずに飲み込んだとしても、私たちの思いを、私たちの妬み、怒り、憎しみ、自分勝手なあらゆる思いを知っておられるのです。私たち以上に私たちを究め、知っておられる神様が、人の子が現れるときに私たちを裁かれます。17章34節以下で語られていたように、神様の審きによって救われる者と滅ぼされる者に分けられるのです。この神様を畏れて生きるとき、私たちは自分自身の行いや思い、自分の語る言葉に注意を払うようになります。確かに私たちは弱さや欠けがあり、しばしば神様に背き、隣人を傷つけ、また隣人を傷つける思いを抱き、言葉を語ってしまいます。しかしそれでも、そのような私たちを知っておられる神様への畏れがあるならば、私たちは少しずつであっても、神様の御心を求めて、御心に従った行いをなし、思いを抱き、言葉を語る者へと導かれていくのです。
人を人とも思わない
逆に私たちが神様を畏れずに生きるとき、私たちは神様がいないかのように生きるようになります。神様の眼差しを気にすることなく、自分勝手に、自己中心的に生きるようになり、自分の欲望を実現するために生きるようになるのです。そしてそのように生きるなら、私たちは「人を人とも思わな」くなるのではないでしょうか。この裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」と言われていました。つまり神を畏れないことと、人を人とも思わないことは別々のことではなく一つのことなのです。私たちが神様を畏れず、自己中心的に、自分の欲望を実現するために生きるとき、私たちは隣人を自分の思い通りにしようとしたり、自分の欲望の実現に利用したりするようになります。人を人とも思わないとは、そういうことです。自分の目の前にいる人、自分の周りにいる人に対して、自分と同じ一人の人間として関わろうとしないのです。そうであれば神様を畏れず人を人とも思わない社会では、裁判官に限らず、多くの人たちが不正を行い、偏見を抱き、賄賂が横行していても不思議ではありません。むしろそのような社会になって当然なのです。
やもめ
主イエスの譬え話では、まさにそのような社会で苦しんでいる一人のやもめ、つまり夫を亡くした女性が登場します。3節で、「ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた」と語られています。このやもめは、裁判官のところに一度だけ来て、訴えたのではありません。何度も何度も来ては訴えたのです。このやもめと相手との間にどのような問題が起こったのかは何も語られていません。しかしやもめは社会的に弱い立場にありました。出エジプト記22章21節に「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」とあるように、旧約聖書で寡婦、すなわちやもめを守るよう命じられているのはそのためです。また申命記10章17~18節には、「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」とあり、主なる神が寡婦の権利を守ると語られています。主イエスの譬え話で、やもめが裁いてほしいと訴えている相手は、この「寡婦を苦しめてはならない」という戒めを守ろうとせず、弱い立場にあるやもめに対して不当なことを行ったのだと思います。この相手は社会的に強い立場の人物であったに違いありません。強い立場にいる人間が、弱い立場にいるやもめの権利をないがしろにし、彼女を苦しめたのです。4節の前半で「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」と語られています。「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」としては当然の判断です。この裁判官は、相手がやもめの権利をないがしろにしたことは分かっていたはずです。しかしやもめの訴えを聞いて裁判を行えば、強い立場にいる相手の不興を買いかねません。この裁判官はそのような自分の利益にならないことをするよりは、このことを不問に付して相手から賄賂を受け取ったほうが良いと考えたのではないでしょうか。やもめの権利を守るよりも自分の利益を優先しようとしたのです。
人を人とも思わない社会で苦しむ私たち
このやもめと同じように、私たちも神様を畏れず人を人とも思わない社会で苦しんでいるのではないでしょうか。苦しみの理由は一人ひとり違うとしても、私たちは誰もがいわれない苦しみを受けています。どうして自分がこのような苦しみを受けなくてはならないのか、と思わずにはいられないのです。自分の利益を優先し、自分の欲望の実現を求める社会では、人と人との関係もギブアンドテイクの関係に過ぎなくなります。自分から相手に利益を与え、その代わりに相手から利益を得るのがギブアンドテイクです。商売であればそれで良いのかもしれません。しかし人と人との関係においてもそうであれば、相手から利益を得られない場合は、相手との関係を切る、つまり相手を無視し、いないものとするようになります。さらには利益を得られない相手をないがしろにし、不当に扱うことも起こりかねない、いえすでに、この社会のあちらこちらで起こっているのです。自分にとって利益があれば相手と関わるけれど、利益がなければ関わらない、それどころかないがしろにする社会が、人を人とも思わない社会です。そのような社会で私たちは息苦しくなることがあり、苦しみ葛藤することがあるのです。
気を落とさずに祈る
このやもめと私たちにとって、このような苦しみを受けて生きることは、単にこの社会に不正がはびこっている、ということで済まされることではありません。強い立場の者が弱い立場の者をないがしろにする社会、自分の利益や欲望の実現のためにほかの人を利用する社会は、神のご支配が実現していない社会、神の正しさが貫かれていない社会のように思えるからです。主イエスは、目には見えなくても神の国はあなたがたのただ中に実現している、と言われました。しかし私たちが日々直面している現実を思うとき、私たちはこの主イエスのお言葉を疑ってしまうのです。疑いは、あきらめを生みます。神のご支配が実現していると信じることを、神の正しさが貫かれると信じることをあきらめてしまうようになるのです。
しかしこのやもめはあきらめませんでした。正しい裁きが行われることをまったく期待できない中で、それでも正しい裁きが行われることを求めて訴え続けたのです。それはこの裁判官が心を入れ替えるのを期待したということではありません。そうではなくこのやもめは、「寡婦の権利を守る」と約束された、神ご自身に期待したのです。神ご自身がみ業を行ってくださることに期待するのをあきらめなかったのです。
主イエスはこのやもめの姿を通して、神のご支配が実現していないかのように思える現実の中で、私たちがあきらめることなく、「気を落とさずに絶えず祈る」ようお命じになっているのです。私たちはいわれない苦しみを受ける中で、落胆して祈ることをあきらめてしまうことがしばしばあります。苦しみに圧倒されてしまうのです。しかしまさに落胆せずにはいられないような現実にあって、このやもめがあきらめることなく神ご自身に期待し続けたように、私たちもあきらめることなく、神ご自身がみ業を行い、正しい裁きを行ってくださることに期待して、気を落とさずに絶えず祈り続けていくのです。それは決して簡単なことではありません。私たちにとって気を落とさずに絶えず祈り続けることは戦いの連続なのです。
まして神は
やもめの訴えをしばらくの間は取り合おうとしなかった裁判官ですが、その後、考えを変えます。4節後半からこのように語られています。「しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」。裁判官は、やもめの熱心さに心を動かされて裁判を行ったのではありません。弱い立場のやもめの権利を守ろうと心を入れ替えたのでもありません。この裁判官はどこまでも自分本位に生きているだけです。彼はやもめが「うるさくてかなわないから」、仕事の邪魔になるから裁判をしたに過ぎません。これ以上ひっきりなしにやって来られたら自分の評判が落ちて、裁判官人生に致命的な影響があるかもしれないから、たとえ相手が強い立場であっても、裁判を行ったほうが自分の損失は少なくて済むだろうと考えたに過ぎないのです。
譬え話を語り終えた主イエスは6~7節で、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と言われています。ここで主イエスは不正な裁判官に神様を重ねていますが、しかしそれは、神様がこの裁判官のように不正を行うとか、人を人とも思っていないとか、そのようなことを語っているのではもちろんありません。そうではなく不正な裁判官ですら、自分の利益のために、あきらめることなくひっきりなしにやって来るやもめの訴えを聞いて裁判を行ったのであれば、まして神様は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わないはずがない、と言われているのです。あきらめることなく、しぶとく訴え続けたやもめに、不正で自分本位に生きている裁判官ですら裁判を行うなら、日夜祈り求め続ける者たちのために、正しいお方である神様が裁きを行わないはずがないのです。裁判官にとってこのやもめは見知らぬ人でした。しかし昼も夜も叫び求めている人たちは、神様によって「選ばれた人たち」です。このやもめがユダヤ人であり、神様によって選ばれた神の民の一員であったように、私たちも恵みによって選ばれ、主イエス・キリストの十字架による救いに与り、洗礼を受けて神の民とされています。不正な裁判官が見ず知らずのやもめの訴えを聞くのであれば、まして主イエスによって私たちの父となってくださった神様は、日夜祈り求め続ける私たちの訴えを聞いてくださるのです。私たちが苦しみや試練の中で、落胆しないで昼も夜も叫び求めて祈り続けるとき、神様は私たちをいつまでもほうっておかれることはありません。必ずその訴えを聞いてくださり裁いてくださるのです。それは必ずしも私たちが訴えた通りにしてくださるということではありません。私たち以上に私たちのことを知っておられる神様は、私たちの訴えを聞き、私たちに最も良い道を備えてくださるのです。
落胆せずに祈り続けるための戦い
共にお読みした詩編55編にも、落胆せずに絶えず祈っている詩人の姿を見ることができます。17~18節にこのようにあります。「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる」。深い悩みと不安の中にあって詩人は、神様が救ってくださることに信頼して、神様を呼び続けています。神様が自分の声を聞いてくださることに信頼して、夕べも朝も、そして昼も、悩んで呻き続けているのです。ここに詩人の戦いを見ることができます。力による戦いではなく祈りにおける戦いです。落胆しそうな現実にあって、なお落胆せずに祈り続けるために詩人は戦っているのです。私たちはこの詩人ほどに祈っているでしょうか。悩みや苦しみや不安に直面するとき、気落ちして祈ることをあきらめてしまってはいないでしょうか。神様は私たちの祈りを聞き届けてくださらないと、神様の正しさは貫かれないとあきらめてしまってはいないでしょうか。しかしあのやもめの姿を通して、また詩人の姿を通して、神様は私たちに簡単にあきらめるのではなく、落胆せずに、しぶとく、忍耐強く祈り続けるために戦っていくよう求めておられるのです。そのような祈りにおける戦いにおいて、私たちは詩人のように呻くようにして祈っていくのです。
気を落とさずに祈ることへの招き
そのような言葉にもならない、呻き続けているだけのような私たちの祈りを神様は必ず聞いてくださいます。神様は私たちをほうってはおかれないのです。詩人やあのやもめ以上に、神様が私たちを愛し、大切にしてくださっていることを私たちは知らされています。神様が私たちを救うために独り子イエス・キリストを十字架に架けてくださったからです。主イエスによって神様が私たちの父となってくださり、私たちを神の子としてくださったからです。この神様が私たちをほうっておかれるはずがない。だから私たちは気を落とさずに絶えず祈り続けます。主イエスが再び来てくださり、神のご支配が完成するそのときまで、なお困難な現実が続くとしても、私たちは落胆せずに祈り続けるのです。8節で主イエスは「言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と言われています。教会が誕生して2000年を経てもなお、主イエスが再び来てくださらないことを思うとき、「速やかに」と言われても、私たちにはピンとこないかもしれません。しかし私たち人間の感覚で、神様の御業を捉えることはできません。私たちの感覚で捉えようとするなら、なかなか主イエスが来てくださらないことに、神のご支配が完成しないことに落胆するしかなくなります。そうなれば人の子が来るとき、気を落とさずに祈る信仰が、地上に見いだせないということになりかねません。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」という主イエスのお言葉は、そうならないよう人間の感覚で判断するのではなく、神様が必ず裁いてくださり、救いを完成してくださり、そのご支配を完成してくださることに信頼して、気を落とさずに祈り続けるよう私たちを招いているのです。私たちが気を落とさずに祈り続けて生きることが、すでに主イエスによって神のご支配が実現し、将来、主イエスが再び来てくださることによって神のご支配が完成するのを信じて生きることです。いえむしろ、気を落とさずに祈り続けて生きる中でこそ、私たちはすでに神のご支配が実現していることを信じる者とされ、神のご支配の完成に備えて生きる者とされていくのです。だから私たちは落胆しそうな現実にあっても、なお気を落とさずに祈り続けるために戦っていくのです。