特別伝道礼拝説教

喜んで生きる

「喜んで生きる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第95編1-7節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章4-9節
・ 讃美歌:493、127、475

喜んで生きることは至難の業
 今日のお話しの題は「喜んで生きる」です。私たちの誰もが、喜んで生きたいと思っています。喜んで生きることができたらどんなにいいだろうと感じています。しかし今の世の中、喜んで生きることはとても難しい、いろいろとつらいこと、苦しいことがあり、喜べない現実があることを私たちは体験しています。 度重なる台風によって大きな被害が出たかと思ったら、また今回、大雨による被害がありました。何十年に一度、と言われることが毎年のように起るようになってきています。人間の営みの結果である気候変動の影響が確実に人々の生活を脅かし始めていることに恐怖を感じます。自然災害だけではありません。世の中のしくみそのものが、喜びよりもむしろストレスを生じさせるものになっており、とても生き難い社会になっています。今のこの時代、喜んで生きることは至難の業だと言わなければならないでしょう。
 教会の礼拝では必ず聖書が読まれます。聖書を通して神さまが私たちに語りかけておられるみ言葉を聞くために礼拝はなされているのです。先程読まれた聖書の箇所は、旧約聖書の箇所も新約聖書の箇所も、私たちを喜びへと、喜んで生きることへと促しています。詩編第95編の冒頭には「主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。御前に進み、感謝をささげ、楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう」とありました。フィリピの信徒への手紙第4章4節にも「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」とありました。喜びの叫びをあげよう、喜びなさい、と聖書は私たちに勧め、促しているのです。「そうは言われても」と私たちは思います。「喜ぼう、喜びなさい」と言われて「はい分かりました。喜びます」というわけにはいかない。喜べる現実はどこにあるのか、喜ぶことができる根拠は何なのか、どうしたら喜ぶことができるのか、それを示してくれなければ喜ぶことはできないと思うのです。「喜んで生きる」ことはどうしたらできるのか。それは私たちの切実な問いなのです。

喜びが得られる三つのメカニズム
 今日は特別な礼拝ですので、いつもとは違ってここで一旦聖書を離れて、私が最近読んだある本に書かれていたことをご紹介しようと思います。この9月に出たばかりの、ある精神科医による新書で、けっこう売れているようですからお読みになった方もあるのではないかと思います。こういうことが書かれていました。生物学的に言って、私たち人間が喜びを得ることができる仕組み、メカニズムは三つしかない。第一は、食欲や性欲といった生理的な欲望の充足において得られる喜びです。お腹いっぱい食べて喜びを感じるような、生き物としての人間の本能に属する基本的な喜びです。その喜びは、エンドルフィンなどのホルモン、いわゆる「脳内麻薬」が出ることによって得られるのだそうです。第二は、努力して困難な目標を達成した時に得られる、達成感、充実感という喜びです。必ずしも自分が努力して達成したのではなくてもその喜びは得られます。私もこのところにわかラグビーファンになりまして、アイルランドにもスコットランドにも勝ってベスト8に入ったことで「やった!」と、私が何も達成したわけではないのに達成感を覚えたわけですが、そういう興奮による喜びです。これは脳の中でドーパミンというホルモンが放出されることで起るものだそうで、このドーパミンを人為的に放出させるものが麻薬であり、アルコールやギャンブルが依存症を引き起こすのも、ドーパミンが一時的に放出されるからです。それらのものは手軽に喜びや興奮を得られるけれども持続性がないので、繰り返しその喜びを求めていく中で依存症に陥っていくのです。

安定した愛着
 そしてもう一つの、第三の、喜びの仕組みがあります。それは愛する者との触れ合いにおいて得られる、興奮ではなくてむしろ安らぎに満ちた喜びです。自分を愛し、受け入れてくれている人がおり、また自分もその人を愛し、信頼しているので、その人と共にいることで安心することができる、という喜びです。この喜びは、オキシトシンというホルモンの働きによるものだそうで、例えば、仕事などで頑張ったけれども失敗したり挫折して落ち込んでしまった時に、家族の優しい慰めや労りによって立ち直ることができたというのは、医学的に言えば、ドーパミンによる喜びを得ることはできなかったが、オキシトシンによる慰めや喜びによってそれを埋め合わせることができた、ということだと語られています。このオキシトシンは、元々は授乳、つまりお母さんが赤ちゃんにお乳をあげること、また分娩をもたらす、つまり母性本能に関わるホルモンとして知られていましたが、近年それが、ストレスや不安を和らげ、社会性を高め、親密さを感じたり、寛容で優しい気持ちにさせるなどによって対人関係を円滑にするという作用があることが分かってきました。またそれは免疫力を高め、成長ホルモンの働きにも関係しているそうです。つまり人間が健康に成長していくことに深く関わっているものであるわけです。このオキシトシンの働きを高めるのが、愛され、受け入れられ、守られているという体験、特に幼児期の、母親に無条件に愛され、受け入れられているという母子一体関係です。それによって母親との間に健全な「愛着」の関係を持つことができると、子どもは
「安定した愛着」を持つことができます。安定した愛着を持つというのは、愛されていることを体験しているので、自分で自分を肯定することができ、自分も人を信頼し、愛することができる、つまり人を肯定し、人との関係を喜ぶことができる、ということです。そういう安定した愛着を持つことができることをこの本の著者は「安全基地」を得る、と言い表しています。安全基地を得ている子どもは、そこを出て冒険をすることができます。勇気をもって人と関わっていくことができるのです。たとえそこで失敗したりつらい思いをしても、安全基地に戻ってそこで慰めや励ましを受けてまた新たにチャレンジしていくことができるのです。しかし安定した愛着が得られておらず、安全基地が得られていないと、自分自身を肯定できず、人を信じることもできず、いつも不安で、人との関わりを恐れてしまいます。そしてそのことは、精神的身体的な様々な症状をも生んでいきます。うつや摂食障害、不眠、偏頭痛その他様々な症状が起るのです。それらはその症状のための薬を飲んでも根本的には治らない、本当の原因は安定した愛着を得られていないことにあるからです。それを「愛着障害」と言います。愛着障害をかかえている人が今、どんどん増えている。この本のタイトルは『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』というのです。
 この本を読むと、いろいろと思い当たる節があり、身につまされる思いをします。特に親である者は、自分自身が子どもとの間に、安定した愛着の関係を築けただろうか、子どもに安全基地を与えることができただろうか、と反省させられるのです。そして実はそのことは、自分が幼い時に親との間で安定した愛着の関係を得ることができていたかどうかにかかっている、ということもこの本から示されます。幼児期に親との間で安定した愛着を得られず、愛着障害をかかえている人が親になった時に、子どもとの間にもそれを築くことができない、という連鎖が起っていくのです。

人生の支えとなる喜びとは
 そのようにいろいろなことを考えさせられ、自分自身を振り返る機会を与えてくれるこの本ですが、本日のテーマである「喜んで生きる」ということについても、この本は大事な示しを与えてくれます。つまり、「常に喜びなさい」という聖書の言葉が促し、勧めている喜びは、食欲などの生理的欲求が満たされることによって得られる喜びではないし、成功体験や達成感によってドーパミンが出て興奮することによって得られる喜びでもない、聖書が語っている信仰における喜びは、喜びをもたらす第三のメカニズム、愛されることによって自分自身を肯定することができ、そして他の人も愛することができるところに得られる、安らぎに満ちた喜び、つまりオキシトシンが豊かに働くことによる喜びなのだということが分かるのです。それはこの本が語るところの「安定した愛着関係」、愛されているので安心して愛することができるという関係を与えられる喜びです。そしてこの第三の喜びによってこそ私たちは本当に喜んで生きることができるのです。生理的要求が満たされる喜びだけで人は生きることができません。それでは動物と同じです。だから私たちは、人間としての様々な活動の中で喜びを得ようとします。何かを成し遂げてその達成感を得ることで喜んで生きようとするのです。それによって私たちは確かに大きな喜び、充実感を得ることができます。そこにはさらに大きなことを達成しようとするモチベーションが生まれます。そのような歩みには確かに生きる喜び、充実感、満足感があります。しかしそれは、いつも漕いでいなければ倒れてしまう自転車に乗っているような喜びです。漕ぎ続け、走り続けていられるうちは確かに喜びがありますが、何かで失敗して、挫折して、倒れてしまったら、その喜びは失われます。喜びはただちに挫折、喪失の苦しみに変わるのです。だからその喜びにはいつも、失敗への恐れがつきまとっています。しかもこの成功や達成感による喜びはしばしば、人との競争の中で勝ち取られるものですから、それを失うことは人に敗けることであり、ただ喜びが失われるだけでなく敗北、屈辱をもたらすのです。つまり成功や達成感による喜びはいつも挫折、敗北の苦しみ、喪失感や劣等感と隣り合わせなのです。かてて加えて、今私たちは人類がこれまで体験したことのない長生きの時代、超高齢化の時代に入っています。自分が老いていくという現実と、しかも長い期間向き合っていかなければなりません。老いていく中で、いろいろなことがだんだんに出来なくなっていきます。成功や達成による喜びは失われていくのです。その点から言っても、成功や達成感による喜びは私たちの人生を本当に支えるものではありません。失敗や挫折に陥っても、また老いて弱っていく中でも失われない喜びこそが、人生を支える本当の喜びなのです。それはあの第三の喜び、愛され、受け入れられ、支えられていることを知っている喜び、それによって自分も人を愛し、信頼し、安心して共に生きることができる喜びだと言えるでしょう。

主はすぐ近くにおられます
 その喜びが、神さまによって、神さまを信じるところに与えられる、と聖書は語っています。聖書が促し、勧めているのは、主に向かって喜びの叫びをあげることです。主において常に喜ぶことです。主なる神さまを信じることによって、その喜びに生きなさいと聖書は語っているのです。その喜びへの促しの根拠として、本日の新約聖書の箇所であるフィリピの信徒への手紙第4章の5節の後半に、「主はすぐ近くにおられます」とあります。主がすぐ近くにおられるのだから、その主にあって「常に喜びなさい」と言われているのです。主なる神さまは、はるか遠くの、天の上におられるのではなくて、私たちのすぐ近くに来て下さっているのです。それは、そう思った方が喜べますよという気の持ちようの話ではなくて、具体的な事実です。聖書は、神の独り子である主イエス・キリストが、人間となってこの地上を歩んで下さり、人々と共に生きて下さり、そして十字架にかかって死んで下さったことを告げています。このイエス・キリストの具体的な出来事において、主である神さまが私たちと共に歩み、地上の人生における最も深い苦しみを受け、死んで下さったのです。そのことによって、主なる神さまが私たちのすぐ近くに来て下さったので、私たちはこの主なる神さまと共に生きることができるのです。

あらゆる人知を超える神の平和
 それはどのようなことかが6節に語られています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とあります。これは、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、悔しいことの全てを、自分一人で、自分の心の中だけであれこれ思い巡らしていないで、神さまにそれを打ち明けなさい、ということです。神さまは独り子イエス・キリストによって私たちの近くにいて下さるので、私たちは、どんなことでも、神に祈り、願い、求めているものを打ち明けることができるのです。つらいこと、悲しいこと、怒りや悔しさを自分の心の中だけで抱え込んでいたら、心が病んでしまいます。でもそれを私たちは、神さまに、安心して打ち明けることができるのです。神さまはそれをしっかり受け止めて下さるのです。なぜなら、神の独り子である主イエス・キリストが、人間になってこの世を生きて下さっただけでなく、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったからです。主イエス・キリストの十字架の死と復活は、神さまが、私たちの罪や弱さ、そしてそこから生じるあらゆる苦しみ、悲しみ、そしてそこで私たちが覚える悔しさや怒り、挫折や屈辱や劣等感の全てを引き受けて下さって、その私たちを受け止めて下さり、愛して下さり、赦して下さって、そして私たちを新しく生かして下さっていることのしるしなのです。その神さまに、自分のどんな苦しみをも悲しみをも、信頼して打ち明けることができる、それが信仰をもって生きることです。そこには7節にあるように「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」という慰めと支えが、平安が与えられるのです。そこには、「あらゆる人知を超える」つまり人間の力では決して得ることのできない真実の喜びがあります。それは私たちが成功することによって得られる喜びではありません。だから失敗や挫折によって失われてしまう喜びでもありません。むしろそのような弱さの中でこそ私たちを支える真実な喜びです。いろいろなことが出来なくなっていく中でも失われることのない喜びなのです。主において、主イエス・キリストを信じる信仰において、あなたがたはこのまことの喜びに生きることができる、と聖書は私たちに告げているのです。

良い生き方
 主イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いの恵みを信じることによって私たちは、罪人である自分が神さまによって無条件に受け入れられ、愛されていることを知ります。神さまがこの私を肯定して下さっており、愛して下さっており、守って下さっていることを知ることができるのです。その神さまの愛を知った私たちは、自分自身を肯定することができます。自分が生きていることを神さまが望んでおられ、喜んでおられるのだということを知らされるのです。それによって私たちは、喜んで、積極的に、自分に与えられている人生を生きていくことができるようになります。そして、他の人のことをも肯定することができるようになります。人を受け入れ、愛し、人との関わりを喜ぶことができるようになるのです。5節の前半には「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」とあります。「広い心」とは「寛容」ということです。自分が神さまに愛されていることを知っている人は、寛容になることができるのです。いろいろな欠けや問題を持っている人を、赦して受け入れることができるようになるのです。また8節には「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」とあります。ここに並べられていることは全て、社会をより良くしていくために役立つもの、人と人とが愛し合い、支え合って生きる関係を築くために役立つものです。自分のことだけを考えるのではなくて、共に生きる人々のためになることを大切にして生きることが勧められているのです。そういう良い生き方が、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」、「あらゆる人知を超える神の平和」に生かされていく中で私たちに与えられていくのです。

愛着障害からの癒し
 このことは、先程紹介した本における、母親との一体関係によって安定した愛着を得ている子どもが、自分自身を肯定することができ、その安全基地から勇気をもって人との関わりの冒険へと出て行き、信頼関係を築いていくことができる、ということと繋がっています。「安定した愛着」が得られるかどうかは、幼児期に母子一体関係があったかどうかによって決定的に左右されている、という話は私たちをある意味絶望させます。自分は親との関係において安定した愛着を得られなかった、だから愛着障害をかかえている、ということが分かったとしても、今さらどうすることもできません。また、幼児期を過ぎた子を持つ親である者は、自分たちは子育てにおいて「安定した愛着」を子どもに与えることができなかった、あの時もっとああすればよかった、と思ってももう後の祭りです。私たちは誰もが、程度の差こそあれ、愛着障害を抱えて生きており、またそれを次の世代に継承してしまっていると言わなければならないでしょう。しかし聖書はその私たちに、絶望することはない、と告げているのです。あなたがたは主なる神さまを信じ、主イエス・キリストと共に生きることの中で、安定した愛着を回復することができる。すぐ近くにいて下さる主イエス・キリストに、どんなことでも、祈りと願いをささげ、求めていること、願っていることを正直に打ち明けていくなら、その主イエスによって、あらゆる人知を超える神の平和があなたがたに与えられる。神が自分を愛して下さっており、肯定し、受け入れて下さっていることを知らされることによって、あなたがたも自分自身を肯定し、人を愛し人と関わり良い交わりを築いていくことができるようになる、つまり抱えている愛着障害を癒されていくことができるのだ、と聖書は語っているのです。主イエス・キリストを信じる信仰は、私たちをそのように新しくし、造り変えていきます。本当に喜んで生きる人生が、そこに与えられていくのです。

神の愛による安全基地
 あの本の中にも、愛着障害によって子どもに起っていたいろいろな症状が、医学的な治療によっては全く治らなかったのに、治療を諦めてしばらくしたら劇的に改善されていた、というケースが紹介されています。そこで起ったことは三つの場合に分けられるそうです。第一は、親が子どもに必死に関わっていく中で、親の方がすっかり変わったことによって子どもが変わったというケースです。それまでは親が自分の期待を子どもに押し付けて思い通りにしようとしていたのが、子どもをありのままに受け入れて愛するように親が変わると、子どもも変わっていくのです。第二は、親元を離れて生活するようになり、そこで信頼できる人と出会って落ちついた、というケースです。この二つのケースは要するに、それまで得られていなかった安全基地が得られたということです。親が変わったことによって子どもの安全基地になった、あるいは親とは別のどこかに安全基地を得たことによって安定した愛着を得ることができたのです。この事実は、安定した愛着を得られる安全基地を、後から、また親以外の所でも得ることができることを示しています。そういうことが、主イエス・キリストを信じる信仰において私たちに起るのです。神が、独り子主イエス・キリストの命をすら与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている、その神の愛を本当に知る時に私たちは、神が私たちを真実の親として愛して下さっていることを示されます。人間の親の愛は、不十分であり欠けがあり、だから私たちは誰もが多かれ少なかれ愛着障害を抱えているのです。しかし主イエスの父である神の愛は完全です。完全というのは、独り子の命をすら与えて下さった愛だということです。私たちはこの神の愛の下で、真実な親を見出し、本当に安心できる安全基地を与えられるのです。自分が愛されており、無条件に受け入れられていることを体験するのです。その安心感、喜びによって、私たちの人生は確かな支えを得るのです。

人に期待するのでなく
 愛着障害から抜け出した第三のケースは、本人が本当にどん底を極め、とことんまで落ちたときに諦めがついた、というケースだそうです。人に期待するのをやめて、自分が変わることにしたのだ、と語られています。そういうことも起り得るのか、と不思議な感じがしますが、しかしこれもある意味で信仰に通じることだと思います。つまり「人に期待するのをやめる」ということです。人に期待し、人の愛を求めて、それが得られず挫折する時に私たちは孤独になり、人を恨むようになります。しかし私たちが人に期待するのではなく神の愛を求めていくなら、神は主イエス・キリストにおいてそれを豊かに与えて下さるのです。この神の愛の中でこそ、私たちは変わることができます。人に愛を求めるのではなくてむしろ自分が人を愛していく者となることができるのです。するとそこには、人に愛されることも起っていくのです。互いに愛し合って生きる良い関係が築かれていくのです。 すぐ近くにおられる主イエス・キリストの招き
 「喜んで生きる」ことは至難の業です。苦しいこと、つらいこと、悲しいこと、悔しいことばかりの多いこの世の中であり、私たちの人生です。それらのすべての思いを、そして願いを、ありのままに打ち明け、語りかけることができる神さまと共に生きるところに、人間の力をはるかに超えた神の平和が与えられます。その平和を与え、私たちを喜んで生きる者として下さる主イエス・キリストが、今私たちのすぐ近くにおられ、私たちを招いて下さっているのです。

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