夕礼拝

あなたの名が天に記されている

「あなたの名が天に記されている」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:ダニエル書 第12章1-4節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章17-20節
・ 讃美歌:54、571

エルサレムへ向かう主イエスと共に
 ルカによる福音書は9章51節から新たな局面に入りました。それまでガリラヤのあちらこちらで神の国を宣べ伝えていた主イエスが、エルサレムを目指して歩み始められたのです。9章51節には「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。このエルサレムへの旅は19章(27節)まで続きます。私たちはルカ福音書9章から19章までを読み進めつつ、エルサレムへ向かわれる主イエスと共に歩んで行きたいのです。

七十二人の派遣
 エルサレムに向かって進んで行かれる主イエスに従ったのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブといった十二弟子だけではありません。そのほかにも名前の知られていない多くの弟子たちがいました。先週、読み進めた10章1節以下では、主イエスがその弟子たちの中から「七十二人」を任命し、遣わしたことが語られていました。すでに9章で、主イエスが十二弟子を遣わしたことが語られていましたが、ルカ福音書は、その十二弟子のほかにも七十二人の弟子が遣わされたことを記しています。マタイ、マルコ、ルカ福音書は共通する部分が多くありますが、十二弟子の派遣だけでなく、七十二人の弟子の派遣を記しているのはルカ福音書だけです。このことによってルカ福音書は、主イエスによって遣わされるのは十二弟子だけではないことを強調しています。十二弟子に限らず、名前の知られていない多くの弟子が神の国を宣べ伝えるために遣わされるのです。私たち一人ひとりも、そのような弟子の一人です。前回お話ししたように、この七十二人の派遣において、後の教会の働きが見つめられているからです。神の国を宣べ伝え、伝道するのは、後の教会の働きの中心であり、教会の使命です。七十二人と同じように、教会に連なる私たちは神の国を宣べ伝えるために世に遣わされているのです。

後から来てくださる主イエスに先立って
 10章1節にはこのようにありました。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。主イエスは自分がこれから行こうとしている町や村に、自分より先に弟子を遣わしたのです。弟子たちが先に遣わされ、後から主イエスがやって来る。このことは私たちも同じである、ということも前回お話ししました。私たちは主イエスの十字架と復活、その昇天より後の時代を生きています。すでに神の独り子がこの世に来てくださり、十字架と復活によって救いを実現してくださった後の時代を生きているのです。しかし同時に私たちは、今、天におられる主イエスが再びこの世に来てくださり、救いを完成してくださるのを待ち望みつつ生きています。終わりの日に来てくださる主イエスに先立って、私たちは今、世に遣わされているのです。救いに与った私たちが先に遣わされ、後から主イエスが来てくださる。主イエスが再び来てくださるのを待ち望みつつ、そのときまで私たちは神の国を宣べ伝え、伝道し続けるのです。

二つの視点
 このようにルカ福音書を読み進めていく私たちは、エルサレムへ向かわれる主イエスと共に歩み、同時にその歩みの中で見つめられている後の教会の働きを受けとめていきます。ややこしいと思われるかもしれません。しかしこの二つの視点はルカ福音書そのものの視点です。エルサレムへ、つまり十字架へと進んで行かれる主イエスと、その主イエスに従う弟子たちを通して、後の教会の働きが見つめられているのです。そしてそれは、私たちキリスト者の二つの視点と言っても良いかもしれません。私たちは主イエスの十字架と復活によって救いが実現した後の時代、つまり「教会の時」あるいは「伝道の時」を歩んでいます。同時に私たちキリスト者は、いつでも受難の道を歩まれる主イエスに従って歩んでもいるのです。私たちはいつでも主イエスが十字架へと歩まれた、その足跡に続いて歩んでいくからです。この二つの視点を大切にしつつ、私たちはルカ福音書を読み進めていきたいのです。

七十二人の帰還
 さて、本日の箇所は、主イエスによって遣わされたあの「七十二人」が、主イエスのもとに帰ってきたときのことを語っています。冒頭17節にこのようにあります。「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します』」。遣わされた七十二人は、主イエスのお名前によって悪霊が自分たちに屈服することを経験しました。いわゆる成功体験を得ることができた彼らは、喜んで主イエスのもとに帰ってきて報告したのです。彼らを遣わす際、主イエスは「(その)町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(9節)と命じられました。しかし彼らが帰ってきて報告したのは、病人を癒したことではなく悪霊が自分たちに屈服したということです。不思議に思われる方もあるかもしれませんが、当時、病を癒やすことは悪霊を追い出すことでもあったのです。さらに言えば、かつて十二弟子が遣わされる際には、「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった」(9:1)と言われていましたから、七十二人が悪霊を屈服させたことは、彼らが十二弟子と同じ「あらゆる悪霊に打ち勝」つ権能を与えられていることをも示しているのではないでしょうか。ここでも、十二弟子だけでなくほかの弟子たちも、つまり私たち一人ひとりも、十二弟子と同じ権能を与えられ、同じ働きを担うために遣わされていることが見つめられているのです。

主イエスの名によって
 彼らはどのように悪霊を屈服させたのでしょうか。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と彼らは言っています。しかしそれは彼らが主イエスのお名前を唱えると、魔法のように悪霊が追い出され、病が癒されたということではありません。主イエスのお名前を使うとは、「主イエスのお名前によって」ということであり、「主イエスご自身のみ業によって」ということにほかなりません。遣わされた私たちが自分の力で悪霊を追い出して病を癒したり、何かを成し遂げたりするのではなく、遣わされた私たちを用いて、主イエスご自身がみ業を行ってくださるのです。ですから先ほど七十二人は成功体験を得ることができたと申しましたが、その成功体験は彼ら自身の力で何かを成し遂げた体験ではなく、彼らを用いて主イエスがみ業を行ってくださった体験です。彼らの働きにおいて主イエスがみ業を行ってくださった体験なのです。私たちも同じような体験をします。伝道する中で、主イエスに仕える働きの中で、主イエスご自身がみ業を行ってくださることを体験するのです。そのような喜びの体験が、それぞれの歩みの中で与えられていくことを、私たちは信じて良いのです。

私たちの信仰の事柄が見つめられている
 七十二人の喜びの報告に対して、主イエスがお答えになっているのが18-20節です。まず18節で主イエスは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われています。「サタンが稲妻のように天から落ちる」というような表現を見ると、私たちはたちまち距離を感じるのではないでしょうか。フィクションの小説や映画の一場面のように感じてしまうのです。しかし私たちはこのような表現を用いて見つめられていることにこそ目を向けていきたいのです。超自然現象が語られているのではなく、私たちの信仰の事柄が見つめられているからです。

サタン
 「サタン」というのは、本来はヘブライ語で「敵対する者」とか「敵」という意味を持つ言葉ですが、聖書では神様から私たちを引き離そうとする者(あるいはその力)を意味します。そのサタンが「天から」落ちたと言われているので、それまでサタンは天にいたということになります。この背景にあるのは「サタン」も神の使いの一人だという考えです。旧約聖書のヨブ記1-2章には、主の御前に神様の使いたちが集っているところにサタンがやって来る場面があります。天における神様とその使いたちの会議にサタンも加わっているのです。その場でサタンは、不条理な災いによってヨブの財産を奪い、家族の命を奪い、彼自身の命を危険に晒すならば、ヨブは神様から離れるに違いない、と言っています。そしてサタンは実際、ヨブに不条理な災いをもたらしたのです。このように不条理な災いを始めとして、誘惑や試練によって、また様々な出来事を通して、サタンは私たちに働きかけ、力を及ぼし、支配し、神様から引き離そうとするのです。

サタンが天から落ちるのを見ていた
 そのサタンが「天から落ちるのを見ていた」と主イエスは言われます。それは、神様に敵対し、神様から引き離そうとするサタンの居場所が天に無くなったということであり、サタンが私たちを支配する決定的な力を失ってしまったということです。つまりここで主イエスは、悪霊の親玉と言えるサタンが決定的な力を失ったから、七十二人はその子分である悪霊を屈服することができた、と言われているのです。しかしここまで読み進めてきた私たちは、戸惑いを覚えるのではないでしょうか。というのは、この「サタンが稲妻のように天から落ちる」のは、主イエスの十字架と復活、その昇天によって実現することであるはずだからです。9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とありましたが、主イエスが「天に上げられる」のはエルサレムに向かう途上ではなく、エルサレムにおいてです。エルサレムにおいて主イエスが十字架に架けられて死なれ、復活させられ、天に上げられることによって、神様に敵対する力が滅ぼされ、サタンが天から落ちるのです。別の言い方をすれば、サタンの支配が滅ぼされ神様の恵みの支配が始まるのです。そうであるならば18節で主イエスは、将来起こることとして「サタンが天から落ちるのを見ていた」と言われているのでしょうか。しかし将来のことならば、なぜ今、七十二人は悪霊を屈服させることができたのか、という疑問が生じます。ここでも私たちはルカ福音書の二つの視点を思い起こす必要があります。一方で、七十二人の派遣と帰還は、主イエスがエルサレムに向かう途上で起こった出来事です。しかしその一方で、そこで見つめられているのは後の教会の働きであり、「教会の時」、「伝道の時」を生きる私たちの働きなのです。私たちはすでに主イエスの十字架と復活によって救いが実現した後の時代、つまりサタンが天から落ちて、神様から引き離そうとする力による決定的な支配が滅ぼされた後の時代を生きています。その私たちは、遣わされた先で、主イエスのお名前によって悪霊を屈服させるような経験をします。私たちを用いて恵みのみ業が行われることを経験するのです。そのように読むことによって、主イエスによる救いがまだ実現していない、つまりまだサタンが天から落ちていないにもかかわらず、なぜエルサレムに向かう途上で七十二人は悪霊を屈服させられたのか、という疑問への答えが与えられるのです。

あなたがたに害を加えるものは何一つない
 続く19節も同じように、後の教会の働きが見つめられていると読むべきだと思います。主イエスはこのように言われています。「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」。「だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない」という主イエスのお言葉は、戻ってきた七十二人に対する言葉というより、後の教会の歩みの中で、世に遣わされていくすべてのキリスト者に向けられた約束の言葉です。そしてその約束の根拠は、主イエスが遣わされていくキリスト者に「蛇やさそりを踏みつけ」、「敵」、つまりサタンの「あらゆる力に打ち勝つ権威」を与えてくださったことにあるのです。「蛇やさそり」は、サタンの力、つまり神様から引き離そうとする力によってもたらされる色々な災いや困難の象徴ですが、それに加えて、この「蛇やさそりを踏みつけ」という表現は、旧約聖書のいくつかの箇所と響き合います。その一つは申命記8章15節です。14節の後半から16節までお読みします。「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった」。奴隷の地エジプトから導き出されたイスラエルの民は荒れ野を放浪しました。その荒れ野における脅威の象徴が「蛇とさそり」であり、この箇所は、そのような脅威にもかかわらず、水を与え、マナを降らせてイスラエルの民を養った神様の守りと支えを見つめているのです。もう一つは詩編91編13節で、そこには「あなたは獅子と毒蛇(どくじゃ)を踏みにじり 獅子の子と大蛇(だいじゃ)を踏んで行く」とあり、「さそり」は出てきませんが、毒蛇ないし大蛇が踏みつけられる、と言われています。この91編全体は、主なる神様の守りを見つめていて、神様は「避けどころ」(2節)であり、「砦」(2節)であり、「盾」(4節)であると言われています。その神様が死にいたらせる毒を持つ蛇を踏みつけてくださる、と言われているのです。これらの旧約聖書の箇所との響き合いから示されるのは、多くの脅威や災いや困難に直面する荒れ野のような世にあって、主イエスは私たちにそれらに打ち勝つ力、権威を与えられたということです。だから私たちは悪霊さえも屈服させることができ、荒れ野のような世にはびこる神様から引き離そうとする様々な力をも屈服させることができるのです。もちろんそれは私たち自身の力によるのではありません。神様が世に遣わされた私たちを絶えず守り、支えてくださり、私たちの「避けどころ」となり、「砦」となり、「盾」となってくださっているからです。この神様の守りこそ、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」という約束の根拠なのです。しかしそれは、私たちがもう脅威や災いや困難に直面しないということではありません。この世は、なお荒れ野のような世界です。主イエスが再び来てくださる時までは、なお「蛇とさそり」の脅威は残り続けるし、神様から引き離そうとする様々な力も残り続けます。それにもかかわらず主イエスによる救いに与っている私たち一人ひとりに、「あなたがたに害を加えるものは何一つない」という約束が、別の言い方をすれば、「どんな脅威も災いも困難も私たちを神様から引き離すことはできない」という約束が与えられているのです。

あなたの名が天に記されている
 20節で主イエスはこのように言われています。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。18節から七十二人の喜びの報告に対する主イエスの答えを見てきましたが、この20節が、主イエスが彼らに、そして私たちに伝えたかったことの中心です。17節の弟子たちの報告と20節の主イエスの言葉が対応していることは、20節の「悪霊があなたがたに服従する」の「服従する」が、17節の「悪霊さえもわたしたちに屈服します」の「屈服する」と原文では同じ言葉であることからも分かります。つまり17節の「悪霊が私たちに服従します」という弟子たちの喜びの報告に対応して、20節の「悪霊があなたたちに服従するからといって、喜んではならない」という主イエスのお言葉があるのです。七十二人が本当に喜ぶべきことは、彼らが悪霊を服従させたことではありません。そうではなく「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とあるように、彼らの名前が天に記されていることなのです。名前が天に記されているとは、なにを意味するのでしょうか。旧約聖書にも新約聖書にも、天にある名前が書き記されている書物について語られている箇所があり、しばしばこの書物は「命の書」と呼ばれています。たとえばヨハネの黙示録3章5節には「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で、公に言い表す」とあり、「命の書」に名前が記されていることが分かります。より注目したいのは、本日共に読まれた旧約聖書ダニエル書12章1節以下です。1節の後半から2節までをお読みします。「その時まで、苦難が続く 国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命(せいめい)に入り ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。かつてなかったほどの苦難が終わる時、「あの書に記された人々」は救われる、と言われています。この「あの書に記された人々」というのが、天にある「命の書」に名前が書き記されている人々であり、その人たちには、終わりの日に地の塵の中の眠りから目覚め、つまり死者の中から復活させられて、永遠の命に入れられるという約束が与えられているのです。ですから「あなたがたの名が天に書き記されている」とは、「あなたがたには終わりの日に復活させられて永遠の命に与ることができるという確かな約束が与えられている」、ということにほかならないのです。主イエス・キリストによる救いに与った私たち一人ひとりの名前が、天に書き記されています。私たちは誰もがこの地上の歩みにおいて死を迎えます。しかしその死で終わらない、その死を越えた、終わりの日の復活と永遠の命の確かな約束が私たち一人ひとりに与えられているのです。このことこそ、私たちが本当に喜ぶべきことなのです。

すでに天に名が記されているからこそ
 私たちは世に遣わされて歩む中で、主のみ業のために用いられることがあり、主に仕える働きの中で主のみ業を目の当たりにすることがあります。信仰の歩みにおいてそのような体験が与えられることを期待して良いし、その体験は喜びの体験であるに違いありません。しかしそのような体験は、私たちの名前が天に書き記されることの条件ではまったくありません。主のみ業のために用いられたから私たちの名前が天に書き記されるのでもなく、用いられなかったから私たちの名前が天に書き記されないわけでもありません。地上の歩みにおいて私たちが用いられたかどうか、あるいは主に仕える働きを担えたかどうかはまったく関係ないのです。ただ神様の一方的な恵みによる救いによって、主イエスの十字架による罪の赦しによって、私たちは天にその名前が書き記され、復活と永遠の命の確かな約束に与っているのです。ですから私たちが世に遣わされて伝道するのは、自分の名前が天に記されるためではありません。そうではなく、私たちがすでに主イエスの救いに与り、天に自分の名前が記されているからこそ、なにも心配することなく、この世に遣わされて伝道するのです。
 「あなたの名が天に記されています」。苦しみや悲しみの多い地上の歩みにあって、このことにこそ私たちの本当の喜びと希望があります。この世に遣わされている私たちは、この本当の喜びと希望を伝えていくのです。

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