「幸いと災い」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:申命記 第30章15-20節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第6章20-26節
・ 讃美歌:143、461
あなたがたへ
「幸いである」と主イエスは告げています。「貧しい人々は、幸いである」とあるように、何々は幸いであると訳されていますが、元々の文を見ると、最初に「幸いである」と言われていて、その順序に従うならば「幸いである何々は」あるいは「幸いなるかな何々は」となります。主イエスは畳みかけるように「幸いなるかな、幸いなるかな」と繰り返し告げているのです。祝福を告げる主イエスのお言葉です。その一方で主イエスは「不幸である」とも告げています。ここでも元々の文の順序に従うならば「不幸であるあなたがたは」あるいは「不幸なるかなあなたがたは」となり、「不幸なるかな、不幸なるかな」と繰り返し告げられているのです。「不幸である」や「災いである」と訳されるこの言葉は、呪いの言葉ではなくむしろ嘆きの言葉です。本日の箇所において、四つの幸いと四つの災いが対になって語られています。一方で主イエスの祝福に満ちたお言葉が告げられ、もう一方で嘆きに満ちたお言葉が告げられているのです。
6章20節から49節まで、ルカは主イエスの一連の説教を記していますが、本日の箇所はその始まりです。ルカによる福音書のこの部分はマタイによる福音書第5章から第7章に記されている、いわゆる山上の説教と重なり合う部分があります。山上の説教の始めにおいても主イエスは「幸いである」と繰り返し告げられていますが、マタイでは「幸い」についてだけ告げられていて、「災い」については告げられていません。
さてルカにおいて、これらのお言葉は誰に向けて語られているのでしょうか。本日の箇所の冒頭20節には「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とありますから、第一に弟子たちに語られていると言えるでしょう。しかしこの一連の説教を記した後、7章1節では「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた」と語られています。ですから弟子たちだけでなく、民衆も主イエスの説教を聞いていたことになります。主イエスのお言葉は民衆にも向けられているのです。そもそも主イエスは祈るために山に上り、そこで弟子たちの中から十二人を選び、その十二人と一緒に山から下りてきたのでした。そこには「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」と17、18節にありました。まさにそこで、主イエスは説教をお語りになり、その始めに「幸い」と「災い」を告げているのです。
このように主イエスのお言葉は、弟子たちと民衆に向けられていますが、それだけでなく、お言葉の語られ方がマタイとは異なります。マタイでは5章3節で「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と言われているのに対して、ルカでは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われています。マタイのように「その人たちのものである」と少し距離を取って語りかけているのではなく、「あなたがたのものである」とそこにいる弟子たちと民衆に「あなたがた」と語りかけているのです。そしてそれはルカによる福音書の読み手に向けて「あなたがた」と語りかけているということでもあります。ルカ福音書が書かれた時代の読み手だけでなく、現代の読み手、つまり私たちに向けて「あなたがた」と語りかけているのです。ですから主イエスが告げる「幸い」と「災い」を私たちに向けられた言葉として聴きたいのです。
幸いなるかな
しかしそれは、私たちにとって簡単なことではないと言わなければなりません。むしろ私たちに関わりのない言葉として聴いたほうが受けとめやすいのです。主イエスは「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われています。しかし私たちは貧しいこと、飢えていること、泣いていることが幸いであるとは、とても思えません。生きていくために富や糧は必要ですし、そのために日々労苦しています。泣いて過ごすような日々ではなく、少しでも笑って過ごしたいと願います。主イエスの弟子たちや民衆はこのお言葉をどのように受けとめたのでしょうか。弟子たちの中には「すべてを捨てて」主イエスに従った人たちがいました。ですから彼らは貧しかったし飢えていたかもしれません。民衆が山から下りてくる主イエスを待ち構えていたのは、「イエスの教えを聞くため」であり「病気をいやしていただくため」でした。「汚れた霊に悩まされていた人々」もいたし、「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」と19節に語られていました。病を抱えていた人たちはその苦しみのために、泣いて日々を過ごしていたかもしれません。「何とかしてイエスに触れようとした」という言葉に、病が癒されることへの強い願いが、それと同時にその願いを引き起こす苦しみ、悲しみの日々が表れているからです。このような弟子たちや民衆に向かって、彼らの貧しさ、飢え、悲しみが「幸いである」と主イエスは言われたのでしょうか。言い換えるならば、貧しいこと、飢えていること、泣いていることそれ自体が、幸せな状況であるとか、理想であると主イエスは言われたのでしょうか。そうではありません。何故なら、元々の文では「貧しい人々は、幸いである、なぜなら神の国はあなたがたのものである」と読むことができるからです。貧しい人々はその貧しさのゆえに幸いなのではなく、神の国が到来しているゆえに彼らは貧しさの中にあっても「幸いである」ことができるのです。ここで「神の国はあなたがたのものである」と言われています。それは将来実現することではなく、また可能性の問題でもなく、すでに今、神の国が来ていて、神のご支配が始まっていることを告げているのです。4章16節以下で主イエスは故郷ナザレの会堂でイザヤの預言をお読みになった後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスにおいてイザヤの預言が成就し、すでに神の国が到来し、神のご支配が始まっている。だから貧しい人々は、その貧しさの中にあって幸いであることができると言われているのです。「神の国はあなたがたのものである。」このことがすでに実現していること、将来のことではなく現在のことであるのに対して、21節では「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と言われています。「今」、つまり現在はなお飢えているし、泣いているのです。でも将来は、満たされ、笑うようになる。この将来とは終わりの日のことであり、神の国が完成するときのことです。すでに神の国が来ていて、神のご支配が始まっているけれど、それはなお完成していない。20、21節では、その緊張感が語られているのです。
ルカは、貧しい現実、飢えている現実、泣いている現実を確かに見つめています。ここでルカが語っている貧しさや飢えは、物質的なこととは関係ないとは言えません。弟子たちと民衆の現実は、お金がない、食べる物がない、泣いて過ごすしかないという現実であったに違いないからです。私たちの現実においても、貧しさ、飢え、悲しみをいくらでも数え上げていくことができます。貧富の格差はますます広がっています。私たちの身近なところにおいても飢えがなくなったわけではありませんが、世界に目を向けるならば多くの方たちが飢えています。そして私たちは苦しみ悲しみのために泣いて過ごしているのです。いやそれどころかあまりの苦しさ悲しさのゆえに、あるいは忙しさのゆえに心が動かなくなってしまって、泣くことすらできなくなっているのです。私たちは貧困、飢え、泣いて過ごさなければならないほどの現実から目を逸らすわけにはいきません。けれどもそのような現実を前にして私たちは何を語ることができるのでしょうか。貧しさ、飢え、悲しみの中にある方々に、「幸いである」とはとても言えません。だから私たちは主イエスが告げる「幸い」を私たちとは関わりがない言葉として聴きたいと思ってしまうのです。しかし忘れてはならないことがあります。この言葉は私たちの言葉ではありません。自分に向かってであれ、ほかの人に向かってであれ、私たちが語りかけている言葉ではないのです。この言葉は、主イエスのお言葉です。私たちの現実のまっただ中にまで下りてきてくださった主イエスのお言葉なのです。神の国はすでにあなたがたのところに来ている。だからあなたがたは貧しさの中にあっても、幸いであることができると言われているのです。神の国はいまだ完成していないので、あなたがたは今、なお飢え、悲しみの中を生きているけれど、神の国が完成するとき、飢えている人は満たされ、泣いている人は笑うようになるという約束があなたがたに与えられている。だからあなたがたは幸いであると言われているのです。私たちが抱えている苦しみ、悲しみ、孤独、絶望より、さらに深いところまで下ってくださった主イエスのお言葉だからこそ、私たちが言葉を失ってしまうような現実に向かって、力を持って語られているのです。私たちはそのことを信じて良いのです。
貧しさとは
ルカは、この箇所だけでなく福音書を通して、お金がない、食べる物がない、泣いて過ごすしかない人たちの現実から目を逸していません。しかしだからといってすでに申しましたが、お金がないこと、食べる物がないこと、泣いて過ごすしかないことそれ自体が幸いであるとも、理想的な状況であるとも言っているわけではないのです。ルカが語る「貧しさ」にはもう一つの側面があることに目を向けなければなりません。「貧しい人々」と訳されている言葉は、単に貧しい生活をしている人々ではなく、何も持っていなくて、餓死する危険がある差し迫った状況の中にある人々を意味します。またこの言葉の背後には、旧約聖書の言葉があり、それは単純な「貧しさ」だけでなく、貧しさのために「踏みつけられ、圧迫された」という意味を持ちます。もし人が貧しく、踏みつけられ圧迫されているならば、その人はもはや地上で助けを求めることができません。地上の助けや手段がすべて閉ざされたとき、その人にできることは神を見上げることのみです。それゆえこの言葉は、地上で何も持たないがゆえに、完全な信頼を神さまに寄せる人々を意味するのです。「貧しい人々」とは、神さまのみ前に何も持っていない人であり、それゆえに完全な信頼を神さまに寄せ、ただ神さまのみがその貧しさを満たしてくださることを信じている人なのです。「神の国はあなたがたのものである」と言われるとき、神の国が来たことによって、神さまのみ前に何も持っておらず、神さまのみにより頼んでいる人が、神さまの恵みで満たされます。だから「貧しい人々は、幸いである」と言われているのです。確かに神の国が来ることによって、貧困の現実が変えられることを信じ求めて良い。けれどももっと根本的には、すでに神の国が来たことによって、また私たちがこの地上で始まっている神の恵みの支配に加えられることによって、神さまのみ前になにも誇るものを持っていない罪人である私たちが、自分の力ではただ枯渇していくばかりであり、ただ神さまの憐れみにすがるしかない私たちが、神さまの恵み、祝福によって豊かに満たされること。これこそ、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」という主イエスの祝福が告げていることなのです。同じように、今飢え、泣いている私たちが、その飢えが満たされ、その悲しみが喜びで満たされるのは、終わりの日の神の祝宴においてにほかなりません。その約束を信じ歩んでいる人々は幸いであると、主イエスは告げているのです。
人々の眼差しと神の眼差し
すでに神の国が到来し、神のご支配が始まっていて、そのご支配に私たちが入れられているとき、人々の私たちに対する眼差しは必ずしも温かいものではないかもしれません。22節で主イエスは「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」と言われています。この背景にはルカ福音書が書かれた時代の地中海沿岸に広がるユダヤ人の会堂で、「人の子のために」つまり主イエス・キリストを信じるがゆえに、人々に憎まれ、その会堂から追い出され、ののしられ、汚名を着せられた人たち、つまり迫害された人たちがいたことがあります。しかしそのようなときに、「あなたがたは幸いである」と主イエスは言われるのです。そしてそのような迫害に遭ったとき「喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」と言われます。「天には大きな報いがある」とは、天国において見返りがたくさん与えられるということではありません。すでに始まっている神のご支配に入れられて歩むとき、人々は憎しみのこもった眼差しを向けるかもしれない。しかし神さまの眼差しにおいては、すでに「幸いなるかな」という祝福に入れられているということです。すでに到来した神の国において、その祝福に与っているのです。私たちもすでに神のご支配に入れられています。そのご支配が完成するまでの、私たちの地上の歩みにおいて、私たちは主イエス・キリストを信じるゆえに様々な困難や悲しみや痛みを味わいます。キリスト者であるゆえにこの社会で生きづらさを感じることがしばしばあります。周りの人たちになかなか理解されない。憎まれるほどではなくても煙たがられ、罵られるほどではなくても悪口、陰口を言われる。そのことで私たちひどく傷つき疲れます。けれどもそのようなときに「喜び踊りなさい」と主イエスは言われるのです。この「踊る」という言葉は、飛び跳ねることを意味します。つまり「飛び跳ねて喜びなさい」、全身で喜びなさいと言われているのです。すでに神の眼差しにおいて「幸いなるかな」という祝福に入れられているのだから、人々の眼差しの中で、傷つき悲しみ疲れ果てることがあっても、いやむしろそのような時こそ全身で喜ぶのです。そしてその喜びは自分だけに留まることはありません。喜んでいるキリスト者を通して、神さまは新しく信仰者を起こしてくださるからです。
災いなるかな
「幸い」を告げてきた主イエスは、24節の冒頭で「しかし」と言われてから「災い」を告げています。「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。」これは、将来ではなく現在について語っています。すでに富んでいる人はもう慰めを受けているのです。自分が持っているものでもう十分満たされている、もう十分慰められている、と思っているのです。ですから自分は何も持っていないとは思いませんし、神さまの恵みによって満たされる必要があるとも思っていません。自分で自分を満たし、慰めることができていると思っているのです。しかし彼らに本当の慰めと祝福が与えられているわけではないのです。なぜならそれは神さまのみが与えることができるのであり、自分で獲得することはできないからです。だから主イエスは「災いなるかな」と告げているのです。25節で「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる」と言われています。ここでは「今」と将来について語られていますが、この将来は「終わりの日」ではありません。そうではなく人生の将来に起こることです。私たちの人生は山あり谷あり、浮き沈みがあります。たとえ今満腹していたとしても、飢えるようになるかもしれないのです。たとえ今笑っていたとしても、悲しみ泣くようになるかもしれないのです。満腹している人の傍らに飢えている人がいて、笑っている人の傍らに悲しみ泣いている人がいるのが私たちの現実です。今満腹していたとしても、笑えていたとしても、自分の傍らにいて飢えている人、悲しみ泣いている人を自分のこととして受けとめ、そのような人に仕え分け与えていくことが求められています。しかしそうではなく、自分だけが満腹であれば良い、自分だけが楽しくおかしく笑って過ごせれば良いと思っている人たちは「災いである」と主イエスは告げているのです。自分だけが良ければ、という自己中心的な思いは、隣人の苦しみ悲しみに心を寄せることはありません。そしてそのような人は、自分が褒められるために、主イエスを脇において、相手にとって都合の良い言葉ばかり語るのです。
幸い「か」災いなのか
あなたがたに向けて「幸いなるかな」と告げられていました。あなたがたに向けて「災いなるかな」とも告げられていました。「幸い」も「災い」も同じ「あなたがたに」語られているのです。この主イエスの説教を聞いていた弟子たちと群衆の中に、「幸いなるかな」と告げられるにふさわしい人もいたし、「災いなるかな」と告げられても仕方がない人もいたということでしょうか。彼らの中のある人は「幸い」であり、ほかの人は「災い」であるということになるのでしょうか。弟子たちと群衆だけではありません。私たちに向けて「あなたがた」と語られていたのです。ですから同じように私たちの中のある人は「幸いなるかな」と告げられ、ほかの人は「災いなるかな」と告げられているということなのでしょうか。そうであるならば「幸い」と「災い」の線引きがどこにあるかが問題になります。そのとき私たちは「あの人は裕福だから災いだ」とか、「私は、貧しい生活をしているから幸いだ」とか、あるいは「あの人はなんの苦労もしていないから災いだ」とか「私は、苦しい日々を送っているから幸いだ」とか、そういうことを言い出してしまうのです。しかしそうではありません。「幸いなるかな」と告げられたのは、神さまのみ前に何も持っていない、それ故に神さまに依り頼むしかない人でした。自分ではなく、神さまによって生かされている人が「幸いな人」なのです。それに対して「災いなるかな」と告げられたのは、自分が持っているもので満たされ、慰められている人であり、それ故自分の力を頼みとする人でした。神さまなしに自己中心的に生きている人が「不幸な人」なのです。ある人は「幸いなるかな」と告げられ、ほかの人は「災いなるかな」と告げられているのではありません。私たちは「幸い」と「災い」のどちらかを選び取ることができるのでもありません。むしろ罪人であり、自己中心的に生きようとする私たちは「災いなるかな」と告げられるしかない者なのです。
決定的な「幸い」
本日、共に旧約聖書申命記第30章15~20節を読みました。15節に「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とあり、19節にも「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」とあります。ここでは、私たちの前に祝福と呪いが置かれていて、ある場合には祝福が与えられ、命を得ることができ、しかし別の場合には呪いが与えられ、死ぬことになると言われています。しかし私たちはこのどちらかを選ぶことができるのでしょうか。自分で祝福と命を勝ち取ることができるのでしょうか。16節で「あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」と言われています。けれども私たちは主なる神を愛せず、その道に従って歩めず、その戒めと掟と法を守れない者であるに違いありません。17節では「もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる」と言われています。「心変わりして」とは「心の向きを変える」ことであり、神さまでないものに心を向けることであり、そっぽを向くことです。また「他の神々にひれ伏し仕える」とは、唯一の神以外のほかの神を信じることであり、また偶像を彫ってそれを神として信じることでもあります。しかしなによりもここで見つめられているのは、自分自身を神とし、その自分という神にひれ伏し仕える自己中心的な生き方なのです。ほかならぬ私たちこそ神さまに背き、そっぽを向いて、自分自身を神として生きている者であり、必ず滅びなければならない者なのです。そしてそのような私たちは「富んでいる人」であるとも言えます。何故なら「富んでいる人」は、自分が持っているもので満たされ、慰められているのであり、神さまを必要とせず自分自身を神として生きているからです。
そうであるならば、私たちはこれからも「災いなるかな」と告げられることにおびえなくてはならないのでしょうか。祝福ではなく、呪いが与えられることに、命ではなく死が与えられることにおびえなくてはならないのでしょうか。決してそうではない。何故なら本来、呪われ、滅ばされ、死ぬしかない私たちの代わりに、主イエス・キリストが十字架で呪われ、滅ぼされ、死んでくださったからです。主イエス・キリストの十字架こそ決定的な出来事です。決定的な「幸いなるかな」という祝福が、私たちに告げられているのです。「神の国はあなたがたのものになるだろう」でも、「神の国はあなたがたのものかもしれない」でもなく、「神の国はあなたがたのものである」と言われているのです。すでに神の国は私たちのところに来ているのです。神の恵みの支配は始まり、私たちはその中へと入れられているのです。「災いなるかな」と告げられるような私たちの罪はすでにキリストの十字架によって滅ぼされています。私たちはこの地上の歩みにおいてなお罪を犯し、「災いなるかな」と告げられてしまうような者です。けれどもすでに私たちは決定的な「幸い」に入れられているのです。なお「災いなるかな」と聞こえるかもしれません。しかしそれよりはるかに大いなる「幸いなるかな」という祝福が響き渡っているのです。「災いなるかな」と聞こえたとしても、それは残響に過ぎないのです。私たちの前に祝福と呪いが置かれているのではありません。命と死が置かれているのでもありません。呪いは、主イエス・キリストが引き受けてくださいました。死は、主イエス・キリストによって滅ぼされました。ですから私たちの前には祝福しかないのです。命しかないのです。命しかないとは、死がないということであり、それは地上の死によって終わらない復活と永遠の命の約束が私たちの前に置かれているということにほかなりません。私たちはその約束を受け取るだけです。主イエス・キリストを信じ、その祝福と命に与るのです。そのとき私たちは本当に幸いな者として、神さまの祝福の中を歩むことができるのです。主イエスは、「幸いなるかな」と私たちに祝福を告げてくださっているのです。