「権威のある言葉」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章8-11節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第4章31-37節
・ 讃美歌:218、355
ナザレからカファルナウムへ
「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた」と本日の聖書箇所の冒頭31節で語られています。カファルナウムは聖書の付録、聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を見ますと、ガリラヤ湖から北西に数キロのところにある町です。同じ地図でカファルナウムから斜め左下、ガリラヤ地方の南の境界線にほど近いところにはイエスの故郷ナザレがあります。ルカによる福音書はイエスがガリラヤ地方で伝道を始められ、その伝道の初めに故郷ナザレに来られたことを語っていました。この故郷ナザレでのイエスの物語が本日の箇所の前、4章16-30節にあります。ですから本日の聖書箇所の冒頭で語られている「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って」とは、イエスが故郷ナザレからカファルナウムにやって来たということです。
ナザレの礼拝、カファルナウムの礼拝
本日の箇所は、聖書の小見出しにもありますように、汚れた悪霊に取りつかれた男からイエスがその悪霊を追い出すことが語られていて、一見故郷ナザレでの物語とは関係がないように思えます。しかし本日のカファルナウムでの出来事とその直前に語られている故郷ナザレでの出来事には共通するところがあります。それは、どちらも安息日の会堂における出来事であるということです。ここで会堂とはシナゴーグのことであり、ユダヤ人は安息日にシナゴーグで礼拝を守っていました。故郷ナザレの物語の冒頭16節に「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り」とあることから、イエスは「いつも」安息日には会堂で礼拝を守っていたことが分かります。故郷ナザレでの礼拝においてイエスは聖書を朗読され、み言葉の解き明かしを語られました。今、私たちが守っているこの礼拝においても聖書が朗読され説教が語られていますが、故郷ナザレでの礼拝では、主イエスご自身がそこにいてくださり聖書を朗読され説教を語られたのです。
ナザレの人たちはイエスの説教を聞いて、初めは「イエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚」きました。しかし彼らの驚きは激しい怒りへと変わっていったのです。故郷ナザレの物語の最後には次のように語られていました。「これを聞いた会堂内の人人は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」イエスが語った言葉をナザレの人たちは受け入れることができませんでした。それどころか彼らはイエスを殺そうとさえしました。そこでイエスは故郷ナザレから立ち去り、カファルナウムへとやって来たのです。
本日の箇所の31節の後半に「安息日には人々を教えておられた」とあり、33節の初めに「ところが会堂に」とあります。カファルナウムでもイエスは安息日に礼拝を守り、み言葉の説教を語られたのです。故郷ナザレの礼拝で、イエスはイザヤ書のみ言葉を朗読し、み言葉を解き明かして「『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とありました。しかしカファルナウムの礼拝では、どの聖書箇所が読まれ、またみ言葉がどのように解き明かされたのかは語られていません。語られているのはカファルナウムの人たちがイエスの教えを聞いて「その教えに非常に驚いた」ということです。
権威ある言葉
ここで「非常に驚いた」と訳されている言葉は、ルカによる福音書第9章43節では「心を打たれた」と訳されています。彼らはイエスの教えに「心を打たれた」のです。心を動かされたと言っても良いでしょう。なぜ彼らは「心を打たれた」のでしょうか。イエスの教えが分かりやすかったからでしょうか。語り方が良かったからでしょうか。しかしそのようなことはここでは言われていません。彼らが驚いたのは、イエスの「言葉には権威があったから」です。カファルナウムの礼拝でイエスが「権威ある言葉」を語られたからなのです。権威とは支配する力であり、権力と言い換えることもできます。権力による支配と聞くと、国家権力や政治権力による支配を思い浮かべるかもしれません。しかしここで語られているのは「神さまの支配の権威」です。イエスの言葉に神さまの支配が始まったことを告げ知らせる「権威」が宿っていたのです。
悪霊に取りつかれる
このカファルナウムの会堂に「汚れた悪霊に取りつかれた男」がいました。ルカ福音書では「悪霊」が何度も出てきます。本日の箇所のすぐ後の41節にも「悪霊」が出てきますが、40、41節から当時の社会において病気を抱えている者は悪霊に取りつかれている、と考えられていたことが分かります。さらに9章26節以下の物語においては、悪霊に取りつかれている男が「長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」と語られ、同じ9章37節以下においては、子どもの父親が「悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません」とイエスに言ったことが語られています。このようにイエスの時代に悪霊に取りつかれていると見なされていたのは、心や体に深刻な病を抱えていた人たちであったのでしょう。そしてこのことは、ただ深刻な病を抱えた人たちがいたということに留まりません。そこには、病を抱えている人たちの痛み、苦しみ、悲しみがあり、また、その人のそばにいる人たち、家族や友人たちの痛み、苦しみ、悲しみがあったということです。現代を生きる私たちにとって、心にしても体にしても病を抱えるということは、悪霊に取りつかれることであるとは言えません。私たちが病をそのように考えるのは間違っています。しかしルカ福音書が「悪霊に取りつかれた」と言い表している病を抱えた人たちと、彼らのそばにいる人たちの痛み、苦しみ、悲しみは、現代を生きる私たちが病を抱えるとき、あるいは私たちの大切な人が病を抱えるとき、私たちが味わう思いとまったく変わらないのではないでしょうか。昔の人たちが「悪霊に取りつかれた」と言っていたことは、科学が進歩し技術が発展した現代を生きる私たちにはなんの関わりもない、とは言えないのです。昔の人たちが「悪霊に取りつかれた」としか言い表しようがなかった苦しみがあり、絶望があったのです。このことを見つめるとき、昔の人たちと私たちの苦しみと絶望が重なり合うのです。
神の支配に逆らう力
さらに「悪霊に取りつかれた」と語ることでしか病を言い表せなかったというだけでなく、ここでは人間を根本的に捕らえている力が見つめられています。それは、神さまの支配に逆らう力です。どうすることもできない病に直面して、不条理な病に直面して、そこに私たちは深い闇を見ます。この深い闇へと引きずり込まれていく力を感じます。同じように、あるいはそれ以上に、私たちは毎日の生活の中で、神さまの支配に逆らう力、神さまのみ心に背く力に捕らえられていることに気づかされるのです。病を抱えている人だけでなく病を抱えていない人も含め、私たちの目の前には悲しみ、苦しみ、絶望の現実があります。病だけでなく、このような現実の深い闇へと私たちを引きずり込んでいく力を見つめて、ルカ福音書は「悪霊」と呼んでいるのです。そうであるならば私たちの誰一人として「悪霊」とは関係がない、とは言えないでしょう。私たちはこのような力から本当に解き放たれ自由となっているのでしょうか。ナザレの礼拝では、イザヤ書のみ言葉が語られました。「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そしてイエスはこのみ言葉が「今日」実現したと語ったのです。しかしナザレの人たちは、このみ言葉が実現したことを拒みました。カファルナウムの礼拝では、イエスの権威ある言葉が語られたとき、一番敏感に反応したのが「悪霊」でした。神さまの支配が始まったことが告げられるやいなや、その支配に抵抗する力が顕になったのです。汚れた悪霊に取りつかれた男は大声で叫びました。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスと関わる
「かまわないでくれ」は、原文を直訳すれば「私たちとあなたの間に何があるのか」となります。つまり私たちとイエスの間に何の関わりがあるのか、と彼は言ったのです。自分はイエスと関わりがない、あるいは自分はイエスと関わりたくないということです。なぜイエスと関わりたくないのでしょうか。「かまわないでくれ」と言った後、彼は「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。イエスと関わると滅ぼされてしまうから、自分はイエスと関わりたくないと言ったのです。「正体は分かっている」とは、イエスが誰であるか知っているということです。そしてイエスは「神の聖者だ」と言うのです。「聖者」とは聖人君子のことではなく、神に属する聖なる者ということであり、汚れた霊にはっきりと対立する者です。主イエスの誕生物語において、天使はマリアに告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」天使がマリアに告げたのと同じことを、悪霊に取りつかれた男はイエスに言ったのです。彼は、イエスが聖なる者であり、神の子であると知っていました。だからこそ彼はイエスと関わりたくなかったのです。聖なる者、神の子イエスと関わることで、神の支配に対抗する力に捕らわれていた自分が滅ぼされてしまうと分かっていたからです。
私たちが誰かと関わりを持つとき、その関わりによって自分が相手に影響を与える、あるいは相手が自分に影響を与えるということがあります。また私たちは人と関わりを持つとき、お互いにとって良い関係を築きたいと願います。けれども私たちは人と関わることで、必ずしも良い影響を与え合うとは限りません。むしろ私たちは人と関わることで嫌な思いをしたり、自分が傷つけられたと感じたりすることをしばしば経験するのです。あるいは逆に、相手に嫌な思いをさせたり、相手を傷つけたりすることもあります。後から自分が相手を傷つけたことに気づかされてひどく落ち込むこともあります。このような経験が積み重なると、私たちは人と関わることに疲れてしまいます。人と関わろうとする思いがすり減って、人と関わるのが億劫になり、そのことを拒み、恐れるのです。
日々経験しているこのような関わりと、私たちがイエスと関わることは似ているところがあります。私たちは、イエスと関わることによって自分が変えられます。イエスと関わりを持つとは、主イエスを信じることにほかならないからです。主イエスを信じるとき、神さまは私たちを変えてくださるのです。しかし他方で、霊に取りつかれた男がイエスと関わろうとしなかったのは、神の聖なる者と関わることへの畏れがあったからです。人と関わることへの恐れではなく、神と関わることへの畏れです。イエスと関わることで、私たちを捕らえて離さない神さまのみ心に背こうとする力から解き放たれることへの恐れ、神さまに逆らう力によって引き込まれた深い闇から引き上げられることへの恐れがあるのです。このような恐れを持っていることを私たちはなかなか自分のこととして見つめられません。なぜなら私たちはみ心に背く力から解き放たれたい、深い闇から引き上げられたい、と自分が願っていると思いたいからです。けれどもどこかで私たちはこのままで良いと思っているのではないでしょうか。神さまに背く力に捕らえられたままで良い、深い闇に留まったままで良いと思っているのです。苦しみ、悲しみ、絶望から抜け出せたらどんなに良いだろうかと願いつつ、しかしそこに留まったままで良いとどこかで諦め、恐れているのです。なぜなら私たちはイエスと関わることで、神の聖なる者と関わることで、決して聖なる者ではありえない、自分の醜い心、残酷な思い、神さまと隣人を愛することのできない姿を直視しなくてはならなくなるからです。だから私たちも叫ぶのです。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」カファルナウムの礼拝で起こったことと同じように、私たちは礼拝で、イエスと関わりたくない、イエスに関わってきてほしくない、そのような畏れを抱くのです。病が私たちにもたらす絶望と深い闇があります。しかしそれだけでなく、イエスとの関わりを拒むことに私たちの根本的な絶望と深い闇があり、私たちは悪霊に取りつかれた男と彼の叫びから、この二つのことを見つめているのです。
悪霊を追い出す
しかしイエスは「自分に関わらないでくれ」と叫んでいる男に対して、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになりました。すると「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った」とあります。イエスの言葉によって、悪霊はこの人を「人々の中に投げ倒し」、そして彼から出て行きました。投げ倒されたにもかかわらず、彼は何の傷も負うことはなかったのです。イエスの言葉によって、この人は神の支配に逆らう力から解き放たれました。この力がもたらす苦しみ、悲しみ、絶望から自由にされたのです。自分とは関わってくれるな、と叫んでいる人に、それでもイエスは声をかけ関わってくださいます。故郷ナザレの礼拝では、人々はイエスが神の子であると分かりませんでした。彼らのイエスに対する「ヨセフの子ではないか」という言葉がこのことをはっきり示しています。人々は礼拝に神の子イエスがいてくださり、み言葉を語ってくださっていることを信じなかったのです。カファルナウムの礼拝では、霊に取りつかれた男は、神に逆らう力、神のみ心に背く力に捕らえられ、イエスに「自分と関わらないでくれ」と言いました。しかし同時に彼は、イエスに「私はあなたを誰だか知っている。あなたは神の聖者だ」と言ったのです。彼は、礼拝に神の子イエスがいることを知っていました。そしてイエスが権威ある言葉を語っていることも分かっていたのです。
み言葉の力
イエスの言葉によって、この人が汚れた霊から解き放たれた出来事を見て、カファルナウムの礼拝にいた人々に「驚き」が起こりました。そして彼らは互いに「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」と言いました。権威と力あるイエスの言葉によって神さまの支配に逆らう力が滅ぼされたのです。本日の旧約箇所イザヤ書第55章10、11節は、神さまの言葉の力を次のように語っています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」空から雨や雪が降れば、むなしく空に戻ることはありません。そしてそれは大地を潤し、芽を出させ実りを結び、私たちに糧を与えるのです。同じように神さまの言葉も神さまのもとにむなしく戻ることはないのです。必ず神さまのみ心を成し遂げその使命を果たします。カファルナウムの礼拝で語られた、神の子であり、神の聖なる者であるイエスの言葉に権威と力とが宿っているとは、イエスの言葉が語られることで、神さまのみ心が成し遂げられ、その使命が果たされることなのです。悪霊に取りつかれた男を神さまのみ心に背く力から解放すること、その力によってもたらされた苦しみから自由にされることこそ、神さまの御心であり、その使命にほかならないのです。
まことの礼拝
カファルナウムの礼拝で起こったことが、私たちの礼拝においても起こります。私たちの目には主イエスのお姿は見えません。けれども確かに主イエスは私たちの礼拝に共にいてくださり、権威と力ある言葉を語ってくださっているのです。私たちが一週間の歩みの中で、人と人との関わりにおいてぼろぼろになり疲れ果ててしまい、また神さまとの関わりにおいて何度もみ心に背いてしまうとき、私たちは礼拝で「もう神さま私と関わらないでください」と叫びそうになります。しかしまさにそのとき権威ある主イエスの言葉によって、私たちは神さまの支配に背く力から解き放たれるのです。礼拝で、絶望の中にあった私たちに希望を与え、深い闇の中にあった私たちを引き上げてくださるみ言葉が語られるのです。悪霊に取りつかれた男は、イエスの言葉によって投げ倒されました。しかし傷一つ負わなかった、と語られています。私たちは礼拝で語られる権威と力あるみ言葉に畏れを抱きます。み言葉によって打ちのめされ裁かれてしまうのではないか、と恐れるのです。けれども礼拝で語られるみ言葉は、私たちに傷を負わせるものではありません。そうではなく神さまと隣人との関わりにおいて破れを抱え、深く傷ついている私たちを、傷一つ負わせることなく神さまの支配に背く力から解放し、私たちが確かに神さまの支配の下にあることを告げ知らせるのです。み言葉によって私たちの心は動かされ、告げ知らされた神さまの支配を私たちは信仰によって受けとめるのです。ナザレの人たちはみ言葉の実現を信じませんでした。自分たちが守っている礼拝に、神の子である主イエスが共にいて語ってくださっていることを信じませんでした。しかし私たちは、たとえ「イエスと関わりたくない」と思うほどに希望を失い、深い闇の中にあるときも、カファルナウムの礼拝の悪霊に付かれた男と同じように、礼拝において畏れを持って神の子主イエスが共にいて私たちと関わってくださり、権威と力ある言葉を語ってくださることを信じているのです。ここにまことの礼拝があります。まことの礼拝において、私たちは絶望の中にあるとき希望を与えられ、生きることに疲れ切っているとき生きる喜びを与えられます。イエスの権威ある言葉によって、神さまが私たちと関わってくださるとき、人と関わることに心を閉ざしていた私たちが、励まされ力を与えられ再び人と関わることへと踏み出していくのです。まことの礼拝において、私たちを生かす言葉が語られます。この礼拝において、今日から始まる一週間、私たちを生かす言葉が語られているのです。私たちは主イエスの権威ある言葉によって新しくされ、なお苦しみの多いこの世へと希望を持って歩み出していくのです。
礼拝から遣わされる
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」と語られて、カファルナウムでの礼拝の物語は終えられています。イエスのうわさとは、イエスが権威と力ある言葉を語った、というニュースです。私たちが礼拝でイエスの権威ある言葉を与えられ、み言葉を携えてこの世へと遣わされていくとき、私たちは遣わされる先へこのニュースを伝えるのです。そしてこのニュースは、辺り一帯に広まっていきます。私たちが遣わされるところで希望が広がっていくのです。喜びが広がっていくのです。私たちはまことの礼拝で与えられた希望と喜びを遣わされたところで告げ知らせ、深い闇の中にあるこの世へまことの光を運んでいくのです。