「信仰のない、よこしまな時代」 副牧師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:申命記 第31章30-第32章6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章37-45節
・ 讃美歌:
受難予告に挟まれた箇所
本日の箇所の冒頭に「翌日」とあります。先週、お読みした28-36節で語られていた、いわゆる「山上の変貌」の出来事の「翌日」ということです。主イエスは、三人の弟子、ペトロとヨハネとヤコブを連れて山に登られ、その山の上でご自身の栄光を現されました。主イエスの「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と言われています。栄光に輝く主イエスは、ご自身が「エルサレムで遂げようとしておられる最期」、すなわち十字架の死と復活について、旧約聖書を代表するモーセとエリヤと語り合いました。この出来事を目の当たりにしたペトロは「ここにいるのは、すばらしいこと」だから、主イエスとモーセとエリヤのために「仮小屋を三つ建てましょう」と言いました。要するに主イエスの栄光に満ちたところにずっと留まりたいと思ったのです。この出来事の冒頭28節にも「この話をしてから八日ほどたったとき」とありました。先々週、お読みした18-27節の出来事から「八日ほどたったとき」ということです。18-27節では、主イエスから「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられたペトロが「神からのメシア、救い主です」と答えると、主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と告げられたことが語られていました。いわゆる一回目の「受難予告」です。本日の箇所の終り44節には二回目の「受難予告」があります。このように18-45節は10日ほどの間に起こった一連の出来事を記していて、「山上の変貌」の出来事と本日の出来事は、一回目の「受難予告」と二回目の「受難予告」に挟まれているのです。このことは、本日の出来事が先週お読みした「山上の変貌」の出来事と結びついていることを示しています。そのことを心に留めつつ本日の箇所を読み進めていきたいと思います。
山を下りる
主イエスは山でご自身の栄光を現されましたが、山に留まることはせず、翌日には山を下りられました。ペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしいこと」だから、主イエスに「ここに」(山の上に)留まってほしいと思いましたが、そのようなわけにはいかなかったのです。「そのようなわけにはいかない」というのは、主イエスが山に留まるのは神のご計画ではなかったということです。一回目の「受難予告」においてすでに弟子たちに告げられたように、神のご計画によって主イエスは「必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」からです。主イエスが本当にご自身の栄光を現されるのは山の上ではなく十字架と復活においてです。山上の変貌はその先取りに過ぎませんでした。神のご計画に従って主イエスは山を下りたのです。
一人息子が病の力に捕らえられている
山の麓では、事件が起こっていました。主イエスを出迎えた大勢の群衆の中から一人の男が大声でこのように言います。38-40節です。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」。父親は主イエスにわざわざ「一人息子です」と言います。たった一人の息子が突然叫び出したり、痙攣を起こして泡を吹いたりしてさんざん苦しんでいる。本人はもちろん苦しいでしょう。しかし傍で我が子が苦しんでいるのを見ている父親も苦しいに違いない。突然叫び出すのを、痙攣を起こして泡を吹くのを止める術を父親は持っていないのです。代わってやりたいと思っても代わることができません。自分ではどうすることもできない病の力に我が子が捕らえられています。生きることを妨げるほどの大きな病の力に捕らえられているのです。
大切な人の傍らで無力感を覚える
同じようなことを私たちも経験することがあるのではないでしょうか。自分の大切な人が、家族や友人、あるいは教会の兄弟姉妹が、自分ではどうすることもできない力に捕らえられていると感じることがあります。苦しんでいるのは分かる、つらいのは分かる、でもなにもできない。ただ傍で、その人が苦しんでいるのを見ているしかないのです。そのような力の最たるものが死です。私たちは自分自身の死に対してだけ無力なのではありません。大切な人の死に対しても無力なのです。死だけではなく、この父親の一人息子のように、病のこともあります。周りの人たちがなんらかの形で助けられる病もたくさんありますが、そうでない病もまたたくさんあるのです。現代の医学では治療することができない病があり、あるいは本人しかどうすることもできない病があるのです。それだけでなく、私たちはしばしば大切な人が直面してる状況に対しても無力です。大変な状況にあるのは分かる。なんとか力になりたいとも思う。けれどもどうすることもできない。生きることを妨げるほどの大きな力に捕らえられ苦しんでいる大切な人の傍らで、私たちは無力感を覚えずにはいられません。深い痛みと悲しみを感じずにはいられないのです。
悪霊を追い出せない弟子たち
きっとこの父親は、そのような無力感を、深い痛みと悲しみを繰り返し味わってきたに違いありません。そのような日々の中で、あるとき彼は主イエスと彼の弟子たちの評判を聞いたのだと思います。それで山の麓までやって来ました。主イエスと三人の弟子は山に登っていて見当たりませんでしたが、そのほかの弟子たちは山の麓に留まっていました。だから彼はその弟子たちに、自分の一人息子から病を引き起こしている悪霊を追い出すよう頼んだのです。しかし彼らは悪霊を追い出すことができませんでした。この父親の一人息子を病の力から解放することができなかったし、その人生を取り戻すこともできなかったのです。主イエスが不在だったから仕方がなかった、ということなのでしょうか。あるいは山の上の三人の弟子たちと比べて、山の麓の九人は力量が劣っている、ということなのでしょうか。そうではありません。9章1-2節で語られていたように、主イエスは、山の上の三人と山の麓の九人を区別することなく、十二人皆に「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり」、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」遣わしました。そして6節に「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」とあるように、十二人皆が、実際ガリラヤのあちらこちらで福音を宣べ伝え、病を癒したのです。ですから山の麓に留まっていた弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、主イエスがそばにいないからでも、山の上の三人の弟子と比べて力がなかったからでもないのです。
山の上と山の麓
それにしても、山の上と山の麓では対象的な出来事が起こっていました。山の上では三人の弟子たちが主イエスの栄光を見ました。その栄光は、十字架と復活によって罪と死の力に打ち勝つ栄光の先取りです。私たち人間を支配している罪と死の力が滅ぼされ、私たちの救いが実現することにおいて明らかになる主イエスの栄光を見たのです。それに対して山の麓では罪と死の力、悪霊の力が猛威を振るっていたのです。それは、この父親の一人息子が罪を犯したから、あるいは父親が罪を犯したから、この子が病に苦しんでいるということではありません。病をその人の罪の結果や罰のように考えるのは間違っています。そうではなく罪と死の力に支配されているゆえに、この世界には様々な苦しみや悲しみがあり、不条理な現実があり、病や死があるのです。この父親が、そして彼の一人息子が味わっている耐え難い苦しみは、罪と死の支配の現実を突きつけているのです。山の上では罪と死の支配に打ち勝つ主の栄光が現され、山の麓では罪と死の支配の現実があらわになっていたのです。山の上と山の麓の違いは、三人の弟子とそのほかの弟子たちの違いを見つめているのではなく、主イエスに従い共に歩む中で、弟子たちが経験する対照的な二つのことを見つめているのだと思います。主イエスの弟子とされた私たちも、同じような経験をします。一方で私たちは、主イエスの十字架と復活による救いを告げ知らされ、もはや私たちが罪と死の力に支配されていないことを知らされています。山の上で主イエスの栄光を目の当たりにした弟子たちのように、私たちも主イエスによる救いの恵みを目の当たりにし、その恵みによって自分が生かされていることを実感します。その一方で私たちは、自分自身と私たちが生きる世界が、なお罪と死の力に支配されているように思える現実に直面します。山の麓で弟子たちが病の力に捕らえられていた子どもとその父親の苦しみに直面したように、私たちも自分自身や大切な人の苦しみ、この世界に溢れている嘆きや呻きに直面するのです。私たちは「すでに」主イエスの十字架と復活による救いが実現した世界に生きています。しかしその救いは「いまだ」完成していないのです。「すでに」と「いまだ」の間を生きる私たちは、山の上と山の麓を行ったり来たりしているようなものなのかもしれません。「すでに」実現した救いの恵みを味わい、しかしその救いが「いまだ」完成していない世界にあって、不条理な現実に、病や死に、苦しみや悲しみに繰り返し直面するのです。
信仰のない、よこしまな世代の人々
父親が「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした」と言うと、主イエスはこのようにお答えになりました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」。主イエスは、今という時代が悪いから悪霊を追い出せなくてもしょうがない、と言っているのではありません。私たちは「これこれがうまくいかないのは時代が悪いせいだ」と言ったり、「もっと違う時代に生まれていたら、このような結果にはならなかった」と言ったりしますが、そのような今という時代の良し悪しについて主イエスは言われているのではないのです。「時代」と訳されている言葉は、「世代」、「ジェネレーション」とも訳せる言葉です。ですからここで見つめられているのは、時代そのものというより「信仰のない、よこしまな世代」の人々なのです。では、その人々とは誰なのでしょうか。山の麓に留まった弟子たちでしょうか。確かに彼らは主イエスによって「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」を授けられ遣わされたにもかかわらず、このとき何もできませんでした。しかし彼らだけではないと思います。山の上と山の麓で起こった出来事が、主イエスの弟子ならば誰もが経験する対照的な出来事であるならば、当然山の上にいた弟子たちも含まれるのです。それだけではありません。主イエスの弟子とされた私たちも含まれるのではないでしょうか。
曲がった世代の人々
このことが、本日共に読まれた旧約聖書申命記32章5節の御言葉から示されていきます。4-5節にこのようにあります。「主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく 正しくてまっすぐな方。不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ その傷ゆえに、もはや神の子らではない。」「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ」の「曲がった」という言葉が、「よこしまな世代」の「よこしま」と同じ言葉です。つまり「よこしまな世代」は、「曲がった世代」と訳すことができるのです。申命記32章5節において、「曲がった世代」の人々は神を離れたとは、神が遣わしたモーセに導かれてエジプトから救い出されたイスラエルの民が、荒れ野を放浪する中で、主なる神に逆らい、神から離れ、ほかの神々を礼拝したことを見つめています。神の一方的な恵みによって救われたにもかかわらず、その救いの恵みを忘れ、神に背いている姿が「曲がった世代」の人々の姿なのです。そうであるならば、「信仰のない、よこしまな世代」の人々とは、救いの恵みによって生かされているにもかかわらず、そのことを忘れ神から離れようとするすべての人たちのことであり、ほかならぬ私たちも含まれるのです。主イエスの「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」という嘆きは、私たちに対する嘆きでもあります。私たちは山の上と山の麓を行ったり来たりしているようだと申しました。山の麓で、主イエス・キリストによる救いが「いまだ」完成していない世界にあって、私たちは不条理な現実に、病や死に、苦しみや悲しみに直面するだけでなく、私たち自身が神から引き離そうとする罪と死の力に絶えず晒されています。その力によって、救いの恵みに感謝して生きるのではなくて、その救いの恵みを忘れ、神から離れて生きようとしているのが私たちの姿なのです。
自分の経験や実力の方に曲がっている
弟子たちがこの父親の一人息子から悪霊を追い出せなかったのは、彼らの「信仰がなかった」からです。それは、彼らが立派な信仰を持っていなかったということではなく、主イエスが与えてくださった力を自分自身の力のように勘違いしたということです。主イエスから授けられた力を、あたかも自分自身の力として使おうとしたのです。彼らは主イエスによって遣わされ、ガリラヤの至るところで福音を告げ知らせ、病気を癒しました。その素晴らしい経験を、彼らはいつのまにか自分の実力によるものと勘違いしたのです。あのとき主イエスが一緒にいなくても自分だけでできたのだから、今回も主イエスがいなくても悪霊を追い出せると思ったのです。ところが彼らは何もできませんでした。なぜなら主イエスから授けられた力は、いつでもその力を授けてくださった主イエスを信じ、主イエスと結びつくことなしに用いることはできないからです。弟子たちに信仰がなかったとは、力を授けてくださる主イエスを信じるよりも、自分を信じようとしたということにほかなりません。イスラエルの人たちの心が、主なる神から離れほかの神々の方に「曲がって」しまったように、弟子たちの心は、この前は出来たという自分の経験や実力の方に「曲がって」しまっていたのです。私たちも他人事ではありません。弟子たちのように主イエスから授かった力を用いて病を癒すという経験はなくても、しばしば私たちは同じように曲がってしまい、歪んでしまうのです。私たちは神を信じ、主イエスによる救いの恵みによって生かされていることを信じるよりも、しばしば自分を信じ、自分の力や経験によって生きていると勘違いしているからです。
主イエスに我慢させている
そのような弟子たちと私たちに主イエスは「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言われます。イザヤ書46章4節に「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう」とありますが、この「背負って行く」と訳されている言葉が「我慢する」と同じ言葉です。主イエスは「いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたを背負って行かなければならないのか」と言われるのです。確かにこの主イエスの嘆きは、弟子たちと私たちに対する厳しいお言葉です。私たちは主イエスの嘆きを聞いて、やっと気づくのではないでしょうか。自分は主イエスに我慢させているのだ、主イエスに背負ってもらっているのだ、と気づくのです。しかしだからといって、主イエスはもう私たちに我慢できない、もう私たちを背負って行けないと言っているのではありません。もう私たちを見捨てる、と言っているのではないのです。私たちは、本当は見捨てられても文句を言えません。主イエスを信じず、自分勝手に生きようとする私たちにもう我慢できない、そのような私たちをもう背負えない、と主イエスに言われても仕方がないのです。けれども主イエスは、そのような私たちを決して見捨てることなく、なお私たちに忍耐して我慢してくださり、私たちを背負って行ってくださるのです。
私たちを背負い続けてくださる
この出来事の後で、主イエスは弟子たちに言われました。44節です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている」。二回目の主イエスの受難予告です。「引き渡される」という言葉は、主イエスのご受難を言い表す代表的な言葉です。しかし弟子たちは主イエスが告げたことが分かりませんでした。「彼らには理解できないように隠されていた」からです。主イエスが「必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活すること」は、つまり主イエスのご受難、その十字架の死と復活は隠されていたのです。その隠されていたことが弟子たちに明らかになるのは、復活のキリストが彼らに出会ったくださり、彼らの心の目を開いてくださったときです。そのときまで弟子たちは主イエスのご受難を理解できないのです。しかし主イエスはその弟子たちを決して見捨てることはありませんでした。主イエスの歩みの先には十字架の死があります。その苦しみをこれっぽっちも分かっていない弟子たちに、主イエスは我慢してくださり、彼らを背負って行ってくださるのです。イザヤは「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう」という主の言葉を告げました。私たちは生まれてから死に至るまで、その人生のすべてにおいて、主イエスに背負われて生きていきます。「いまだ」主イエス・キリストによる救いが完成していない世界にあって、救いの恵みを忘れ、神から離れて、自分の力や経験の方に「曲がって」しまう私たちを、主イエスは決して見捨てることなく、背負い続けてくださるのです。
この世界を背負い続けてくださる
主イエスは父親に「あなたの子供をここに連れて来なさい」と言われました。主イエスのところに来る途中でも、悪霊はその子を「投げ倒し、引きつけさせ」たと言われています。しかし主イエスは「汚れた霊を叱り、子どもをいやして父親にお返しになった」のです。自分ではどうすることもできない病の力に捕らえられていた一人息子が、主イエスによって癒され、自分のもとに戻ってきました。それは、我が子がもはや生きることを妨げる大きな力に捕らわれていないということであり、自分の人生を取り戻したということです。信仰のない曲がった世代の人々に嘆きつつも、主イエスは苦しんでいるこの父親の一人息子と、我が子が苦しんでいるのを傍で見ているしかなかった父親を憐れんでくださり、み業を行ってくださったのです。同じように主イエスによる救いが「いまだ」完成していない世界にあって、主イエスはこの世界の不条理な現実、病や死、苦しみや悲しみを憐れんでくださいます。主イエスが、信仰のない曲がった世代の私たちに嘆きつつも、私たちを決して見捨てないように、主イエスはこの世界の苦しみや悲しみを目に留め続けてくださっているのです。「すでに」と「いまだ」の間にあって、山の上と山の麓を行ったり来たりしているような私たちを、またこの世界を、主イエスは決して見捨てることなく、背負い続けてくださっているのです。