夕礼拝

栄光に輝く主イエス

「栄光に輝く主イエス」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:出エジプト記 第34章29-35節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第9章28-36節
・ 讃美歌:

期待外れの救い主?
 「イエスはキリスト」、「イエスは救い主」は私たちの信仰を最も簡潔に言い表しています。ペンテコステ以後を歩んでいる私たちには、聖書を通して、礼拝におけるみ言葉の説き明かしを通して、主イエスの十字架と復活、その昇天において「イエスは救い主」ということが明らかにされた、と知らされています。しかし主イエスが地上を歩まれていたとき、「イエスは救い主」ということは隠されていました。そのために人々は「イエスは何者なのか」という問いを抱いたのです。主イエスに従い共にいた弟子たちもこの問いを抱きましたが、しかしそれだけはありませんでした。ほかならぬ主イエスご自身からこの問いを投げかけられたのです。主イエスに従い共にいる中で「イエスは何者なのか」と問うことから、「あなたはわたしを何者だと思うか」と主イエスご自身から問いかけられるようになったのです。
 先週、お読みしたように、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いかけに、ペトロは「神からのメシアです」(9:20)と答えました。ペトロは「イエスは神からのメシア、イエスは神のキリスト、イエスは救い主」と告白したのです。しかしそのように告白したペトロは、主イエスがどのように救いを実現するのか分かっていたわけではありません。当時、人々の間には、自分たちをローマ帝国の圧政から解放してくれる救い主到来への期待が高まっていました。来るべき救い主が、その力によってローマに輝かしく勝利し、自分たちを救ってくれると期待していたのです。ペトロがまったく同じ期待を抱いていなかったとしても、「イエスは救い主」と告白したとき、彼も輝かしい勝利を収める救い主を思い浮かべていたのではないでしょうか。それゆえに主イエスはペトロと弟子たちにこのように言われたのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(9:22)。ペトロたちは驚いたに違いありません。「多くの苦しみを受け、殺され」るのは、彼らが思い描いていた輝かしい勝利を収める救い主とは似ても似つかないものだったからです。彼らは「イエスは救い主」と信じて主イエスに従う歩みに、きっと輝かしい勝利が与えられると思っていたのです。私たちも「イエスは救い主である」と信じて生きるならば、輝かしい勝利とまでは言わなくても、きっと良いことがあると期待します。だから理不尽な現実に直面すると、なんで救い主であるイエスを信じているのに、こんな目に合わなくてはならないのか、と思ったりするのです。そのような弟子たちに、そして私たちに主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われたのです。

この話をしてから八日ほどたったとき
 本日の箇所の冒頭28節には「この話をしてから八日ほどたったとき」とあります。「この話をしてから」とあることから分かるように、本日の箇所は、先週お読みした箇所の続きであり、「この話」とは、先ほどまで振り返ってきたこと、つまり「あなたは神のキリスト、救い主」と告白したペトロに、そして弟子たちに主イエスが話されたことにほかなりません。その中心には「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」という受難予告がありました。その受難予告から「八日ほどたったとき」、主イエスは「ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」のです。

主イエスの祈りを発端として
 28節に「祈るために山に登り」とあり、続く29節には「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。主イエスは「祈るために山に登られ」、そして主イエスが「祈っておられるうちに」、本日の箇所の出来事が起こったのです。つまりルカ福音書は、この箇所の出来事の全体を、主イエスの祈りを発端として起こったこととして語っているのです。この福音書は度々主イエスが祈られたことを語っています。先週の箇所の冒頭18節にも「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」とありました。ペトロの信仰告白も主イエスの受難予告も、そして本日の出来事も主イエスの祈りを発端としています。主イエスと父なる神の親しい交わり、つまり父なる神の語りかけを聞き、父なる神に語りかけるという交わりの中で、主イエスはその歩みを進めておられるのです。この祈りを発端として起こった本日の出来事の中で、主イエスが告げられた「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」とは、どのようなことなのか、なにを意味するのかが示されていきます。そして「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた弟子たちも、正確にはその中心メンバーである三人が、神からの語りかけを聞くのです。

イエスの栄光
 主イエスが「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と言われています。本日の箇所は「イエスの山上の変貌」と言われることがありますが、「変貌」とは、主イエスの顔が別の顔に変わったとか、主イエスが変身したということではありません。それは、32節に「栄光に輝くイエス」とあるように主イエスが栄光を現されたということであり、このことを「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と語っているのです。「栄光に輝くイエス」は、原文を直訳すれば「彼の栄光」であり、つまり「イエスの栄光」です。主イエスの地上の歩みにおいて、この「イエスの栄光」は基本的には隠されていました。この出来事において三人の弟子たちは隠されていた「イエスの栄光」を目撃したのです。

モーセの顔の光と栄光に輝くイエス
 この主イエスの変貌の背後には、旧約聖書出エジプト記で語られているシナイ山におけるモーセに起こった出来事があると思います。本日共に読まれた出エジプト記34章29-35節では、シナイ山で神から十戒を中心とする契約の言葉を与えられたモーセが、山から下ったときのことが語られています。その29-30節をお読みします。「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた」。このようにシナイ山から下ってきたモーセの顔が光っていたように、山の上で主イエスの「顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」のです。このことは、主イエスの山上における変貌が旧約聖書と結びついていることを示しています。つまり旧約聖書において語られている神がイスラエルの人々に行ったみ業と無関係に、この出来事が起こったのではないということです。しかしその一方で旧約聖書と結びついているからといって、モーセと主イエスの違いが曖昧になるわけではありません。シナイ山におけるモーセと山上における主イエスには決定的な違いがあるからです。シナイ山から下ってきたモーセの顔が光っていたのは、モーセが自分の栄光を現したということではなく、モーセを通して主なる神の栄光が現れたということです。主の栄光に照らされて、あるいは主の栄光を反射して、モーセの顔が光っていたと言うことができるかもしれません。つまりモーセ自身が栄光を持っていて、それを現したということではないのです。しかし主イエスはそうではありません。主イエスが現したのは「イエスの栄光」、つまりご自身の栄光だからです。主なる神の栄光に照らされたのでも、あるいはそれを反射したのでもなく、地上の歩みにおいて隠されているご自身の栄光を、山の上で祈られる中で現したのです。「栄光に輝くイエス」とは、主イエスがご自身の栄光を現し、輝かせたということにほかならないのです。

モーセとエリヤ
 主イエスの変貌の背後にシナイ山におけるモーセの出来事があるだけでなく、主イエスの変貌の出来事そのものにおいて、モーセとエリヤが主イエスと語り合っていた、と言われています。モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの人々を救うために神が遣わした人物でした。エジプトからの脱出を導き、先ほどお話ししたように、シナイ山で神から十戒を中心とする律法を与えられ、それをイスラエルの人々に伝えました。と同時にモーセは、ユダヤ人にとって旧約聖書の最初の五つの書物、つまり創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を代表する人物でもあります。実際、この五つの書物は「モーセ五書」と呼ばれることもあるのです。一方エリヤは、旧約聖書列王記に登場する預言者ですが、ここでは「預言者」を代表しているといえます。「預言者」を代表しているとは、旧約聖書に登場する預言者たちの代表ということではありません。ユダヤ人にとって「預言者」とは、ヨシュア記から列王記までと(ルツ記は除く)、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、及び十二小預言書のすべての書物ことです。ですからエリヤが「預言者」を代表しているとは、これらの書物を代表しているということなのです。ユダヤ人によれば旧約聖書は「モーセ五書」つまり「律法」、それから「預言者」、そして「諸々の書物」に分けられ、「律法」を代表しているがモーセであり、「預言者」を代表しているのがエリヤです。「諸々の書物」を代表する人物がいないとはいえ、モーセとエリヤで旧約聖書の全体を代表していると言えます。ですからモーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っているとは、主イエスがいわば旧約聖書全体と語り合っている、と言っても良いと思います。山上での主イエスの変貌の背後に、旧約聖書で語られているモーセの出来事、つまり神がイスラエルの人々にその栄光を現した出来事があるだけでなく、この変貌の出来事そのものにおいて、主イエスは旧約聖書全体と語り合っているのです。

旧・新約聖書を貫く中心テーマ
 何を語り合っていたのかが、31節でこのように言われています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、あの主イエスの受難予告で語られていたことです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。主イエスがモーセとエリヤと、つまり旧約聖書全体と語り合っていたのは、ご自身の十字架の死と復活でした。それは、「必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」という主イエスのご受難、その十字架の死と復活がモーセとエリヤによって確認された、つまり旧約聖書全体によって確認されたということにほかなりません。別の言い方をすれば、主イエスの十字架と復活は新約聖書の中心テーマであるだけでなく、旧約聖書の中心テーマでもあるということです。主イエスが「エルサレムで遂げようとしておられる最期について」モーセとエリヤと語り合っていたことは、旧・新約聖書を貫く中心テーマが主イエスの十字架と復活の死であることを示しているのです。主イエスの変貌は、神がその民に栄光を現したモーセの出来事と結びついていました。それだけでなく主イエスの変貌の出来事そのものにおいて、旧約聖書全体が主イエス・キリストの十字架と復活を指し示していることが明らかにされたのです。主イエスは受難予告において「人の子は必ず多くの苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」と言われました。「必ず…なっている」とは神の計画、神の意志を言い表しています。ですから旧約聖書全体は、主イエスの十字架と復活という神の計画、神の意志を語っているのです。ルカ福音書とその続きである使徒言行録において、このことが繰り返し語られています。復活の主イエスに出会った弟子たちが「恐れおののき、亡霊を見ている」ように思ったとき、主イエスは言われました。「『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する…」』」(ルカ24:44-46)。モーセの律法と預言者の書と詩編、つまり旧約聖書全体に書いてある必ず実現することが、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」ことなのです。山上の変貌の出来事における、主イエスとモーセとエリヤの対話はこのことを確認し、明らかにしているのです。

栄光の勝利へのエクソダス
 「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」の「最期」は、元々の言葉では「エクソドス」です。この言葉はもともと、「生きることから抜け出す」とか「地上の人生からから抜け出す」という意味で、要するに人の死、人生の「最期」を言い表しました。しかしそれだけでなく、この言葉はイスラエルの救いの歴史の原点であるエジプトからの「脱出」、つまり出エジプトをも言い表します。出エジプト記は英語では「エクソダス」と言いますが、これはギリシャ語の「エクソドス」に由来する言葉です。確かに「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」つまり「エクソドス」は、主イエスの十字架の死という地上の生涯の最期です。しかしそれだけではない。主イエスご自身が「三日目に復活することになっている」と言われたように、死に打ち勝つ「栄光の勝利」への「エクソダス」、「栄光の勝利」への「脱出」でもあるのです。出エジプトの出来事において、イスラエルの人々がエジプトにおける奴隷の支配から解放され、救われたように、主イエスの十字架の死と復活において、私たちは罪の支配から解放され、救われました。主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」、「エクソダス」は、主イエスが死に打ち勝つ栄光の勝利へ脱出することにおいて、罪人である私たちが罪の支配から脱出させられる出来事にほかならないのです。主イエスは、「苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」ことを経て、この栄光へと至ります。山上の変貌における「栄光に輝くイエス」は、その栄光の先取りです。地上の歩みにおいて隠されている主イエスの栄光が、エルサレムで遂げる最期の先で明らかになることを示しているのです。と同時に「主イエスの栄光」は、主イエスの受難の歩み、とりわけその十字架の死と復活なしには明らかにされないということでもあります。主イエスの栄光をその十字架と復活から切り離すことはできないのです。「栄光への脱出」は、十字架の死と復活によってのみ実現するからであり、まさにそれが旧約聖書の指し示す神の計画、神の意志なのです。

「すばらしさ」の中に留まり続けることはできない
 ところがペトロは、モーセとエリヤが主イエスから離れようとしたとき、主イエスにこのように言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである」とあるように、ペトロの言っていることは混乱していますが、しかしペトロの気持ちはよく分かります。要するにペトロはこのままここに留まりたい、と言っているのです。地上の歩みにおいて隠されている主イエスの栄光を目の当たりにして、ペトロは「わたしたちがここにいるのは、すばらしい」と思い、この「すばらしさ」の中に留まり続けたい、と言っているのです。だから仮小屋を三つ建てればそこに留まり続けられると考えたのです。しかしペトロがそのように言うのは、彼が主イエスの受難予告をまったく分かっていなかったからです。あるいは栄光に輝く主イエスが、モーセとエリヤと語り合っていた「エルサレムで遂げようとしておられる最期」について分かっていなかったからです。この山上の変貌において明らかになった「主イエスの栄光」は、主イエスが多くの苦しみを受け、十字架で死なれ、復活することなしに実現するのではありません。「ここ」が「すばらしい」からこのまま栄光に留まりましょう、ということにはならないのです。十字架の死と復活を経ることによってのみ、主イエスは栄光へと「脱出」します。罪の力と死に打ち勝つ「栄光の勝利」へと至るのです。ペトロはこのことが、この神の計画と意志が、その計画に従って歩んで行こうとする主イエスのことがまったく分からなかったのです。

これに聞け
 ペトロがそのように言っていると、「雲が現れて彼らを覆った」と言われています。そしてその雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。雲は神の現臨を表すと共に、神のお姿を隠すものでもあります。神はペトロに、あるいはヨハネとヤコブに「イエスはわたしの子、選ばれた者。イエスに聞け」と語りかけたのです。主イエスは神の独り子であり、神によって選ばれた者です。神によって選ばれたとは、神の計画と意志が実現するために選ばれたということであり、それゆえに主イエスは「苦しみを受け…殺され、三日目に復活することになっている」のであり、その十字架と復活を経ることによって栄光を受けることになっているのです。その主イエスに聞け、と神は弟子たちに言われるのです。主イエスはご自分の受難を告げた後、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。「ここ」が「すばらしいから」このまま留まるのではなく、十字架への道を歩まれる主イエスに従い、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」歩んでいくのです。その歩みは、「主イエスに聞く」ことによってこそ、歩み始めることができるのです。

復活と永遠の命への脱出を待ち望む
 私たちは主イエスに聞きます。なによりも礼拝において主イエスの言葉を聞きます。そのことによって自分を捨て、自分を神に明け渡し、日々の生活の中で、自分の十字架を背負って歩んでいきます。その歩みには苦しみや悲しみがたくさんあるに違いありません。しかし私たちには、その歩みの先で主の栄光に与るという約束が与えられています。私たちは罪の力と死に打ち勝たれた主イエスの栄光に与るのです。私たちがこの地上の生涯の「最期」を迎えたとしても、その「最期」は、終りの日の復活と永遠の命への「脱出」でもあります。復活し永遠の命を生きておられる主イエスの栄光に与る「脱出」でもあるのです。今はなお、私たちは主イエスの栄光を朧げにしか見ることができません。しかし私たちは、終りの日に必ず栄光に輝く主イエスと共にいて、その栄光に与り、永遠の命を生きるようになるのです。そのことを待ち望みつつ、この地上の歩みにおいて「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って」主イエスに従う者として歩んでいくのです。

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