夕礼拝「今の時を見分ける」 副牧師 川嶋章弘
申命記 第30章15-20節
ルカによる福音書 第12章54-59節
群衆に向かって語り始める
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)、と主イエスは言われました。「偽善者よ」。実に厳しいお言葉です。私たちが誰かに「あなたは偽善者だ」と言われたら、とても不快な思いをするに違いありません。怒りすら覚えるのではないでしょうか。主イエスはここで誰に向かって「偽善者よ」と言われたのでしょうか。本日の箇所の冒頭に「イエスはまた群衆にも言われた」(54節)とありますから、主イエスは群衆に向かって「偽善者よ」と言われたのです。
これまでにもお話ししてきたことですが、ルカによる福音書12章1節から13章9節までが一つの場面です。12章1節では「とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた」と言われていました。主イエスは大勢の群衆に囲まれている中で、しかし群衆に向かってではなく弟子たちに向かって話し始められたのです。12章53節まで主イエスは基本的に弟子たちに向かって話されています。しかし先ほどお話ししたように本日の箇所の冒頭に「イエスはまた群衆にも言われた」とあり、ここから主イエスは自分のもとに集まって来た大勢の群衆に向かって語り始めているのです。
群衆とは
この群衆の中には色々な人がいたと思います。病を癒してほしいと願って、苦しみから助けてほしいと願って、主イエスに助けを求めてやって来た人たちがいました。また12章13節では、群衆の一人が主イエスに「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言って、遺産相続のトラブルの解決を頼んでいます。主イエスに当時のユダヤ教の指導者が担っていた役割を果たすことを求めてやって来た人たちがいたのです。あるいは今、評判の主イエスをひと目見たいと思ってやって来た人たちもいたに違いありません。その人たちの中には主イエスに対して好意的であった人もそうでない人もいたはずです。群衆と一言で言っても色々な人たちがいたのです。しかし共通していたこともあります。それは、この人たちが主イエスに従っていたわけではなかったということです。主イエスの弟子たちが、主イエスを信じ、主イエスに従って生きていたのに対し、群衆はそうではありませんでした。もちろん群衆の中にも主イエスと関わりを持とうとした人たちはいました。しかしその人たちは主イエスに助けを求めはしても、願いを訴えはしても、主イエスに従おうとしたわけではないのです。群衆というのは、基本的には主イエスから距離を取って、主イエスのお言葉やみ業を眺めていた人たちなのです。
私たちも群衆になっていないか
私たちキリスト者は洗礼を受け、主イエスの弟子とされ、自分自身を捨てて主イエスに従って生きている者です。だから自分たちはこの群衆とは違う、主イエスから「偽善者よ」と言われなくて済む、と安心しているかもしれません。逆に、まだ洗礼を受けていない方は、自分は群衆と同じように主イエスから「偽善者よ」と言われているのだろうか、と不快に思われるかもしれません。しかしどうでしょうか。私たちキリスト者は洗礼を受け、主イエスの弟子とされ、自分自身を捨てて主イエスに従って生きている者、と申しましたが、自分がそのように歩めているのかと問われれば、そのようには歩めていません、と答えるしかないのではないでしょうか。むしろ私たちは主イエスの弟子とされたにもかかわらず、しばしば主イエスを眺めているだけの群衆になってしまっているのです。主イエスの言葉を聞いても、その言葉が自分の生活と結びついていない。どこか他人事のように聞いてしまうのです。私たちは主イエスの弟子として主イエスと共に生きるよりも、主イエスと距離を取って眺めているだけの群衆になってしまうのです。その私たちに主イエスは「偽善者よ」と言われます。洗礼を受けたキリスト者でも、そうでない方でも、主イエスから距離を取って傍観しているだけのすべての人に向かって、主イエスは「偽善者よ」と言われているのです。
天候を予測する
なぜ群衆は、そして私たちは偽善者と言われているのでしょうか。主イエスはまず54-55節でこのように言っておられます。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる」。ユダヤの西には地中海があります。そこで雲が発生するとにわか雨になるのです。ユダヤの南には砂漠があります。その南から風が吹いてくると暑くなるのです。当時の人たちは、そのような兆候から天候を予測していました。とりわけ天候に左右される農業や漁業にたずさわる人たちにとって、天候を予測することは不可欠なことであったに違いありません。自分たちの仕事と生活を守るために天候の予測は欠かすことができなかったのです。
現代の私たちは、空を見て天候を予測することがほとんどなくなりました。そんなことをしなくても、テレビやパソコンやスマホで簡単に天気予報を見ることができるからです。その一方で現代の私たちは、天気の情報を過剰に求めているようにも思います。技術が発展したこともあり、今後24時間の雨雲の動きの予想や、3時間毎の天気の変化などが報じられるようになりました。そこまで詳しいことを知る必要があるのか、と思うこともありますが、傘を持っていくのかどうか、折りたたみ傘で良いのかどうか、どんな服や靴にするのが良いのかを判断して、準備万端整えて出かけて行きたいという思いがある。だから詳しい天気予報を求めているのだと思います。もちろん災害に対応するためにも天気予報は不可欠です。私たちは日々天気予報に基づいて判断して生活しているし、災害への備えもしているのです。
今の時を見分ける
イスラエルの人たちは雲や風の兆候から、私たちはテレビやネットの情報から天気を予測しています。主イエスが言われるように私たちは「空や地の模様を見分けることは知っている」のです。しかしその私たちが「今の時を見分けることを知らない」と主イエスは言われます。そのように言われても、私たち自身はピンとこないかもしれません。日々のニュースをチェックし、世界の動向に目を向け、為替の動きや株式市場の動きにも注目し、今の時を見分け、混迷の時代がどこに向かっていくか知ろうとしている方も少なくないでしょう。その意味では私たちは「今の時を見分けることを知らない」とは言えない。むしろ今の時を見分けるために力を費やしているのです。しかし主イエスが言われている「今の時を見分ける」とは、そのようなことではありません。では「今の時を見分ける」とはどういうことなのか。主イエスは57節以下でこのことを見つめています。57節で主イエスは「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」と言われています。今の時を見分けるとは、自分で何が正しいかを判断することでもあるのです。
借金の返済を求めて訴える人と共に
そして主イエスは、このように話されました。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない」。「最後の一レプトンを返すまで」とあることから、「あなた」と「あなたを訴える人」との間に金銭の貸し借りでトラブルがあった、と想像できます。お金を借りていたけれど、そのお金を返さなかったのです。つまりこの場面は、借金の返済を求めて自分を訴えている人と一緒に役人のところに行く、という場面なのです。主イエスは、役人のところに行く途中で、自分を訴えている人と「仲直りするように努めなさい」と言われます。そのためには自分が相手に対して借金していることを認めなくてはなりません。借金を認め、その借金を返すか、あるいは帳消しにしてもらわなくてはならないのです。そうしない限り、相手と仲直りすることはできません。借金がないかのように振る舞っていたり、借金を返す意志を示さなかったり、あるいは借金を帳消しにしてもらうよう頼まなければ、相手と仲直りすることは到底できないのです。
この主イエスの話は、群衆や私たちとどのように関係するのでしょうか。群衆の中には借金をしていた人がいたかもしれません。これからする人がいるかもしれません。そのような人たちが借金を返さなかったために、自分を訴える人と一緒に役人のところに行くという状況に直面したなら、その途中で仲直りするよう努めなさい、と言われているのでしょうか。そうであれば大勢の群衆がいたとはいえ、このような状況に直面する人は多くなかったでしょう。まして私たちの社会では、仮に借金を返さなかったために借金の返済を訴えられたとしても、その人と一緒に役人のところに行くということはまずあり得ませんから、この主イエスの話は私たちには関係がないということになるのでしょうか。
仲直りしなければならない人がいる
そうではありません。なぜなら主イエスは、私たちがこのような状況に直面したら、という仮定の話をしているわけではないからです。群衆が、私たちが今、この状況に直面していると言われているのです。今、私たちは、自分を訴える人と一緒に役人のところに行く途上にあるのです。それは、私たちには仲直りしなければならない人がいるということです。和解しなければならない人がいる、ということです。それは、お金を借りている人がいることを必ずしも意味しません。むしろ傷つけてしまった人がいる。罪を犯してしまった相手がいるのです。お金は返すことができますが、相手に対する罪は取り消すことができません。相手に赦してもらうしかない、帳消しにしてもらうしかないのです。自分を訴える人と一緒に役人のところに行く途上にあるとは、私たちが自分の罪を赦してもらわなければならない人と共に生きている、私たちの傍らに自分が傷つけてしまった人がいる、ということなのです。主イエスはその人と仲直りするよう努めなさい、と言われているのです。
偽善者とは
ここに至って、主イエスがなぜ群衆に、そして弟子とされたにもかかわらず、主イエスを眺めているだけの群衆になりがちな私たちに、「偽善者よ」と語られたかが分かります。私たちはテレビやネットで詳しい天気予報を見て、準備万端整えて出かけていきます。自分の生活を整え、あるいは災害に備えることには熱心なのです。しかし私たちは、自分の罪を赦してもらわなければならない人と共に生きていることに気づこうとしません。いや気づいているのです。あの人を傷つけてしまった。あの人に対して罪を犯してしまった。ちゃんと分かっています。でも気づかないふりをしている、分からないふりをしている。「偽善者」という言葉は、心の中では悪い思いを抱いているのにうわべだけで善いことをする人。そのような意味で使われることが多いと思います。しかしここでは、自分には罪があると気づいているのに気づかないふりをしている人のことです。自分には傷つけてしまった人がいる、罪を犯してしまった相手がいると知っているのに知らないふりをする人のことです。私たちは天気予報を見ると、それに基づいて迅速に対応するのに、自分の罪を知っても知らないふりをしてなにも対応しようとしないのです。生活を整えること、災害に備えることには敏感で一生懸命なのに、自分が傷つけてしまった相手と仲直りすることには鈍感で、熱心ではないのです。
罪を認め、赦しを求めることができない
「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい」という主イエスのお言葉は、このような私たちの姿を私たち自身に突きつけています。私たちは自分の罪を認めなければなりません。相手を傷つけてしまったことを認めなければなりません。そして相手に謝罪して、相手に赦してもらわなければならないのです。しかし私たちはそれができない。自分の罪を認めることが難しい。認めてもなかなか謝ることができない。大人は子どもに、悪いことをしたら「ごめんなさい」と謝るように教えます。「ごめんなさい」と言える人になりなさい、と教えるのです。でも子どもより、大人のほうがよっぽど謝ることができません。自分の否が認められなくて、プライドが邪魔して、「ごめんなさい」と言えないのです。自分と共に生きている人に対して、自分の傍らにいる人に対して謝ることができないのです。
神のもとに連れて行かれる途中
「さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む」と主イエスは言われます。裁判官とは、神様のことです。私たちは神様のもとに連れて行かれるのです。ですから今、私たちは、神様のもとに連れて行かれる途中にいる、ということになります。途中にいるのは確かだとしても、いつまで途中にいるのかは私たちには分かりません。いつ私たちが神様のみ前に立つことになるかは分からないのです。主イエスはこれまでもこのことを繰り返し教えてこられました。新しい倉を建て、そこに穀物や財宝をしまいこんだ金持ちが「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(12章19節)と言ったとき、神様が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(12章20節)と言われた。そう主イエスは話されました。私たちの命は、今夜、取り上げられるかもしれない。それなのにあの人と仲直りしていない。あの人と和解していない。私たちは神様のもとに連れて行かれる途中にいます。しかしだからといって神様のみ前に立つのはまだまだずっと先、とは言えません。だからこの地上の歩みにおいて、神様のみ前に立つまでの歩みにおいて、自分が罪を犯した相手と仲直りするように努めなさい、と言われているのです。
死と滅びと呪いを選ぶ
しかしそのように言われてもなお仲直りできないのが私たちではないでしょうか。本日共にお読みした旧約聖書申命記30章15-20節では、命と死が、祝福と呪いが、イスラエルの前の人たちに置かれていると言われています。そして命を選びなさい、祝福を選びなさい、とモーセを通して神様は語りかけてくださっているのです。しかしイスラエルの人たちがそうであったように、私たちもこの神様の語りかけを無視して、命と祝福ではなく、死と滅びと呪いを選んでしまいます。そのような私たちは裁判官のもとに連れて行かれ、看守に引き渡され、牢に投げ込まれるしかない者なのです。
私たちの代わりに主イエスが裁かれた
しかし神様は、自分の罪を認められず、罪を犯した相手と仲直りできない私たちに、驚くべき仕方で関わってくださいました。裁判官である神様は、本来、自分のところに連れて来られた私たちを裁き、牢に投げ込み、そこから出られなくして当然です。しかし神様はそうしないために、私たちの代わりに独り子であるイエス・キリストを裁かれたのです。私たちの代わりに主イエス・キリストを十字架上で裁くことによって、神様は私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。神様の語りかけを無視し、死と滅びと呪いを選んでしまう私たちを救ってくださったのです。主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちにとって死はもはや終わりではなくなりました。この地上の歩みにおいては必ず死を迎えるとしても、世の終わりに復活させられ、永遠の命に与るという約束が与えられているのです。私たちは洗礼を受け、主イエスによる救いに与った後も、なお罪を犯し続けています。今も私たちは、自分の否をなかなか認めようとせず、プライドが邪魔して謝ることができず、自分と共に生きる人と仲直りできずにいます。しかし私たちはもはや神様のみ前に出るとき、自分が裁かれて滅ぼされることを恐れなくて良いのです。ビクビクしながら自分を訴える人と一緒に役人のところに行くのでも、神様のもとに連れて行かれるのでもありません。主イエスがすでに私たちの代わりに十字架で裁かれ、滅ぼされてくださったからです。
罪赦されて生かされている時
ですから主イエスは、自分が罪を犯した相手と共に生きていく中で、その人と仲直りできなければ、神様によって滅ぼされるぞ、と脅しているのでは決してありません。死と滅びと呪いをちらつかせて、仲直りしろ、と脅しているのでは決してないのです。主イエスの十字架と復活によって、死と滅びと呪いの支配は滅ぼされ、恵みの支配が実現しました。私たちはすでにこの恵みの支配のもとに入れられているのです。「今の時」とは、すでに恵みの支配が始まっている時にほかなりません。私たちがすでに罪赦されて生かされている時にほかなりません。そのことに私たちは気づかなくてはならない。日々、熱心に天気予報を知ろうとする以上に、今、自分が罪赦されて生かされていることに気づかなくてはならないのです。天気よりも、傘を持っていくかよりも、どんな服を着るかよりも、日々、神様が私たちに与えてくださっている恵みを数えていくのです。
仲直りするように努める
そのようにして私たちが、「今の時」を、主イエスの十字架によって罪赦されて生かされている時と見分けるならば、「今の時」にすべき正しいことが私たちに示されていきます。何が正しいかを自分で判断するよう導かれるのです。「今の時」にすべき正しいこと、それは、神様から罪を赦された者として、私たちが罪を犯してしまった相手と、傷つけてしまった相手と仲直りするよう努めることにほかなりません。救いの恵みに入れられて、神様のもとに向かって歩んでいる途上にあって、共にいる人と和解するよう努めることにほかならないのです。そのように生きることが、主イエスに従って生きることです。主イエスと距離を取って眺めているのではなく、主イエスと共に生きることなのです。もちろん仲直りすることが正しいと判断したからといって、仲直りできないことも多々あります。なお私たちには罪があり、弱さや欠けがあるからです。しかし主イエスはここで、仲直りができたかどうかを問うているのではありません。「仲直りするように努める」ことを求めておられるのです。罪を犯した相手が、傷つけてしまった相手がいることに気づかないふりをして、謝ろうとせず、はなから仲直りすることを諦めてはならない、と言われているのです。主イエスの十字架によって罪赦されて生かされていることに気づくならば、「今の時」を見分けられるなら、私たちは、結果がどうなろうとも、和解を求めて生きるようになるのです。私たちはすでに罪赦されて生かされている「今の時」に入れられています。この「今の時」を見分けることによって、神様のみ前に立つまでの地上の歩みにおいて、私たちは勇気を持って罪を認め、赦しを求め、仲直りするよう努めるのです。そこにこそ対立ではなく和解が生まれ、憎しみではなく赦しが生まれていくのです。