夕礼拝

神は私たちの心を知る

11月5日(日)夕礼拝
説 教 「神は私たちの心を知る」 副牧師 川嶋章弘

旧 約 サムエル記上第16章5b-13節
新 約 ルカによる福音書第16章14-18節

一部始終を聞いて、あざ笑う
 ルカによる福音書16章を読み進め、本日は14-18節を読みます。その冒頭14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。「この一部始終を聞いて」とは、先週の箇所16章1-13節で主イエスが話されたことを聞いて、ということです。先週の箇所で主イエスは弟子たちに向かって話されましたが、そこにはファリサイ派の人たちもいました。彼らは主イエスがお語りになった「不正な管理人のたとえ」を聞いて、主イエスをあざ笑ったのです。
 不正な管理人のたとえは、このような話でした。ある金持ちの管理人が不正をして、主人の財産を無駄遣いしていました。その不正が主人の知るところとなり、管理人がクビになるのは時間の問題でした。しかし管理人はクビになるまでの残された時間に、なにをすべきなのかを必死に考えました。そして主人に負債のある人たちの証文を書き変えて負債を減らし、その人たちに恩を売っておけば、自分がクビになって路頭に迷っても、その人たちが恩返しに自分を家に迎え入れてくれるだろうと考え、それを実行したのです。主イエスはこの不正な管理人の抜け目のなりやり方を、その賢さをお褒めになりました。もちろんそれは、不正な行いそのものをお褒めになったのではありません。そうではなく解雇が間近に迫っている、しかしまだ時間が残されている、という自分の置かれている状況を見極め、自分がすべきことを必死に考え判断したことを、賢いとお褒めになったのです。
 しかしこのことはファリサイ派の人たちにとって、聞き捨てならないことでした。不正そのものを肯定されたのではないとしても、不正に不正を重ねる管理人が褒められ肯定されるのは、まったく受け入れられないことであったのです。ファリサイ派の人たちにとって、律法を守ること、言い換えるならば善い行いをすることこそ褒められ肯定されるべきことであったからです。主イエスをあざ笑うファリサイ派の人たちの姿を、私たちは批判したくなるかもしれません。しかし私たちも彼らと同じように、あるいは放蕩息子のたとえの兄と同じように、善い行いをしている人が報われるのは当然だ、と思っているのではないでしょうか。そしてそれ以上に、善い行いをしているようには見えない人が、褒められ肯定されることに反発を覚えるのではないでしょうか。

人に自分の正しさを見せびらかす
 そのようなマインドで生きているファリサイ派の人たちと私たちに、主イエスは「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」と言われます。「人に自分の正しさを見せびらかす」は、直訳すれば「人の前に自分自身を正しいとする」となります。人の目を気にして、善い行いをすることによって自分自身の正しさをアピールするのです。私たちは自分の正しさを見せびらかそうとは思っていないかもしれません。しかし私たちも人の目を気にして、周りの人から悪く言われないよう自分を取り繕ってしまうことがあります。人の目を気にして生きるとき、私たちは結局、自分とほかの人を比べて生きることになります。人の目に自分がどう映っていて、また相手がどう映っているのかを比べて生きることになるのです。不正な管理人は、誰が見ても不正な行いをしていました。それに対してファリサイ派の人たちは、誰が見ても善い行いをしていました。ファリサイ派の人たちにとって、自分たちと不正な管理人を比べるなら、不正な管理人が褒められることはあり得ないことだったのです。もしそれを許してしまえば、「人の前に自分自身を正しいとする」彼らの生き方が否定されることになるのです。

神は私たちの心を知る
 しかし主イエスはまさに彼らのこの生き方を否定され、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」と言われたのです。人の目を気にして、善い行いをすることによって自分自身の正しさをアピールしていたファリサイ派の人たちの振る舞いは、周りの人たちの尊敬を集めていたに違いありません。「人に尊ばれるもの」とは、「人々の間で高いもの」という意味です。ファリサイ派の見た目や振る舞いが人々の間で高いもの、尊ばれるもの、価値あるものとされたのです。しかし神様はそれらを忌み嫌われます。なぜなら神様は私たちの見た目や振る舞いではなく、私たちの心を見るお方だからです。
 神様が私たちの心を見るお方であり、私たちの心をご存じであり、しかもただ知っているのではなく私たちの心を究めておられることは、旧約聖書でも新約聖書でも語られていることです。共に読まれた旧約聖書サムエル記上16章は、そのことを語っている代表的な箇所です。イスラエルの最初の王サウルは、サムエルによって油を注がれて王となりました。しかしその後、神様はサウルを王位から退けられました。そこで神様はサムエルをベツレヘムに住むエッサイのもとに遣わします。エッサイの息子たちの中に王となるべき者を見いだしたからです。お読みした箇所は、サムエルがエッサイの息子たちと対面する場面です。エッサイには八人の息子がいましたが、サムエルはその一人ひとりと対面したのです。サムエルが目を留めたのは長男のエリアブで、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思いました。しかし神様はサムエルにこのように言われました。7節です。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。人間は、人の目に映ることばかりを見るけれど、主なる神様はそのように見るのではなく人の心を見るのだ、と言われたのです。「神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ」という主イエスのお言葉は、「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という、この神様のお言葉と同じことを見つめているのです。

自分の利益を求めるための善い行い
 では神様は、ファリサイ派の人たちの心にどんな思いがあるのをご存じだったのでしょうか。周りの人から尊ばれ、高いものとされ、価値あるものとされていた彼らの善い行いを、なぜ神様は忌み嫌われるのでしょうか。ファリサイ派の人たちの心にあったのは、律法を守ることによって、善い行いを積み重ねることによって救われる、という思いです。それどころか、善い行いを積み重ねることによって救われるのは当然だ、という思いすらありました。しかし善い行いによって救われるというのは、結局、自分の利益を求めているに過ぎません。善い行いによる自分の救いという利益を得ようとしているのです。しかし神様は自分の利益を求めるための善い行いを、利己主義的な善い行いを忌み嫌われるのです。また善い行いによって救われるのは当然だと考えることは、神様に従うのではなく、神様を自分に従わせることです。それは神様と自分の立場を逆転させることにほかなりません。そのように考えるとき、自分が思ったように報われなかったり、あるいは自分よりも正しく生きていないように見える人が報われたりするとき、神様に反発を覚えるのです。
 14節冒頭でファリサイ派の人たちが「金に執着する」と言われている理由もこのことにあります。ファリサイ派の人たちは守銭奴であったわけでは決してありません。ユダヤ人社会の宗教指導者として、贅沢に暮らすのではなく質素に暮らしていたと考えられています。人々の尊敬を集める、模範となるような生活をしていたのです。しかし彼らは金銭そのものには執着していなかったとしても、広い意味での富に、つまり利益や見返りに執着していました。「金に執着する」と訳された言葉は、「金を愛する」という言葉です。彼らの心は自分の利益や見返りを愛する思いで占められていたのです。主イエスは前回の箇所の最後13節で、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。それは、神に仕えるならば富を用いてはならない、ということではありませんでした。自分の富を神様から預けられたものであると弁えて、神様のために、それゆえ隣人のために用いることこそ、神様に仕えて生きることであったのです。しかし広い意味での富を、自分の利益や見返りを愛するならば、富に仕えることになります。富の奴隷となり、富に支配されているのです。それは、神様に仕えて生きることとは決して両立しないのです。

自分の利益を求めて生きることの虚しさ
 「神には忌み嫌われるものだ」と言われていました。直訳すれば「神の前に忌み嫌われる」となります。ですから「人の前に」自分自身を正しいとすることは「神の前に」忌み嫌われる、と言われていることになります。神様に仕えて生きることと富に仕えて生きることが両立しないように、「人の前に」生きることと「神の前に」生きることは、つまり人の目を気にして生きことと、神の眼差しに目を向けて生きることは両立しないのです。しかし私たちは神の眼差しに目を向けず、神様が私たちの心をご存じであることを忘れて、あるいは知らないふりをして生きているのです。私たちは人の目を気にしてばかりいます。社会で尊ばれているもの、価値あるものに心を奪われてばかりいます。見た目、それこそ容姿や背の高さに、また学歴や年収に心を奪われ、あるいはコストパフォーマンスや、単に新しいから、単に便利だからというような表面的なことにばかり心を奪われています。しかし神の眼差しを、神様が私たちの心をご存じであることを無視して生きるとき、結局私たちは神様なしに生きることになり、自分の利益や欲望を求めて生きるようになるのです。そのような生き方は、とりわけ現代の世界では当たり前の生き方となっています。疑問を呈する人がいないわけではありませんが、基本的には積極的に肯定されてもいます。しかし私たちはどこかでそのように生きるのは苦しいと、もうやめたいと感じているのではないでしょうか。そのように生きるのは虚しいと気づいているのではないでしょうか。人々の間で尊ばれるもの、価値あるものは目まぐるしく変わっていきます。それに心を奪われている限り、世の中の変化に合わせて自分もくるくると変わっていかなくてはなりません。本当に尊ぶものや価値あるものを持たず、拠って立つべきところを持たず、風見鶏のように生きることほど虚しいことはないのです。

神の国の福音が告げ知らされている時代
 しかし聖書はもうそのような虚しい生き方をしなくて良い、と告げています。そのように生きる時代は終わり、新しい時代が始まった、と告げているのです。16節でこのように言われています。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。ヨハネとは、いわゆる洗礼者ヨハネのことであり、律法と預言者の時代、つまり旧約聖書の時代は、洗礼者ヨハネの時までなのです。洗礼者ヨハネは主イエスに先立ち、人々を悔い改めへ導くことによって主イエスが来られる道備えをしました。それ以来、神の国の福音が、神の国の喜ばしい知らせが告げ知らされています。それは、私たちが神の一方的な恵みによって救われるという喜ばしい知らせです。もう救われるために善い行いを積み重ねなくて良い。もう自分の利益や欲望を求めて生きなくて良い、虚しく生きなくて良いのです。私たちは虚しい生き方から解放されて、神の眼差しのもとで、私たちの心をご存じである神様と共に生きることができる新しい時代にすでに入れられているのです。

神の熱心な招き
 「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とも言われています。「だれもが」とは、ユダヤ人だけでなくということです。律法と預言者の時代、旧約聖書の時代は、律法を与えられているユダヤ人だけがそれを守ることによって救われる、と考えられていました。しかし神の国の福音が告げ知らされている新しい時代は、ユダヤ人だけでなく異邦人も救われる、つまり誰もが救われるのです。「だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」とは、誰もが神の国に入ろうとして、救いに与ろうとして必死になっている、救いを熱心に求めていることを見つめています。しかし私たちが必死に、熱心に救いを求めるよりも先に、神様が必死に、熱心に私たちを救いへと招いてくださったことを忘れてはなりません。失われた一匹の羊を見つけ出すまで捜し回るほど必死に、いつ帰ってくるか分からない放蕩息子を家の外で待ち続けるほど熱心に、神様は私たちを救いへと招いてくださっているのです。この福音書の14章15節以下で、主イエスはたとえを用いて、通りや小道に出かけて行き、無理やり人々を連れて来て家をいっぱいにするよう命じる主人を、神のお姿として語られていました。神様は無理矢理にでも、力ずくでも私たちを神の国へ、救いへと入れようとしてくださっているのです。そして私たちに対するそれほどまでに熱い想いによって、深い愛によって、神様は独り子イエス・キリストを十字架に架け、私たちを救ってくださったのです。私たちはその神様の必死で熱心な招きにお応えします。私たちも熱心にその招きにお応えし、神様の恵みによる救いを受け入れ、その救いに与るのです。

律法によって神の御心を知る
 律法を守ることによって救われるのではなく、神の恵みによって救われる新しい時代に入れられている私たちにとって、律法はもう用済みなのでしょうか。決してそうではないことが、17節でこのように言われています。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」。確かに主イエスによって新しい時代が始まり、私たちは律法を守ることによってではなく、神の熱心な招きにお応えし、神の恵みによる救いを受け入れることによって救いに与ります。しかしだからといって、私たちにとって律法は無用なものには決してならないのです。神の恵みによって救われるという喜ばしい知らせによって、私たちは自分の利益を求めて生きる虚しい生き方から解放されました。私たちは神の眼差しに目を向け、私たちの心をご存じである神様と共に生きることができるようになりました。神の眼差しに目を向け、神の御心を知らされつつ生きることができるようになったのです。しかし私たちはどのように神の御心を知らされるのでしょうか。それは、神様が与えてくださった律法によってです。律法は本来、救われるための条件でもなければ、それを守れば良いというだけの規則でもありません。律法はなによりも神の御心を示しているのです。神の眼差しに目を向けて生きるとは、律法に示されている神の御心を知らされつつ生きることです。大切なことは律法の字面だけを読むのではなく、そこに示されている神の御心を受けとめることなのです。その一つの例として、主イエスは18節でこのように言われました。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。律法によれば、夫は妻を気に入らなくなれば離婚できました(申命記24章1節)。律法では離婚についての規定はかなり緩やかであったし、再婚の規定はほとんどありませんでした。ところが主イエスは、妻と離婚してほかの女性と再婚するのは姦通の罪を犯すことになる、と言われます。姦通の罪も、律法によれば既に結婚している男女のどちらかが、別の男女のいずれかと関係を持つことです。ですから離婚してから再婚することは姦通の罪ではありません。しかし主イエスは姦通の罪を犯すことになると言われる。なぜでしょうか。主イエスは律法の規定をさらに厳格にしたということなのでしょうか。そうではありません。主イエスがお語りになったのは、律法の字面だけを読むのではなく、神の御心を受け止めなさい、ということです。マタイ福音書19章6節に「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とあります。これが結婚についての神の御心です。この神の御心を受け止めることが大切なのです。

救われた者として神の御心を受け止める
 律法を守ることによって救われると考えるならば、結局、どこまでなら律法を守ったことになるのか、という発想になります。妻が気に入らなければ離婚しても律法を守ったことになるけれど、そうでなければ律法に違反したことになる、と考えるのです。しかしそれは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という神の御心を受け止めることから遠く離れています。無視していると言っても良いのです。しかし神の一方的な恵みによって救われた者として、その救いに感謝して律法を守ろうとするならば、私たちは律法の字面を読むことに留まるのではなく、律法に示されている神の御心を受け止めようとするのです。またこの主イエスのお言葉は、離婚した方、再婚した方を裁くために語られたのではないでしょう。主イエスが私たちに伝えようとしているのは、何をしたら姦通の罪になるかではなく、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という神の御心です。私たちは自分たちの弱さや欠けのゆえに、この御心を受け止めようとして歩んでいても、離婚することがあり、それゆえに再婚することもあります。そうであったとしても神の御心を受け止めようと歩む中で、その御心から逸れてしまうことと、最初から御心を知ろうともせず無視してしまうことでは、まったく違うのです。

私たちの心を知る神と共に生きる
 神の御心に従って生きようとしても、そのようになかなか生きることができない私たちを、神様はご存じでいてくださいます。神様は私たちの心を知っていてくださり、御心を受け止めようとして受け止められない私たちの苦しみや葛藤をすべて知っていてくださいます。神様が私たちの心を知っていてくださるとは、私たちが抱えている苦しみや悲しみや葛藤、人には言えない思いを、神様が暴かれるということでは決してありません。そのような苦しみや悲しみ、白黒つけることができない葛藤、人には言えない思いを抱えている私たちと、神様が本当に共にいてくださる、ということなのです。独り子を十字架に架けてまで私たちを救ってくださったのと同じ熱い想いによって、深い愛によって、神様は私たちの心をご存じでいてくださるのです。私たちはこの神様と共に生き、この神の眼差しに目を向け、神の御心を知らされつつ生きるのです。その歩みは、自分の利益を求めて虚しく生きる歩みではなく、神の恵みにお応えして生きる、まことに意味ある歩み、祝福された歩みなのです。

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