主日礼拝

御心を行う者

説教題「御心を行う者」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第103編1-13節
新約聖書 マタイによる福音書第7章15-23節

自分の歩む道を吟味する
 先々週の礼拝において、マタイによる福音書第7章13、14節の、「狭い門から入りなさい」という主イエスのみ言葉を読みました。命に通じる門は狭く、その道は細いのだから、狭い門から入り、細い道を歩め、と主イエスは教えておられるのです。私たちはいつも、狭い門と広い門、細い道と広い道のどちらに進むのか、を問われつつ歩んでいると思います。しかし何が狭い門であり何が広い門であるかは、私たちにはそう簡単には分かりません。みんなが殺到するので狭い門になっているところというのは、むしろ広い門だ、ということを先々週も申しました。狭い門は多くの人が入ろうとしない門なのです。それでは誰も入りたがらない門、歩みたがらない道なら全て命に通じる門や道かというと、そういうわけでもありません。だから主イエスのこの教えは私たちに、考えることを求めています。自分の歩んでいる道は果たして命に通じる細い道なのか、滅びに通じる広い道を歩んでしまってはいないか、そのことをいつも考え、吟味することを求めているのです。

偽預言者を警戒しなさい
 本日の15節以下の教えも私たちに、自分が間違った道を歩んでいないかと考えることを求めています。ここには「偽預言者を警戒しなさい」とあります。預言者とは、神の言葉を預かって人々に伝える者であり、その意味で、信仰の指導者、導き手です。その預言者にも偽者がいる。偽預言者に導かれて間違った道を歩んでしまわないようによく警戒しなさい、と主イエスは教えておられるのです。この預言者は、旧約聖書の預言者たちのことではありません。教会において、神の言葉を伝え、信仰の指導をしている人々のことです。その人々の中に偽者がいると言われているのです。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」とあります。教会はしばしば羊の群れに喩えられます。偽預言者は一見仲間の羊のように見えるけれども、その中身は羊を餌食にしようとしている狼なのです。だから預言者をちゃんと吟味して偽物を見分けなければならない。そうしないと、間違った道を歩んでしまって、狼の餌食になってしまうかもしれないのです。
 つまりこの教えは、教会の指導者の言うことを鵜呑みにしてはいけない、と言っているのです。具体的に言えば、牧師の言うことが正しいとは限らないから気をつけなさい、ということです。牧師が語っていることが本当に神の言葉になっているか、吟味しなければならないのです。これは私たちプロテスタント教会の基本の一つです。つまり私たちにおいては、牧師は信徒の一人であって、カトリック教会のような聖職者ではありません。それは、牧師の語る説教に何の批判も疑問も持ってはならない、などということはない、ということです。もちろん単なる好き嫌いや、自分の考えに合うかどうかで批判をするとしたらそれは、神よりも自分の好みや考えを上にしていることになりますから、それは正しい批判ではありません。しかし聖書に照らして、また聖書に基づいて代々の教会が告白してきた信仰告白に照らして、この説教は真実に神の言葉となっているか、ということを吟味する権利と義務を信徒の皆さんは持っているのです。それを放棄してしまうと、偽預言者、偽牧師によってとんでもない所に導かれてしまうことが起るのです。「偽預言者を警戒しなさい」という教えはそういうことを私たちに求めているのだと言えます。

自分自身を吟味する
 しかしそのことだけを見つめていたのでは、こうして礼拝を守り、説教を聴いていても、この説教は本当に正しいのだろうか、と疑ってかかったり、あの牧師は偽者かも、と疑いの目で見るようなことになって、それでは礼拝にならない、とも言えるでしょう。教会における指導者、み言葉を語る者がそのように常に吟味されなければならないのはその通りですが、もっと根本的には、私たち一人一人が、自分自身を吟味し、自分の歩んでいる道を常に振り返ってみなければならないのです。つまり指導者を疑いの目で見ているだけではダメなのです。主イエスはそのことを21節以下で語っておられます。そこには「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とあります。イエス・キリストに向かって「主よ」と言う、つまりイエスこそ主であり救い主であると告白することは私たちの信仰の基本です。つまりここでは指導者のことだけではなく、全ての信仰者のことが見つめられているのです。そして、主イエスに対して「主よ」と言っていれば、それで天の国に入ることができるわけではない、つまり救いにあずかれるわけではない、と言われています。救いにあずかれないことだってある。23節の言葉で言えば、最後の審判の時に主イエスから「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われてしまうことがあるのです。つまり、自分では、主イエスを信じる信仰者であるつもりでいても、主イエスからは、おまえは私と関係ない、と言われてしまう、偽者の信仰者だと断定されてしまうということです。偽者になってしまうかもしれないのは指導者だけではない、信仰者一人一人にその危険があるのです。だから私たちは自分自身のことを常に吟味しなければなりません。その中で、指導者を吟味することもなされなければならないのです。

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ
 さてそれでは、自分自身や指導者をどのように吟味したらよいのでしょうか。本物と偽者とはどうしたら見分けることができるのでしょうか。16~18節にはこうあります。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」。つまり、本物と偽者を見分けるには、どのような実が実っているかを見ればよいのです。良い実が実っていればそれは良い木、本物です。悪い木、偽物には悪い実が実るのです。では何が良い実で、何が悪い実なのでしょうか。21節には、「主よ、主よ」と言っているだけではだめで、「天の父の御心を行う」ことが大事だと語られています。「主よ、主よ」と言っているだけでは良い実を実らせているとは言えない、天の父の御心を行うことこそ、良い実を実らせることなのです。ちなみに、「実を結ぶ」と訳されている「結ぶ」という言葉と、「御心を行う」の「行う」は、原文においては同じ言葉です。このことからも、実を結ぶことと御心を行うこととは一つなのだということが分かるのです。

言葉だけでなく行いが必要?
 そうすると、天の父なる神の御心を行うことこそが、本物の印であるということになります。私たちはこの21節を、言葉だけではだめで行いを伴わなければならないということだ、と理解しがちです。「主よ、主よ」と口で言っているだけで、実際に御心を行うことがなければ、その信仰は偽者だ、だから信仰が本物であるとは、言葉だけではなく行いが伴うことだ、と思うのです。それはその通りではあるのですが、しかし22節以下に語られていることは、それとは矛盾しています。そこには、「かの日」つまり世の終りの日に、結局主イエスから「あなたたちのことは全然知らない」と言われてしまう、つまり偽者と断定されてしまう人々のことが語られています。その人々は主イエスにこう言うのです。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」。つまりこの人々は、数々の立派な業、行いを、「御名」つまり主イエス・キリストの名によって行ってきたのです。「主よ、主よ」と言うだけで何も行動しなかったのではありません。預言し、つまりみ言葉を語り、悪霊を追い出し、奇跡をすらも行ったのです。私たちの中の誰よりも、この人たちはすばらしい行いをし、力ある業をしたと言えるのです。ところが彼らは主イエスから、「おまえたちは私と関係がない」と言われてしまう、偽者だと言われてしまう。ですから、本物と偽者とを区別する鍵は、行いがあるかどうかではないのです。もちろん、行いはなくてもよい、というのではありません。問題はその行いが、「わたしの天の父の御心を行う」ことになっているかどうかです。彼らがしてきたことは、立派な、力ある業でした。人を助け、救う良い業でもありました。しかし、「わたしの天の父の御心を行う」ことにはなっていなかったのです。ですから見つめるべきなのは、「言葉だけではなくて行いが必要だ」ということではありません。その行いが本当に父なる神の御心を行うことになっているかどうかが問われているのです。
 偽預言者を警戒しなければならないのもこのためです。彼らは羊の皮を身にまとって来る。つまり本物の預言者との見分けがつきにくいのです。もしもその預言者が、言葉だけで行いを伴っていなかったら、あるいは明らかに悪いことをしていたら、すぐに偽物と見抜くことができます。ところが偽預言者は、「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行う」のです。だから本物との区別が難しいのです。良い行いが伴っているかどうかだけでは、本物と偽者とを正しく区別することができないのです。本物と偽者とを見分ける鍵は「わたしの天の父の御心」を行っているかどうかなのです。

天の父の御心を行うとは
 それでは、天の父なる神の御心を行うとはどういうことでしょうか。前回も申しましたが、今私たちは、5〜7章の、主イエスが語られた「山上の説教」の結びの部分に入っています。これまでに語られてきたことのしめくくりとして、この教えは語られているのです。「天の父の御心を行う者だけが天の国に入ることができる」という教えは5章20節を思い起こさせます。そこには、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とありました。天の国に入るためには、つまり救われるためには、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」に生きることが必要だと語られていたのです。それこそが「天の父の御心を行う」ことです。そしてその「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」の内容が、5章21節以下の、山上の説教の中心部分に語られてきたのです。その中心部分の鍵となっていたのは、「あなたがたの天の父」という言葉でした。主イエス・キリストの父であられる神が、あなたがたの天の父となって下さり、あなたがたを子として愛し、養い、はぐくんで下さっている。その天の父の子として、天の父の愛を信じて、その養いと導きに身を委ねて生きなさい、というのが、山上の説教の中心部分のメッセージだったのです。そしてそれこそが、「天の父の御心を行う」ことなのです。ですから山上の説教のこれまでの所に、「天の父の御心を行う」とはどういうことかが語られてきたのえす。それは、自分の義、自分の正しさ、自分の良い行いを拠り所として生きることをやめる、ということでもありました。6章には、偽善への警告が語られていましたが、偽善とは、「見てもらおうとして、人の前で」良い行いをしようとすることであり、それは自分の義、正しさ、良い行いを誇ろうとする思いから生まれるのです。それはまた地上に富を積んで生きようとすることでもありました。地上の富とは、私たちが様々な意味で自分のものとして持っている財産です。そこには、自分の正しさ、力、良い行いも含まれています。そういう自分が持っているもの、自分の力という富に拠り頼むことをやめて、天に富を積めと教えられているのです。天に富を積むとは、良い行いをして神に貸しをつくることではなくて、天の父である神の愛と憐れみにのみ拠り頼んで生きることです。神が天の父として、私たちに必要なものをすべてご存じであり、それを必要な時に与えて下さることを信じて、信頼して生きることです。そこに、「何を食べようか何を着ようか何を飲もうか」という思い悩みからの解放が与えられます。地上の富、つまり自分の持っているものに拠り頼んでいる間は、私たちは思い悩みから解放されることはないのです。

あなたたちのことは全然知らない
 このように山上の説教には、「わたしの天の父の御心を行う」とは、天の父なる神の子とされた者として、神の愛と憐れみにのみ拠り頼んで生きることだ、ということが語られてきたのです。「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言う人々は、確かに良い行いを沢山してきました。しかし彼らはそれらを自分の業績、自分の富にしているのです。彼らが見つめているのは、天の父なる神の愛や恵みではなくて、自分の豊かさ、自分の富なのです。それによって天の国に入れると思っているのです。そのような者に対して主イエスは、「あなたたちのことは全然知らない」とおっしゃいます。自分の良い業、自分の富に拠り頼んでいる者は、主イエス・キリストとは何の関係もない、その救いとは無関係なのです。山上の説教の冒頭の言葉、5章3節の「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」も思い出されます。「心の貧しい人」とは、自らの中に何の富も持っていない人、誇るべき何物をも持たない人、ただひたすら、神の愛と憐れみによりすがるしかない人です。主イエスによってもたらされる天の国、神の救いは、そのような人々にこそ与えられるのです。

良い実とは
 「わたしの天の父の御心を行う」とは、山上の説教にこれまで語られてきたように、天の父なる神の子とされた者として、神の愛に拠り頼んで生きることです。その時そこに、良い実りが生まれるのです。天の父なる神の子として生きるところに与えられる実り。それは、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることです。右の頬を打たれたら左の頬をも向けることです。これらのことは私たちが立派な人になることによってできることではありません。天の父なる神が、罪人である私たちを子として愛して下さり、父としての憐れみによって赦して下さっている、同じように私たちを迫害する者をも、その罪にもかかわらず、子として愛しておられる、その天の父のみ心を受け止めるところに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことは実現するのです。そのために主イエスは、この山上の説教の中で「主の祈り」を与えて下さいました。「天にましますわれらの父よ」と神に呼びかける私たちは、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るのです。この祈りを祈っていく中で、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という良い実りが与えられていくのです。この教えを語られた主イエスご自身が、まさにそのように歩まれました。主イエスは私たちの罪を背負って十字架の死への道を歩んで下さり、自分を十字架につける者たちのためにもとりなし祈って下さったのです。それは主イエスが、ご自分をお遣わしになった天の父なる神の御心を行い通されたということです。私たちはこの主イエスによる救いにあずかり、主イエスと共に神の子とされて歩んでいくのです。その中で私たちも、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るという良い実を実らせていくのです。

悪い実とは
 天の父の御心を行わずに、つまり天の父の愛によってではなく、自分の力、良い行いによって歩もうとするところに生まれる実は、「見てもらおうとして、人の前で」というあの偽善です。偽善は、自分の良い行いを人と比べて誇ろうとする思いと結びついています。そこには、比べ合い、誇り合いが起るのです。謙遜さを誇り合うような滑稽なことすらも起るのです。そして、何を誇り合うにせよ、誇り合うところには対立が生まれます。それが偽預言者によって生み出される悪い実です。偽預言者は、見かけには良い働き、良い業を熱心にしていますが、その業、働きが、教会の中に、その人を中心とするグループを作り、そのグループと別の人を中心とするグループとが対立し合い、教会の一致を損なう結果を生んでいくのです。偽預言者は、自分が偽預言者だとは思っていません。神のため、教会のために熱心に働いていると思っているのです。しかしその働きが、自分の業、自分の業績、自分の誇りを満たすものになってしまっているので、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」という天の父の御心を行うものではなくて、「敵を憎み、自分の仲間のためだけに祈る」ものになってしまうのです。これは私たちも心していくべきことだと言えるでしょう。

主の恵みを忘れてはならない
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編の103編について、最後にふれておきたいと思います。この詩は、主なる神の慈しみと憐れみのみ心を歌っています。3節にも「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し」という恵みが語られています。また8節以下にはこうあります。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんでくださる」。主なる神の恵みと憐れみのみ心をこそ心に留め、忘れてはならないというのがこの詩の内容です。「わたしの天の父の御心を行う」とはこういうことだと言えるでしょう。父なる神の御心を本当に行う者とは、力ある立派な良い行いをすることができる者ではなくて、神が私たちを罪に応じてあしらわれることなく、憐れみをもって赦して下さる、その神の愛が、主イエス・キリストによって、自分にも、他の人々にも、自分を迫害する者にまでも、豊かに注がれていることをしっかりと見つめている者です。それこそが「天の父の御心を行う者」であり、良い実を結ぶ本物の信仰者なのです。

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