夕礼拝

ヨハネより偉大な者

「ヨハネより偉大な者」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章1節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第7章24-28節
・ 讃美歌:206、453

群衆に向かって
 先週の夕礼拝では、ルカによる福音書7章18節から23節を読みました。牢獄の中にいた洗礼者ヨハネが二人の弟子を主イエスのもとに遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせ、それに対して主イエスは「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」とお答えになり、病や身体に不自由を抱えている人たちが癒され、死者が生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされていると語られました。そして「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われたのです。本日は、その続きを読んでいきます。プリントでは分かりにくいのですが、聖書を開くと前回と本日の箇所の間に区切りがあるわけではないことが分かります。本日の箇所の24節冒頭には「ヨハネの使いが去ってから」とありますが、このヨハネの使いとは、牢獄の中にいた洗礼者ヨハネが主イエスのもとに送った二人の弟子のことです。ですから本日の箇所は前回読んだ箇所とつながっています。とはいえ24節から新しい場面が始まるのも確かです。「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた」とあるように、今までヨハネの弟子に向かって語っていた主イエスが、今度は群衆に向かって語り始められるからです。洗礼者ヨハネの使いが去ることによって、物語は新しい場面へと移っていくのです。
 ここで主イエスは開口一番、群衆にこのように問われます。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか」。1章57節以下で洗礼者ヨハネの誕生が語られていますが、その終りにこのようにあります。「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」。そして3章2-3節には「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。洗礼者ヨハネは荒れ野で育ち、やがて神の言葉を与えられてイスラエルの人々に「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたのです。3章7節に「洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆」とありますが、本日の箇所で主イエスが語りかけている群衆もヨハネを見るために、その教えを聞くために、そして悔い改めの洗礼を受けるために群れをなして荒れ野に行ったのです。

荒れ野
 ところで聖書にはしばしば「荒れ野」が出てきます。しかし私たちにとって「荒れ野」は身近な場所ではありませんからイメージするのが難しいと思います。この説教に備える中で(中央丘陵地帯の東に死海の方に向かって広がる)ユダの荒れ野の写真を見ました。一年中ほとんど雨が降らないため、かろうじて涸れた谷(ワディ)に冬に降った水が溜まって木が生えているぐらいで、見るべきものなどまったくない荒涼とした風景が広がっていました。人を惹きつける魅力的なものはなにもありません。なにかなければわざわざ行くような場所ではないのです。

何を見に荒れ野へ行ったのか
 主イエスは「風にそよぐ葦」を荒れ野に見に行ったのか、と問われます。先ほど、荒れ野の涸れた谷に冬に降った水が溜まってかろうじて木が生えていると申しましたが、ヨハネがいた荒れ野には「葦」も生えていたのだと思います。「風にそよぐ葦」と言われていますが、要するに風が吹いて葦が揺れているだけのありふれた風景に過ぎません。わざわざ荒れ野に行ってまで見るほど魅力的なものではないのです。ですから主イエスは群衆に「あなたたちは、風に揺られている葦のように魅力的でないものを見るために荒れ野に行ったのか、そうではないだろう」と問いかけているのです。さらに続けて主イエスは「では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる」と言われます。「しなやかな服を着た人」、「華やかの衣を着て、ぜいたくに暮らす人」は、民衆にとって一度は見てみたい魅力的な人たち、憧れの人たちであったはずです。多少の無理をしても出かけて行って見に行く価値がありました。しかしそのような人たちは荒れ野にはいません。その人たちを見に行きたいなら荒れ野ではなく宮殿に行くべきなのです。主イエスは群衆に「あなたたちは、荒れ野では決して見ることができないものを見るために荒れ野に行ったのか、そうではないだろう」と問いかけているのです。ルカによる福音書では触れられていませんが、マタイによる福音書3章4節には、洗礼者ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と語られています。ヨハネはしなやかの服を着た人、華やかな衣を着て贅沢に暮らす人とは対極にいる存在です。まかり間違っても民衆は、華やかな衣を着て贅沢に暮らす人への憧れや魅力を抱いて、ヨハネを見に荒れ野に行ったのではないはずなのです。
 このように二つの問いかけをした上で主イエスは「では、何を見に行ったのか。預言者か」と問いかけます。預言者とは未来のことを言う人ではありません。「予め言う」と書くのではなく「預かる言葉」と書いて「預言」です。そして預言者が「預かる言葉」とは「神の言葉」です。すでに見たように3章2節には「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とありました。神様から神の言葉を与えられ、それを語るのが預言者であり、ヨハネも荒れ野で神の言葉を与えられたのです。預言者ヨハネを通して神の言葉を聞くために、群衆は連れ立って荒れ野に行ったのです。
 それにしても主イエスが群衆に「あなたたちは、荒れ野に風にそよぐ葦を見にいったのではないだろう、華やかな衣を着て贅沢に暮らす人を見に行ったのでもないだろう、そうではなく預言者を見に行ったのではないか」と畳み掛けるように問いかけるのは少し不思議な感じがします。荒れ野に行った理由を群衆が忘れてしまったから、主イエスはそのことを想い起こさせようとして問いかけているのでしょうか。洗礼者ヨハネが領主ヘロデの怒りを買って牢に入れられる前のこととはいえ、群衆は自分たちが荒れ野に行った理由を忘れたとは思えません。神の言葉を聞くために洗礼者ヨハネ、預言者ヨハネを見に行った、と覚えていたはずです。しかし彼らがそのことの意味をどれほど分かっていたかというと心もとないのです。

何を見に礼拝へ行くのか
 心もとないのは私たちも同じかもしれません。私たちも日曜日に神の言葉を聞きに教会へ行きますが、そのことの意味、そのことの大切さをどれだけ分かっているのか、と問われると心もとないのです。私たちは休みの日の選択肢の一つとして礼拝に行くのではないはずです。見るべきものがない荒れ野と違って、この教会は歴史的な建物であり見に来る価値があるでしょう。私たちはこの建物や会堂を見に教会を訪ねてくださる方がいらっしゃることを主に感謝しています。それでも休みの日にこの建物や会堂を見るためだけにわざわざ来る人はそんなに多くはないのです。まして毎週そのために来る人はいません。一度二度なら良いかもしれませんが、それ以上はこの会堂の風景もありふれたものとなり、わざわざ出かけて見に行きたいとは思わなくなるのではないでしょうか。それよりも休みの日は家でのんびり過ごしたい、あるいはもっと魅力的なところに行きたいと思うのです。たとえば好きな人のコンサートに行ったり、劇や映画を見に行ったり、すてきな服を買ったり、おいしいご飯を食べたりです。そのほうが教会に行くよりずっと魅力的に思えるのです。しかし聖書は、人間の目には見るべきものがない荒れ野で、神様との出会い、神様による回復と再生が与えられていくと告げています。旧約聖書イザヤ書40章3節以下にはこのようにあります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る」。また43章19節以下にはこのようにあります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ」。荒れ野で「肉なる者」は、つまり私たちは神様に出会い、その栄光を見ます。荒れ野で神様は私たちを新しくし、回復させ、本当に私たちを生かす水である神の言葉を飲ませてくださるのです。私たちは日曜日に家でのんびり過ごすのでも、どこかに遊びに行くのでもなく、わざわざ礼拝に出かけて行きます。ほかのことを放っておいても礼拝に行くのです。それは休みの日の選択肢の一つではありません。主の日の礼拝においてこそ私たちは神様に出会い、神の言葉によって罪の赦しを与えられ、新しくされ、新しい一週間を歩んでいく力を与えられるからです。主イエスはここで私たちに「何を見に礼拝に行くのか」、「なんのために礼拝に行くのか」と問うておられるのです。

主イエスの前に、主イエスより先に
 「では、何を見に行ったのか。預言者か」と言われた主イエスは、さらに言葉を続けます。「そうだ、言っておく。預言者以上の者である」。群衆は洗礼者ヨハネが預言者だと知っていました。しかし主イエスは、ヨハネは「預言者以上の者」だと言われます。そして旧約聖書の言葉を引用して「『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ」と言われました。このみ言葉は本日共に読まれた旧約聖書マラキ書3章1節前半の引用です。そこではこのように告げられていました。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」。読み比べてみると分かりますが、マラキ書では「わが前に道を備える」と告げられているのに対し、ルカ福音書では「あなたの前に道を準備させよう」と言われています。マラキ書の「わが前に」とは神のみ前にということであり、ルカ福音書の「あなたの前に」とは主イエスの前に、つまり「来るべきメシア」の前にということです。ですからマラキ書で預言されていたみ前に道を備えるために神様が遣わす使者とは、救い主である主イエスの前に道を備える者にほかならないのです。新共同訳聖書では「あなたの前に道を準備させよう」と訳されていますが、原文をそのまま訳せば「あなたの前にあなたの道を準備させよう」となります。救い主である主イエスの前に、主イエスより先に、主イエスの道を準備するために神様は使者を遣わしました。その使者こそが洗礼者ヨハネである、と主イエスは言われたのです。

主イエスの道を備える
 主イエスの道を準備する、備えるとはどういうことでしょうか。ルカによる福音書1章16-17節では、主の天使が洗礼者ヨハネについてこのように言っています。「(彼は)イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。ヨハネはイスラエルの人たちを神様に立ち帰らせ、来るべきメシアである主イエスを迎えるための備えをさせました。そのことによって主イエスがこれから歩まれる地上の生涯の備え、主イエスの道の備えをしたのです。その主イエスの道の先には十字架の苦しみと死があり、復活があります。ヨハネはそのことを知っていたわけではないかもしれません。前回見たように、ヨハネが期待していた通りに救いが実現したわけでもないでしょう。しかしヨハネが備えた道の先に、主イエスの十字架と復活による救いがあるのです。

ヨハネより偉大な者
 28節で主イエスはこのように言われます。「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。「女から生まれた者」とは人間のことです。ですから人間の中で洗礼者ヨハネより偉大な者はいないけれど、神の国で最も小さな者でもヨハネより偉大な者である、と言われているのです。しかしそのように言われてもよく分からなくなるのではないでしょうか。色々と疑問が思い浮かぶかもしれません。たとえば人間の中でヨハネより偉大な者がいないということは、ヨハネはまことの人である主イエスより偉大ということなのか、あるいは神の国で最も小さな者でもヨハネより偉大ということは、ヨハネは神の国に入れないということなのか、というような疑問です。しかしそのような疑問が生じるのは、28節で主イエスが言われていることを捉え損なっているからです。しっかり捉えるための鍵となるのはルカによる福音書16章16節のみ言葉です。そこではこのように言われています。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている」。ここでは神の救いの歴史が見つめられています。神の救いの歴史におけるヨハネまでの律法と預言者の時代と、神の国の福音が告げ知らされている主イエス・キリストの時代との区別が見つめられているのです。ですから神の国で最も小さな者でもヨハネより偉大であるとは、神の国の福音が告げ知らされている主イエス・キリストの時代に入れられている者は、最も小さい者であっても、それ以前のヨハネに比べれば偉大な者だということなのです。
 「偉大」という言葉も誤解を生むかもしれません。「偉大」と訳されている言葉は、原文を直訳すれば「大きい」となります。つまり「ヨハネより偉大な者はいない」とか、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」というのは、「ヨハネより大きい者はいない」、「神の国で最も小さな者でも、ヨハネよりは大きい」ということです。そしてどちらがより大きいかは、あるいはどちらがより小さいかは、その人自身の能力の優劣とか、生き方の立派さによるのではなく、神の救いの歴史においてどの位置にいるかによるのです。「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という主イエスの言葉において比べられているのは、神の救いの歴史における主イエス・キリスト以前の時代と以後の時代の違いなのです。

預言者以上の者
 このことから、なぜ洗礼者ヨハネが「預言者以上の者」と言われているかも分かります。彼が「預言者以上の者」と呼ばれているのは、彼の力や能力がイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった旧約聖書の預言者より上だからではありません。そうではなく彼が主イエス・キリスト以前の時代の終りに立ち、主イエス・キリスト以後の時代を指し示しているからです。ヨハネはその能力のゆえに「預言者以上の者」なのではなく、神様が与えてくださった務めのゆえに「預言者以上の者」なのです。神様が彼をキリスト以前と以後の間に立つ者としてくださり、キリスト以前の時代と以後の時代の架け橋としてくださったがゆえに、ほかのどの預言者も代わることができない「預言者以上の者」なのです。その意味で「預言者以上の者」であるヨハネは、主イエス・キリストを指し示しただけではなく、主イエス・キリストによって到来する新しい時代をも指し示しました。主イエス・キリストがこれから歩まれる道を備えただけでなく、主イエス・キリストの時代に入れられた者たちがこれから歩む道をも備えたのです。

地上における神の国が始まっている
 「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われている「神の国」とは、天において実現している神の国のことではありません。主イエス・キリストがこの世に来てくださったことにおいて、この地上に到来した「神の国」のことです。その完成は終りの日を待たなくてはならないとしても、キリストの到来によって、その十字架と復活による救いによって、この地上における神の国はすでに始まっているのです。主イエス・キリストの時代に入れられた者とは、神の国がすでに始まっている地上において生かされている者にほかならないのです。神の国で最も小さな者でも洗礼者ヨハネより偉大であるとは、ヨハネが終りの日に神の国に入れないことを意味しているのではありません。ルカ福音書13章28節には「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っている」とありますから、「預言者以上の者」であるヨハネも終りの日に神の国に入れられるに違いないのです。しかしヨハネは、キリスト以前の時代の終りに立ち、キリスト以後の時代を指し示すという神様から与えられた務めのゆえに、主イエスによって始まった新しい時代に、地上における神の国に加われなかったのです。

神がキリストによって大きい者にしてくださる
 しかしヨハネとは異なり、私たちは主イエス・キリスト以後の時代を生きています。私たちは「ヨハネより偉大な者」、「ヨハネより大きい者」なのです。しかしその偉大さ、その大きさは、私たちが自分の力によって獲得したものではなく、神様の一方的な恵みによって与えられたものです。神様を愛せず、自分を愛せず、自分の隣人を愛せず、神様の御前に罪人でしかない私たちを、神様はただキリストのゆえに、その十字架と復活のゆえに、キリスト以後の時代に入れてくださり、「偉大な者」、「大きい者」としてくださっているのです。私たちは人間の目に見える偉大さを追い求めてばかりです。人と比べてより偉大であること、より大きくなることばかりを追い求めています。そのことによって私たちは人と比べて誇らしい思いを抱いたり惨めな思いを抱いたり、喜んだり落ち込んだりしています。しかし私たちが本当に目を向けるべきなのは人間の目に見える偉大さや大きさではありません。自分が人と比べてより偉大か、より大きいかではないし、自分がどうやって偉大になるか、大きくなるかでもありません。そうではなく、神様が主イエス・キリストによって私たち一人ひとりを「偉大な者」に、「大きい者」にしてくださっていることにこそ目を向けるのです。

神をこそ大きくしていく
 この人間の目には見えない神様から与えられた「偉大さ」、「大きさ」は、人間の目には見るべきものなどないように思える荒れ野において、つまり礼拝において告げ知らされます。荒れ野で、礼拝で、神様は私たちに出会ってくださり、キリストの十字架の贖いのゆえに私たちの罪を赦し、私たちを新しくしてくださり、キリスト以後の時代に生きる者として、まことにちっぽけな私たちを「大きい者」としてくださるのです。そのようにして神様から「大きい者」とされた私たちは、そのことに感謝し神様をあがめます。神様をあがめるとは神様は大きくすることにほかなりません。罪人でしかない弱さと欠けばかりのまったく取るに足らない私たちを主イエス・キリストによって「大きく」してくださった神様に感謝して、私たちは神様をこそほめたたえ、神様をこそ大きくしていくのです。

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