「最も小さい者、最も偉い者」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-5節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章46-50節
・ 讃美歌:
受難予告の後に
主イエスは弟子たちに「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と告げました。それから10日ほど経ってから、再び主イエスは弟子たちに「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と告げました。しかし先週お話ししたように、主イエスの受難の歩みは弟子たちには理解できないように隠されていたので、彼らは主イエスの言葉が分かりませんでした。また彼らはその言葉の意味を主イエスに尋ねることもしませんでした。この主イエスの二回目の受難予告の後に本日の箇所が続きます。ここでは弟子たちの主イエスの受難に対する無知や無理解によって引き起こされた出来事が語られています。主イエスがどのように歩まれるかを知ることなしに、あるいは聞くことなしに、弟子たちは主イエスに従ってどのように歩むべきか分からないし、分からないだけでなく、その歩みの中で間違いを起こすのです。
言い争いの原因
本日の箇所の冒頭46節に「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」とあります。主イエスがご自分はこれから人々の手に引き渡され、十字架に架けられて殺されようとしている、と告げられた直後に、彼らは「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」という言い争いを始めたのです。やや唐突に感じるこの言い争いが、弟子たちの中で起こったのはなぜなのでしょうか。本日の箇所にはその理由は何も書かれていないので想像するしかありません。先週お話ししたことですが、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子は山の上で主イエスの栄光を目撃しました。その栄光は、主イエスの十字架と復活による罪と死の力に対する勝利の栄光の先取りでした。それに対して山の麓に留まっていたほかの弟子たちは、罪と死の力による苦しみの現実に、具体的には病の力に捕らえられた一人息子とその父親の苦しみに直面したのです。その上、彼らはこの子どもから悪霊を追い出すことができないという大きな躓きを経験しました。このように山の上と山の麓では対照的な出来事が起こっていましたが、そのどちらの出来事も主イエスに従って歩む中で、主イエスの弟子の誰もが経験する出来事であり、主イエスの弟子とされた私たちも山の上と山の麓を行ったり来たりしているような歩みをしているということを、先週、私たちは受けとめたのです。ですから山の上と山の麓で起こった出来事は、山の上の三人の弟子と山の麓の弟子たちの力量の差を語っているのではありません。しかし当事者である弟子たちはそのように受けとめることができなかったかもしれないのです。山の上で主イエスの栄光を目撃した三人は、山の麓で悪霊を追い出すのに失敗したほかの弟子たちより自分たちのほうが偉いと勘違いしたかもしれません。あるいは山の麓に残された弟子たちは、なぜ主イエスはペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて山に登られたのか、なぜ主イエスはあの三人を特別扱いするのか、と思ったかもしれません。想像をたくましくするならば、このことが「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論」を引き起こしたのかもしれないのです。
だれがいちばん偉いか
しかしそれだけが理由ではありません。弟子たちの間でこのような言い争いが起こった根本的な理由は、彼らが「だれがいちばん偉いか」という思いを持ち続けていたことにあるのではないでしょうか。「だれがいちばん偉いか」というのは、言い換えるならば「だれがいちばん優れているのか」、「だれがいちばん価値あるのか」ということです。つまり彼らは心の中でお互いを比べ、優劣や価値を競い、順位を争いながら主イエスに従って歩んでいたのです。自分はほかの人たちより優れているだろうか。主イエスは自分をほかの人たちより重んじてくださっているだろうか。そのような思いを心の内に抱きつつ歩んでいたのです。
私たちは「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」と言い争っている弟子たちを子どもじみていると思います。理解できないように隠されていたとはいえ、主イエスがご自分の受難の歩みを告げた直後に、よくこんなことで言い争えるな、とも思います。しかしよくよく自分自身を振り返るならば、私たちもこの弟子たちと大差ないのではないでしょうか。私たちは「だれがいちばん偉いか」について大っぴらに言い争うことはないかもしれません。しかし心の中では、私たちもいつも自分と他人を比べているのです。自分はあの人より優れている、あの人より重んじられていると優越感に浸ったり、逆にあの人より劣っている、あの人より軽んじられていると劣等感に苛まれたりしています。優劣や価値を競い、順位を争うことが積極的に肯定されている社会にあって、私たちは知らず識らずの内に、他人と比べて生きるのが当たり前になっているのです。教会は社会とは違うからそのようなことは起こらないと思われるかもしれません。しかしそんなことはありません。教会の中でも同じようなことが起こります。たとえば自分とほかの人の信仰を比べてしまうことがあります。「自分の信仰は完璧です」と誇ることはないと思いますが、逆に「自分の信仰はまだまだです」と言うことは割りとあります。それが神様に向かっての言葉であるなら問題はありません。私たちの誰もが神様の御前で自分の信仰を誇ることなどできません。誰もが、まだまだの信仰なのです。しかしそれがほかの人に向かっての言葉であるならば、そのとき私たちは自分とほかの人の信仰を比べてしまっています。いつのまにか信仰の優劣や信仰の順位を考えてしまっているのです。十二人の弟子たちと同じように、主イエスの弟子とされ、主イエスに従って歩んでいる私たちも自分とほかの人を比べて、優劣や価値を競い、順位を争う思いを心の内に抱きつつ歩んでいるのです。
心に隠された罪
そのような弟子たちの心の内を、そして私たちの心の内を主イエスは見抜かれます。47節の冒頭に「イエスは彼らの心の内を見抜き」とある通りです。「彼らの心の内」の「内」と訳された言葉は「思い」(2:35)や「考え」(5:22、6:8)と訳されることもあり、漠然とした気持ちというより、はっきりした考えを意味します。かつてシメオンは幼子イエスに出会ったとき、母マリアにこのように言いました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています……多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(2:34-35)。この「多くの人の心にある思い」の「思い」が、この言葉です。主イエスは、多くの人たちの心の奥底に隠されていた思いによって、人々の手に引き渡され十字架に架けられ殺されます。ですから「思い」や「考え」と訳されているこの言葉は、心の奥底に隠されている人間の深い罪を示しているのです。主イエスが見抜かれたのはそのような弟子たちの罪であり、私たちの罪です。互いに愛し合うのではなく、互いに比べ合い、互いに裁き合っている私たちの罪を主イエスは見抜かれるのです。
一人の子供
弟子たちの心の内を、その罪を見抜かれた主イエスは「一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われ」ました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。主イエスは、一人の子どもを連れてきて、ご自分のそばに立たせて弟子たちと向かい合わせました。それは、罪を抱えて歩んでいる弟子たちに、子どものように純真無垢で罪のない者となるよう教えるためではありません。そもそも子どもが純真無垢で罪がないと考えるのは間違っています。子どもも罪人の一人だからです。また、主イエスが言われた「子どもを受け入れる」とは、子どもが貴重で価値のある存在だから受け入れるということではありません。現代の私たちにとって、子どもは貴重な、価値ある存在であり、その立場は尊重され、重んじられなくてはなりません。子どもの人権や尊厳を守るのは現代社会の重要な課題の一つです。しかしそのような現代の私たちの感覚や常識で、主イエスのお言葉を受けとめると私たちは間違ってしまいます。主イエスの時代において、子どもというのは、大人から相手にされない、取るに足りない、小さな、無価値な存在だったのです。当時、人数を数えるときに(女性と)子どもが含まれなかったのもそのためです。ですから主イエスが一人の子どもを弟子たちと向かい合わせたのは、子どもが純真無垢で罪がないからでも、貴重で価値のある存在だからでもなく、取るに足りない、小さな、無価値な存在であったからなのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とは、子どものように取るに足りないと思われている者、軽んじられている者、無価値と思われている者を受け入れる人は、主イエスを受け入れるということなのです。
主イエスであるかのように受け入れる
弟子たちは自分とほかの人を比べ、あるいは人と人を比べていました。意識してそうしていたのではないと思います。私たちは誰もが、簡単に人と人を比べる方へと引っ張られていくのです。価値があるのはどちらか、優れているのはどちらか、いつのまにかそのような考えで頭がいっぱいになっているのです。そのような弟子たちの前に、今、主イエスと一人の子どもがいます。弟子たちはこの子どもを目では見ていても、本当に見ているわけではありません。彼らにとって、この子どもは取るに足りない、小さな、無価値な存在だからです。一方、弟子たちは主イエスを特別な存在として見ています。その受難の歩みをまったく分かっていなかったとしても、彼らにとって主イエスは大きな、価値ある存在だからです。彼らは目の前にいる主イエスと子どもを比べ、主イエスを重んじ、子どもを軽んじていたのです。しかし主イエスは弟子たちに、「あなたがたが軽んじているこの子どもを受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われます。それは、子どものような小さな者、軽んじられている者、無価値と思われている者を、主イエスであるかのように受け入れるということです。目の前にいる子どもを、その横にいる主イエスであるかのように見るのです。当時も今も、価値があると思われる人、優れていると思われる人には目が向けられ、そうでない人には目が向けられません。しかし主イエスは両方に目を向けなさい、と言われます。「私だけでなく、この子どもを見なさい」、「私だけでなく、軽んじられている者を見なさい、私であるかのように見なさい」と伝えるために、主イエスはご自身のそばに子どもを立たせ、弟子たちの目の前にご自身と子どもが並んで立つようにされたのです。
父なる神を迎え入れる
主イエスは「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われます。主イエスの名のために、小さな者を主イエスであるかのように受け入れる者は、主イエスを受け入れるのであり、主イエスを遣わした父なる神を受け入れるのです。別の言い方をすれば、自分たちの群れに小さな者を迎え入れることは、その群れに主イエスを迎え入れることであり、父なる神を迎え入れることです。小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者を自分たちの群れに仲間として迎え入れ、共に歩むとき、その交わりに主イエスが共にいてくださり、神様が共にいてくださるのです。
最も小さい者、最も偉い者
48節の終りで「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言われています。この言葉だけだと、これまで主イエスが言われていたこととのつながりがよく分かりません。主イエスは、子どものように小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者をご自身のように受け入れることを語ってきました。そのことを踏まえて言葉を補ったほうが良いと思います。つまりここで主イエスは、「あなたがた皆の中で、小さな者をイエスの名のために受け入れる人こそ、最も偉い人である」と言われているのです。どちらが偉いかを比べることによって、本当に偉い人が決まるのではありません。小さな者を、あたかも主イエスであるかのように受け入れ、共に歩む人こそが本当の意味で偉い人なのです。
主イエスの受難の歩みに従っていく中でこそ
しかし気をつけなくてはならないことがあります。ここでは道徳や倫理について語られているのではない、ということです。一般論として小さな者を受け入れなさい、と言われているのではありません。単に、人と人を比べずに別け隔てなく接するよう勧められているのではないのです。そのように受けとめるならば私たちは、今度は、目の前にいる主イエスから目を逸し、子どもにしか目を向けていないことになるのです。小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者を受け入れていくことは、主イエスと関係なく起こることではありません。主イエスに従っていく歩みにおいてこそ起こっていくのです。ですから私たちは子どもに目を向けるだけでなく、やはり主イエスにもしっかり目を向けていなくてはならないのです。そして私たちが目を向けるべき主イエスは、十字架への道を歩まれる主イエスにほかなりません。弟子たちは確かに主イエスを見ていました。しかし彼らが見ていたのは十字架に向かって歩まれる主イエスではなく、自分たちに都合の良い主イエスだったのです。その意味で、彼らは子どもが見えていなかっただけでなく、実は主イエスも見えていなかったのです。最初にお話ししたように本日の箇所は、主イエスの二回目の受難予告の直後にあります。主イエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と言われました。主イエスが歩まれるのは、多くの苦しみを受け、人々の手に引き渡され、十字架に架けて殺される受難の歩みです。その歩みに従っていく中でこそ、私たちは自分たちこそが、神様に救われる価値のない者であることを知らされていきます。心の奥底に醜い罪を隠し、神様に背いてばかりいる私たちは、神様から見捨てられても仕方のない者です。それにもかかわらず、神様は独り子を私たちのところに遣わしてくださり、その独り子を十字架に架けてまで、救われる価値のない私たちを救ってくださいました。私たちは十字架への道を歩まれる主イエスに従うことによって、本当に小さく価値のない自分を救ってくださった神様の愛を示され、私たちも小さな者、軽んじられている者、価値がないように思われている者を受け入れ、迎え入れる者とされていきます。神様が自分を愛してくださっていることを知っているからこそ、私たちは隣人を愛することができるのです。弟子たちは主イエスの受難の歩みが分かりませんでした。その無知や無理解が、弟子たちの間でだれがいちばん偉いかという言い争いを起こしました。その無知や無理解のゆえに、彼らは子どものような小さな者に目を向けることができず、また自分たちに都合の良いようにしか主イエスを見ていなかったのです。
自分たちと一緒にいない
そのような弟子たちの無知や無理解が引き起こしたもう一つの間違いが、49-50節で語られています。弟子の一人であるヨハネが主イエスにこのように尋ねました。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました」。ヨハネが言っているのは、主イエスの名が悪用されていたから、やめさせようとしたということではありません。主イエスの名によって「悪霊を追い出している者」とは、主イエスを信じ、主イエスの働きを共に担って悪霊を追い出し、病を癒している者です。その働きそのものは、むしろ神様に用いられた尊い働きなのです。それにもかかわらずヨハネが、その人の働きをやめさせようとしたのは、「わたしたちと一緒にあなたに従わないので」とあるように、その人が自分たちと一緒に主イエスに従っていなかったからです。ヨハネが問題にしたのは、「自分たちと一緒にいない」ということなのです。主イエスと共に旅をしている自分たちと一緒にいない人が、主イエスの働きを担うのはやめさせるべきだ、と思ったのです。ヨハネは、主イエスが山の上に連れて行った三人の弟子の一人です。山の上で主イエスの栄光を目撃した彼には、自分たちは特別だという意識が強かったのだと思います。主イエスと共に旅をし、ガリラヤの至るところを巡り歩いて、福音を告げ知らせ病気を癒している自分たち十二人は特別なグループであり、自分たちこそが、あるいは自分たちだけが主イエスの働きを共に担っている、と考えていたのです。しかしそのように考えるのは間違いです。確かに使徒と呼ばれる十二人は、主イエスによって選ばれ、主イエスと共に旅をし、主イエスから特別な務めを与えられました。けれどもそれは、彼らだけが主イエスに従っていたということでも、彼らだけが主イエスの働きを共に担っていたということでもありません。彼らとは違う形で主イエスに従っている人たちがいたのです。ゲラサ人の地方で主イエスに悪霊を追い出してもらった人が、主イエスと共に行きたいと願ったとき、主イエスは「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(8:39)と言われました。彼はそのような形で主イエスに従い、主イエスの働きを共に担ったのです。だから主イエスはヨハネに「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」と言われました。味方であるとは、助けてくれるということでもあります。色々な形で主イエスに従っている者たちが共に助け合い、共に主イエスの働きを担っていくのです。主イエスに従う自分たちの歩みを、自分たちとは違う形で主イエスに従っている人たちが助け、支えてくれているのです。
十字架の主イエスを見つめ続ける
本日の箇所で語られているような弟子たちの勘違いや思い上がりが生じたのは、彼らが主イエスの受難の歩みを分かっていなかったからです。主イエスが十字架に向かって歩まれていると分からずに主イエスに従うとき、間違いが起こるのです。私たちも同じです。私たちは、取るに足りない私たちのために十字架の道を歩まれ、十字架で死なれた主イエスを見つめ続けます。そこから目を逸らすなら、私たちも弟子たちのように勘違いをしたり思い上がったりしてしまうのです。私たちは人々に引き渡され十字架で死なれた主イエスに目を向け続けることによって、人と人を比べることから自由にされ、小さな者、軽んじられている者、価値がないと思われている者を迎え入れられるよう変えられ、自分たちとは違う形で主イエスに従っている人たちの助けと支えが与えられていることに気づかされていくのです。