夕礼拝

あなたの中にある光

「あなたの中にある光」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第60章1-3節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第11章33-36節
・ 讃美歌:301、77

分かりにくい箇所
本日はルカによる福音書11章33-36節をご一緒に読み進めていきます。短い箇所であり、ともし火の譬えは別の箇所でも語られているため読み飛ばしてしまいそうになるかもしれません。しかしよく読んでみると、二つのともし火の譬えが組み合わされていることに気づかされます。そしてそのために分かりにくくもなっているのです。分かりにくい箇所を読むときは文脈の中で読むことが大切ですから、11章の文脈の中で(特に14節以下の文脈の中で)、二つの譬えが入り組んでいる本日の箇所のみ言葉に聴いていきたいと思います。

ともし火の譬え
ともし火の譬えは別の箇所でも語られている、と申しました。すぐ思い浮かぶのはマタイによる福音書5章13-16節ではないでしょうか。いわゆる「山上の説教」の一部で、主イエスが弟子たちに「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と言われた箇所です。主イエスは「あなたがたは世の光である」と言われた後、15節でこのように言われています。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」。この主イエスのお言葉は、本日の箇所、冒頭33節の「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とよく似ています。このマタイ福音書5章15節の「ともし火」は何の比喩なのでしょうか。それは「世の光であるあなたがた」であり、つまり世の光である私たちキリスト者です。このことは、ともし火の譬えに続いて主イエスが「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われていることから分かります。ともし火をともしたら、それを升の下に置いたりせず燭台の上に置くように、あなたがたの光を隠すことなく人々の前に輝かしなさい、と主イエスは言われたのです。

ともし火は神の国の到来の現実を表す
では、本日の箇所の33節の「ともし火」は、なにを表しているのでしょうか。世の光である私たちキリスト者自身でしょうか。そうではないように思えます。33節の「ともし火」が何の比喩なのかは、前回の箇所の文脈の中で読むことによって示されます。前回の箇所で、ニネベの人たちがヨナの説教を聞いて悔い改めたことによって、ヨナがニネベの人たちに対するしるしとなった。それと同じように主イエスの説教によって、主イエスも今の時代の者たちに対してしるしとなる、と語られていました。ですから33節では、今の時代の者たちに対するしるしであり、そして私たちに対するしるしである主イエスご自身が「ともし火」なのです。あるいは主イエスの説教が「ともし火」である、と言っても良いかもしれません。ここで主イエスの説教とは、主イエスが人々に語った一つひとつの教えや譬え話のことではなく、主イエスが宣べ伝えた中心的な事柄のことです。それは、主イエスによって神の国がすでに私たちのところに来ているということにほかなりません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すでに神の国がこの地上に到来し、神のご支配がこの地上において始まっていることにほかならないのです。33節では「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言われていました。ともし火が穴蔵の中や升の下に隠されることなく、燭台の上に置かれて周りを照らすように、主イエスご自身という「ともし火」は、主イエスによって実現した神の国の到来という「ともし火」は、隠されることなく世を照らしているのです。

啓示の光
ルカ福音書はこれまでも主イエスという「ともし火」が隠されるために世に遣わされたのではなく、世を照らすために世に遣わされたことを語ってきました。2章22節以下では、律法の定めに従ってヨセフとマリアが幼子イエスを連れてエルサレムに上ったとき、エルサレム神殿でシメオンという人物に出会ったことが語られています。そのときシメオンは幼子イエスを抱いて神を賛美しましたが、その中でこのように言っています。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。ここで主イエスは「啓示の光」と言われています。啓示は、啓蒙時代の「啓」に「示す」と書きますが、神が私たちに啓き(ひらき)示してくださることを意味します。平たく言えば、神が私たちに明らかにしてくださるということです。神は何をどのように私たちに啓き示してくださるのでしょうか。私たちの救いを啓示の光である主イエス・キリストにおいて啓き示してくださるのです。地上を歩まれた主イエスのお言葉とみ業によって、なによりもその十字架の死と復活によって啓示してくださったのです。主イエスの十字架と復活において私たちの救いが実現し、すでにこの地上に神の国が到来し、神のご支配が始まっていることを明らかにしてくださったのです。この啓示の光である主イエスという「ともし火」は隠されることなく燭台の上に置かれて世を照らしています。そしてこの啓示の光によって明らかにされた主イエスの十字架と復活による救いの実現と神の国の到来という「ともし火」の光も、隠されることなく世のすべての人々を照らしているのです。

主の日の礼拝で起こっている
このことはなによりも主の日の礼拝において起こっています。主の日の礼拝は「公の礼拝」と言われます。「公」とはパブリックということです。つまり主の日の礼拝は、パブリックな礼拝であってプライベートな礼拝ではないのです。それは、誰もがこの礼拝に出席することができるということであり、別の言い方をすれば神はすべての人をこの礼拝に招いておられるということです。しかしそれだけではありません。プライベートではなくパブリックであるとは、この礼拝において語られるみ言葉が教会のメンバーだけに関わるのではなく、世のすべての人々に関わるということでもあるのです。主の日の礼拝において、教会は世のすべての人々に、主イエスによって実現した救いという「ともし火」を掲げ、この地上にすでに神の国が到来していることを宣言しているのです。主イエスは「入ってくる人に光が見えるように」と言われました。家の中にいる人たちが暗いと不便だから光を灯すのではなく、家を探している人たちが迷わず家に入って来られるように光を灯して燭台の上に置くのです。教会が主イエスによる救いの実現という「ともし火」を掲げるのは教会のメンバーのためだけではなく、むしろ救いを求めている方々のためなのです。この世にあって本当の希望を持つことができずにいる方々が教会に入って来られるように、教会は主イエスによる救いの実現という「ともし火」を掲げ続けるのです。

体のともし火は目
このように主イエスによる救いの実現という「ともし火」の光が隠されることなく世の人々を照らしているのであれば、その光を見ている私たちの「目」が問われることになるのではないでしょうか。34節ではこのことが見つめられています。主イエスは「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と言われています。この譬えは分かりくいと思います。33節と34節を続けて読むと混乱するのではないでしょうか。なぜなら33節と34節では「ともし火」によって表されていることが異なるからです。33節では主イエスご自身が、そして神の国の到来の現実が「ともし火」に譬えられていたのに対して、ここでは私たちの目が「ともし火」に譬えられています。つまり本日の箇所では、「ともし火」が二つのことを譬えているのであり、その二つの譬えが組み合わされているために分かりにくくなっているのです。ですから私たちは34節で一旦、頭のスイッチを切り替え、34節の「ともし火」は、私たちの体の目の比喩であることを捉えておきたいのです。「体」とは、肉体というよりも私たちの存在そのものを意味します。もちろん肉体を伴ってはいますが、私たちの考えとか発する言葉とか行動とかをすべて含めて「体」と言い表しているのです。34節で見つめられているのは、そのような私たちの体のともし火である目が澄んでいるか濁っているかで、私たちの存在そのものがどんな状態であるかが決まってくるということなのです。

「ともし火」が目の比喩?
目が澄んでいるか濁っているかということに目を向ける前に、そもそも目が「ともし火」に譬えられていることも、私たちには分かりにくいのではないでしょうか。現代に生きる私たちは、科学的知識として、私たちが何かを見るというのは、大雑把に言って、対象が発する光を自分の目の中へ取り入れることだと知っています。私たちが光を発するのではなく、対象が光を発するというイメージで捉えているのです(正確には対象が光を反射している)。ところが「ともし火」というのは光を発します。だから私たちは「ともし火」が、光を取り入れる目の比喩であることに違和感を覚えるのです。世を照らしている主イエスという啓示の光が「ともし火」に譬えられているのはよく分かるけれども、その光を見る私たちの目が「ともし火」に譬えられているのは腑に落ちないのです。しかし主イエスの時代には、あるいは聖書が書かれた時代には、何かを見ることについて、現代のようには捉えられていなかったようです。色々な捉え方があったようですが、例えば、目からも対象からもビームが出ていて、それらが衝突することによって対象を見ることができるという捉え方がありました。そうであるならば、目が「ともし火」に譬えられているのも納得できるのではないでしょうか。目は対象の光を取り込むというより、むしろ対象に向かって光を放つと考えられていたのです。

濁っている目、澄んでいる目
さて主イエスは「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と言われました。「濁っている」と訳された言葉は、単に「悪い」という意味の言葉ですが、「澄んでいる」に引っ張られる形で「濁っている」と訳されたのだと思います。聖書協会共同訳では「目が悪ければ、体も暗い」と訳されています。「濁っている」という訳も「澄んでいる」に対応しているという点では優れていると思いますが、その一方でこのように訳すと29-32節とのつながりが見出しにくくなります。前回、29節の「今の時代の者たちはよこしまだ」の「よこしま」と訳された言葉は「悪い」という意味の言葉だとお話ししましたが、この「よこしま」と訳された言葉と、34節の「濁っている」と訳された言葉は同じ言葉なのです。つまり今の時代の者たちが悪いのは、彼らの存在そのものの「ともし火」である目が悪いからである、ということになります。今の時代の者たちは天からのしるしを欲しがるから悪いと言われていました。ですから悪い目を持って生きるならば、天からのしるしを欲しがって生きるようになり、私たちの体は暗くなり、今ここで生きている私たちの存在そのものが暗くなるのです。
「澄んでいる」と訳されている言葉も、この箇所と同じ譬えが語られているマタイ福音書6章22節でしか使われていない珍しい言葉です。この言葉は、本来「シングルである」、「一重である(重なっていない)」、「真っすぐである」という意味の言葉です。またこの言葉の名詞の形が新約聖書の幾つかの手紙の中で使われていますが、そこでは「惜しまず」とか「真心を込めて」と訳されています。ですから澄んでいる目とは、美しくきれいで魅力的な目のことではなく、何であれ真っすぐにしっかりと真心を込めて見る目のことなのです。敢えて譬えるならば、乱視のようにダブって歪んで見えたり、近視のように焦点が合わずにぼんやり見えたりするのではなく、焦点をピタリと合わせて真っすぐにしっかりと見るのです。そのような澄んだ目を持って生きるならば、私たちの全身は明るくなり、つまり今ここで生きている私たちの存在そのものが明るくなるのです。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とは、澄んだ目で見ているならば、私たちは光を放つ存在として生きることができるけれど、悪い目で見ているならば、私たちは闇を振りまく存在として生きることになるということなのです。

二つの譬えが一つに結びつけられる
本日の箇所の終わり、36節では「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」と言われています。この主イエスのお言葉は「あなたの全身が明るいならば…全身は輝いている」と言われているので同語反復のようにも思えます。しかしこの36節においてこそ、もともと違うことを表していた二つの「ともし火」の比喩が一つに結びつけられているのです。前半の「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ」というのは、34節で見つめられていたこと、つまり「あなたの目が澄んでいて、あなたが光を放つ存在として生きているならば」ということです。後半の「ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように」というのは、冒頭の33節で言われていたこと、つまり「燭台の上に置いたともし火が周りを照らすときのように」ということであり、「主イエスによる救いの実現という『ともし火』が世を照らすときのように」ということです。ですから世を照らす救いの実現という光に照らされて輝いて生きることが、澄んだ目で光を放つ存在として生きることと結びつけられ一つのこととして見つめられているのです。私たちが救いの光に照らされて輝くことは、私たちが澄んだ目で光を放って生きることと切り離せません。別の言い方をすれば、私たちは主イエスによる救いに与り、神の国に入れられて終わりなのではなく、神のご支配の下で光を放って生きていくのです。

闇に覆われている
ここまで読み進めてきて、しかし私たちは二つのともし火の譬えのどちらも簡単には受け入れられないのではないでしょうか。私たちはしばしば自分たちが主イエスによって実現した神の国の到来という「ともし火」の光に照らされていることを信じられなくなります。その「ともし火」が隠されることなく燭台の上に置かれて世のすべての人を照らしていると言われても、私たちはそのようには思えないのです。それどころかこの世界は闇に覆われているように思えます。世界に目を向ければ、トルコ・シリアにおける大地震やウクライナにおける戦争で多くの命が奪われ、多くの方々が困難の中にあります。身近な社会に目を向けても、日々、心の痛む事件や事故が起こっています。世界や社会だけではなく私たち自身も闇に覆われているように思えます。先行きの見えない不安や恐れを抱え、将来に希望を持つことができず、闇の中を歩んでいるように思わずにはいられないのです。そのような中で、私たちは本当にこの世界と社会が、そして私たち自身が主イエスによる救いの実現という「ともし火」の光に照らされているのかと疑ってしまうのです。

光は昇り、輝いている
けれどもみ言葉は確かに主イエスによる救いの光が世を照らしていると告げています。共に読まれた旧約聖書イザヤ書60章1-2節にこのようにあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い 暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる」。このイザヤの預言が、主イエスがこの世に来てくださり、十字架で死なれ、復活されることによって実現しました。今もなお、私たちはこの世界と社会を、私たち一人ひとりを闇が覆い、暗黒が包んでいるように感じます。しかしこの世界と私たち一人ひとりを照らす主イエス・キリストという光はすでに昇り、その十字架の死と復活によって現された栄光がこの世界と私たち一人ひとりの上に輝いているのです。私たちはこのことを信じ、このことにこそ希望を置き、このことが完全に明らかになる救いの完成を待ち望みつつ歩んでいくのです。

澄んだ目を持っていない
そのように歩むとしても、私たちは自分の体のともし火である目が澄んでいるようには思えないのではないでしょうか。澄んだ目、何であれ真っすぐに真心を込めて見る目など持っていないように思えるのです。むしろ私たちの目は濁っているよこしまな悪い目です。自分の好き嫌いで偏って見てしまい、真心を込めて見るよりも、悪意や敵意や好奇心を持って見てしまいます。そのような私たちは光を放つ存在として生きているのではなく、闇を振りまく存在として生きていると思わずにはいられないのです。

あなたの中にある光
35節で主イエスは「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と言われています。しかしそれは私たちが自分の力で自分の内に光を生み出せるということではありません。自分の心の内の光が消えそうになっているとき、自分の力で光を生み出そうとしても、そんなことはできないのです。本来、私たちの内には光ではなく闇しかありません。澄んだ目ではなく濁った目、悪い目をもたらす闇しかなかったのです。隣人を批判し裁いてばかりいる闇を振りまく存在であったのです。しかしそのような闇に覆われた私たちの心を照らす光が、主イエス・キリストという光が昇りました。私たちの中にある光は、私たち自身が生み出した光ではなく主イエス・キリストの光です。主イエスによる救いに与り、主イエスと一つとされることによって私たちの内に灯った光なのです。その光が消えないために私たちがなすべきことは、24節以下で繰り返し見つめられてきたように、神の言葉を聞き続け、それを心の内に保ち続けることです。み言葉こそが私たちの中にある光を輝かし続けます。み言葉によって私たちの内なる光が輝くことによって、私たちは澄んだ目で何ごとをも見ることができるように変えられていくのです。主イエスによる救いの実現という光に照らされている私たちが、何ごとも真っすぐに真心を込めて見ることで光を放って生きる者とされていくのです。神の国に入れられた私たちは、その神のご支配の下で、み言葉によって内なる光を輝かし続け、光を放って生きることへと導かれるのです。
今ここで生きている私たちが光を放つとは、なにか優れた考えを持ち、気の利いた言葉を言い、善い行いをすることではなく、この世と私たちを照らすまことの光である主イエス・キリストを証ししていくことです。主イエスによる救いがここにあり、主イエスによって実現した神の国がここにあると証ししていくことこそ、主イエスによって与えられ、み言葉によって輝いている私たちの内なる光を世に向かって放って生きていくことにほかならないのです。

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