「必要なことはただ一つ」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第119編81-88節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章38-42節
・ 讃美歌:58、75
2023年最初の夕礼拝
昨年12月25日のクリスマスと今年1月1日の元旦の夕礼拝はお休みでしたので、私たちは久しぶりに主の日の夕べに神さまの御前に招かれ、集められて夕礼拝を守っていることになります。コロナ禍にあって二年間行えなかった夕礼拝を昨年の4月に再開し、私が担当するときはルカによる福音書を読み進めてきました。新しい年2023年も引き続きルカによる福音書のみ言葉に聞き続けていきたいと思います。
マルタとマリアの話
前回、と言っても12月11日ですのでほぼ一ヶ月前ですが、「善いサマリア人のたとえ」を読みました。「善いサマリア人のたとえ」はルカによる福音書だけに記されている話で、主イエスのたとえ話の中でもよく知られている話の一つです。それに続く本日の箇所で語られているのが、マルタとマリアの話です。この話もルカ福音書だけに記されている話で、たとえ話ではありませんがやはりよく知られている話の一つです。実はマルタとマリアは、兄弟ラザロと共にヨハネによる福音書11-12章にも登場します。しかしそこで語られている話は、本日の箇所で語られている話と重なるところがあまりありません。ルカ福音書は独自の文脈の中でマルタとマリアを登場させているのです。
一行が歩いて行くうち
冒頭38節に「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」とあります。この「一行が歩いて行くうち」というのが、ルカ福音書独自の文脈であり、この箇所を読むときの大切なポイントになります。「一行」というのは主イエスと弟子たちのことですが、彼らは目指す目的地もなく歩いていたのではなく、エルサレムに向かって旅をしていました。9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあるように、主イエスはご自分の十字架の死と復活、その昇天を見据えつつ、エルサレムに向かって進まれていたのです。そのエルサレムに向かう旅の途上で、主イエスと弟子たちはマルタとマリアが暮らしている「ある村」にお入りになりました。
主イエスを家に迎え入れる
38節後半に「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。マルタは村にやって来た主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れました。この先を読むと分かるように、このことはマルタだけがイエスを家に迎え入れたいと願っていた、ということではありません。マリアもそのように願っていたのです。ただマルタのほうがより主体的に、また積極的に動いたのではないでしょうか。マルタという名前は「女主人」を意味するので、おそらくマルタが姉で、マリアは妹です。自分と妹の願いをかなえるために、家の主人として、姉として、マルタは率先して動いたのです。彼女は家の前まで出て行って、主イエスと弟子たちを迎えたのかもしれません。
大切なことは、主イエスを自分の家に迎え入れることが、単に主イエスを客として家に招くことを意味しているのではないということです。同じルカ福音書19章1-10節で語られている「徴税人ザアカイ」の物語においても、イエスを見るためにいちじく桑の木に登ったザアカイに、イエスが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)と言われると、「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」(6節)と語られています。そして物語の最後でイエスは、「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と言われているのです。ザアカイは主イエスを喜んで自分の家に迎え入れました。そのことによってザアカイの家に救いが訪れたのです。ですから主イエスを家に迎え入れるとは、主イエスによる救いを信じ受け入れることです。同じようにマルタとマリアが主イエスを家に迎え入れたことは、彼女たちが主イエスによる救いを信じ受け入れたことを意味しているのです。
決断によって
そしてそれは決して当たり前のことではありませんでした。主イエスと弟子たちがマルタとマリアの暮らしている村に立ち寄ったのは特別なことではありません。彼らは町や村を巡りながらエルサレムに向かって進んでいたからです。しかしマルタとマリアが主イエスを家に迎え入れたのは、彼女たちの決断によってなされた特別なことです。主イエスはエルサレムに向かって進み始められてすぐ、ご自分がこれから訪ねようとしている町や村に、先に七十二人の弟子を遣わしましたが、その際、主イエスは彼らにこのように言いました。10章8-11節です。「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と」。つまり、これから訪れるどの町や村でも主イエスと弟子たちが受け入れられるわけではないということです。ある人たちは、主イエスを迎え入れ、「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉を受け入れ、しかしある人たちは、主イエスを迎え入れず、「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉を拒んだのです。そのような中にあって、マルタとマリアは主イエスを家に迎え入れる決断をしました。それは、彼女たちが主イエスを信じ、主イエスの告げる福音を受け入れ、「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉を受け入れたからにほかならないのです。
二人の信仰者の姿が描かれている
ですからこの物語で語られているマルタとマリアの対比を、主イエスを信じない人と信じる人の対比として捉えるのは間違っています。この物語ではどちらが主イエスを本当に信じ受け入れたか、ということが見つめられているのではありません。マリアは主イエスを本当に信じ受け入れたけれど、マルタはそうではなかったという話ではないのです。マルタとマリアのどちらもが主イエスを信じ、その福音を受け入れ、主イエスに従って歩もうとしていました。ここでは主イエスによる救いを受け入れた二人の信仰者の姿が描かれているのです。ですからマルタとマリアと同じように主イエスによる救いを受け入れた私たちは、この物語を通してこの二人の姿に自分たちの姿を見るのです。
主イエスの足もとに座るマリア
39節で「彼女にはマリアという姉妹がいた」とマリアが紹介されています。本日の箇所はマルタとマリアの話ですが、実はこの話の中でマリアは一言も発していませんし、マリアの姿が描かれているのもこの39節だけです。主イエスが家に入ってくると、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」と語られています。「その話に聞き入っていた」は、直訳すれば「彼の言葉を聞き続けていた」となります。「彼の言葉」とは、主イエスの言葉、主の言葉にほかなりません。マリアは主の言葉を聞き続けていたのです。先ほどお話ししたように、主イエスは七十二人の弟子を派遣する際に、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と命じられました。そのように命じられた主イエスご自身が、迎え入れられたマルタとマリアの家で、神の国の到来について語られたのです。「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言し、赦しと救いを告げる良い知らせ、福音を伝え、神の御心をお示しになったのです。マリアはその主イエスの言葉を聞き続けていたのです。新共同訳聖書は「聞き入っていた」と訳していますが、ある別の訳では「じっと聞いていた」と訳しています。マリアは、主イエスが語る言葉を一言も聞き漏らすまいと集中して聞き続けていました。主イエスの足もとに座るとは、そのようにして主の言葉を聴く人の姿です。8章26節で、悪霊に取りつかれ衣服を身につけず墓場に住んでいたゲラサの人が、主イエスによって悪霊を追い出されると、「服を着、正気になってイエスの足もとに座ってい」(35節)たと語られていました。主イエスによって救われたゲラサの人も、そして主イエスを迎え入れたマリアも、主イエスの足もとに座って、主イエスが語る言葉を聞き続けていたのです。
忙しく動き回るマルタ
マリアが主イエスの足もとに座り主の言葉を聞き続けていたのに対し、マルタは「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いて」(40節)いました。「いろいろの」は「多くの」という意味で、「もてなし」は「接待」や「奉仕」を意味します。マルタの「いろいろのもてなし」、つまり「多くの奉仕」が間違っていたのではありません。主イエスは七十二人の弟子を遣わすとき「(その)家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10:7)と言われています。このことは裏を返せば、主イエスや弟子たちを家に迎え入れるならば、彼らに食事や飲み物を提供し、あるいは寝る場所を用意して、彼らに奉仕するのは当然だ、ということです。マルタはその通りのことをしました。主イエスと弟子たちに奉仕し、食事や飲み物を用意してもてなしたのです。そこには彼女の主イエスへの愛がある、と言って良いと思います。主イエスを愛しているからこそ、主イエスのために奉仕し、主イエスに仕えようとしたのです。しかしそのために彼女は「せわしく立ち働」かなくてはならなくなりました。マリアが主イエスの足もとに座ってじっとしていたのとは対照的に、マルタは忙しく動き回っていたのです。
せわしく立ち働いていた
マルタの姿を描いて「せわしく立ち働いていた」という言葉が使われています。この言葉は、新約聖書でこの箇所だけで使われている言葉ですが、色々な意味を持つ言葉で、マルタの心の内を良く表していると思います。この言葉は「せわしくする(忙しくする)」のほかに、「悩まされる」、「混乱させられる」、「気が気でなくなる」という意味を持ち、また「重荷を負わされる」という意味をも持ちます。さらにこの言葉のもともとの意味は「引き離される」です。マルタは主イエスによる救いを信じ受け入れ、その救いの恵みにお応えしたいと願って、一生懸命に主イエスと弟子たちに奉仕し、仕えようとしたのです。しかしそのために彼女は忙しくなりました。あれもこれもしなくてはと悩まされました。段取りはうまく行っているだろうか、食事や飲み物はすべての人に行き渡っているだろうか、と気が気でなくなりました。心に余裕がなくなり、段々奉仕を重荷に感じるようになったのかもしれません。そのようになってしまった理由は、「せわしく立ち働く」という言葉のもともとの意味である「引き離される」から示されます。つまりマルタは、主イエスを家に迎え入れた本来の目的から「引き離されて」しまったのです。彼女が主イエスを迎え入れたのは、なによりも主イエスの言葉を聞きたかったからです。赦しと救いを告げる主の言葉を聞きたかったからです。しかしいつのまにかそのことから引き離されてしまった。そのことによってマルタは忙しくなり、心を悩まし、気が気でなくなり、気持ちが混乱し、奉仕を重荷に感じたのです。
不平や不満がわき起こる
そしてマルタの心をいつのまにか不平や不満が占領するようになります。マルタは主イエスに近寄って言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。このマルタの訴えは、「なんでわたしだけが」というマルタの気持ちを言い表しています。なんで私だけがこんなに忙しくしなくてはならないのか、なんで私だけが奉仕のことで悩んだり、心を乱されたりしなくてはならないのか、なんで私だけが奉仕を重荷に感じるほどまで苦しまなくてはならないのか。私だけでなくマリアも主イエスを家に迎え入れたいと願ったのだから、マリアも少しはもてなしてくれても良いのに。マリアの願いを叶えるために私はこんなに頑張っているのに、なんでマリアはなにも手伝ってくれないの。そのような不平や不満が、マルタの心に次から次へとわき起こり、渦巻いていたのです。
奉仕が歪む
繰り返しになりますが、マルタは主イエスを愛していました。主イエスに仕え、主イエスのために奉仕したいと願っていました。それは尊い願いであり、正しい思いです。私たちも主イエスによる救いに与った者として、その救いにお応えして、主イエスに仕え、奉仕を担っていきたいと願います。しかし尊く正しい思いから奉仕をするにもかかわらず、いえ、尊く正しい思いから奉仕をするからこそ、私たちはしばしば奉仕において自分の正しさを示そうとしてしまいます。主イエスへの奉仕が、いつのまにか自分の正しさを示すものになってしまうのです。そのとき私たちは、ほかの人も自分と同じように奉仕するべきだと思うようになります。自分とほかの人を比べて、自分はこんなに忙しく奉仕しているのに、あの人が何もしないのは間違っていると批判したり裁いたりしてしまうのです。そうなってしまうなら私たちの主イエスへの奉仕は歪んでしまっているのです。
奉仕に潜む誘惑
それだけではありません。私たちは主の言葉から引き離される誘惑に絶えずさらされています。その意味で、主イエスへの奉仕にも誘惑が潜んでいるのです。私たちはしばしば主の言葉を聞き続けることよりも、奉仕を優先する誘惑に負けてしまいます。なぜでしょうか。それは救いの恵みにお応えするために奉仕するのではなく、自分の満足のために奉仕するようになってしまっているからです。忙しく、心を悩まし、気が気でなくなり、気持ちが混乱し、奉仕を重荷に感じる。でも、それほどまでに奉仕している自分にどこかで満足し、充実感を覚えているのではないでしょうか。私のように牧師として立てられている者は、そのような誘惑に最もとらわれやすいと思います。その働き、その生活全体が、主への献身、主への奉仕であると願っているのに、いつのまにか働きの忙しさに満足を求めてしまうことがあるのです。私たちは救いの恵みにお応えする奉仕においても、そのような弱さ、欠け、罪を抱えています。その弱さ、欠け、罪によって主の言葉から引き離されるとき、私たちの奉仕はやはり歪んでしまうのです。
必要なことはただ一つ
マリアへの不平と不満が心に渦巻いていたマルタに、主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。聖書において名前が二度呼ばれるのは、その人に対して大切なことが告げられるときです。ダマスコに向かっていたサウロ(パウロ)に、主イエスは「サウル、サウル」(使徒9:4)と呼びかけましたし、神の山ホレブに来たモーセに、主なる神は「モーセよ、モーセよ」(出エジプト記3:4)と呼びかけました。ここでも主イエスはマルタに大切なことを告げようとしているのです。主イエスはマルタに怒られたのではありません。主イエスはマルタを愛され、「マルタ、マルタ」と呼びかけ、大切なことを告げられたのです。主イエスは「あなたは多くの奉仕のことで思い悩み、心を乱しているけれど、しかし、必要なことはただ一つだけである」と言われます。ただ一つの必要なこと、決して欠くことができないこと、それが、主イエスの言葉を聞き続けること、赦しと救いを告げる主の言葉を聞き続けることにほかなりません。
主イエスはマルタに「多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われています。この「思い悩み」や「心の乱れ」は、日々の歩みの中で経験する「人生の思い煩い」のことではありません。マルタは「人生の思い煩い」にとらわれて主の言葉を聞こうとしなかったのではないのです。彼女が思い悩み、心を乱したのは「多くのこと」のため、つまり「多くの奉仕」のためです。マルタは主イエスを信じ受け入れ、その救いの恵みに感謝し主イエスに奉仕しました。それはとても大切なことです。決して軽んじてはならないことです。しかしマルタは「ただ一つ必要なこと」から引き離されてしまった。「ただ一つ必要なこと」を見失ってしまったのです。だから奉仕のために思い悩み、心を乱したのです。それに対してマリアは、ほかのどんなことにも優先して主の言葉を聞き続けたのです。ほかのどんなことにも優先して赦しと救いを告げる主の言葉を聞くことこそが「ただ一つ必要なこと」です。マリアはそこから引き離されることがなかったのです。
神の言葉をないがしろにしてはならない
それは主イエスの言葉さえ聞いていれば、主イエスへの奉仕は必要ないということではありません。ルカ福音書の続きである使徒言行録は、生まれたばかりの教会の歩みを語っていますが、その6章2節で十二人の使徒が弟子たちを呼び集めて次のように語る場面があります。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない」。「食事の世話」の奉仕は必要です。主イエスをもてなすこと、主イエスのために奉仕することは必要です。教会における色々な奉仕は必要だし、社会における様々な愛の業の奉仕も必要です。けれども「神の言葉をないがしろにして」はならないのです。主イエスの言葉を聞き続けることから引き離されてはならないのです。神の言葉をないがしろにするとき、赦しと救いを告げる主の言葉を聞くことから引き離されるとき、私たちの奉仕は歪んでしまうからです。
赦しと救いの主の言葉を聞き続ける
私たちは救いの恵みにお応えする奉仕においてすら、不平や不満を感じたり、自分の正しさを示そうとしてほかの人を批判したり裁いたり、あるいは自分の満足を求めたりします。私たちには自分ではどうすることもできない弱さや欠けや罪があるのです。だからこそ私たちは赦しと救いを告げる主の言葉を聞き続ける必要があるのです。私たちは本当に弱い者です。主の日には、心からの感謝と喜びに満たされ、神と隣人とに仕えていこうという思いを与えられて礼拝から遣わされていきます。しかし一週間の歩みの中で、いつのまにか自分の弱さや欠けや罪に圧倒されてしまうのです。だから私たちは罪を赦される必要があります。救いの恵みによって新しくされる必要があります。主の日ごとの礼拝で、み言葉によって自分の正しさや自分の満足を追い求めてしまう罪を打ち砕かれ、私たちは赦され新しくされます。み言葉を通して私たちは、救われるに値しない自分のために、主イエスがご自身の命を献げてくださったことを知らされます。その計り知れない救いの恵みを知らされることによって私たちは、自分とほかの人を比べて不平や不満を感じたり、批判したり裁いたりすることから解放され、自分の正しさや満足を求めることからも解放されるのです。主イエスは私たちを愛してくださり、マルタに呼びかけたように、私たち一人ひとりの名前を二度呼んで、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と語りかけてくださっています。私たちはその「ただ一つの必要なこと」から、赦しと救いの主の言葉を聞き続けることから引き離されることなく歩んでいくのです。その歩みにこそ本当の奉仕が、救いの恵みに感謝し、心からの喜びに満たされた奉仕が起こされていくのです。